和歌山一家8人殺害事件

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和歌山一家8人殺害事件(わかやまいっか8にんさつがいじけん)は、第二次世界大戦終結直後の1946年昭和21年)1月27日和歌山県和歌山市で発生した大量殺人事件。

犯人死刑判決確定したが、後に恩赦無期懲役に減刑され、後に仮釈放を認められて出所した。

事件の概要[編集]

犯人のA(犯行時26歳)は、戦時中志願して通信兵となり、中国戦線や北海道を転戦していたが、その間に和歌山県和歌山市で暮らしていた実母が1940年に死去した。実母はAより15歳年長の兄一家と暮らしていたが、兄嫁から虐待されるなど「姑いじめ」を受けていた。Aはその家庭環境から逃げ出す為に兵役についていたが、その直後に実母は虐待死したと疑っていた。すぐに兄嫁に対し復讐しようとしたが、証拠もないうえに叔父になだめられたため、実行しなかった。

Aは1945年10月に復員したが、当時の和歌山市は太平洋戦争末期の和歌山大空襲で焼け野原となっており、Aは当地でバラック住まいをしていた兄一家の元に身を寄せる。そんな折の1946年1月27日夕食時、義姉はAの実母が心臓麻痺で苦しみ死んだ最期の形相を真似るなど、心ない仕草をする。これがAの復讐心に火をつけ、1月29日深夜に至って手斧を用意し、兄(当時42歳)と兄嫁(当時41歳)の夫婦を殺害した。兄夫婦には息子4人(長男16歳・次男13歳・三男7歳・四男3歳)と娘2人(長女14歳・次女10歳)、計6人の子供がいたが、Aは兄夫婦を殺害した後、彼ら6人も「両親がいなくなって不憫」という考えから皆殺しにした。

Aは「これは母の敵討ちだ、1か月後に自首する」などとする書置きをして逃亡したが、1か月しても出頭することは無かった。Aは長崎県内の炭鉱に偽名で働いていたが、「良心の呵責」に耐えられなくなったとして、1948年3月19日大阪市にある朝日新聞大阪本社に現れたところを逮捕された。

その後の経過[編集]

Aの大量殺人に対し1948年4月27日和歌山地方裁判所は死刑判決を下し、控訴審も同年12月6日には控訴棄却されるというスピード判決を下した。A本人は上告しないと表明していたが、弁護人最高裁に上告した。しかし最高裁は「被告人の意思に反した上告は不適法」として1949年8月18日に棄却、死刑が確定した。

しかし1952年4月28日に、Aは恩赦により無期懲役に減刑された。この日1951年9月に調印されたサンフランシスコ講和条約国会の承認を経て発効したが、法務当局は「国家的慶事」として数多くの刑務所収容者を恩赦減刑した。その中に確定死刑囚12人が含まれており、Aもその中の一人に入った。Aのように同じく小田原一家5人殺害事件で有罪になった確定死刑囚も恩赦減刑になった。この時の死刑囚で恩赦の対象になったのは殺人犯でも殺人罪のみで死刑が確定したものに限定されていた。そのため、1人殺害であっても脱獄のために刑務官を殺害したり強盗殺人罪といった複数の罪状の死刑囚は対象になっていない。Aは大阪拘置所の死刑囚監房から大阪刑務所に身柄を移され、逮捕から20年後の1968年春に出所した。

参考文献[編集]

関連項目[編集]