乾正成
ナビゲーションに移動
検索に移動
時代 | 江戸時代後期 |
---|---|
生誕 | 1802年(享和2年) |
死没 | 1860年4月23日(万延元年閏3月3日[1]) |
改名 | 信成、正成 |
別名 | 魚之助、榮六、左賀江、丈右衛門、左近兵衛 |
墓所 | 高知県高知市薊野東町(板垣山) |
藩 | 土佐藩 |
氏族 | 源姓乾氏 |
父母 | 父:乾信武、母:谷村自熈の女 |
妻 | 花井義抽の妹、中村仲住の妹、林勝文の妹、近藤秀行の姉、高屋長容の伯母、 |
子 | 板垣退助、乾久馬、女子、女子(高屋長豪の妻)、女子(日野成雄の妻) |
乾 正成(いぬい まさしげ)は、土佐藩士・乾庄右衛門信武の長男。母は谷村久之丞自熈の娘。板垣退助の父。
来歴[編集]
諱は初め信成(のぶしげ)、のち藩主山内豊信の諱を避け、正成と改める。幼名は魚之助。榮六(えいろく)、左賀江(さかえ)、丈右衛門、左近兵衛と称す。土佐藩馬廻格で、家禄300石。
1807年4月3日(文化4年2月26日)、惣領御目見仰せ付けられる。1810年11月29日(文化7年11月3日)、正成9歳の時、亡父信武の跡目を無相違下し置かれる。痩せ気味の退助と違い、力士のような30余貫(=約113kg) の体格であった[2]。1819年(文政2年)[3]頃、藩主がお忍び駕籠で領内視察をしていたのに気づかずに、乗馬したまま横切って泥を掛ける失態が噂となったため、改易となるのではないかと気に病んで乱心気味[4]の振る舞いがあったという。
1843年(天保14年)、妹の不品行の監督責任を問われ、家禄270石に減ぜられる。1860年4月23日(万延元年閏3月3日)[1]卒去。年59歳。土佐国土佐郡薊野山に葬る。
家族[編集]
- 祖父:乾正聰
- 祖母:林 藤左衛門勝周の女
- 父:乾信武(1778年(安永7年) - 1810年8月2日(文化7年7月3日))
- 母:谷村久之丞自熈の女