占守型海防艦

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占守型海防艦
占守
艦級概観
艦種 海防艦
艦名 島名
前級 なし
次級 択捉型
性能諸元
排水量 基準:860t
全長 77.72m
水線長 76.2m
全幅 9.1m
吃水 3.05m
機関 22号10型ディーゼルエンジン2基2軸 4,050馬力
燃料 重油
速力 19.7ノット
航続距離 16ノットで8,000海里
乗員
兵装 三年式45口径12cm単装砲3門
25mm連装機銃2基
九四式爆雷投射機1基
爆雷投下台6基 爆雷18個
掃海具

占守型海防艦(しむしゅがたかいぼうかん)は、日本海軍第二次世界大戦まで運用した海防艦オホーツク海など北方海域の漁業保護用に製造された。同型艦4隻、基本計画番号E15、甲型海防艦とも呼ばれる。

概要

昭和初期、オホーツク海など日本の北方海域においては、ソ連と日本との間で、漁業紛争がたびたび起こっていた。そのため、日本海軍は漁業保護用に駆逐艦を派遣していたが、高コストであることと対寒装備の不足により、駆逐艦の派遣に難点を感じていた。昭和12年度の第三次補充計画により、漁業保護用の艦を整備する事となり、艦種としては従来からあった海防艦に類別された。ソ連の警備艦艇と交渉を行うことも考慮し、小型艦ではあるが菊の紋章が与えられた「軍艦」であった。なお、「軍艦」としての類別は昭和17年7月に解かれている。

設計は艦政本部ではなく、三菱重工が行っている。厳寒の北方海域で行動することを考慮し、舷側は高く、船首楼は長い。また、解氷装置や暖房設備は充実し、船体も耐氷構造で復元性も良好となっている。

漁業保護・警備が目的であるため、武装は控えめで速度は遅いが、航続距離は長くなっている。1941年の太平洋戦争開戦後は、南方航路への船団護衛で1隻が戦没している。また、太平洋戦争後期には対空機銃や爆雷、爆雷投下軌条などを増備している。しかし、主砲が対空砲撃ができない平射砲であるなど、不向きの点も多かった。

占守型は、南方航路への船団護衛用に多数生産された択捉型御蔵型などの海防艦の原型となっているが、生産工数は多く、大量生産向きではなかった。これは、海軍より設計を委託された三菱重工の技師たちが意気込んで設計にあたったため、量産性よりも、独自性を追求したためであるといわれている。

エピソード

  • 占守型が建造されるまで、海防艦は旧式の巡洋艦や戦艦(多くは8,000tクラス)を類別したものだった。このため860tの基準排水量が、8,600tに「訂正」されて発表されてしまうハプニングがあった。
  • 建造費用を節約するため、12センチ平射砲は廃艦となった旧式駆逐艦のものが転用された。

同型艦

  • 占守(しむしゅ) - 1940年6月30日三井造船玉野で竣工。1947年7月、ソ連に賠償艦として引渡。(en:Japanese escort Shimushu
艤装員長
荘司喜一郎 中佐:1940年2月2日 - 6月30日
艦長
荘司喜一郎 中佐:1940年6月30日 - 10月15日
有村不二 中佐:1940年10月15日 - 1942年7月1日
海防艦長
有村不二 中佐:1942年7月1日 - 8月22日
  • 国後(くなしり) - 1940年11月3日日本鋼管鶴見で竣工。戦後は復員船として使用された。1946年6月4日、御前崎付近に座礁、後に解体。(en:Japanese escort Kunashiri
艤装員長
清水利夫 中佐:1940年5月6日 - 10月3日
艇長
清水利夫 中佐:1940年10月3日 - 10月15日
久保田智 中佐:1940年10月15日 - 1941年8月11日
北村富美雄 中佐:1941年8月11日 - 1942年7月1日
海防艦長
北村富美雄 中佐:1942年7月1日 - 11月19日
川島良雄 中佐:1942年12月15日 - 1943年10月25日
艦長
河野康 中佐:1941年9月3日 - 1942年7月1日
海防艦長
河野康 中佐:1942年7月1日 - 1943年10月1日
艦長
磯久研磨 中佐:1942年3月5日 - 7月1日
海防艦長
磯久研磨 中佐:1942年7月1日 - 1943年10月18日

関連項目