対人性愛中心主義

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対人性愛中心主義(たいじんせいあいちゅうしんしゅぎ)とは、生身の人間へ性的に惹かれるあり方(対人性愛)を「正しい」あるいは「望ましい」セクシュアリティとみなす規範のことである[1][2]。フィクトセクシュアルの周縁化を説明するために作られた概念である。

日本のフィクトセクシュアル研究から提起された概念だが、海外での研究や[3]、フィクトセクシュアル研究以外の領域[4][5][6][7]でも議論されている。

語源と背景[編集]

対人性愛とは、生身の人間に惹かれる性的マジョリティを指す用語である[8][9]。この言葉は「マンガやアニメなどの二次元の性的創作物を愛好しつつ、生身の人間には性的に惹かれない」人々の立場から草の根的に使われるようになったものである[1]。対人性愛中心主義はこれを踏まえて作られた造語であり、対人性愛を基準とした制度や慣習や価値判断に対して問題提起をする概念である。

対人性愛中心主義は異性愛規範と密接に関連している[10]ほか、アセクシュアル研究における強制的性愛(compulsory sexuality)や対物性愛研究における人間性愛規範(humanonormativity)とも関連している[7]。また松浦優の調査が示しているように、対人性愛中心主義には恋愛伴侶規範的な側面がある[1]

学術研究[編集]

クィア・スタディーズ[編集]

対人性愛中心主義については松浦優によるクィア理論的な研究がなされている。松浦によれば、対人性愛中心主義は、「異性愛/同性愛」という区分以外の仕方でセクシュアリティを分節化する可能性を抹消するものであり、その意味で同性愛の排除の前提である[10]。そのため異性愛規範は、性別二元論と対人性愛中心主義の結びついたものだと位置づけられている[2]。このことから、対人性愛中心主義はトランスフォビアと同じ構造に根差しているとも指摘されている[11]

クィア理論的には、対人性愛中心主義はミシェル・フーコーの「セクシュアリティの装置」概念の発展したものに相当するほか、ジュディス・バトラーの「〈字義どおり化〉という幻想」と結びついたものと位置づけられる[2][7]

対人性愛中心主義批判の理論は、ベル・フックスの言う「解放の実践としての理論」の一例であり、「規範的社会によって傷ついた人々を癒し世界を異化する実践」になっていると評価されている[12]

オタク論およびマンガ研究[編集]

松浦が整理しているように、オタク論やマンガ研究の領域では、対人性愛中心主義を相対化する議論の系譜が存在する[10]。また、筒井晴香による「推し」の研究では、「推す」ことがもたらす家父長制的性愛規範の攪乱の可能性として、非‐対人性愛の可能性が挙げられている[5]

性表現規制に関する法学研究[編集]

わいせつ規制について研究では、二次元の性的創作物を「現実の人の性器・性行為の公然化と同じ論理で「わいせつ」物として規制を行うことは、二次元の性的表現を無条件に現実の生身の身体の表象とみなし、二次元の性的表現が現実の人との性交欲を興奮又は刺激せしめるものと解釈することを意味」してしまうと懸念されている[6]

同様に児童ポルノ規制に関する研究でも、「児童ポルノ」規制の一環として二次元の性的創作物を規制することは、「人間と二次元キャラクターとの存在論的差異がいかなる意味も持たない、という暗黙の決めつけ」をしている点で、対人性愛を基準とした倫理的判断に陥っていると批判されている[13]

親密性や家族に関する研究[編集]

AIやロボットやペットなどの非‐人間との親密関係を、人間同士の関係よりも劣っているものとみなす考え方が、対人性愛中心主義的だという可能性が議論されている[4]

対人性愛中心主義批判の運動[編集]

対人性愛中心主義を批判している団体として、台湾のフィクトセクシュアル運動組織「台湾Fセク集散地(台灣紙性戀集散地)」がある[3][14]。また、マンガやアニメなど二次元の性的創作物への規制に対抗する運動も、対人性愛中心主義的な法制度に対する批判の運動という側面があると指摘されている[15][16]

対人性愛中心主義批判の議論や運動は、フェミニズムLGBTQとの連帯を志向しつつ、同時にフェミニズムやクィアの内部にある対人性愛中心主義にも批判を提起している[2][17]。たとえば松浦が批判するように、二次元美少女の性的創作物を性的対象化とみなすフェミニズム的な表象批判では、「二次元か三次元か」の区別は関係がないとされてきたが、このような見方は二次元に対する非対人性愛の存在を抹消している[2][10]。またフェミニズム的な萌え絵批判は、問題含みなジェンダー本質主義を持ち込んでおり、トランスフォビアと同じ構造に陥っているという批判も松浦によってなされている[11]

参考文献[編集]

  1. ^ a b c 松浦優 (2021). “日常生活の自明性によるクレイム申し立ての「予めの排除/抹消」――「性的指向」概念に適合しないセクシュアリティの語られ方に注目して”. 現代の社会病理 (36): 67-83. doi:10.50885/shabyo.36.0_67. https://www.jstage.jst.go.jp/article/shabyo/36/0/36_67/_article/-char/ja/. 
  2. ^ a b c d e 松浦優 (2023年). “フィクトセクシュアルから考えるジェンダー/セクシュアリティの政治”. researchmap. 2024年1月16日閲覧。
  3. ^ a b 廖希文 (2023). “紙性戀處境及其悖論: 情動、想像與賦生關係”. 動漫遊台灣2023:台灣 ACG 的過去、現在與未來 (研討會論文). https://vocus.cc/article/644f4f46fd897800017c0c01. 
  4. ^ a b 山田昌弘 (2022). “ペットの家族化の進展とその帰結――ネットモニター調査による考察”. 中央大学社会科学研究所年報 27: 3-21. https://chuo-u.repo.nii.ac.jp/records/2000544. 
  5. ^ a b 筒井晴香 著「「推す」ことの倫理を考えるために」、香月孝史・上岡磨奈・中村香住 編『アイドルについて葛藤しながら考えてみた:ジェンダー/パーソナリティ/〈推し〉』青弓社、2022年、46-71頁。 
  6. ^ a b 上田正基 (2023). “わいせつ規制をめぐる諸課題”. 刑事法ジャーナル 75: 12-17. 
  7. ^ a b c 松浦優 (2023). “対人性愛中心主義批判の射程に関する検討――フェミニズム・クィアスタディーズにおける対物性愛研究を踏まえて”. 人間科学共生社会学 (13). doi:10.15017/7151776. https://doi.org/10.15017/7151776. 
  8. ^ 岩崎はなえ. “フツーの恋愛、性愛ってなに?『ACE アセクシュアルから見たセックスと社会のこと』刊行記念トークレポ”. me and you little magazine & club. 2024年3月10日閲覧。
  9. ^ 松浦優 (2023). “抹消の現象学的社会学:類型化されないことをともなう周縁化について”. 社会学評論 74 (1): 158-174. 
  10. ^ a b c d 松浦優 (2022). “アニメーション的な誤配としての多重見当識――非対人性愛的な「二次元」へのセクシュアリティに関する理論的考察”. ジェンダー研究 (25): 139-157. doi:10.24567/0002000551. https://researchmap.jp/mtwrmtwr/published_papers/37150884. 
  11. ^ a b 松浦優 (2022年). “対人性愛中心主義とシスジェンダー中心主義の共通点:「萌え絵広告問題」と「トランスジェンダーのトイレ使用問題」から”. 2024年1月16日閲覧。
  12. ^ 羽生有希 (2024). “強制的(異)性愛に抗う:Aセクシュアルの視点から”. Gender & Sexuality (19): 133-138. https://subsite.icu.ac.jp/cgs/images/562f1861d9c2470a18cfb1730c031750edd9fcf2.pdf. 
  13. ^ 松浦優 (2023). “グローバルなリスク社会における倫理的普遍化による抹消――二次元の創作物を「児童ポルノ」とみなす非難における対人性愛中心主義を事例に”. 社会分析 (50): 57-71. https://researchmap.jp/mtwrmtwr/published_papers/41326940. 
  14. ^ Matsuura, Yuu. “Basic Terms of Fictosexuality Studies”. researchmap. 2024年1月16日閲覧。
  15. ^ Miles, Elizabeth (2020). “Porn as Practice, Porn as Access: Pornography Consumption and a ʻThird Sexual Orientationʼ in Japan”. Porn Studies 7 (3): 269–278. doi:10.1080/23268743.2020.1726205. 
  16. ^ 松浦優 (2021). “二次元の性的表現による「現実性愛」の相対化の可能性――現実の他者へ性的に惹かれない「オタク」「腐女子」の語りを事例として”. 新社会学研究 (5): 116-136. 
  17. ^ SH Liao. “Fictosexual Manifesto: Their Position, Political Possibility, and Critical Resistance”. 2024年2月10日閲覧。

関連項目[編集]