岸田久吉

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岸田 久吉(きしだ きゅうきち、1888年8月25日 - 1968年10月4日)は、日本動物学者

人物

岸田久吉は日本動物学者である。

研究の範囲は哺乳類から節足動物にいたる広範な分野におよび、晩年にいたるまで研究を続けた。

ほ乳類については「樺太の哺乳動物相」(鳥獣集報. vol. 17 no. 2: 241-282. 1960年3月)、「千島群島の哺乳動物相」(鳥獣集報. vol. 17 no. 2: 283-306. 1960年3月)などを発表している。哺乳類学者としては、エゾオオカミキタキツネエゾナキウサギホンシュウジカ等の命名をおこなっている[1]

農林技官として農業害虫やその駆除についても多くの貢献を残した。しかしそれ以上に、彼の関心は陸上節足動物の中で人の関心を持たれない分野に集中し、クモ目ダニ目ザトウムシなどの日本における先駆者である。クモに関しては、木村有香東北大学植物園(現・東北大学学術資源研究公開センター植物園)初代園長)が旧制第七高等学校造士館在学中に採集した、原始的な形態を持ち生きた化石として知られるキムラグモを正式に記載し、木村に献名したことでよく知られる。

岸田久吉が関係していた学会も多く、日本動物学会日本生物地理学会日本哺乳動物学会日本昆虫学会、応用動物学会、日本応用昆虫学会等の創立発起人あるいは評議員等の役員を兼任していた。また、「Lansania: Journal of Arachnology and Zoology」という雑誌をほとんどひとりで刊行していた[2]。「Lansania」には欠落している巻号も複数存在しており、その印刷の有無および2008年までに知られている刊行巻号(付録1)、収蔵館(付録2)、未発行の原稿(付録3)、が公表されている[3]

ただし、その業績には様々な問題もついて回っている。

家族

年譜

主として安田雅俊(2005-2009)の年表「台湾モグラ考: 岸田は何をみたのか」[4]年譜を骨格にして加筆・編集した

  • 1888年明治21年)8月25日京都府舞鶴(旧加佐郡舞鶴町、ただし舞鶴町の誕生は1889年明治22年)4月1日)に生まれる(Ono, 2005[5]
  • 1908年(明治41年):
    • 京都府師範学校本科第一部卒業
    • 京都府加佐郡八田尋常高等小学校教諭となる(遅くとも1915年大正4年)までに退職)
  • 1913年(大正2年):検定試験によって中等教員博物の免許を取得
  • 1915年(大正4年):秋田県大館中学校教諭(1918年(大正7年)まで)
  • 1915年(大正4年)11月:長男(享吉)誕生
  • 1918年(大正7年)1月:
    • 長女(田鶴子)誕生
    • 中学校教諭退職
  • 1920年(大正9年)
  • 1921年(大正10年):
    • 3月、次男(信吉)誕生。
    • 東京帝国大学理学部動物学科選科(指導教官は渡瀬庄三郎教授)卒業。
    • 農商務省[9]農事試験場西ヶ原)畜産課嘱託となる
  • 1922年(大正11年):
  • 1923年(大正12年):
  • 1924年大正13年)12月:大正13年度末の日本動物学会評議員会の席で、1923年大正12年)末に編集委員となった平岩馨邦が辞職を申し出たが入れられず、かわりに岸田久吉が勇退することになった。
    • 日本動物学会編集委員を辞任。同編集委員会は平岩馨邦、内田亨の2名体制になった。
    • 12月15日付「動物学雑誌」36(434)が発行され、「學會記事」で編集委員として平岩馨邦と内田亨の2名が記述されている[12]
  • 1925年(大正14年)
    • 4月1日:農商務省の廃止と農林省の発足。
    • 4月:三男(有吉)誕生。
  • 1929年昭和4年)9月16日Lansania:1巻1号を発刊(蘭山会)する。
  • 1931年昭和6年)1月:四男(岸田正吉)誕生(2002年平成14年)2月3日逝去)
  • 1932年昭和7年)11月15日この頃の所属は「東京市西ヶ原農事試驗場鳥獸調査室」[13]
  • 1935年昭和10年):この頃、農林省鳥獣調査室が西ヶ原の農事試験場の1室から目黒の林業試験場に移転したため、岸田は目黒に出勤することが多くなった。
  • 1937年(昭和12年)6月:長女(田鶴子)敗血症で逝去。
  • 1940年(昭和15年)7月:長男(享吉)結核で逝去。
  • 1948年(昭和23年):林野庁林野局林政部猟政調査室勤務。
  • 1949年昭和24年)5月31日:旧制広島文理科大学が国立学校設置法の公布によって設置された広島大学に包括され「広島大学広島文理科大学」と改称された。
  • 1950年(昭和25年):林野庁林野局(農林技官)。
  • 1953年昭和28年):林野庁林野局猟政調査課
  • 1953年昭和28年)3月:広島文理科大学第23回卒業式挙行。広島文理科大学の全学生が卒業する。
    • 文理大研究科は存置されたため、教授会が学位審査機関として残るなど制度上は存続する。
  • 1955年昭和30年):阿部余四男教授広島大学広島文理科大学定年退官。
  • 1960年(昭和35年):
    • 3月、「樺太の哺乳動物相」を発表。
    • 3月31日、林野庁(農林技官)退職。
  • 1961年昭和36年)9月:理学博士(広島大学広島文理科大学)The Osteology of the Kamasisi, Capricornulus crispus (=カマシシの骨学的研究)
    • 1962年3月:広島大学広島文理科大学廃止。
  • 1962年昭和37年):農学博士(東京農業大学)
  • 1967年(昭和42年)11月:脳軟化症のため療養[14]
  • 1968年(昭和43年)

業績と人となり

クモ学においては、彼は日本人の開祖である。内田監修(1966)では、蛛形綱の研究史の項の日本に関する部分で岸上鎌吉に触れたあとに岸田について「はじめは真正蜘蛛類に手をつけ、しだいに他の目にも及んで、蛛形綱の分類学的知識を普及させるのに貢献」したとある(p.25)。さらに各群の研究史ではサソリ目では彼のキョクトウサソリに関する研究を「特筆すべき」とのべ(p.47)、ダニ目では真っ先に岸田の名があがり、特に彼の影響によって内田亨などの専門的研究者が出たことを強調している(p.141)。なお、カニムシ目ザトウムシ目については研究史の項がないが、少なくともザトウムシ目ではいくつかの学名を彼がつけている。

八木沼は日本のクモ学の発展について記した文中で「1930年頃までは岸田久吉の一人舞台」と書いている[15]。1930年に日本で最初のクモ類図鑑とも言うべき湯原清次の『蜘蛛の研究』が出版されたが、掲載されたクモの同定は彼によるものであった。ザトウムシ目についても5種があげられ、いずれも岸田の名による学名が付されているが、現在生きているものはないようである。

ダニ目においても、ササラダニ類の専門家でこの分野の開拓者でもある青木淳一は、岸田を「日本で最初にダニ類をされた方」とのべ、ササラダニについてもいくつかの新種を発表していたと記している[16]。実際に青木が研究を開始したとき、それ以前に知られていたのは岸田の記録した7種のみであった。少脚目では、彼は日本で最初の種を記載した。

ところが、岸田の仕事には大きな瑕疵がある。彼が記載した動物の主なものは下にあげてある通りながら、彼が学名を与えたものはまだ多くがある。ただ、その多くが現在は生きていない。これは学問が先人の作業を見直して進むことを思えば不思議なことではない。しかし、彼の場合、より大きな問題として、正式な記載を怠ったり、記載そのものがいい加減である例が多いのである。

たとえば、上記の通り、湯原の著書の蜘蛛の同定は岸田によっている。そこでは彼は命名者を彼自身とした学名が他にも数多くあげられているが、そのかなりのものに原記載がない。湯原は新種記載を行う意図はなかったから、これは当然、岸田が正式な記載をすることを前提に出版されている。にもかかわらず、正式な記載がないため、その学名は無効であるか、あるいは湯原自身が記載したと見なさざるを得ない。当然タイプ標本の指定もないため、それが正式にどの種であるか、あるいは間違いであるかなどの判断ができなくなっている[17]

しかも、岸田の仕事は他のものについても似た例が多い。エダヒゲムシ類の場合、彼が記載したものはその記述が曖昧で、属と種の特徴をはっきり示せていないだけでなく、種そのものの特徴をしっかり書けていないうえ、タイプ標本も残っていないため、後にそれがどの種であるかの判断ができないということになった。それくらいなら、記載しないでくれればまだよかったとの声すらある[18]

ただ、その上でも、彼の人物評は悪くない。八木沼も青木も彼との関わりについて、常に先輩としてきわめて親切で、後進の指導に熱心で心配りの行き届いた人であったように語っている。彼は、全く何もなかった時代にパイオニアとして道を切り開いた点で偉大であり、またその苦労も並大抵のものではなかったということであるようだ[19]

岸田の人生そのものも紆余曲折が多く、その経過において様々な資格を苦労して獲得していった。うわさでは習字の先生の資格も持っていたとも[20]

記載した属と種

彼が記載した生物はきわめて多岐にわたる。特にクモ類では数が多く、代表的なもののみをあげる。

さらに、菌類ラブールベニア類にも記載した種があるという。

献名された属と種(クモ類)

  • Kishidaia Yaginuma, 1960:ブチワシグモ属
  • Patu kishidai Shinkai, 2009:ユアギグモ

和名としてはキシダグモ科、およびキシダグモ属がある。

他に、東京蜘蛛談話会の会誌の名がKISHIDAIAである。これは、彼の業績をたたえる意味と同時に、発刊当初に彼の蔵書目録を記録する目的があったためである。

著書

哺乳動物図解 1925年大正14年)

論文(おもに哺乳類)

参考文献・出典

  1. ^ 今泉吉典『岸田久吉先生を偲ぶ』 哺乳動物学雑誌 4(3), 93, 1969-3-30[1]
  2. ^ 安田雅俊 (2005-2009)「Lansania」[2]
  3. ^ Tennent, W. J., Yasuda, M.(安田雅俊) and Morimoto, K.(森本 桂) (2008)[3]
  4. ^ 安田雅俊 (2005-2009)「台湾モグラ考: 岸田は何をみたのか」[4]
  5. ^ Ono, Hirotsugu(小野展嗣), 2005. Revision of spider taxa described by Kyukichi Kishida: Part 1. Personal history and a list of his works on spiders.[5]
  6. ^ 2004年平成16年)4月24日朝日新聞夕刊[6]
  7. ^ 谷川明男「東京大学総合研究博物館所蔵クモ類標本目録」[7]
  8. ^ 谷川明男『東京大学総合研究博物館所蔵クモ類標本目録タイプ標本[8]
  9. ^ 農商務省は1881年明治14年)4月7日に設置され、1925年大正14年)4月1日に農林省の発足とともに廃止された。[9]
  10. ^ 學會記事 動物學雑誌34(407): 824 (19220915)[10]
  11. ^ 平岩馨邦『縱組から横組へ』動物学雑誌 42(500), 222-223, 1930-06-15[11]
  12. ^ 學會記事 動物学雑誌 36(434)[12]
  13. ^ 岸田久吉 シンザルとは何か 動物学雑誌 44(529), 440-441, 1932-11-15[13]
  14. ^ 河田党『岸田久吉博士をいたむ』[14]
  15. ^ 八木沼(1969)p.188
  16. ^ 青木(1968).p.137
  17. ^ 八木沼(1965)
  18. ^ 萩野(2009)
  19. ^ 萩野(2009)
  20. ^ 河田(1968)
  • 八木沼健夫『クモの話』,(1969).北隆館
  • 青木純一『ダニの話』,(1968).北隆館
  • 内田亨監修『動物系統分類学 7(中A)』(1966),中山書店
  • 八木沼健夫、「湯原清次著「蜘蛛の研究」について」、(1975)、南紀生物、17巻1号,p.1-6.
  • 萩野康則、(2009)「KISHIDAIAとTAKAKUWAIA」、KISHIDAIA No.95。p.16-18。
  • 河田党、「岸田久吉博士をいたむ」(1968)日本応用動物昆虫学会誌 12(3), 177-178,

外部リンク