南海1900号電車

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南海1900号電車(なんかい1900ごうでんしゃ)は、南海電気鉄道に在籍した特急形車両

概要[編集]

南海鉄道(現・南海電気鉄道)が新造導入した唯一の貴賓車で、1938年昭和13年)に汽車製造会社東京支店クハ1900の1両が製造された。

車体[編集]

構造は前年6月に同じ汽車製造会社東京支店で製造された中型車のモハ1201形1218 - 1222の設計を基本とするが、眺望を考慮して腰板高さが引き下げられ、また最大寸法が微妙に異なっている。最大寸法は17,500×2,878×3,815mm、側面窓配置は122D6D2(D:客用扉)で、高野側に流線型の運転台を持つ前面非貫通型・片運転台式となっている。

この流線型前頭部は雨樋が前頭部中央でやや垂れ下がった、特徴的なデザインであるが、これは日本車輌製造が手がけた京阪60形「びわこ」号に端を発する同社製流線型気動車群のデザインの影響下にあり、前面窓に当時としては珍しい曲面ガラスを3枚使用するなど、同時代に製作された類似デザインの車両群の中にあって、洗練されたものの一つとして数えられる。

中間の客用扉から前よりは運転台も含めた展望室(社内呼称A室)で、側窓も広窓を2組の連窓にして眺望を図った。中間の客用扉から後位は一般室(社内呼称B室)である。

展望室車内にはソファー、回転いす、テーブルが装備され、床は市松模様の床材が敷かれていた。天井照明は2ヶ所の通風口の周囲を各6個のグローブつき電球が囲む形で配置されたほか、連窓間の柱にはスタンドが取り付けられていた。また、日よけには当時まだ珍しかったベネシアンブラインドを採用し、一般室との間の仕切に大きなガラス窓を設け、展望室の広窓とあいまって開放感のある内装となっていた。一般室内は窓割りに合わせて転換クロスシートを配置していたが、進行方向左側のシートには折りたたみ式の補助いすを設けてあった。照明はシャンデリア風の灯具を備え、床も木製ではなく床材を敷いていた。仕切の上の櫛桁にはスピーカーを備え、仕切と中央扉との間の柱に車掌スイッチを設けていた。

また、クハ1900は制御付随車であったため制御器や電動機などの主要機器類はなく、運転機器類も化粧版でケーシングされ、運転台を使用するときはカバーを外して使用した。

外装は窓部がアイボリー、窓下がダークグリーンのツートンカラーに塗装されていた。

機器[編集]

台車は汽車製造製K-16、制御器は電力回生制動指令が可能な東洋電機製造製AUR-11[1]で、当時の高野線大運転用車の標準仕様に準じている。

1960年から1963年にかけての休車中に台車を他車に転用されたため、1963年の格下げ改造後は台車として予備品のBW-86-35Aが装着され、主幹制御器もPC-14-A用に交換された。

運用[編集]

貴賓車としての運用[編集]

1938年(昭和13年)7月にデビューし、貴賓車として使用され始め、皇室高野山参詣などに利用された。しかし戦時中は高野山参詣どころではなく、ほとんど使用されないまま、当時南海橋本駅から出ていた貨物支線である紀ノ川口支線の終点だった紀ノ川口駅構内の側線に、カバーをかけられて留置された状態で終戦を迎えている。

貴賓車時代に乗車した可能性のある著名人に、山本五十六がいる。山本は海軍次官在任時の言動が陸軍や影響下の右翼の怒りを買い、暗殺の危険にさらされていた。状況を憂慮した海軍大臣の米内光政1939年(昭和14年)8月に山本を連合艦隊司令長官に転出させることになり、山本は東京から和歌之浦に入泊していた連合艦隊旗艦「長門」に向かう際、難波 - 和歌山間を南海本線で移動している。阿川弘之の『山本五十六』では、そのときの情景を、「(前略)南海の特急には、長官のための特別車が一輌連結されて、特別車には、山本と藤田副官と南海電鉄の秘書課長が一人乗っているだけであった。(中略)特別車の中の金襴のテーブル掛けでおおわれた机を眺めながら、山本は、『どうも、やんごとなき人のようだね』と照れていたそうである。(後略)」と描写している。この記述で山本は南海本線内をテーブル付きの特別車に乗車していることがわかるが、当時陸海軍の将官クラスの移動は、国鉄では一等車(連結されていない場合は二等車)を使用することが当然であり、私鉄の場合は一般車はモノクラスでも、貴賓車を持っている私鉄は貴賓車を将官の乗用に供したことから、山本の乗用にクハ1900を使用したことは十分ありえる話[2]である。

特急「こうや号」での運用[編集]

戦後の復興が進んだ1950年代に入ると、南海高野線特急列車の運転計画が浮上する。これが後の特急「こうや」である。その特急列車の専用車両として抜擢されたのが、ほとんど使用されなくなっていた、このクハ1900であった。

特急「こうや号」は1951年(昭和26年)7月に運転を開始した。当初は当時の高野線山岳区間(通称・大運転)において主力車であったモハ1251形戦後製造グループをそのまま使用し、座席指定制はなかったが、利用状況が良好であったため、1952年(昭和27年)7月に座席指定制を実施し、この際にクハ1900の連結が開始された。さらに1953年(昭和28年)4月にはモハ1251形特急専用車の運用が開始され、通常時はTc-Mc-Mcの3連で、多客期にはモハ1251形をもう1両増結[3]してTc-Mc-Mc-Mcの4連で運行された。

クハ1900と連結されるモハ1251形としては、運行開始当初は最新の戦後製造グループが充当された。しかし、窓の大きなクハ1900と1段下降窓仕様のモハ1251形戦後製造グループとでは、内外の格差があまりに大きいことから、クハ1900はソファーの撤去とクロスシート化が実施され、モハ1251形についても戦後型に代えて、側窓が2段上昇式で窓寸法そのものもクハ1900に近似の戦前型が起用され、1251・1252・1254の3両がクロスシート化や補助椅子の追加など特急専用車化改造を実施された上で、「こうや号」限定運用に充当された。

格下げ、そして廃車[編集]

1958年(昭和33年)に高野線初のカルダン駆動車である21001系が就役すると、運賃に対する設備面や乗り心地の点でクハ1900・モハ1251形は陳腐化が隠せなくなった。このため、クハ1900・モハ1251形に代わる高性能特急電車が計画され、1961年(昭和36年)7月、20001系が完成し、運用を開始した。このため、これに先だって本形式による「こうや号」としての運用はその前年の1960年秋にが終了した(1961年3月から7月の20001系デビューまでは、新造されたばかりの21001系[4]が「こうや号」運用に充当された)[5]

特急運用離脱後、モハ1251形特急専用車3両は直ちに一般型電車への格下げと更新工事を実施され、これに併せて、21001系に伍して運用するための2段弱め界磁機構の付加などスピードアップ対応工事が施工された。

これに対し、そのままでは一般車転用が困難なクハ1900は、運用離脱後、休車扱いとして羽倉崎検車区に長期間留置されていたが、結局1963年秋に国鉄竜華操車場へ回送の上で方向転換を行い、さらに更新修繕を兼ねた格下げ改造が実施されることとなり、旧運転台側を切断して一般構造の客室を新規製作して切妻構造の連結面とし、旧連結面側に運転台を新設、さらに客用扉を移設するという大工事が天下茶屋工場で実施された[6]

この結果窓配置はd3D232D4(d:乗務員扉、D:客用扉)というモハ1201形を筆頭とする18m級標準車に近いレイアウトとされ、座席もロングシート化されて、同形式とペアを組むクハ1901形と同等の扱いで南海線で運用されるようになった。さらに、1968年に使用が開始されたATS取り付けに関連してクハ1900は運転台を完全に撤去してサハ1900となった。

こうして一般輸送に従事したクハ(→サハ)1900・モハ1251形も1960年代後半に入ると老朽化が顕著になり、また1973年に予定された南海・高野両線の架線電圧の600V→1500V昇圧工事の対象から外されたこともあって、6101系22001系などの新型車両に置き換えられ、サハ1900は1972年(昭和47年)6月、モハ1251形は1970年(昭和45年)3月 - 1972年(昭和47年)1月に全車廃車・形式消滅した。

脚注[編集]

  1. ^ 制御車であるのでAUR-11そのものは搭載されておらず、これを制御するための主幹制御器とその信号線引き通しのみが設置されていた。
  2. ^ もっとも、システムとして考えるとクハ1900は制御器が回生制動付きのAUR系であったため、南海線で特急に充当されていたモハ2001形への増結はそのままでは出来なかった筈であり、阿川が記したように「一般の特急に増結した特別車(=クハ1900)に山本五十六が乗車した」と断定するには幾つかの疑問が残るのも確かである。
  3. ^ 原則的には専用車3両が充当されたが、これらの検査時には一般車が増結用として使用されるケースも見られた。
  4. ^ 当時は全編成がクロスシート車。ロングシート車の登場は1963年から。
  5. ^ 藤井信夫 『車両発達史シリーズ 6 南海電気鉄道 下巻』 関西鉄道研究会、1998年12月、84頁。 
  6. ^ 藤井信夫 『車両発達史シリーズ 6 南海電気鉄道 下巻』 関西鉄道研究会、1998年12月、85頁。 

参考文献[編集]

関連項目[編集]

他事業者が導入した貴賓車