乾正厚
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乾 正厚(いぬい まさひろ、生年未詳 - 明治3年5月22日(1870年6月20日))は、土佐藩士。板垣退助家の分家乾左八正春の養子。幼名楠弥太。字は市郎平(いちろべい)。変名は板垣深次郎。土佐藩藩士本山彦弥茂良の嫡男。家禄は28石8斗。妻は土佐藩士明神源八善秀の姉。本山只一郎の義弟にあたる。
来歴[編集]
- ゆえあって片坂限西へ追放処分とされた、本山茂良(彦弥)の嫡男として生まれ、初名を「本山楠弥太」と称す。実弟に本山茂邁がいる。本山家の分家の本山茂養(伊平)に養育され、本山茂任(只一郎)の義兄弟として育つ。
- 1831年1月7日(文政13年11月24日)、実父本山茂良の実兄乾正春が病気で無嗣子のため、楠弥太が正春の養子となることを仰せ付けられる[1]。
- 1831年5月10日(天保2年3月28日)、養父正春の跡目五人扶持切府高十石之内の七石を下し置かれ、格式新御扈従を仰せ付けられた。
- 1839年7月28日(同10年6月18日)、当分敏衛様、郁松様(山内豊矩)附きを仰せ付けられる。
- 1845年6月17日(弘化2年5月13日)、当分登五郎様(山内豊樹)附きを仰せ付けられる。
- 1863年3月15日(文久3年1月26日)、江戸表の智鏡院様(山内豊熈の夫人、候姫)[2]御用を仰せ付けられる。
- 八月十八日の政変の後、1864年6月16日(元治元年5月13日)京都で小目付役(小監察)御軍付御用仰せ付けられ、同時に尹宮様(中川宮朝彦親王)御用向御勤務を仰せ付けられ、白銀50枚を下された。
- 1864年8月18日(元治元年7月17日)長州兵の入京を阻止せんと薩摩藩士吉井幸輔、久留米藩士大塚敬介らと議して下記の意見書[3]を連署で朝廷に建白し、その決意を求めた(禁門の変)。
長門宰相父子之儀、去年八月以来、勅勘候。未其藩臣歎願とは乍申、人數兵器を相携、近畿所々へ屯集奉要、天朝候姿無紛候處、寛大之御仁恕を以て、再度理非分明之被爲在御沙汰候得共、今以抗言不引拂段甚如何にも奉存候。就而者、譬申立候筋條理有之共、決而此儘御許容被爲在儀、萬々有御座間敷と奉存候得共、自然右邊御廟議にも被爲在候而者堂々たる天朝之御威光乍ら廢替、實以御大事之御場合に奉存候。方今夷難相迫り不容易御時際、一旦 朝權、地に落候而者、後日何を以て皇威振興可仕哉。甚不可然儀に付、速かに斷然と御處置被爲在候様状而奉懇願候。不肖我々共禁裡警衛相勤候儀も全く 朝威不廢替様盡力仕候。武門當然何分難黙止奉存に付、三藩在京之重役共一同申談奉歎願候事。
(元治元年)七月十七日
松平修理大夫内
吉井幸輔(友實)
松平土佐守内
乾市郎平(正厚)
有馬中務大輔内
大塚敬介
右 同
田中紋次郎
- 1864年8月18日(元治元年7月17日)夜、朝廷では大会議を開き、関白・二條斉敬、右大臣・徳大寺公純、中務卿宮、尹宮、有栖川帥宮、山階宮、内大臣・近衛忠房らが参内し徹宵会議を行い、ついに長州藩を追討する旨を決定した。これにより、翌8月19日(旧暦7月18日)、大納言・正親町三條実愛、六條有容、柳原光愛、野宮定功らは長州藩の京都留守居役・乃美織江を六條家に呼び出し、「天龍寺以下、伏見屯集の浪士を今日中に引拂可申様、若又於相距者、追討被仰出候事」と厳令を伝えた。また、公卿一同には、「方今之形勢、可及戰爭計難候得共、被動玉座候儀、無之旨被仰出候事」と発令した。乃美織江は、右の旨を山崎と天龍寺の屯営に急報。男山に布陣していた益田右衛門介の本陣では、長州藩の諸将が軍議を開き、入江九一、久坂玄瑞らは一旦、退却して再起を図る戦略を述べるも、進軍を主張する来島又兵衛、真木保臣らの意見から遂に「諸隊同時に三道から進軍し、君家の寃を雲ぐ可し」と決した。よって久坂らはここに水盃をして討死を覚悟した。追討総督の一橋慶喜は、先手となる伏見方面へは、大垣藩をして守らせ、彦根藩を二番手に布陣。桃山の要害は会津、桑名の両藩に守らせ、丸岡藩、小倉藩は山崎方面、鯖江藩、仁正寺、園部藩は豊後橋の警固につかせた。
- 1866年(慶応2年)6月に長防探索用を命ぜられ探索方として活躍する[4]。変名は板垣深次郎。
- 1868年4月5日(同4年3月13日)、小目付役格式馬廻り仰せ付けられ、役料二人扶持十二石を下し置かれ、御軍備御用、文武調役仰せ付けられる。
- 1869年1月29日(同年12月17日)、小目付役兼市之御用を共に御免となり役料を除き、格式御小性組を仰せ付けらる。
- 正厚は無嗣子ゆえ板垣退助の次男乾正士を後嗣として家を継がしめた。遺骨は無いが墓は高知市薊野東町赤坂山にある[5]。
家族[編集]
- 実祖父:乾正壽(宅平)
系譜[編集]
土佐乾氏(分家)系図[編集]
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正行 | |||||||||||||||||||||||||||||
正祐 | 正直 | 友正 | |||||||||||||||||||||||||||
(本家へ) | 正房 | ||||||||||||||||||||||||||||
吉勝 | |||||||||||||||||||||||||||||
正英 | 正愛 | ||||||||||||||||||||||||||||
正壽 | |||||||||||||||||||||||||||||
正春 | 本山茂良 | ||||||||||||||||||||||||||||
正勝 | 乾正厚 | 乾正厚 | 本山茂邁 | ||||||||||||||||||||||||||
乾正士[6] | |||||||||||||||||||||||||||||
川瀬美世子 | 中村朝子 | 乾一郎 | |||||||||||||||||||||||||||
川瀬勝世 | 杉崎光世 | 中村純子 | 髙岡眞理子 | ||||||||||||||||||||||||||
中村直敬 | 中村和敬 | 井深美香 | 髙岡功太郎 | ||||||||||||||||||||||||||
補註[編集]
- ^ 実父の本山茂良は、本名を乾右馬之助と言い、本山茂直(安之進)の養子となって本山家を継いだが、正厚の代でまた乾家に戻ってきたことになる。
- ^ 島津斉彬の実妹
- ^ 『雋傑坂本龍馬』坂本中岡銅像建設会編、弘文社、昭和2年4月1日、219-220頁
- ^ 『明治維新人名辞典』の著者は、『御侍中先祖書系圖牒』を参照してい無いと思われ、「1866年(慶応2年)6月以降消息不明となった」と書かれているが、『御侍中先祖書系圖牒』には、1869年1月29日(明治元年12月17日)まで記載があり消息を辿ることが出来る。
- ^ 『御侍中先祖書系圖牒』分家・初代乾市郎兵衛正直(1688年卒)より第七養子市郎平正厚(1860年前後の人)までの系図を収録。
- ^ 板垣退助次男
参考文献[編集]
- 『朝彦親王日記』
- 『雋傑坂本龍馬』坂本中岡銅像建設会編、弘文社、昭和2年4月1日
- 『明治維新人名辞典』吉川弘文館、1981年
- 『御侍中先祖書系圖牒』旧山内侯爵家蔵(高知県立図書館寄託文書)
- 『乾市郎兵衛系図』
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