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吉本せい

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
吉本 せい
生誕 1889年12月5日
兵庫県明石市
死没 (1950-03-14) 1950年3月14日(60歳没)
職業 吉本興業創業者、芸能プロモーター
配偶者 吉本吉兵衛
子供 喜代子(10歳で死亡)、千代子(早世)、峰子、吉子(早世)、泰之助(早世)、幸子、邦子、頴右(1947年没)
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吉本 せい(よしもと せい、1889年明治22年)12月5日 - 1950年昭和25年)3月14日)は、芸能プロモーター吉本興業(初代、現・吉本興業ホールディングス)創業者。

人物

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  • 1889年12月5日、兵庫県明石市で米穀商の三女(第4子)として出生した。
  • 1910年4月の20歳の時に、大阪市東区(現・中央区)内本町橋詰町の「箸吉(はしよし)」の息子吉本吉兵衛(通称:吉本泰三)と結婚(実際には1907年12月の18歳のころから結婚生活であった)。「箸吉」は、高級料亭にを納める老舗荒物問屋であった。
  • 1912年明治45年)4月1日、夫婦で天満八軒[注釈 1]の一つ「第二文芸館」を買収し、寄席経営をはじめる。
  • 1913年大正2年)1月、大阪市南区笠屋町(現・大阪市中央区東心斎橋)に「吉本興行部」を設立。
  • 1928年昭和3年)、紺綬褒章を受章[1]
1948年、晩年の吉本せい

親族ほか

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  • 実弟に林正之助東京吉本社長も務めた林弘高がいた。
  • 夫・吉兵衛とは1924年に死別。吉兵衛との間には吉本穎右ら2男6女を儲けているが、穎右(1947年、24歳没)ほか多くは早世している。このほか、せい自身の話によると2人ほど流産もしくは死産だった子供がいるらしい。
  • 子の吉本穎右は人気歌手の笠置シヅ子と交際していた。ただしせいが反対し、また穎右の早世により結婚には至らなかった。両者の間には、穎右の死没直後に女児(亀井ヱイ子)が生まれており、シヅ子が育てた。

家族一覧

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  • 長女:吉本喜代子 明治43年(1910年)11月6日 - 大正9年(1920年)/大正10年(1921年)
  • 次女:吉本千代子 明治44年(1911年)11月17日 - 明治44年(1911年)11月27日
  • 三女:吉本峰子 大正3年(1914年)1月14日 - 没年不明
    • 後に吉本恵津子と改名。せいの没後、吉本興業の株などを相続。
  • 四女:吉本吉子 大正5年(1915年)4月12日 - 大正6年(1916年)
  • 長男:吉本泰之助 大正6年(1916年)12月1日 - 大正8年(1918年)
  • 五女:吉本幸子 大正9年(1920年)9月3日 - 没年不明
  • 六女:吉本邦子 大正11年(1922年)7月6日 - 没年不明
  • 次男:吉本泰典 大正12年(1923年)10月26日 - 昭和22年(1947年)5月19日
    • 後に吉本頴右と改名。没後に笠置シヅ子との間に唯一の実子・亀井ヱイ子が誕生。ヱイ子は吉本家には入っていないため、吉本家の頴右の家系は男系としては断絶[注釈 2]

登場作品

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以下は、せいをモデルとしたフィクション上の人物も含む。

小説

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舞台

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映画

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テレビドラマ

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歴史ドキュメンタリー

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  • BS-TBSにっぽん!歴史鑑定』2017年11月6日放送#134「吉本興業創業者・吉本せいの真実」吉本せいの生涯を特集した歴史番組 

脚注

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注釈

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  1. ^ 天満八軒は昔、飲食店や土産物屋が立ち並ぶ8軒の寄席が集まったことから、大阪の人々はそう呼んでいた。
  2. ^ せいの外孫は健在である[2]

出典

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  1. ^ 吉本興業ヒストリー”. 吉本興業. 2020年7月30日閲覧。
  2. ^ 『わろてんか』モデルの孫が証言、「吉本興業」創業者の過去”. Ameba News. 2020年6月4日閲覧。

参考文献

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関連項目

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先代

(前身:吉本興業部 吉本吉兵衛
吉本興業
社長
初代:1932年 - 1948年
次代
林正之助