須磨 (砲艦)

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砲艦「須磨」(1942年)
艦歴
計画 1915年2月 イギリス海軍戦時緊急計画
発注 サンダーランド社造船所
起工 1915年
進水 1915年10月9日
就役 1916年1月5日に「モス」として就役。1941年12月に喪失。
再就役 1942年7月1日に「須磨」として就役
その後 1945年3月19日触雷沈没
除籍 1945年5月10日
性能諸元
排水量 常備:645トン
満載:750トン
全長 72.4m
水線長 70.1m
全幅 10.97m
吃水 1.22m
機関 ヤーロウ式重油専焼水管缶2基
+ノース・イースタン・マリーン・エンジニアリング・ワークス式直立三段膨張式レシプロ機関
2基2軸推進
最大出力 2,000hp
最大速力 14.0kt
航続距離 -/-海里
燃料 重油:54トン
乗員 約60名(モス)
99名(須磨 1942年7月1日[1]
兵装(モス) ヴィッカース Mk.VII 15.2cm(45口径)単装砲2基
アームストロング 7.62cm(40口径)単装速射砲1基
7.7mm(94口径)単装機銃4丁
兵装(須磨) (1942年7月1日 引渡時)
Mk.VII 15.2cm(45口径)単装砲1基

(1942年10月3日 改造完了時)

Mk.VII 15.2cm(45口径)単装砲1基
毘式 4cm(39口径)単装機関砲2基
九三式13mm単装機銃2基
九二式7.7mm単装機銃2基

(1945年3月13日 最終時)
三年式 8cm(40口径)単装高角砲1基
毘式 4cm(39口径)単装機関砲
九六式 25mm(60口径)連装機銃2基
九三式13mm単装機銃2基&同単装機銃2基
九二式7.7mm単装機銃2基

須磨 (すま)は、日本海軍砲艦。元は旧イギリス海軍河用砲艦インセクト級「モス (Moth)」で、太平洋戦争戦利艦。艦名は神戸市の景勝地「須磨」にちなみ命名。この名を持つ日本海軍の艦船としては2隻目。日本海軍が運用した河用砲艦中、最大の艦だった。

艦歴[編集]

1916年イギリスサンダーランド造船会社で竣工。

太平洋戦争開戦時、「モス」は修理のため香港ネービーヤードで入渠していたが、日本軍の攻撃が始まると工員が逃走し修理不可能となった[2]。そのため主砲以外の砲は取り外され陸揚げされた[3]。その後、「モス」は1941年12月11日もしくは12日にドック内で自沈した[2]

香港占領後、日本の海軍第二工作部が修理。1942年7月1日に日本海軍の軍艦籍に編入され「須磨」と命名[4]。砲艦に類別された。佐世保鎮守府籍で支那方面艦隊第二遣支艦隊に編入された[4]。艦長・旭龍雄少佐(海兵53期)が着任したが兵装が充分ではなかったため、旭少佐指揮のもと7月20日から上海で工事を再開した。内容は武装の強化、艦橋の大型化、兵員室及び通風筒の設置等で、これらの工事は10月3日に完了し、以後、長江流域の哨戒作戦等に参加した。

1943年7月、香港で修理中に3日間にわたって空襲を受け28日には爆弾1発が至近弾となったが不発だった[5]。1944年12月26日には安慶で敵機の銃爆撃を受けて後部の25mm機銃座が破壊された[6]。これにより1名が即死、負傷者のうち2名も入院後死亡した[6]

1945年3月14日、「須磨」は「鳴海」とともに上海から安慶へ向け出港[7]掃海作業のため江陰で一時待機し、3月19日に出港[7]。同日15時26分、「須磨」は天申橋の下流2海里で触雷、沈没した[7]。乗員は「鳴海」に救助された[8]

1945年5月10日、除籍。

艦長[編集]

(注)1944年10月1日以降は「砲艦長」。

  1. 旭龍雄 少佐/中佐:1942年7月1日[9] - 1944年10月10日[10]
  2. 田中嘉平治 中佐:1944年10月10日[10] - 1945年4月1日[11]

脚注[編集]

  1. ^ 昭和17年7月1日付 海軍内令第1193号別表」 アジア歴史資料センター Ref.C12070164000 
  2. ^ a b 英国砲艦「モス」の後身、帝国海軍の軍艦「須磨」、183-184ページ
  3. ^ 英国砲艦「モス」の後身、帝国海軍の軍艦「須磨」、183ページ
  4. ^ a b 英国砲艦「モス」の後身、帝国海軍の軍艦「須磨」、184ページ
  5. ^ 英国砲艦「モス」の後身、帝国海軍の軍艦「須磨」、188-189ページ
  6. ^ a b 英国砲艦「モス」の後身、帝国海軍の軍艦「須磨」、190ページ
  7. ^ a b c 英国砲艦「モス」の後身、帝国海軍の軍艦「須磨」、194ページ
  8. ^ 英国砲艦「モス」の後身、帝国海軍の軍艦「須磨」、195ページ
  9. ^ 昭和17年7月1日付 海軍辞令公報(部内限)第892号」 アジア歴史資料センター Ref.C13072086200 
  10. ^ a b 昭和19年10月14日付 秘海軍辞令公報 甲 第1619号」 アジア歴史資料センター Ref.C13072101500 
  11. ^ 昭和20年4月15日付 秘海軍辞令公報 甲 第1773号」 アジア歴史資料センター Ref.C13072104300 

参考文献[編集]

  • 「Conway All The World's Fightingships 1906–1921」(Conway)
  • 「Conway All The World's Fightingships 1922-1946」(Conway)
  • 雑誌「丸」編集部『写真|日本の軍艦 第9巻 軽巡Ⅱ』光人社、1990年。
  • モデルアート11月号臨時増刊 艦船模型テクニック講座 Vol.7 日本海軍艦艇図面集 巡洋艦/敷設艦/砲艦、モデルアート社、1990年 雑誌コード 08734-11
  • 田村俊夫『英国砲艦「モス」の後身、帝国海軍の軍艦「須磨」』
    • 『歴史群像 太平洋戦史シリーズ45 真実の艦艇史 未発表写真と綿密な考証で明かされる秘められた新事実の数々』学習研究社、2004年、174-181ページ

関連項目[編集]