大分交通耶馬渓線

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大分交通耶馬渓線
路線総延長 36.11 km
軌間 1067 mm
最大勾配 16.7 パーミル
最小半径 160 m
停車場・施設・接続路線[1](廃止当時)
国鉄日豊本線
BHFq eABZq+r
0.00 中津駅 標高5.61m
exBHF
3.44 古城駅 -1944
exBHF
3.95 八幡前駅 標高26.48m
exBHF
4.39 大貞公園駅 -1944
exBHF
5.16 大貞公園駅 1944- 標高32.63m
exBHF
6.38 上ノ原駅 標高39.02m
exBHF
7.34 諌山駅 標高43.13m
exBHF
9.37 真坂駅 標高52.97m
exBHF
10.44 野路駅 標高46.10m
exTUNNEL2
第1トンネル 24.4m
exTUNNEL2
第2トンネル 31.7m
exTUNNEL2
仏崎トンネル 57.3m
exWBRÜCKE
屋形川
exBHF
14.28 洞門駅 標高52.91m
exWBRÜCKE
第1山国川橋梁 山国川 91m
exBHF
15.85 羅漢寺駅 標高59.72m
exTUNNEL2
曽木トンネル 30.2m
exBHF
17.71 冠石野駅 標高67.28m
exBHF
20.31 耶馬渓平田駅 標高86.62m
exTUNNEL1
耶トンネル 131.0m
exBHF
23.30 津民駅 標高104.09m
exTUNNEL2
城井トンネル 61.0m
exWBRÜCKE
第2山国川橋梁 110m
exBHF
24.80 耶鉄柿坂駅 標高114.30m
exWBRÜCKE
第3山国川橋梁 110m
exTUNNEL1
第1トンネル 143.5m
exTUNNEL2
第2トンネル 12.6m
exTUNNEL2
第3トンネル 29.4m
exTUNNEL2
第4トンネル 68.5m
exTUNNEL2
第5トンネル 35.5m
exBHF
28.57 下郷駅 標高137.04m
exWBRÜCKE
第4山国川橋梁 68m
exBHF
29.77 江淵駅 標高146.91m
exTUNNEL2
第6トンネル 53.2m
exBHF
31.44 中摩駅 標高158.85m
exBHF
33.18 白地駅 標高174.07m
exBHF
34.17 宇曾駅 標高182.48m
exKBHFe
36.11 守実温泉駅 標高196.92m
脇線に停車中の車両

耶馬渓線(やばけいせん)は、かつて大分県中津市中津駅から同県下毛郡山国町(現・中津市)の守実温泉駅に至る、大分交通が運営していた鉄道路線である。地元では「耶鉄」と称される。

1913年(大正2年)に耶馬渓鉄道として開業。のちに大分交通の路線となった。山国川に沿って延びるこの鉄道は、沿線に青の洞門羅漢寺守実温泉などの観光地を控えていた。1970年代に入り、沿線の過疎化による利用者の減少と道路整備が進んだこと、さらに国鉄中津駅の高架化(1977年(昭和52年)完成)に伴う費用の応分の負担を要求されたことから、バス転換の方針が打ち出され、1975年(昭和50年)に全線が廃止された。

路線データ[編集]

  • 路線距離(営業キロ):中津 - 守実温泉間 36.1km
  • 軌間:1,067mm(廃止時点)
  • 駅数:19駅(起終点駅含む。廃止時点)
  • 複線区間:なし(全線単線
  • 電化区間:なし(全線非電化
  • 閉塞方式:タブレット閉塞式

運行形態[編集]

1971年(昭和46年)時点で1日あたり中津 - 守実温泉間下り6本、上り8本、中津 - 耶鉄柿坂間2往復、中津 - 洞門間2往復が運行されていた。その他、平日には中津 - 大貞公園までの区間運転も行われていた。

歴史[編集]

開業時は軌間762mmであり国鉄との輸送に支障が出ることから1067mmに改軌することは大正末期から課題となっていたが、不況期であり延期されていた。しかし1927年(昭和2年)6月に専務から社長に就任した小畴寿[2]が軌間拡幅工事に着手することを決定し、資金は日本興業銀行から90万円[3]を借り入れることになった[4]。1928年(昭和3年)5月に着工。1929年(昭和4年)8月完成した。車両は鉄道省からの払下げをうけることになり8月24日から運行開始となった。ところが昭和金融恐慌のさなかであり収入は予想に反し伸び悩む、利子は年に6万3千円[5]もあり経営危機に陥ってしまう。このため小畴社長は社長以下俸給一割減と人員削減を打ち出した。これに対し従業員から反発をまねくことになり現場は混乱し、地元新聞は連日この騒動を報道することになる。このため中津町長[6]らが調停に乗り出し小畴は社長から専務に降格することとなった。 その後も経営不振が続き1931年(昭和6年)減資。1935年(昭和10年)に日本興業銀行より半田貢[7]が送り込まれ社長に就任し[8]、銀行管理下におかれた[9]。同年ガソリンカーを導入し燃料費削減をするなど強力に合理化を推進し経費を削減していった。一方観光開発にも力を入れ耶馬渓町鴫良の温泉掘鑿、深耶馬山彦旅館の買収、鴫良梅林の造成などを手掛け、ガソリンカーに女性ガイドが乗車し沿線の観光案内をした[10]。社員は北九州の会社、工場、役所をまわり耶馬渓を宣伝した[11]。こうした結果1938年上期には4年ぶりの復配となった。

さらにその後の戦時景気による輸送量の増加とガソリン規制による乗合自動車の衰退により業績は向上していった。1942年(昭和17年)からは軍需工場神戸製鋼中津工場の工事が本格するようになり、工場への引込線も建設された。周辺には住宅や寮が建設され、1944年(昭和19年)の乗客数は300万人に上った[12]

1938年(昭和13年)8月に半田が社長を辞任すると10月に社長に就任したのは九州電気軌道社長の村上巧児であった。交通事業調整委員会から私鉄統合の要請を受け地元大分の耶馬渓鉄道と交渉した結果からであった[13][14]。その後1941年(昭和16年)8月には門司鉄道局で九州電気軌道に対し小倉電気軌道を統合[15]するよう慫慂した席上福博電車博多湾鉄道汽船筑前参宮鉄道、耶馬渓鉄道、別府大分電鉄[16]の五社併合を至急実施するよう言い渡されていた[17]。つまり西鉄統合の構想時では大分県鉄道も含まれていた。結果的には県別に統合されることになり1945年(昭和20年)4月大分交通が発足した。西鉄は全株式の21.4%を保有し村上は会長に就任した[18]

  • 1911年(明治44年)7月28日 耶馬渓鉄道に対し鉄道免許状下付(豊田-津民間)[19]
  • 1913年(大正2年)12月26日 耶馬渓鉄道が中津 - 樋田(後の洞門)間を開業[20]。軌間762mm
  • 1914年(大正3年)12月11日 樋田 - 柿坂(後の深耶馬、耶鉄柿坂)間が開業[21]
  • 1920年(大正9年)12月16日 諫山駅が開業[22]
  • 1922年(大正11年)5月30日 鉄道免許状下付(下毛郡城井村-同郡三郷村間)[23]
  • 1924年(大正13年)6月16日 柿坂 - 守実(後の守実温泉)間が開業し全通[24]
  • 1929年(昭和4年)8月24日 全線の軌間を762mmから1,067mmに改軌
  • 1944年(昭和19年)
    • 3月1日 大貞公園駅が約800mほど上ノ原駅寄りに移転、同駅から分岐する神戸製鋼所中津工場(後の中津鋼板)への引き込み線運用開始
    • 10月25日 中津 - 大貞公園間の古城駅廃止、同駅間に八幡前駅開業
  • 1945年(昭和20年)4月20日 別府大分電鉄・国東鉄道・耶馬渓鉄道・宇佐参宮鉄道・豊州鉄道(もとの日出生鉄道)・別杵自動車が合併し、大分交通発足。大分交通耶馬渓線(中津支社)となる
  • 1961年(昭和36年)2月15日 江渕駅が開業
  • 1966年(昭和41年)4月 中津鋼板が工場閉鎖、同時に引き込み線の使用休止
  • 1971年(昭和46年)10月1日 野路 - 守実温泉間 (25.7km) が廃止
  • 1975年(昭和50年)10月1日 中津 - 野路間 (10.4km) が廃止

駅一覧[編集]

廃止時点のもの

中津駅 - 八幡前(はちまんまえ)駅 - 大貞公園駅 - 上ノ原駅 - 諫山駅 - 真坂駅 - 野路駅 - 洞門駅 - 羅漢寺駅 - 冠石野(かぶしの)駅 - 耶馬渓平田駅 - 津民駅 - 耶鉄柿坂駅 - 下郷駅 - 江渕駅 - 中摩駅 - 白地駅 - 宇曽駅 - 守実温泉駅

接続路線[編集]

輸送・収支実績[編集]

耶馬渓鉄道
年度 輸送人員(人) 貨物量(トン) 営業収入(円) 営業費(円) 営業益金(円) その他益金(円) その他損金(円) 支払利子(円) 政府補助金(円)
1914 250,359 3,057 29,036 20,932 8,104 損失償却金501 2,865 7,581
1915 254,383 18,414 50,614 32,068 18,546 創業費償却金1,000 8,260 27,907
1916 274,110 23,568 55,375 32,982 22,393 設立費償却金1,000 7,749 26,510
1917 348,973 27,343 70,522 37,217 33,305 創立費償却金1,000 3,067 14,614
1918 411,994 32,706 97,454 61,503 35,951 2,768 5,564
1919 503,232 41,719 145,956 77,717 68,239 5,070
1920 561,603 39,370 195,294 113,794 81,500 7,711
1921 620,528 33,454 207,994 115,331 92,663
1922 640,657 31,151 205,744 115,212 90,532
1923 654,598 28,656 198,933 102,052 96,881 配当準備金繰入7,500 6,483
1924 759,222 30,382 222,734 118,392 104,342 準備金繰入3,810 雑損金24 13,505 2,944
1925 848,220 40,916 261,232 152,698 108,534 旅館業120 22,490 33,984
1926 870,941 51,668 275,746 192,507 83,239 旅館業69雑損131 24,327 34,061
1927 811,091 51,243 262,774 166,367 96,407 旅館業353 雑損824 23,962 34,226
1928 736,540 58,654 263,727 169,971 93,756 旅館及自動車業151
雑損1,644
18,338 35,613
1929 691,716 59,257 211,591 125,323 86,268 自動車業2,522 雑損償却金20,595 23,042 36,090
1930 654,242 55,041 226,660 122,252 104,408 自動車旅館業6,790 償却金22,000 63,364 37,284
1931 555,195 38,142 177,971 102,373 75,598 雑損78自動車其他1,494 66,041 31,137
1932 559,993 37,207 158,663 94,925 63,738 温泉業8,376雑損480 63,845 34,491
1933 563,921 39,185 153,796 96,371 57,425 自動車8,835 62,664 37,559
1934 605,079 45,290 160,339 108,077 52,262 温泉及自動車業9,096 償却金14,000 56,106 18,742
1935 616,438 53,644 176,167 134,084 42,083 自動車業3,315
雑損償却金42,641
39,736
1936 684,561 64,607 207,466 130,014 77,452 自動車業17,126
雑損償却金4,804
50,196
1937 737,335 67,568 218,093 128,221 89,872 雑損償却金22,825
自動車業29,994
49,336
  • 鉄道院年報、鉄道院鉄道統計資料、鉄道省鉄道統計資料、鉄道統計資料、鉄道統計各年度版より

車両[編集]

1929年改軌時すべて国鉄からの払下げ。機関車7両、客車14両、貨車36両

  • 1-4 蒸気機関車 旧国鉄1440形1442・1443・1446、国鉄1400形1418
  • 5-7 蒸気機関車 旧国鉄600形621・622・671
  • ホロハ1-4 旧国鉄コハ2001-2004(形式2000)
  • ロ1 旧国鉄ロ831(形式827[25])もと九州鉄道の客車
  • ハフ1-5 旧国鉄ハフ4756・4763・4768・4773・4780(形式4745←形式3327[25])もと九州鉄道の客車。
  • ハニ1-3 旧国鉄ハニ3550・3552・3554(形式3550)
  • ハニ4 旧国鉄ハニ3572(形式3564[25])もと山陽鉄道の客車。

1963年時点では蒸気機関車3両、ディーゼル機関車2両、ディーゼルカー7両、客車16両[26]

  • 3・4・1444 蒸気機関車 旧国鉄1446・1418・1444
  • D31・32 ディーゼル機関車 1954年汽車製造製。国鉄DD11形と同性能。詳細は国鉄DD11形ディーゼル機関車#派生形式を参照
  • キハ101-104 1935年及び1937年日本車輌製造製。元耶馬渓鉄道キハ101-104
  • キハ105 国鉄キハ40341(北九州鉄道ジハ61)詳細は買収気動車を参照
  • キハ601・603
  • ホハ1 耶馬渓鉄道が1932年に国鉄ホハ2355(形式2350)を購入
  • ホハ2・4、当初はホハフ3・5 ホロハ2・4・3・1として使用。1935年にホハ2・4・3・5に変更。1958年にホハ3・5をホハフ3・5に変更
  • ハニフ21・22 履歴はハフ1・3→ハニ1・2→ハニフ21・22
  • ハニフ23 1932年国鉄からの払下車ハ2636(形式2581[25])履歴はハ3→ハニ3→ハニフ23
  • ハフ24-26 当初はハフ4・5・2
  • ハフ27 1942年から使用されていた(手続きは戦後)。国有化された新宮鉄道ハ12
  • ハフ13 1951年国東線より転入。元国東鉄道キハ13
  • ハフ14-16 1952年宇佐参宮線より転入。元宇佐参宮鉄道キハ1-3

1967年時点では蒸気機関車2両、ディーゼル機関車3両、ディーゼルカー13両、客車19両、貨車16両。1965年-1966年に廃止された宇佐参宮線国東線より車両が転入[27]

  • 宇佐参宮線より転入
    • キハ502・503
    • ホハ101-103
  • 国東線より転入
    • D33・34ディーゼル機関車
    • キハ21
    • キハ50
    • キハ602・604
    • ホハフ30-32 もとキハ30・20・501
    • ハニフ12
  • 耶馬渓線車両の移動
    • 1964年廃車 ホハフ3・ホハ4
    • 1965年廃車 ハニフ23、ハフ24
    • 1966年 D32を旭川通運へ売却。

現存・保存車両[編集]

  • キハ102/かわせみ(中津市万田・汽車ポッポ食堂)
  • キハ104/せきれい(中津市万田・汽車ポッポ食堂)
  • キハ601/やまびこ(中津市万田・汽車ポッポ食堂)
  • キハ602/しおかぜ(中津市万田・汽車ポッポ食堂、国東線より転属)
  • キハ603/かじか(和歌山県御坊市・紀州鉄道 → 2012年除籍後、紀伊御坊駅にて動態保存)
  • キハ604/なぎさ(和歌山県御坊市・紀州鉄道、国東線より転属 → 2010年解体)
  • ハニフ22(中津市万田・汽車ポッポ食堂)
  • ハフ25(汽車ポッポ食堂 → 北九州市門司区・九州鉄道記念館
  • ハフ27(中津市本耶馬溪町 → 解体)

廃線跡の現状[編集]

中津駅付近は意外にも平成初頭まで線路跡が手付かずのまま残されていたが、現在では区画整理事業が実施され跡形もなく消え去った。

国道213号線交差部分 - 大貞公園駅付近も県道(大分県道675号臼木沖代線)の拡幅に飲み込まれ跡形もない。

大貞公園駅 - 野路駅手前までは県道の東側の歩道部分(メイプル耶馬サイクリングロード)が耶鉄跡である。特に大貞公園駅跡付近はが植えられ、春には美しい桜並木となる。

野路駅手前には国道212号を乗り越えていた鉄橋がサイクリングロードとして現存しており、さらに野路駅跡はホームが残り、また付近の踏切跡の道路にも「踏切あり」の道路標識が残されており、ここに鉄道が存在したことを物語っている。

野路駅からの線路跡は本格的にサイクリングロードとして転用されている。ただし、樋田集落 - 青の洞門対岸の線路跡は国道212号のバイパスとして転用され、跡形もない。

その先の津民 - 耶鉄柿坂間では、よく取り上げられる沿線随一の名所「第2山国川橋梁」がサイクリングロードとして転用されている。第2山国川橋梁は、2012年(平成24年)7月の九州北部豪雨でほぼ半分が橋脚も含めて破損流失した[28]。この付近では耶鉄時代のトンネルもサイクリングロードとしてそのまま残されている。

柿坂付近は再び国道212号線に飲み込まれ跡形もない。柿坂にはサイクリングターミナルがあり、自転車レンタル宿泊も可能である。柿坂より先も国道にも飲み込まれているが、中摩駅 - 白地駅付近は国道より離れ、線路跡の面影をよく残している。

終点の守実温泉駅跡はかつての終着駅としての面影は全くなく、山国町商工会館・大交北部バスの折返場として使用されている。

文化財[編集]

登録有形文化財

  • 旧耶馬渓鉄道一号厚ヶ瀬トンネル
  • 旧耶馬渓鉄道二号厚ヶ瀬トンネル
  • 旧耶馬渓鉄道平田駅ホーム

脚注[編集]

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  1. ^ 谷口 (1967) による。駅の標高は施工基準面、トンネルは延長。また第1、第2トンネルが各2か所にある。
  2. ^ 鉄道省出身技師『職員録. 大正10年』(国立国会図書館近代デジタルライブラリー)
  3. ^ 『消えた耶馬の鉄道』65頁
  4. ^ 旧債務償還含む
  5. ^ 『消えた耶馬の鉄道』66頁
  6. ^ 中津町役場が大株主『地方鉄道軌道営業年鑑』(国立国会図書館近代デジタルライブラリー)
  7. ^ 箱根登山鉄道の主任技師から専務取締役となり湘南電気鉄道京浜電気鉄道海岸電気軌道の役員を歴任、1931年に興銀への返済が不能となった三河鉄道取締役に、1933年に伊勢電気鉄道専務に就任している
  8. ^ 『日本全国諸会社役員録. 第45回』(国立国会図書館近代デジタルライブラリー)
  9. ^ 小川功『企業破綻と金融破綻』、九州大学出版会、318-319頁
  10. ^ 『消えた耶馬の鉄道』には観光案内文が30頁にわたり掲載されている
  11. ^ 『消えた耶馬の鉄道』68、237頁
  12. ^ 『消えた耶馬の鉄道』72-73頁
  13. ^ 小川功「西日本鉄道の系譜」『鉄道ピクトリアル』No.668
  14. ^ 資本面での連携は行ってない『西日本鉄道百年史』92頁
  15. ^ 1942年2月合併
  16. ^ 1940年より村上が社長
  17. ^ 『西日本鉄道百年史』95頁
  18. ^ 『西日本鉄道百年史』108頁
  19. ^ 「軽便鉄道免許状下付」『官報』1911年7月31日(国立国会図書館デジタルコレクション)
  20. ^ 「軽便鉄道運輸開始」『官報』1914年1月9日(国立国会図書館デジタルコレクション)
  21. ^ 「軽便鉄道運輸開始」『官報』1914年12月16日(国立国会図書館デジタルコレクション)
  22. ^ 「地方鉄道停留場設置」『官報』1920年12月21日(国立国会図書館デジタルコレクション)
  23. ^ 「鉄道免許状下付」『官報』1922年6月1日(国立国会図書館デジタルコレクション)
  24. ^ 「地方鉄道運輸開始」『官報』1924年6月25日(国立国会図書館デジタルコレクション)
  25. ^ a b c d 『客車略図 上巻』国立国会図書館近代デシタルライブラリー
  26. ^ 堀江光雄「大分交通見学記」『鉄道ファン』No.26
  27. ^ 谷口良忠「北九州の鉄道と列車」『鉄道ファン』No.73
  28. ^ “鉄橋崩落、20m流される…九州北部豪雨”. 読売新聞. (2012年7月4日). http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20120704-OYT1T00906.htm 2012年7月5日閲覧。 

参考文献[編集]

  • 大分合同新聞社 『郷愁のローカル鉄道耶馬渓線:大正2年12月26日~昭和50年9月30日:写真集』 清原芳治、大分合同新聞社、2004年
  • 坂山角雄(執筆) 『消えた耶馬の鉄道』 耶馬渓鐵道史刊行會、耶馬渓町、1985年
  • 『思い出の耶馬溪線』 中津かわら版、2005年
  • 谷口良忠 (1967). “大分交通耶馬渓線”. 鉄道ピクトリアル No. 199 (1967年7月臨時増刊号:私鉄車両めぐり8): pp. 72-89, 100-102. (再録:『私鉄車両めぐり特輯』2、鉄道ピクトリアル編集部、鉄道図書刊行会、東京、1977年
  • 鉄道省 『昭和12年10月1日現在鉄道停車場一覧』 鉄道史資料保存会(1986年覆刻)、東京、1937年、p. 436。ISBN 4-88540-048-1
  • 宮脇俊三 『鉄道廃線跡を歩く』1、日本交通公社出版事業局〈JTBキャンブックス〉、1995年、pp. 147-149。ISBN 4-533-02337-1
  • 広田尚敬(監修) 『ロストレールウェイの旅・九州篇』(ビデオ)』 文藝春秋社。
  • 和久田康雄 「昭和52年5月1日現在における補遺」『私鉄車両めぐり特輯』2、鉄道ピクトリアル編集部、鉄道図書刊行会、東京、1977年、補遺3頁。

関連項目[編集]

外部リンク[編集]