ダニエル・オルテガ

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この名前は、スペイン語圏の人名慣習に従っています。第一姓(父方の)はオルテガ第二姓(母方の)はサアベドラです。
ダニエル・オルテガ
Daniel Ortega
Ortega03032007.jpg
ダニエル・オルテガ(2007年3月)

ニカラグアの旗 ニカラグア
第48代大統領
任期 2007年1月10日

ニカラグアの旗 ニカラグア
第44代大統領
任期 1985年1月10日1990年4月25日
副大統領 セルヒオ・ラミレス英語版

ニカラグアの旗 ニカラグア
国家再建会議議員
任期 1979年7月18日1985年1月10日

出生 (1945-11-11) 1945年11月11日(71歳)
ニカラグアの旗 ニカラグアラ・リベルタ
政党 Flag of the FSLN.svg サンディニスタ民族解放戦線(FSLN)
配偶者 ロサリオ・ムリーリョ

ダニエル・ホセ・オルテガ・サアベドラスペイン語: Daniel José Ortega Saavedra, 1945年11月11日 -)は、ニカラグア政治家サンディニスタ民族解放戦線(FSLN)の指導者。1985年から1990年までニカラグアの大統領2006年11月のニカラグア大統領選挙に勝利し、16年ぶりに大統領に再選、2007年1月に就任している。

経歴[編集]

革命前[編集]

ラ・リベルタ市出身。法学専攻で中米大学を卒業。アナスタシオ・ソモサ・ガルシアの統治時代の政権打倒に賛成し、革命学生戦線の一員となる。1963年、サンディニスタ民族解放戦線(FSLN)に加入し、1965年から学生運動の全権代表として同戦線の指導部に入った。

1967年から1974年までFSLN内の第三の道派として活動し、反政府左翼活動で逮捕、拘留された。FSLNの作戦により釈放されると仲間と共にキューバに亡命し、軍事訓練を受けた。帰国後、第一次ニカラグア内戦では1975年まで1976年にFSLNの北部戦線部隊を指揮し、1977年から1979年までコスタリカ国境付近の南部戦線部隊を指揮した。

国家再建暫定民主政府指導者会議議員[編集]

1979年7月18日ニカラグア革命によって、親米アナスタシオ・ソモサ・デバイレ政権が打倒され、40年以上続いたソモサ独裁政権が崩壊した後、国家再建暫定民主政府指導者会議に入る。当初革命政府は非同盟混合経済複数政党制を三本の柱とした体制だった。政権に協力的なブルジョワ層の支持を得て、広大な農地を所有していたソモサ家の土地を接収し、農地改革を行った。また、教育にも関心を払い、ブラジルパウロ・フレイレの教育理論を取り入れた識字教育により、ニカラグアの識字率は劇的に改善した。

しかし、1980年にFSLN政権を敵視したロナルド・レーガンアメリカ合衆国大統領に就任すると、ニカラグアを「西半球のガン」と呼んで憚らなかったレーガンは旧ソモサ軍(国家警備隊)の兵士や傭兵を資金援助してCIAコントラを結成させ、コントラ戦争を強い、さらには経済制裁と併せて港湾の機雷封鎖や爆撃を繰り返した。

第一次オルテガ政権[編集]

1984年11月4日の大統領選挙にて、有効投票の67.0%の得票により、国民の支持を受けて当選し、1985年1月10日から1990年4月25日まで、ニカラグア共和国大統領を勤めた。この選挙では徴兵制導入(コントラへの対処のため)への反対や、アメリカ合衆国ではなくコントラとの直接対話を掲げた野党の内、最大野党のニカラグア民主主義調整委員会キリスト教社会党社会民主党立憲自由党の連合)とニカラグア民主運動の4党がボイコットし、白紙投票、棄権票を含めると実質的な国民の支持は47.4%の信任に留まったものの[1]、ニカラグアにも民主的選挙による合法体制が成立し、翌1985年1月10日に副大統領のセルヒオ・ラミレス、国防大臣のウンベルト・オルテガと共に入閣した。

この第一次オルテガ政権で、国内総生産(GNP)の40%以上を占めたソモサ一家の財産をはじめとする私有財産の大規模な国有化が行われ、1977年に国内総生産比15%だった国有部門は1980年には34%に拡大した[2]。反対者は秘密警察を通じて徹底的に弾圧(誘拐・拷問・投獄など)された[要出典]。この政策は多くの知識人・富裕層をロサンゼルスマイアミに亡命させることになり、第一次ニカラグア内戦コントラ戦争による被害や、FSLN政権を敵視したレーガン大統領によるアメリカ合衆国経済制裁と併せて、ソモサ時代に国民の60%以上が貧困層でありながらも、マクロ経済では中央アメリカ一の繁栄を誇ったニカラグア経済は壊滅的な打撃を受けた(1990年のGDPはソモサ政権末期の30%以下)。その後10年以上も欧米OECD諸国が何百億円ものODAをつぎ込んだが、ニカラグアは2008年現在も1980年のGDPのレベルにまで到達できていない。

内戦は激しさを増し、それにつれてFSLN政権の左傾化は進んだ。激減したアメリカ合衆国の援助に代わってキューバやソビエト連邦の援助もあり、特にキューバは医療や識字教育への支援などに大きな役割を果たしたものの、結局は両国とも冷戦の範囲内でアメリカ合衆国を刺激しないような援助政策に留まり、ソ連からはT-55戦車は輸出されたものの、ミグ戦闘機の輸出などは結局行われなかった。

内戦中にニカラグア経済は壊滅的な状態となり、ハイパーインフレーションが進行する中でオルテガをはじめとするFSLN幹部は、苦しむ民衆を横目に旧ソモサ派から接収した豪邸に住み、高級外車を乗り回すなど腐敗の様相を帯び[要出典]、さらにはアメリカ合衆国による敵視政策や、左傾化政策により、国民の支持も徐々に失っていった。そのため、当初拒否していたコントラではなく、コントラの背後にいたアメリカ合衆国との直接対話を諦め、ニカラグア内戦の収拾を図った。コスタリカオスカル・アリアス・サンチェス大統領やラテンアメリカ諸国によるコンタドーラ・グループの仲介もあり、1987年8月の中米和平合意に調印し、1988年にニカラグア政府とコントラの間で休戦協定が結ばれた。第一次ニカラグア内戦により4万人が、第二次ニカラグア内戦により5万から6万人が死亡したと見られ、数十万人が国外に亡命した。

内戦が終結した後、1990年2月に国際連合の監視下で行われた大統領選挙で、野党連合(UNO)のビオレータ・チャモロに10ポイントの大差で敗れ、選挙結果を受け入れてFSLN内部のクーデターの動きを制し、辞任した。

FSLN書記長[編集]

チャモロ政権ではFSLN書記長として、弟のウンベルト・オルテガと共にチャモロ政権によるサンディニスタ人民軍の軍縮や、蜂起する旧ソモサ、サンディニスタ両派のゲリラとの和解に協力する一方、奢侈と腐敗が進行した。

1996年の大統領選挙に出馬したが、自由同盟(AL)のアルノルド・アレマンに敗れ落選した。1998年にオルテガのセクハラが養女によって告発され、スキャンダルとなってFSLNの腐敗は進行し、FSLNは与党との取引により、ニカラグアの腐敗政治を担う政党勢力の一角となり下がり、党内からサンディニスタ革新運動(MRS)が分裂した。2001年の大統領選挙にも出馬したが、旧ソモサ派の流れを継ぐ立憲自由党(PLC)のエンリケ・ボラーニョスに敗れ、落選した。

この間、FSLNはイデオロギー上の立場を修正し、政治的・経済的過激主義を放棄して、国民の70%を占める貧困層中で支持を集めた。

第二次オルテガ政権[編集]

2006年11月5日に行われた大統領選挙で当選し、2007年1月10日(現地時間)に就任。選挙前に行われた法改正(国民の過半数の信任を得なくても、第一候補であれば当選できる)と、強力なライバルであったエルティ・レウィテスの謎の急死、人工妊娠中絶容認などカトリック教会とFSLNの融和などに助けられとはいえ、34-36%の支持率での辛勝であった。当選後は大統領官邸に居住せず、FSLN党本部から指揮を執っている。2011年11月に行われた大統領選挙でも、対立候補に大差をつけて再選を果たした[3]

就任後はかつてのような性急な国有化政策を行わない一方で、キューバのラウル・カストロ政権やベネズエラウーゴ・チャベス政権やボリビアエボ・モラレス政権、エクアドルラファエル・コレア政権などラテンアメリカ域内の左派政権や、ロシアイランに接近している。2008年3月のコロンビアとエクアドルの対立では、ベネズエラ、エクアドルと共にコロンビアとの国交断絶を宣言し、同年8月の南オセチア紛争の際には、9月にロシアに続いて世界で二番目にアブハジア南オセチアの主権を承認し、明確な反米色と親露路線を打ち出した。第一次オルテガ政権時代に中華人民共和国との国交樹立のために断交した中華民国台湾)との国交はチャモロ政権で回復したが[4]、オルテガはこれを維持する意向を示している一方でニカラグア運河建設などで中華人民共和国の支援を受けている[5]

パーソナル[編集]

将官の階級と革命司令官の名誉称号を有する。内戦中は眼鏡をかけていた。

  • 1980年9月- サンディニスタ人民革命監督国家委員会委員。
  • 1981年-1985年 国家再建政府指導者会議の調整官。
  • 1985年-1991年 サンディニスタ民族解放戦線国家指導部執行委員会の調整官。
  • 1991年-サンディニスタ民族解放戦線書記長。

脚註[編集]

  1. ^ 後藤政子『新現代のラテンアメリカ』時事通信社 1993 pp.297-298
  2. ^ 後藤政子『新現代のラテンアメリカ』時事通信社 1993 p.292
  3. ^ “ニカラグア大統領選 オルテガ氏、大差で再選 国会議席3分の2へ”. しんぶん赤旗. (2011年11月9日). http://www.jcp.or.jp/akahata/aik11/2011-11-09/2011110907_01_1.html 2012年9月17日閲覧。 
  4. ^ “Taiwan President to Stop in US”. ワシントン・ポスト. (2007年1月5日). http://www.washingtonpost.com/wp-dyn/content/article/2007/01/05/AR2007010502229.html 2017年6月19日閲覧。 
  5. ^ 郵便学者・内藤陽介のブログ  世界の国々:ニカラグア

参考文献[編集]

  • 伊藤千尋『燃える中南米』岩波書店(岩波新書) 1988/05 (ISBN 4-00-430023-1
  • 滝本道生『中米ゲリラ戦争』毎日新聞社 1988/10 (ISBN 4-620-30653-3))
  • 後藤政子『新現代のラテンアメリカ』時事通信社 1993(ISBN 4788793083
  • 田中高(編著)『エルサルバドル、ホンジュラス、ニカラグアを知るための45章』明石書店 2004(ISBN 4-7503-1962-7)

関連項目[編集]

外部リンク[編集]

公職
先代:
エンリケ・ボラーニョス
ニカラグアの旗 ニカラグア共和国大統領
第48代:2007年 -
次代:
(現職)
先代:
(国家再建会議)
ニカラグアの旗 ニカラグア共和国大統領
第44代:1985年 - 1990年
次代:
ビオレタ・チャモロ
先代:
フランシスコ・ウルクージョ英語版
(大統領代行)
ニカラグアの旗 ニカラグア共和国
国家再建会議議員

1979年 - 1985年
次代:
(廃止)