ジョージ・ヴィリアーズ (初代バッキンガム公)

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初代バッキンガム公爵
ジョージ・ウィリアーズ
George Villiers
1st Duke of Buckingham
GeorgeVilliers.jpg
ルーベンス画のバッキンガム公
生年月日 1592年8月28日
出生地 イングランド王国の旗 イングランド王国レスターシャーブルックズビー英語版
没年月日 (1628-08-23) 1628年8月23日(35歳没)
死没地 イングランド王国の旗 イングランド王国ハンプシャーポーツマス
出身校 ビレスデン・スクール
称号 初代バッキンガム公爵ガーター勲章勲爵士(KG)、枢密顧問官(PC)
配偶者 キャサリン英語版

在任期間 1616年 - 1628年
国王 ジェームズ1世
チャールズ1世

在任期間 1619年 - 1628年
国王 ジェームズ1世
チャールズ1世

イングランドの旗 貴族院議員
在任期間 1616年 - 1628年
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初代バッキンガム公ジョージ・ヴィリアーズ: George Villiers, 1st Duke of Buckingham, KG, PC1592年8月28日 - 1628年8月23日)は、イングランドの政治家、貴族。

ステュアート朝初代国王ジェームズ1世と第2代国王チャールズ1世の2代にわたって重臣として仕え、イングランドの国政を主導、海軍卿(在職:1619年 - 1628年)等の官職を歴任した。はじめ議会プロテスタント勢力から人気のある政治家だったが、三十年戦争での敗戦が続いたため、批判を受けることが多くなり、1628年には議会から突き付けられた「権利の請願」を受け入れることを余儀なくされ、課税には議会の同意が必要であることや臣民の自由を侵害してはならないことを政府として再確認した。同年に暗殺された。

生涯[編集]

生い立ち[編集]

1592年8月28日、ジョージ・ヴィリアーズ英語版と2番目の妻メアリー英語版(旧姓ボーモント)の三男としてレスターシャーブルックズビー英語版に生まれる[1][2]ヴィリアーズ家フランス系中産階級だった[3]

13歳の時に父が死去した[2]。母は幼少期からジョージを廷臣にしたがっており、そのための修行でフランスへ留学させた。フランスには3年間留学したが、フランス語を完全にマスターできなかったほど学力では劣っていた。しかしこの留学中に社交術や乗馬、ダンス、フェンシングの腕前を上げることができた[4]

急速な昇進[編集]

イングランド国王ジェームズ1世

1612年にイングランドへ帰国し、1614年夏に国王ジェームズ1世の引見を受けた[4]。それをきっかけに王の寵愛を得るようになり、以降酌人英語版として宮仕えするようになった[2]1615年には寝室侍従長英語版に任じられるとともにナイトに叙される。1616年には北トレントの巡回裁判官英語版(在職:1616年 - 1619年)、主馬頭英語版(在職:1616年 - 1628年)やバッキンガムシャー知事英語版(在職:1616年 - 1628年)などの官職を得る[1]。また同年、ガーター勲章を受勲し、ヴィリアーズ子爵とワッドン男爵に叙された[5][1]。1617年には枢密顧問官(PC)に列し、バッキンガム伯爵に叙される[1]1618年にはバッキンガム侯爵に叙される[5]1619年には海軍卿や南トレントの巡回裁判官となる[1]。以降、海軍卿を主任務としつつ、内政や外交などあらゆる分野に影響力を及ぼすようになった[5]

このヴィリアーズの短期間での急速な昇進の背景には君寵だけでなく、カンタベリー大主教ジョージ・アボット英語版国王秘書長官英語版ラルフ・ウィンウッド英語版侍従長英語版第3代ペンブルック伯ウィリアム・ハーバートら宮中内の改革派(プロテスタント強硬派)による後押しがあった。大蔵卿英語版初代ソールズベリー伯爵ロバート・セシルが死去したのち、宮廷は親カトリック・親スペインのハワード家が取り仕切っており、国王寵臣初代サマセット伯ロバート・カーもハワード派だったため、プロテスタント派はこれを警戒してヴィリアーズをサマセット伯に代わる国王寵臣に仕立て上げたがっていた[6]。また1610年に財政改革案「大契約」が議会から否決されて以降、王庫の財政は危機的状況に瀕していた。1614年に議会が再招集されたが、国王秘書長官ウィンウッドが議会対策に不慣れなうえ、政府内でも財政改革案について意見が分裂していたため、政府と議会の和解が難しい情勢になっていた。そうした中でジェームズ1世が、議会からの財政援助をあきらめて持参金だけを目当てにカトリックのスペイン王室との婚姻に動く恐れがあり、ヴィリアーズにはそれを阻止する役割も期待されていた[7]

ヴィリアーズはその期待に十分にこたえ、国王を大蔵卿初代サフォーク伯トマス・ハワードら親スペイン派から引き離したばかりか、1618年にはサフォーク伯を失脚にまで追い込んでいる[3]

スペイン渡航[編集]

ジェームズ1世は、ヨーロッパ大陸で発生した三十年戦争への参戦に消極的だったが、スペインに占領されたプファルツの原状回復には前向きだった。しかし1621年に召集された議会はその費用を認めなかったので実施は不可能だった。そんな中皇太子チャールズ(後のチャールズ1世)は自分とスペイン王女マリアの婚約話を進めることで、持参金としてプファルツ回復をスペイン王フェリペ3世に認めさせることを考えた。バッキンガム侯も次期国王への影響力を確保しようという意図からチャールズのこの構想を支持した[8]

1623年2月、チャールズ皇太子とバッキンガム侯は国王に相談することもなく独断でスペイン・マドリードへ渡った[9]。2人は半年間マドリードに滞在してスペインと交渉にあたったが、スペイン側からはチャールズ皇太子のカトリック改宗とイングランドの反カトリック法撤廃を要求されたため、交渉は頓挫した[5]。プファルツ回復を持参金とする確約も得られず[10]、2人は何の成果の無いまま9月に帰国の途に就いた。しかしこのスペイン訪問でバッキンガム公はスペインの狙いがイングランドとの交渉を長引かせてイングランドを三十年戦争の枠外に置いておくことだと見抜いた。そのためこれ以降のバッキンガムは反スペイン派の筆頭に転じた[3]

スペイン滞在中の1623年5月にバッキンガム公爵に叙されている。

議会で人気が高まる[編集]

1624年2月に召集された議会において、バッキンガム公は反スペイン派の英雄として称賛された[5][10]。議会は用途をスペインとの戦争に限るという条件付きで30万ポンドの課税を許可した。ただ議会の多数派はエリザベス時代と同じく対カトリック戦争を想定し、戦術も私掠船による海上決戦を志向したのに対し、バッキンガム公はあくまでプファルツ回復とハプスブルク君主国拡大阻止のみを目的とし、そのためにはプロテスタント諸国だけではなくカトリックのフランスとも同盟を結ぶ必要があると考えていた[11]

もっとも今会期の議会の最大の焦点は外交問題ではなく、大蔵卿ミドルセックス伯爵英語版ライオネル・クランフィールド英語版の財政改革への批判であった。宮廷内の最大派閥の指導者となっていたバッキンガム公も今や既得権益を守る立場に転じ、財政改革に否定的になっていたため、議会のミドルセックス伯爵糾弾に加わった。国王はミドルセックス伯爵を擁護したが、それもむなしく、伯爵は収賄罪を犯したとされてロンドン塔へ幽閉され、失脚した[12]。これについて国王は「スティーニー(バッキンガム公の渾名)よ、お前は何と言う馬鹿者だ。お前はすぐにこの愚行を後悔する時が来るだろう。人気に溺れてお前は将来自分を叩く鞭を自分でこしらえたのだ」とつぶやいたという[5]

フランスとの同盟[編集]

バッキンガム公の肖像画(1625年、ピーテル・パウル・ルーベンス画)

1624年中にチャールズ皇太子とフランス王女(アンリ4世の娘でルイ13世の妹)アンリエットの婚約を成立させ、フランスがスペインとの戦争に協力する見返りにイングランドの反カトリック法を緩和することを約束した[13]

ところが、反スペイン機運の高まるイングランドでは逆にカトリックを弾圧すべきとの意見が強まっていたため、反カトリック法緩和を議会に認めさせるのは不可能であった。バッキンガム公は止む無くチャールズの家庭内だけでカトリックに寛容な態度を取るということで妥協を図ろうとしたが、これをきっかけに二枚舌と批判されるようになり、バッキンガム公人気が低下しはじめた。おまけに1624年末に英仏軍事同盟の締結に伴って大陸へ派遣された遠征軍も疫病で自滅したため英仏同盟も不安定になっていった[14]

ジェームズ1世が亡くなりチャールズ1世が即位した2ヶ月後の1625年5月にバッキンガム公はアンリエットを迎えに訪仏したが、フランス王ルイ13世はもはや英仏同盟に乗り気ではなくなっていたらしく、祝典を欠席している。またこの訪仏の際にバッキンガム公は、ルイ13世の不在をいいことにフランス王妃アンヌと恋愛騒動を起こして問題となった[15]

議会での人気の急落[編集]

イングランド王チャールズ1世

1625年3月に即位したチャールズ1世のもとでも寵臣として権勢をふるい続けたが、同年6月に召集された議会では税制問題やプファルツ奪還作戦の失敗、国王がアルミニウス主義[注釈 1]を奉じていることなどについて宮廷(特にその中心人物であるバッキンガム公)批判が高まった[18]

バッキンガム公はそうした批判を懐柔しようと、10月に議会が志向するスペインとの海上決戦を目指してカディス遠征を実施したが敗北した。これはバッキンガム公の無能さというより、軍艦の技術が高くなりすぎて武装商船では対抗できなくなっていたことが原因だった。つまり議会が志向する海上決戦の構想自体がもともと無理があったのだが、議会はそれを斟酌せず、バッキンガム公批判を強めた[19]

また当時のイングランドではフランスがイングランドから借りた軍艦をユグノー(フランスのプロテスタント)弾圧に使ったために反仏世論が高まっていた。国王とバッキンガム公もフランスがスペインと積極的に戦おうとしないことに苛立っていたので1625年末に至って外交方針を転換し、イングランドがプロテスタント同盟の盟主となる路線、すなわちオランダと同盟を結んでフランスのユグノーを援助することを決定した[20]

バッキンガム公の肖像画(1625年、ダニエル・デュモンスティアー英語版画)。

この路線はプロテスタント強硬論に立つ議会多数派が従来から主張していたものであるから、国王としては当然議会からの支持が得られるものと踏んで、対スペイン戦争の財政援助を求めるべく議会を招集した。ところが国王とバッキンガム公の予想に反し、翌1626年2月に召集された議会は反バッキンガム公派の議員が多数選出された。反バッキンガム公ムードの高まりの中、かつてはバッキンガム公支持派だったサー・ジョン・エリオット英語版議員の主導でバッキンガム公の罷免を求める弾劾が行われた。エリオットはその中で「バッキンガム公の高慢で広範囲にわたる圧政は人間ばかりではなく、法や国家にも及んでいる。陛下の意向、公にされる指令、制定法、枢密院会議の決定、法廷での判決、そのどれもがバッキンガム公の意志に従属させられている」と恣意的統治を批判し、またバッキンガム公が権力濫用して公金を横領しているとして「陛下にとっては財産を湯水のごとく使い果たす国庫に巣くう害虫であり、国にとっては不正を優先させ、善行を妨げる滋養分を吸い取る蛾のような存在」と罵倒した[21][22]。これに対してバッキンガム公は「私の心が国への奉仕から離れているとしたら、私は最大の忘恩の徒でありましょう」と弁明した[23]

こうした議会での批判の高まりにもかかわらず、国王はバッキンガム公を擁護し続けた。国王は対スペイン戦争の補助金をあきらめ、バッキンガム公弾劾が貴族院で判決される前に議会を解散した[24]。結局、6月までに庶民院から認められた特別税は20万ポンドで、必要額の三分の一にすぎなかった[25]

また議会開会中、国王とバッキンガム公は議会運営を円滑にしようとエドワード・コークトマス・ウェントワースら反政府派の代表的な庶民院議員を庶民院議員との兼職を禁じられているシェリフに任じることで庶民院から排除したために反発を招いた。貴族院においても第21代アランデル伯爵トマス・ハワードや初代ブリストル伯爵英語版ジョン・ディグビー英語版らを議会活動から遠ざける処置をとったので、貴族院の怒りもかった。補助金を得られないばかりか、国王と国民代表の距離が広がっていることを顕在化させることになった[26]

アルミニウス主義偏重[編集]

バッキンガム公

またバッキンガム公はアルミニウス主義への接近もやめようとはしなかった。アルミニウス主義は1563年にイングランド国教会が採択したカルヴァン主義の予定説(救いは人間の行いに関係なく、神の一方的意思によって、しかも世界創造の時点で予定されていた者にだけ与えられるとする説)を批判して人間の意志を強調したプロテスタントの一宗派だが、聖職者の権限は直接神に由来するとし、また聖礼典など儀式の重要性を説いて教会を外面的に美化してその威厳を示すことに努めたため、強硬なプロテスタント・カルヴァン主義者であるピューリタンたちからは、教義と儀式重視によってカトリック回帰を狙っていると批判されていた[27]

1626年に私邸ヨーク・ハウス英語版でアルミニウス主義者とカルヴァン主義者の会談を設定したが、この席上、初代セイ=シール子爵英語版ウィリアム・ファインズ英語版とクックからドルトムントの宗教会議で宣言されたカルヴァン主義をイングランド国教会に受け入れるよう求められたのに対して、バッキンガム公は「否、否。そんなものは必要ない。我々はそんな会議とは無関係だ」と答えたという。さらにバッキンガム公はアルミニウス主義者と目されていた聖職者を積極的に国教会の要職に登用した。とりわけウィリアム・ロードを重用し、自らの宗教政策の顧問とするようになった。バッキンガム公のそうした態度はピューリタンから強い憎しみを招くことになった[28]

ラ・ロシェル包囲戦の敗北[編集]

1627年3月にフランスがスペインと和解し、国内のユグノー弾圧を強化するようになった。これに反発したバッキンガム公はフランス摂政リシュリューの失脚を狙って同年6月からフランスの都市ラ・ロシェルのプロテスタントを支援すべく出兵したが、フランス軍にサンマルタン要塞に籠城され、イングランド軍はそこを陥落させられず、11月に撤退に追い込まれた(ラ・ロシェル包囲戦)。この惨敗によりバッキンガム公批判が一層激しくなった。庶民院反政府派のウェントワースはこの敗戦について「これほどの恥辱はかつてなかった」と批判したが、国王は相変わらずバッキンガム公を擁護し続けた[29]

「権利の請願」[編集]

財政は苦しくなる一方で1627年末にはこれ以上の戦争継続が困難となった。政府は王領地を売却して債務を整理しつつ、強制借用金[注釈 2]徴収と軍隊宿泊強制で乗り切ろうとしたが、この処置は「議会の同意のない私有財産権侵害」と批判されて反対運動を巻き起こし、議会の招集が求められた[31]

その間もラ・ロシェルのユグノーは危機的状況に陥っており、イングランドの大規模な援軍がなければ崩壊は避けられない状況だった。こうした中、バッキンガム公も枢密院多数派も反政府派と和解して議会を招集する以外に道はないことを国王に進言した[32]

一方反政府派は国王による強制借用金に反対してその支払いを拒絶する運動を開始していた。政府は運動の中心人物らを逮捕したが、裁判所は裁判の中で国王による強制借用金を合法とは認めなかった。これに不満を抱いた法務次官が判決を勝手に改竄して裁判所が強制借用金を合法と判決したかのように見せかけた[33]

1628年3月に召集された議会は、法務次官による判決の改竄に驚愕し、「イングランド人の自由が恣意的課税・恣意的逮捕によって脅かされようとしている」という意識を強めるに至り、改めて臣民の自由を確認する法律を制定する準備を開始した。財政的困窮を深める国王とバッキンガム公としては議会と対立するわけにはいかず、特別税を議会が承認することと引き換えに議会が求める「権利の請願」を認めることとなった。「権利の請願」は、議会の同意なき課税の禁止、恣意的逮捕からの臣民の自由、軍隊強制宿泊の禁止、民間人への軍法適用禁止などを内容とする。内容的にはすでに明文化されていた臣民の権利の再確認に過ぎなかったが、臣民からは広く歓迎され、ロンドンではお祭り騒ぎになったという[34][35]

さらに庶民院は「災いと危険の原因はバッキンガム公への権力集中と濫用にある」としてバッキンガム公に対する抗議書の作成を開始したが、国王はバッキンガム公を護るためにその前に議会を解散した[36]

暗殺[編集]

死去したバッキンガム公を描いた絵画(1855年オーガスタス・エッグ英語版画)

「権利の請願」を認めたことで議会から多額の補助金を手に入れたバッキンガム公は再びラ・ロシェル遠征を開始しようとしたが[37]、1628年8月23日にポーツマスで遠征準備中にイングランド軍将校ジョン・フェルトン英語版[注釈 3]に暗殺された。バッキンガム公の遺体はウェストミンスター寺院に埋葬された[1]。フェルトンは11月29日にタイバーン絞首刑に処された。

バッキンガム公暗殺のニュースはロンドンの民衆から歓喜の声をもって迎えられたという[36]。バッキンガム公は悪評にまみれていたが、現実政治家の面があり、晩年には戦争反対派のリチャード・ウェストン英語版を大蔵卿に任命したり、アボット、アランデル伯、ウェントワースなどにも和解の意志を示していた。また宗教政策もカルヴァン主義との関係を回復させて柔軟路線に改めようとしつつあった[39]

バッキンガム公の死後、チャールズ1世の周りから現実政治家は消えた。チャールズ1世は、1629年にフランス、1630年にスペインと和睦して三十年戦争から離脱したが、ロードやウェントワース(初代ストラフォード伯爵に叙された)といった側近に支えられて、1629年から1640年にかけて議会を全く招集しないという親政体制を敷いた。この親政体制は「ロード=ストラフォード体制」と呼ばれ、イギリス史上とりわけ悪名高い体制である[40]。1640年から再び議会が招集されるようになり、親政には終止符が打たれたが、そのころには国王と議会の亀裂は根深くなっており、ピューリタン革命を経て王政廃止を招来することになる[41]

栄典[編集]

爵位[編集]

1616年8月27日に以下の2つの爵位を新規に叙された[1][42]

  • バッキンガム州におけるワッドンの初代ワッドン男爵 (1st Baron Whaddon, of Whaddon in the County of Buckingham)
    (勅許状によるイングランド貴族爵位)
  • 初代ヴィリアーズ子爵 (1st Viscount Villiers)
    (勅許状によるイングランド貴族爵位)

1617年1月5日に以下の1つの爵位を新規に叙された[1][42]

1617年3月14日に上記3つの爵位について自身の男系男子に次いで、同母兄弟ジョン・ヴィリアーズ英語版クリストファー・ヴィリアーズ英語版の男系男子への継承が認められる[42]

1618年1月1日に以下の1つの爵位を新規に叙された[1][42]

  • 初代バッキンガム侯爵 (1st Marquess of Buckingham)
    (勅許状によるイングランド貴族爵位)

1623年5月18日に以下の2つの爵位を新規に叙された[1][42]

1627年8月27日にバッキンガム公爵位とコヴェントリー伯爵位について男系男子に次いで、娘メアリー・ヴィリアーズ英語版の男系男子に継承が認められる[42]

勲章[編集]

名誉職その他[編集]


家族[編集]

バッキンガム公と家族を描いた絵画(ヘラルト・ファン・ホントホルスト画)

1620年に第6代ラトランド伯爵フランシス・マナーズ英語版の娘キャサリン・マナーズ英語版と結婚し、彼女との間に以下の4子を儲けた[1]

ヴィリアーズ家はバッキンガム公以外にも栄達した人物が多く、同母弟クリストファーはアングルシー伯に叙任、異母兄エドワードの孫で又姪に当たるバーバラ・パーマーはチャールズ2世の愛人の1人として権勢を振るいクリーヴランド公に叙爵された。バーバラの従弟エドワードはジャージー伯に叙任、エドワードの妹エリザベスはチャールズ2世の甥ウィリアム3世の愛人となった末に遠縁のオークニー伯ジョージ・ダグラス=ハミルトン(同母姉スーザンの曾孫)と結婚、ジョージは後にイギリスの陸軍元帥になった。


地名に見るヴィリヤーズ[編集]

1620年代、ヴィリアーズはヨーク・ハウスという邸宅を所有していた。この建物はイングランド内戦後も残り、長男で同名の第2代バッキンガム公ジョージ・ヴィリアーズにより1672年に3万ポンドで売り払われた。この周辺には、バッキンガム公にちなんでジョージ通り、ヴィリアーズ通り、デューク通り、バッキンガム通りという地名が残った。

人物・評価[編集]

歴史家のバッキンガム公の評価はことごとく低い。19世紀の歴史家ガードナーは「我が国における、いや世界中を見渡しても、最も無能な政治家の一人として位置づけなければならない」と言い切る[43]。しかしバッキンガム公が有力貴族との血のつながりもなく、一介のジェントリの子弟から公爵まで成り上がり、度重なる失政や議会の批判にもかかわらず、約10年に渡って失脚することなく権力の座にあり続けた事実は、彼が全く無能な政治家だったわけではないことを証明している。君寵を得ても短期間で失脚した政治家は大勢いるからである[44]

バッキンガム公は自らの地位が国王の寵愛に依存していることを自覚しており、国王の意向や好み、願望を鋭い嗅覚で嗅ぎ取るよう努め、国王と寝ることもいとわなかった。エリザベスの寵臣第2代エセックス伯ロバート・デヴァルーのように王の意志に逆らって機嫌を損ねるような真似は決してしなかった[45]。またバッキンガム公は自分を守るための党派を形成することを他の寵臣たち以上の規模で行うことにも成功した。そこにも彼の政治家としての力量が見える[43]。ただバッキンガム公のこうした党派的行動は恩恵に預かることのできる者とできない者、中央と地方の亀裂を深め、それが革命への一因にもなったとみられている[43]

フィクションの中のバッキンガム公[編集]


脚注[編集]

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注釈[編集]

  1. ^ アルミニウス主義とは宮廷に支持者が多かったプロテスタントの宗派のひとつ。ピューリタンはアルミニウス主義のことを「カトリックへの接近を図っている」として批判していた[16]。エリザベス時代以来、イングランド国教会を支えているとしてピューリタンから支持されていたのはカルヴァン主義であったが、チャールズ1世は即位に際してカルヴァン主義者であることを明確にしなかったうえ、議会からアルミニウス主義と批判されていた聖職者をチャプレンにしたことから議会は国王をアルミニウス主義者と疑っていた[17]
  2. ^ テューダー朝と前期ステュアート朝の国王が富裕な臣民に課した強制的な借用金のこと。借用金なので返済するのが原則だが、次第に踏み倒しが多くなり、実質的に課税と変わらなくなってきたので「議会の同意なき課税」と見做されて批判が高まっていた[30]
  3. ^ フェルトンはピューリタンで、処遇に不満を持っている将校だった[38][16]

出典[編集]

  1. ^ a b c d e f g h i j k l m Lundy, Darryl. “George Villiers, 1st Duke of Buckingham” (英語). thepeerage.com. 2014年4月8日閲覧。
  2. ^ a b c 世界伝記大事典 世界編7巻(1981) p.343
  3. ^ a b c 今井(1990) p.163
  4. ^ a b 塚田富治 2001, p. 53.
  5. ^ a b c d e f 世界伝記大事典 世界編7巻(1981) p.344
  6. ^ 塚田富治 2001, p. 54.
  7. ^ 今井(1990) p.158-159/163
  8. ^ 今井(1990) p.160-167
  9. ^ 今井(1990) p.167
  10. ^ a b 今井(1990) p.168
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  12. ^ 今井(1990) p.169-170
  13. ^ 今井(1990) p.170
  14. ^ 今井(1990) p.170-171
  15. ^ 長谷川(2002) p.80
  16. ^ a b トレヴェリアン(1974) p.122
  17. ^ 塚田富治 2001, p. 71.
  18. ^ 今井(1990) p.171-173
  19. ^ 今井(1990) p.173-174
  20. ^ 今井(1990) p.174
  21. ^ 今井(1990) p.175
  22. ^ 塚田富治 2001, p. 73.
  23. ^ 塚田富治 2001, p. 76.
  24. ^ 塚田富治 2001, p. 77.
  25. ^ 今井(1990) p.175-176
  26. ^ 今井(1990) p.174-176
  27. ^ 塚田富治 2001, p. 71-72.
  28. ^ 塚田富治 2001, p. 72.
  29. ^ 今井(1990) p.176-177
  30. ^ 松村赳 & 富田虎男 2000, p. 4.
  31. ^ 今井(1990) p.177
  32. ^ 今井(1990) p.177
  33. ^ 今井(1990) p.177-178
  34. ^ 今井(1990) p.177-179
  35. ^ トレヴェリアン(1974) p.121
  36. ^ a b 塚田富治 2001, p. 78.
  37. ^ 世界伝記大事典 世界編7巻(1981) p.345
  38. ^ 今井(1990) p.179
  39. ^ 今井(1990) p.179
  40. ^ 塚田富治 2001, p. 86.
  41. ^ 今井(1990) p.179/215
  42. ^ a b c d e f Heraldic Media Limited. “Buckingham, Duke of (E, 1623 - 1687)” (英語). Cracroft's Peerage The Complete Guide to the British Peerage & Baronetage. 2017年9月17日閲覧。
  43. ^ a b c 塚田富治 2001, p. 79.
  44. ^ 塚田富治 2001, p. 52.
  45. ^ 塚田富治 2001, p. 78-79.
  46. ^ IMDb. “The Three Musketeers (1973)” (英語). IMDb. 2014年4月19日閲覧。
  47. ^ IMDb. “The Three Musketeers (2011)” (英語). IMDb. 2014年4月19日閲覧。

参考文献[編集]

関連項目[編集]

公職
先代:
第4代ウスター伯爵
イングランドの旗 主馬頭英語版
1616年 - 1628年
次代:
初代ホランド伯爵英語版
先代:
初代エレズミア男爵
Flag of Buckinghamshire.svg バッキンガムシャー知事英語版
1616年 - 1628年
次代:
初代モンゴメリー伯爵英語版
先代:
サー・フランシス・フォーテスキュー
Flag of Buckinghamshire.svg バッキンガムシャー首席治安判事英語版
1617年 - 1628年
次代:
初代ブリッジウォーター伯爵英語版
先代:
初代ノッティンガム伯爵
イングランドの旗 海軍卿
1619年 - 1628年
次代:
委員会制に変更
(第一卿:初代ポートランド伯爵英語版
先代:
初代ウォルトン男爵英語版
Flag of Kent.svg ケント知事英語版
1620年
次代:
第2代レノックス公爵英語版
先代:
委員会制
FlagOfMiddlesex.PNG ミドルセックス知事英語版
1622年 - 1628年
次代:
第4代ドーセット伯爵英語版
初代ホランド伯爵英語版
先代:
初代エクセター伯爵
Flag of Rutland.svg ラトランド首席治安判事英語版
1623年 - 1628年
次代:
ノエル卿
名誉職
先代:
第11代ズーチ男爵英語版
Lord Warden Cinque Ports (Lord Boyce).svg 五港長官英語版
1625年 - 1628年
次代:
第2代サフォーク伯爵英語版
司法職
先代:
第7代シュルーズベリー伯爵英語版
巡回裁判官英語版
北トレント

1616年 - 1619年
次代:
第6代ラトランド伯爵英語版
先代:
初代ノッティンガム伯爵
巡回裁判官
南トレント

1625年 - 1628年
次代:
第3代ペンブルック伯爵
イングランドの爵位
先代:
創設
Coat of arms Sir George Villiers, 1st Duke of Buckingham, KG.png 初代バッキンガム公爵
1623年 - 1628年
次代:
ジョージ・ヴィリアーズ
先代:
創設
Coat of arms Sir George Villiers, 1st Duke of Buckingham, KG.png 初代バッキンガム侯爵
1618年 - 1628年
先代:
創設
Coat of arms Sir George Villiers, 1st Duke of Buckingham, KG.png 初代バッキンガム伯爵
1617年 - 1628年
先代:
創設
Coat of arms Sir George Villiers, 1st Duke of Buckingham, KG.png 初代ヴィリアーズ子爵
1616年 - 1628年