米田建三
米田建三 よねだ けんぞう | |
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生年月日 | 1947年10月5日(76歳) |
出生地 | 長野県大町市 |
出身校 | 横浜市立大学 |
前職 | 帝京平成大学教授 |
現職 | 日本航空学園理事 |
所属政党 |
(自由民主党→) (自由党→) (自由改革連合→) (新進党→) 自由民主党 |
選挙区 |
(旧神奈川4区→) 比例南関東ブロック |
当選回数 | 3回 |
在任期間 | 1993年7月19日 - 2003年10月10日 |
米田 建三(よねだ けんぞう、1947年10月5日 - )は、日本の政治家。自由民主党所属の元衆議院議員(3期)。元帝京平成大学教授。現在、日本航空学園理事・教育顧問。日本青年社議員同志連盟指南役[1]。
経歴
長野県松本深志高等学校を経て横浜市立大学商学部卒業後、徳間書店に入社。アサヒ芸能の記者などを務める。その後横浜市会議員、建設大臣秘書官などを歴任。
1990年2月、第39回衆議院議員総選挙に旧神奈川4区より自民党公認で出馬し、落選。1993年7月、第40回衆議院議員総選挙に旧神奈川4区より自民党公認で出馬し初当選。1994年4月、自民党を離党。自由党に参加。その後、自由改革連合を経て、同年12月の新進党結党に参加。
新進党当時は小沢一郎の側近として、1995年12月に小沢が党首に就任すると党首補佐役に就任、やがて、小沢の政治手法に激しく反発、対立関係になっていった。1996年10月、新進党から第41回衆議院議員総選挙に出馬し比例単独候補として再選されたが、かねてよりの小沢との対立関係から10月31日に新進党を離党した。
1997年5月、自民党に復党。江藤・亀井派に所属する。2000年、自民党から第42回衆議院議員総選挙に出馬し比例単独候補として3選。内閣府副大臣、拉致議連副会長などの要職を務める。鈴木宗男とは極めて近い関係にあった。鈴木派結成の暁には松岡利勝が幹事長、米田が事務局長に就任するとまで言われた。鈴木への逮捕許諾請求が出た時は、冤罪の疑いがあると、国対副委員長として最後まで可決に抵抗。しかし、「ムネムネ」会の一員ではなく、マスコミの誤報については否定した。今日でも鈴木の政治家としての資質を高く評価している。
2003年8月、コスタリカ方式で神奈川5区から出馬する予定だったが、党県連内の敵対勢力による妨害行動に対抗し、同選挙区からの不出馬を表明。同年11月、第43回衆議院議員総選挙に自民党公認で山梨1区に落下傘として出馬。10年ぶりの選挙区出馬となるが落選。 その後、帝京平成大学教授に就任し、政治・外交・安全保障・災害などの時事問題を講義の内容として扱う。テレビ出演[2]や論壇での活動もある。
2005年9月11日の第44回衆議院議員総選挙では、敗北が予想され立候補しなかった(山梨1区の後継は赤池誠章)。11月、2007年夏に行われる参議院選挙に自民党から参議院比例区での出馬を表明。
2007年7月29日の第21回参議院議員通常選挙に、安倍首相の後押しをうけ自民党から比例区に立候補、61,434票(党内32位)を獲得も落選した。
2009年11月に帝京平成大学教授に就任。現在、日本航空学園理事・教育顧問。
2014年12月14日の第47回衆議院議員総選挙では、比例近畿ブロック単独41位で立候補するも落選。
政策
- 「タカ派」として知られ、拉致議連副会長を務め北朝鮮に制裁措置をとるべきだと主張。また中国に対しても強硬で、宥和的な外務省や川口順子元外務大臣の外交方針を批判していた。外国人地方参政権問題でも「国の運命に最終的な責任を持ち得ない外国籍の方に参政権を与えるべきではない」と反対し、外国人参政権反対運動の理論的支柱。
- 人権擁護法案について、人権救済やプライバシー保護を名目とした言論弾圧につながりかねないと主張している。
- 首相による靖国神社への参拝を強く支持し、自らも毎年参拝を欠かさない。
- 国防族の一人で「外交・防衛がやりたくて国会議員になった」と公言するほどの防衛通。中国や北朝鮮の脅威に対抗するためミサイル防衛の必要性をテポドン・ショック以前から主張してきた。
- ジェンダーフリーや男女共同参画基本法を“白い文化大革命”や“悪法”と非難している。
- 外交・安保では「タカ派」だが、天皇制に関しては旧来型保守論客にありがちな無条件崇拝派ではない。人類学、民族学、歴史に造詣が深く、科学的立場から、天皇は日本国家形成の過程で発生した一機関として位置付け、「皇国史観」とは一線を画す。そのため、保守勢力の一部には、本質は「共和主義右派」とみて批判(反発)する向きもある。
発言
- 自由民主党・前衆議院議員の中山正暉が、取材に来た斎藤貴男に対して「斎藤さん、私は怖いんです」と前置きして、米田との間に以下のようなやり取りがあった事を語った。「(米田建三君が)『中山先生、北朝鮮がテポドンを撃ってくるというならば、こちらから先制攻撃をかけましょう』と言い出したんです。私は『米田君、待ってくれ、ミサイルを撃ったらそこには人が住んでいるんだよ、人が死ぬんだ。そのことを君はわかっているのかね』と言い返したが、わかっていなさそうだった」
日本青年社との関係
日本青年社“議員同志連盟指南役”として総会で講演を行う。また正論平成19年10月号に掲載された殿岡昭郎執筆による論文中に、あたかも日本青年社が北朝鮮と麻薬取引に関与しているかのような記述があったこと対し日本青年社が抗議を行ったが、米田は同年正論12月号で産経新聞と日本青年社の仲介役となり殿岡らと対談、編集部と殿岡が非を認める。後日これを受け日本青年社がは矛を収めた。殿岡は以後、日本青年社の総会や講演会に参加し日本青年社寄りの著作を出版することとなる。
著書
特記なきものはエール出版社より
- 『儲かって笑いのとまらない小さな会社の研究』(1984年)
- 『儲かって笑いのとまらないヒット商品の研究』(1985年)
- 『男が転職を決断する時』(1985年)
- 『日本の反論―戦勝国の犯罪を検証する』(並木書房,2006年)
- 『危ない!人権擁護法案』(展転社,2006年/共著・平沼赳夫・城内実・櫻井よしこ等)
脚注
公職 | ||
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先代 熊代昭彦 松下忠洋 村田吉隆 |
内閣府副大臣 伊藤達也、根本匠と共同 2002 - 2003 |
次代 伊藤達也 佐藤剛男 中島真人 |