レイ・クロック
レイモンド・アルバート・クロック Raymond Albert Kroc | |
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生誕 | 1902年10月5日![]() シカゴオークパーク |
死没 | 1984年1月14日(81歳没)![]() サンディエゴ |
職業 | 起業家 |
配偶者 | レセル・フレミング (1922–1961) ジェーン・グリーン (1963–1968) ジョアン・クロック (1969–1984、死別) |
レイ・クロック(英語: Ray Kroc, 1902年10月5日 - 1984年1月14日)は、アメリカ合衆国の実業家。正式にはレイモンド・アルバート・クロック(Raymond Albert Kroc)。
マクドナルドコーポレーションの創業者で、マクドナルドをフランチャイズ展開して、世界最大のファストフードチェーンに仕立て上げた人物として著名である[1]。
経歴[編集]
チェコ系ユダヤ人[2][3]の両親のもとにイリノイ州シカゴ西郊のオークパークに生まれた。
高校中退後の第一次世界大戦中に15歳で救急車ドライバーの訓練を受け衛生隊に所属し、同じ衛生隊にはウォルト・ディズニーもいた。終戦後はピアニスト、紙コップのセールスマン、ジャズ演奏家、バンドメンバーなど職を転々とした。
1941年には5種類のミルクセーキを同時に作る機械「マルチミキサー」の独占販売者となり、国中を旅して周った。1954年、カリフォルニア州サンバーナーディーノで1940年に最初のマクドナルドを開いたマクドナルド兄弟と出会う。クロックは効率化された調理システムに興味を持ち、兄弟と交渉してフランチャイズ権を獲得、1955年4月にイリノイ州デスプレーンズに最初のフランチャイズ店を出店した。
1955年3月、52歳の時にマクドナルドシステム会社を設立(1960年にマクドナルドコーポレーションに社名変更)。1961年にマクドナルド兄弟から商権を270万ドルで買収、1965年に株式公開、1984年までには世界34か国で8300店舗を開いた。1955年から1968年までマクドナルド社長、1968年から1977年まで会長、1977年から1984年まで上級会長を務め、生涯で6億ドルの富を築いた。『タイム』誌の「Time 100」にも選出された。1974年にはMLBサンディエゴ・パドレスのオーナーに就任した。
1984年1月14日、長年の糖尿病により、カリフォルニア州サンディエゴで死去した。81歳。没後、オーナーを務めていたパドレスはクロックの功績を称えて、名前をもって永久欠番と同格で顕彰した。また、マクドナルドは創業者追悼キャンペーンと銘打ったセールを1年間行ったが、これを知ったマクドナルド兄弟の弟リチャードは激怒したとされる。
脚注[編集]
著書[編集]
- レイ・クロック、ロバート・アンダーソン『成功はゴミ箱の中に レイ・クロック自伝 世界一、億万長者を生んだ男―マクドナルド創業者』野地秩嘉(監修・構成)、野崎稚恵(訳)、プレジデント社、2007年。ISBN 9784833418454。
映画[編集]
- 『ファウンダー ハンバーガー帝国のヒミツ』 - レイ・クロックがマクドナルド兄弟に出会い、一大ファストフードチェーンを築き上げる姿を描く。
関連項目[編集]
外部リンク[編集]
- 『タイム』誌のプロフィール (英語)
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