能代丸 (特設巡洋艦)

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船歴
起工 1933年12月7日[1]
進水 1934年6月28日[1]
竣工 1934年11月30日[1]
その後 1944年9月24日に沈没
主要目
総トン数 7,189 トン(1942年)[2]
載貨重量トン数 9,804 トン[2]
全長
垂線間長 137.05 m[2]
型幅 19.0 m[2]
型深 10.50 m[2]
吃水 (満載平均)8.42 m[2]
(空艙平均)3.53 m[2]
主機 三菱ズルツァーディーゼル機関 1基1軸[2]
出力 6,700馬力(計画)[2]
7,490馬力(最大)[2]
航海速力 14ノット[2]
最高速力 18.5ノット[2]
乗員 50名[2]

能代丸(のしろまる)は、かつて日本郵船が所有し運航していた貨物船太平洋戦争中は特設巡洋艦、特設運送船として運用された。

概要

能代丸は日本郵船のニューヨーク航路改善のために投入されたN型貨物船の四番船として、三菱長崎造船所1933年(昭和8年)12月7日に起工し1934年(昭和9年)6月28日に進水、11月30日に竣工した。日本郵船はN型貨物船の建造に際して第一次船舶改善助成施設を活用し、能代丸の見合い解体船として自社持ち船の中から、日本最初の1万トン超貨客船の一隻である「天洋丸」(13,041トン)を充当した[3]。12月下旬からニューヨーク航路に就航し[4]、往航では生糸や雑貨、フィリピン産のマンガン鉱などを積み取り、帰航では鋼材や綿などを積み込んで横浜とニューヨークの間を28日間で走破した[5]。しかし、1939年(昭和14年)の第二次世界大戦勃発など世界情勢の変化により、遠洋航路は徐々に縮小されていった。

1941年(昭和16年)5月1日、能代丸は日本海軍に徴傭され、次いで7月1日付で特設水上機母艦として入籍、横須賀鎮守府籍となる[6]。ところがこの時点で、日本水産所有で同名の216トンのトロール船が日本海軍に特設掃海艇として徴傭され在籍していたため、後に入籍した能代丸は7月10日付で便宜上、海軍内部でのみ「能代川丸」と呼称されることとなった[6][7]。7月1日から8月19日まで横須賀海軍工廠で艤装工事が行われたが、特設水上機母艦として使用されることがないまま8月20日付けで除籍され、9月20日に特設巡洋艦として入籍[6][7]。この入籍を機に、トロール船のほうは第二号能代丸と呼称されるようになった[6]。特設巡洋艦当時の兵装は、15センチ砲4門、8センチ高角砲1門、7.7ミリ機銃2基および水上偵察機2機だった[8]。工事竣工後は横須賀警備戦隊の旗艦を務め[7]1942年(昭和17年)4月10日からは新編成の第二海上護衛隊(茂泉慎一中将)に属して輸送船護衛に従事する。しかし、能代丸が特設巡洋艦として行動した期間は短く、8月5日付で特設運送船に類別変更され、10月19日から10月24日まで横須賀海軍工廠で特設運送船としての艤装工事を実施した[6]

特設運送船となった能代丸は輸送作戦に従事し、11月3日に東京湾を出港してサイパン島テニアン島およびトラック諸島を経由してラバウルに進出[9]。ラバウル停泊中の1943年(昭和18年)1月16日には空襲を受け、四番船倉に命中弾があり損傷する[10]。応急修理のあと、1月下旬から2月にかけてはショートランドあるいはコロンバンガラ島への輸送に任じ、任務を終えてラバウルに帰投後、3月12日にトラックに向けて出港する[10]。しかし、翌3月13日午後に南緯00度10分 東経151度06分 / 南緯0.167度 東経151.100度 / -0.167; 151.100の地点を航行中、アメリカの潜水艦グレイバック (USS Grayback, SS-208) に発見された[10][11]。グレイバックは魚雷を4本発射し、1本が船首をかすめ他の3本のうち1本が右舷五番船倉付近に命中して損傷した[10][12]。トラックでの応急修理のあと、サイパン島を経て6月19日に横須賀に帰投し、7月21日まで本修理が行われた[13]

このあと1年近くの動向はほとんど不明だが[注釈 1]1944年(昭和19年)に入って南方に進出し、ボーキサイトを搭載の上ヒ62船団に加入[14]。5月23日に昭南(シンガポール)を出港し、マニラを経て6月8日に六連に到着した[15]三菱横浜造船所で修理のほか、機銃の増備や逆探の装備が行われ[16]、修理完了後は門司に回航され、ヒ71船団に加入する。8月10日、ヒ71船団は伊万里湾を出港し、馬公を経て南に下る。しかし、8月18日夜から8月19日未明にかけて3隻のアメリカ潜水艦、ブルーフィッシュ(USS Bluefish, SS-222) 、ラッシャー (USS Rasher, SS-269) 、スペードフィッシュ (USS Spadefish, SS-411) の攻撃に遭い損害を出した。ラッシャーが最初の攻撃で空母大鷹を撃沈し[17][18]、続く二度目と三度目の攻撃で海軍徴傭船「帝亜丸」(帝国船舶、元フランス船アラミス/日本郵船委託、17,537トン)を撃沈[17][19]、能代丸は警戒を厳重にしていたが北緯18度10分 東経119度55分 / 北緯18.167度 東経119.917度 / 18.167; 119.917の地点にいたったところでラッシャーの四度目と五度目の攻撃を受けてしまう[20][21]。ラッシャーは魚雷を計6本発射し、そのうちの1本が能代丸の二番船倉左舷側に命中[20]。相前後して海軍徴傭船阿波丸(日本郵船、11,249トン)の船首にも1本が命中し、ともに陸岸に近接してマニラに向かった[22]。損傷により4ノットから5ノット程度の速力しか出せなくなった能代丸はルソン島沿岸の泊地に立ち寄りながら南下を続け、8月24日にマニラに到着した[23]

マニラに到着後、能代丸は応急修理を行い、9月17日ごろには概ね完成して日本本土行きの船団を待っている状況だった[24][25]。ところが9月21日、アメリカの第38任務部隊マーク・ミッチャー中将)からの艦載機群がマニラを空襲し、能代丸の艦橋付近に至近弾を、艦橋部に命中弾を与えた[24]。間もなく別の一弾が短艇甲板を貫通して機関室で爆発し、火災が発生した[24]。火災は弾薬や油類のある区画に広がり、ここにいたって総員退船が令されて乗組員が脱出したのち、夜に入って大爆発が起こった[26]。火災は9月22日、23日と続いて船体中央部をほぼ全焼して船体外板も甚だしく損傷、9月24日に船尾から沈降して水深12メートルの海底に沈没していった[26][27]。沈没地点はマニラ港南防波堤南灯台の188度1,800メートル、北緯14度33分01秒 東経120度57分05秒 / 北緯14.55028度 東経120.95139度 / 14.55028; 120.95139の地点と記録されている[6][28]。能代丸は11月10日に除籍および解傭された[6]

艦長

  • 古川保 大佐:1941年7月1日 - 8月20日[29]
  • 大塚幹 予備海軍大佐:1941年9月29日 - 1942年2月1日[30]

同型船

N型貨物船
  • 長良丸
  • 能登丸
  • 那古丸
  • 鳴門丸
  • 野島丸

脚注

注釈

  1. ^ 例えば、#郵船戦時上p.898 では、昭和18年7月21日の修理完了からヒ71船団加入にいたるまでの動向については全く書かれていない。

出典

参考文献

  • アジア歴史資料センター(公式)(国立公文書館)
    • Ref.A08072182800『船舶改善助成施設実績調査表(昭和九年四月十九日調)』。 
  • アジア歴史資料センター(公式)(防衛省防衛研究所)
    • Ref.C08050083300『昭和十八年版 日本汽船名簿 内地 朝鮮 台湾 関東州 其一』、3頁。 
    • Ref.C08030671300『自昭和十九年六月一日至昭和十九年六月三十日 能代丸戦時日誌』、36-44頁。 
    • Ref.C08030671300『自昭和十九年七月一日至昭和十九年七月三十一日 能代丸戦時日誌』、45-53頁。 
    • Ref.C08030671300『能代丸戦闘詳報第三号』、54-69頁。 
    • Ref.C08030671400『(能代丸)戦時日誌 自昭和十九年九月一日至同三十日』。 
  • 新聞記事文庫(神戸大学附属図書館デジタルアーカイブ)
  • (issuu) SS-208, USS GRAYBACK. Historic Naval Ships Association. http://issuu.com/hnsa/docs/ss-208_grayback?mode=a_p 
  • (issuu) SS-269, USS RASHER_Part1. Historic Naval Ships Association. http://issuu.com/hnsa/docs/ss-269_rasher_part1?mode=a_p 
  • 三菱造船(編)『創業百年の長崎造船所』三菱造船、1957年。 
  • 財団法人海上労働協会(編)『復刻版 日本商船隊戦時遭難史』財団法人海上労働協会/成山堂書店、2007年(原著1962年)。ISBN 978-4-425-30336-6 
  • 日本郵船戦時船史編纂委員会『日本郵船戦時船史』 上、日本郵船、1971年。 
  • 山高五郎『図説 日の丸船隊史話(図説日本海事史話叢書4)』至誠堂、1981年。 
  • 木津重俊(編)『世界の艦船別冊 日本郵船船舶100年史』海人社、1984年。ISBN 4-905551-19-6 
  • 駒宮真七郎『戦時輸送船団史』出版協同社、1987年。ISBN 4-87970-047-9 
  • 財団法人日本経営史研究所(編)『日本郵船株式会社百年史』日本郵船、1988年。 
  • 木俣滋郎『日本軽巡戦史』図書出版社、1989年。 
  • 正岡勝直「日本海軍特設艦船正史」『戦前船舶』第104号、戦前船舶研究会、2004年、6-91頁。 
  • 林寛司(作表)、戦前船舶研究会(資料提供)「特設艦船原簿/日本海軍徴用船舶原簿」『戦前船舶』第104号、戦前船舶研究会、2004年、92-240頁。 
  • 海軍歴史保存会『日本海軍史』第9巻、第10巻、第一法規出版、1995年。

関連項目

外部リンク

座標: 北緯14度33分01秒 東経120度57分05秒 / 北緯14.55028度 東経120.95139度 / 14.55028; 120.95139