日本軍によるグアムの占領

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Japanese occupation of Guam
Flag of Japan (1870–1999).svg
日付 1941年12月11日 – 1944年8月10日
場所 グアム
関係者 大日本帝国
結果 1944年8月10日終結

日本軍によるグアムの占領は、第二次世界大戦の間大日本帝国軍がグアムを占領した1941年から1944年までの時代のことである。このときグアム島は大宮島と改名されていた。

占領につながる出来事[編集]

1941年のグアムの戦いは1941年12月8日にマリアナ諸島のグアムで大日本帝国軍と連合国軍の間で行われた第二次世界大戦の中の太平洋戦争の交戦である。この戦いの間、USS Penguin (AM-33) は日本の航空機を撃墜したのちに自沈した。グアムの海軍知事ジョージ・マクミラン英語版は1941年12月10日午前7時ごろ日本軍に降伏し、支配権を引き渡した[1]

占領中の生活[編集]

占領期間中、チャモロ人は軍事占領による困苦に耐えることを強いられた。 in which they were largely esteemed incidental. 最初の4ヶ月、島はアガナの学校や政府の建物で生活していた日本軍により統制されていた。チャモロ人は日本のお辞儀の習慣を学ぶことを要求され、日本円は島の通貨となり、文民の問題は民政省と呼ばれる軍の支部により取り扱われた。車、ラジオ、カメラは没収され、食料は物資が尽きるまで配給された。

島は1942年3月に大日本帝国海軍の支配下に入った。警備隊は約19ヶ月間住民を統治した。チャモロ人は自分の農場に残り、必要とする製品の商売をすることを許された。 パーティー、日本映画、スポーツ大会などの社会活動が許可されていた。「日本精神」を強化するためにアガナで国民大会が開催された。学校が再開され、チャモロ人は日本語と日本の習慣を学ぶことを求められた。英語は禁止された。大人子供は読み書き、数学、日本のゲームや歌を教えられた。

占領の終わりにつながる出来事[編集]

1944年の初め、日本の戦況は悪化に向かっていた。アメリカの侵略に脅かされ、日本軍はグアムに戻り、新たに厳格な政府形態であるカイコンタイをひいた。社会活動は中止され、学校は閉鎖され、チャモロの男性、女性、そして12歳以上の子供は野外で長時間労働すること、滑走路や防衛施設を修理または建設すること、日本軍のシェルターケーブを何百と掘ることを強制された。この多くはグアムのWar in the Pacific National Historical Parkの境界内にある。bayonet pointで労働していたチャモロ人は酷使され、防衛施設完成後に処刑されるケースもあった。警告なくあらゆる歳の1万人から1万5千人のチャモロ人がグアム中部・南部のジャングルでキャンプに持っていくことができる持ち物のみで行進することを余儀なくされた。シェルターは不十分であり、食料は少なく、衛生設備がなかったため、これらの収容所での生活は悲惨であった。しかし、その困難さにもかかわらず、収容所を生き残った人々にとって収容は偽装の祝福であることが証明された。もし彼らが動かされることがなければ、多くのチャモロ人がアメリカの爆弾配置ミスと日本軍の板ばさみにより殺されていたであろう。

占領の終わり[編集]

7月21日、アメリカ軍がOrote半島の両側に上陸した。グアムの西側でアメリカ軍は飛行場の遮断に努力した。第3海兵師団は08:28にOroteの北のアガナ近くに上陸し、第1暫定海兵旅団は南のAgat近くに上陸した。日本軍の大砲は20隻のLVTを撃沈させたが、09:00までには両岸に戦車が上陸していた。第77歩兵師団は上陸が困難であった。水陸両用車が不足していたため、上陸するための船によりサンゴ礁の端に降ろされそこから上陸しなければならなかった。

日没までにアメリカ軍はおよそ2,000mのビーチヘッドを確立していた。日本軍の反撃は戦闘の最初の数日間、主に夜間に浸透戦術を用いて行われた。何度かアメリカの防衛を突破し、人と装備を大量に失って撃退された。7月28日に中将高品彪が戦死し、中将の小畑英良が防御する人々の指揮を継いだ。

戦闘初日、アメリカ軍の補給は非常に困難であった。上陸するための船は浜から数百メートル離れたサンゴ礁以上近づくことはできず、水陸両用車は不足していた。しかし、2つのビーチヘッドは7月28日までに合流し、7月30日までにOrote飛行場とアプラ港が奪還された。

アメリカのビーチヘッドの周りの反撃で日本軍は疲弊した。8月の初めに食料と弾薬を使い果たしており、ほんの一握りの戦車だけが残っていた。小畑はグアム南部から部隊を撤退させ、島の中央部の山岳地帯で抵抗することを計画していた。しかし、グアム周辺の海と空がアメリカに統制されており補給と強化が不可能であったため、数日間避けることのできない敗北を遅らせる以上のことを望めなかった。

雨とジャングルによってアメリカ軍の条件は困難になっていた。しかし、8月2日から4日までのバリガダ山での交戦の後、日本軍の戦闘線は崩壊し、残りの戦闘は北への追撃であった。太平洋戦争の他の戦闘同様、日本軍は降伏を拒否しほぼ全員が殺された。

1944年8月10日、アメリカ軍がグアムで最後の日本軍を破り、占領が終了した。

現在[編集]

日本の占領が終わった結果として、グアムは毎年7月21日に解放記念日を迎えている。12月8日に行進を開催している。これは日本の攻撃の日を記念している。この日に人々はHagatnaに集まり、パレードを見たりカーニバルを行ったりする。

グアムにある占領に関連するモニュメント、ヒストリカルマーカー[編集]

  • グアムのアサン近くのWar in the Pacific National Historical Park
  • Plaza de Espana - Hagatna,Guam
  • Caves and Jails in Tutuhan Park - Hagatna, Guam

脚注[編集]

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  1. ^ McMillin, George (April–September 1972). “Surrender of Guam to the Japanese”. Guam Recorder (Guam: University of Guam) 2 (2-3): 9–25. http://guampedia.com/guam-recorder-1972-april-september/ 2011年5月25日閲覧。. 

関連項目[編集]

外部リンク[編集]