姿憲子

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姿 憲子(すがた のりこ、本名:小出 憲子1946年10月16日 - )は、日本の女性演歌歌手大妻女子大学中の高卒[要説明]。所属:ミュージックオフィス合田日本クラウン

来歴[編集]

東京都新宿区神楽坂出身。実家は布団屋。

1965年(昭和40年)、テイチクより「浦島みつ子」の芸名でベトナム戦争をテーマにした「ベトナム哀歌」でデビュー。第2弾「意地わる東京」と発売したがヒットせず、その後演歌からポップスまで自在にあやつる喉と長い髪をトレードマークにして、全国のキャバレー行脚。のちの日吉ミミちあきなおみらとともに、ドサ周り歌手をしていた[1]

1970年(昭和45年)、日本テレビのテレビ映画、竹脇無我主演の『姿三四郎』の主題歌歌手に抜擢され、芸名をそれにちなんで“姿憲子”と改名する。当時23歳だったが、作曲家の安藤実親の勧めで20歳と年齢を公表していた。スポンサー側は水前寺清子の主題歌を要望したと言うが、ディレクターの“演歌の竜”馬渕玄三が「彼女でやりたい」と周囲を説得し、レコーディングさせた。その野太い声と圧倒的な歌唱力、ポニーテールに書生のはかま姿という“三四郎”をイメージさせたいでたち(馬渕が全て考えた)で、主題歌は週間レコード売上のベスト10に顔を出し、最終的に100万枚突破のミリオンセラーを記録し[2]、その名は瞬く間に日本全国に轟いていった。仙台での売れ行きが特に好調で、『姿三四郎』の裏番組の『樅ノ木は残った』の主な舞台の地で主題歌が売れるという結果となった[3]

なお同じく関沢新一作詞、安藤実親作曲、村田英雄の「姿三四郎」というヒット曲があるが、この歌と姿の「姿三四郎」は同名異曲である[4]

「姿三四郎」は、日本でのドラマ人気もさることながら、中国では1980年代になって大ブレイク。電車の車掌が「先週のつづきが見たくて」と駅を飛ばしたというニュースが報道されたほどの人気で、当然主題歌も大流行した。中国では男性歌手がカバーしており、「中国で知られている日本の歌」として「四季の歌」「」「北国の春」に並ぶヒット曲になっている。牧村三枝子ら日本の演歌歌手が中国公演するときには、必ず演目に入れるほどの知名度で、中国の観光地の店の名前に“三四郎”が多いのは、それゆえである。

「姿三四郎」に続いて1970年(昭和45年)には「男縦横十文字」、やはり柔道人気に拍車をかけた日本テレビのドラマ、あおい輝彦主演の『闘魂』の主題歌を連続ヒットさせ、それは“柔道三部作”とよばれ、金鳥蚊取り線香のコマーシャル「死んでもらいます」も話題になった。

しかし当確と言われていた『日本レコード大賞』の新人賞は「以前、レコードを出しているから」という理由で日吉ミミ森本和子らと同じように選外となったが、『新宿音楽祭』などの新人賞は受賞した。『NHK紅白歌合戦』も出場内定と言われたが、民放局の主題歌であることを理由に不選出となった。フジテレビの『夜のヒットスタジオ』やNHKの歌謡番組出演のときも、「姿三四郎」は歌えずB面「青い空の唄」を歌唱したという。なお、NHKの歌謡番組で「姿三四郎」を歌唱したのは、2010年(平成22年)7月6日放送の『NHK歌謡コンサート』が初であった[5]

その後、「戦いすんで」「男なら男なら」「綱」、水前寺清子がクラウンレコードを退社した際(のちに復帰)には、水前寺のヒット曲をカバーした「大勝負」、のちに鳥羽一郎がリバイバルした「なにわの片隅」などをリリースしたが、“三部作”を越えるヒット曲には育たず、新たに姿憲子の名前が急浮上するのはデビュー20年目の1984年(昭和59年)になってからのことだった。この年、折りからの競作ブームにのって「浪花節だよ人生は」が、木村友衛細川たかしに続く第3位の売上を示した。前奏に三味線が入っていないのは姿盤だけだったためもあり、レコードB面がカラオケというのも功を奏し、久々にオリコンチャートにランクインした。1985年(昭和60年)には、天童よしみ鏡五郎平和ラッパらと「道頓堀人情」を発表、競作し売り上げを伸ばした。

1987年(昭和62年)、“名前も変えました、袴も脱ぎました”と気分一新、「姿のり子」の芸名で「よさこい漁港(みなと)」を発売、1990年(平成2年)には、フジテレビ連続ドラマ、市毛良枝主演『泣きっ面に姑』の主題歌「花ざかり」を当時流行のランバダリズムにのせて、「麦畑」のはなちゃん八郎清水花枝と即席デュエット“はなちゃんのりちゃん”を組み、流行のファッションでテレビに登場し、ヒット曲となった。なお1997年(平成9年)に「花ざかり」は姿単独で再吹込みされCD化されている。

さらに1992年(平成4年)発売の「くちべに水仙」で年末の『日本レコード大賞』の最優秀歌唱賞候補に入選、1993年(平成5年)には「夫婦有情(うじょう) 浪曲「壺坂霊験記」入り」で浪曲を歌に挿入して新たな歌の道を歩んだが、病(のちに胃癌と診断された)に倒れ、一時期歌手活動を控えた。

しかし全快、姿憲子の芸名に戻し、1999年(平成11年)、「盃にっぽん」で再起。“関門に虹の架け橋架けよう会”のテーマ曲にもなった「夢咲海峡」などを歌い、2004年(平成16年)には新宿コマ劇場で40周年記念リサイタルも開催、大成功をおさめた。 明るく元気な変わらぬ歌声と達者なしゃべり、憧れだった美空ひばりの歌なども入れた各地でのショーやコンサート活動で活躍中。社団法人・日本歌手協会の会員として毎年行われる『歌謡祭』には2011年(平成23年)まで22回出場を記録している。ちなみに第38回歌唱曲は「浪花節だよ人生は」[6]

ディスコグラフィー[編集]

◎は大ヒット曲○はヒット賞

シングル[編集]

  • ベトナム哀歌(昭和40年)浦島みつ子名義
  • 意地わる海峡(昭和42年)浦島みつ子名義
  • ◎姿三四郎(昭和45年)姿憲子名義(作詞:関沢新一、曲:安藤実親)
  • 青い雲の唄(昭和45年)
  • ○男縦横十文字(昭和45年)
  • やってみなけりゃわからない(昭和45年)
  • ◎闘魂(昭和45年)
  • やっちょろまかせ(昭和45年)
  • 花の人生大全集(昭和46年)
  • 男の意地(昭和46年)
  • 戦いすんで(昭和46年)
  • これでもか(昭和46年)
  • 旅路の女よ(昭和47年)
  • さすらい慕情(昭和47年)
  • ○男なら男なら(昭和49年)
  • 相棒(昭和49年)
  • わが道を行く(昭和51年)
  • さすらい草(昭和51年)
  • プカプカどんどん(昭和51年)
  • 大阪をんな物語(昭和51年)
  • なみだ酒(昭和51年)
  • ○なにわの片隅(昭和51年)
  • あなた好みの女です(昭和52年)
  • 酒場物語(昭和52年)
  • 綱(昭和53年)
  • 今が我慢のしどころさ(昭和53年)
  • 女の軍歌(昭和55年)
  • ○大勝負(昭和57年)
  • 男というものは(昭和57年)
  • お袋女にしてやっとくれ(昭和59年)
  • ふるさと無情(昭和59年)
  • 浪花節だよ人生は(昭和59年)
  • ○三度笠だよ人生は(昭和60年)
  • 花歌三度笠(昭和60年)
  • 根性水滸伝(昭和60年
  • 道頓堀人情(昭和60年)
  • 浪花の阿呆鳥(昭和60年)
  • よさこい漁港(みなと)(昭和62年)
  • 酒暦(昭和62年)
  • 北海峡(昭和62年)
  • 土佐の流れ星(昭和62年)
  • おまえさん(平成2年)
  • 大将(平成2年)
  • ○花ざかり(平成2年) - はなちゃんのりちゃん名義
  • ふりむかないで(平成2年) - ザ・ピーナッツのリメイク
  • ○くちべに水仙(平成4年) - 姿のり子名義
  • 連れ舞い(平成4年) - 姿のり子名義
  • ○夫婦有情(浪曲「壺坂霊験記」入り)(平成5年) - 姿のり子名義
  • 北のおんな節(平成5年) - 姿のり子名義
  • 花街道(平成7年) - 姿憲子名義
  • 人生舞台ひとり立つ(平成7年)
  • 人生将棋(平成9年)
  • ○花ざかり(平成9年) - 姿憲子単独Ver
  • 盃にっぽん(平成11年)
  • 夢咲海峡(平成11年)

ほか

アルバム[編集]

  • 現在購入可能全曲集「ゴールデン☆ベスト 姿憲子」
  • 「姿憲子」ベスト16

ほか、多数発売。

出演[編集]

注釈[編集]

  1. ^ 「ちあきなおみに会いたい。」石田伸也著(徳間文庫)より
  2. ^ 姿 憲子(すがた のりこ)とは、コトバンク(出典:株式会社タレントデータバンク)。(2016/1/15閲覧)
  3. ^ 読売新聞』1970年2月13日付朝刊、18頁。
  4. ^ 「いま、私は…」永井ぢゅん 月刊「カラオケファン」(ミューズ)より
  5. ^ “竹脇無我主演のTVドラマ「姿三四郎」の主題歌を歌った姿憲子さん”. 日刊ゲンダイ. (2012年8月4日). https://web.archive.org/web/20120804145521/http://gendai.net/articles/view/geino/137896 2012年9月23日閲覧。 
  6. ^ 東日本大震災チャリティー第38回歌謡祭プログラム より

参考文献[編集]

  • ゴールデン☆ベスト 姿憲子 解説:合田道人(日本クラウン)

外部リンク[編集]