礼号作戦
ミンドロ島沖海戦(礼号作戦) | |
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戦争:太平洋戦争 / 大東亜戦争 | |
年月日:1944年12月26日 | |
場所:フィリピンミンドロ島 | |
結果:日本軍の作戦は成功 | |
交戦勢力 | |
大日本帝国 | アメリカ合衆国 |
指導者・指揮官 | |
木村昌福少将 | |
戦力 | |
重巡洋艦1 軽巡洋艦1 駆逐艦6 |
魚雷艇10 航空機120機 |
損害 | |
駆逐艦1沈没、重巡1中破、軽巡1・駆逐艦1小破 | 輸送船1沈没、魚雷艇数隻損傷、航空機約30機喪失 |
礼号作戦(れいごうさくせん)は、太平洋戦争末期の1944年12月26日に実行された日本海軍によるフィリピン、ミンドロ島のアメリカ軍に対する攻撃計画のことである。ミンドロ島沖海戦が発生した。
背景
戦略的背景及び地上戦闘の詳細についてはミンドロ島の戦いを参照
ミンドロ島上陸
1944年(昭和19年)12月15日早朝、アメリカ軍を中心とした連合国軍がミンドロ島に上陸した[1]。 アメリカ軍の戦力は上陸船団がアーサー・D・ストラブル少将率いる軽巡ナッシュビル他護衛駆逐艦12、高速輸送艦(APD)8、LST30、LSM12、LSI31、掃海艇17、雑舟艇14であった。 その直接護衛として重巡1、軽巡2、駆逐艦7、高速魚雷艇23が船団前方を行き、更に護衛空母6、戦艦3、重巡3、駆逐艦18が上空援護部隊として間接護衛するといった陣容であった。
これに対し日本軍はフィリピンの各航空基地から、なけなしの機体を繰り出し特攻機とその護衛機併せて海軍47機、陸軍13機が攻撃に向かった。 船団旗艦の米軽巡ナッシュビルを損傷脱落させ、揚陸中のLST2隻を撃沈[1]。だが陸軍機は全滅、海軍機も帰還十数機のみの大損害を蒙った。 その後も小規模ながら日本軍の波状攻撃は続けられたが、アメリカ軍機動部隊(第38任務部隊)の活動により日本軍航空戦力は大打撃を受けた[2]。16日、サンホセは完全に占領されてしまった。 12月17日、米軍機動部隊は燃料補給のためルソン島東方海面に移動したが、折しもコブラ台風に遭遇して駆逐艦3隻を喪失、燃料補給も出来なくなった[2]。このため米軍機動部隊は修理と補給のためウルシー環礁に引き上げた[2]。 機動部隊による防空は出来なくなったが、12月20日にはミンドロ島の飛行場が稼動を開始、日本艦隊が攻撃した26日には2ヶ所の飛行場に約120機が展開していた。
連合軍船団の行動
アメリカ軍は日本艦隊の襲撃や逆上陸作戦を警戒していた。間接護衛隊は日本艦隊出撃の誤報により急行したが、実際には日本陸軍の機動艇で、代わりにこれを撃沈した。上陸船団にはなるべくミンドロ島付近には停泊しないよう指示が出されており、15日夜には掃海艇2隻と魚雷艇23隻を島に残して離脱した。22日には、追加物資を搭載した各種輸送船23隻(ほか入港前に空襲で2隻喪失)と駆逐艦11隻の船団がミンドロ島に入港したが、揚陸の完了しなかったリバティ型貨物船4隻を残して即日出港した。
日本海軍の水上反撃計画
日本海軍は間接護衛隊などを発見できず、船団の護衛は手薄と判断していた。そこで、水上部隊によるアメリカ軍への攻撃を決めた。まず、第31戦隊の第43駆逐隊及び第52駆逐隊所属の駆逐艦梅、桃、榧、杉、樫による突入が計画されたが、集結前の14日にマニラが空襲を受けて中止となった。16日には、第43駆逐隊の榧、杉、樫によるミンドロ島西部マンガリン湾突入の計画が立案されたが故障などで実行できなかった。
20日、南西方面艦隊司令長官大川内傳七中将は、第二水雷戦隊司令官木村昌福少将を司令官とする挺身部隊の編成を発令し、22日以降のミンドロ島突入を命令した。木村少将の第二水雷戦隊を基幹に、フィリピン近海に存在していた日本海軍艦船がかき集められた。第四航空戦隊の航空戦艦伊勢・日向も出撃可能であり、作戦参加も検討されたが、低速のため部隊からはずされた。木村少将は、旗艦として通信設備の整った軽巡大淀や重巡足柄ではなく小回りが利き機動性のある駆逐艦霞を選んでいる。別の理由として、臨時に追加された大淀や足柄よりも第一水雷戦隊司令官としてレイテ沖海戦の際に座乗したことのある意思疎通の容易な霞を選んだとも、大淀と足柄は借り物としての意識があったからともいわれる。
25日夜のミンドロ島突入が計画されたが、天候悪化による部隊集結の遅延から、26日夜の突入に変更された[3]。給油作業などの出撃準備が進められた。
戦力
アメリカ軍
- 基地航空機:120機
- 在泊艦船:輸送船4隻、魚雷艇10隻
- チャンドラー部隊(司令官:T・E・チャンドラー少将) - 日本艦隊迎撃のため出動。
経過
出撃
1944年12月24日、駆逐艦霞に将旗を掲げて挺身部隊は仏領インドシナのカムラン湾を出撃した。
挺身部隊は当初マニラに向けて航行する偽装針路を取った。これが奏効したのか24、25日と連合軍の触接も受けず挺身部隊は順調に進撃した。26日未明、針路を南南東としミンドロ島沖への針路を取る。11時37分南西方面艦隊司令部より挺身部隊に宛てて「飛行偵察ノ結果、ミンドロ方面ノ敵艦船少ナキガゴトキモ、本状況ハ一両日間変更ナキモノト認メラルルニツキ、予定通リ本夜突入スルヲ可ト認ム。」と通信が入る。この情報より木村司令官は麾下の全軍に以下のように訓示した。
挺身部隊ハ予定ドオリ突入ス。各隊ハ一層警戒ヲ厳ニシ、敵ノ奇襲ヲ未然ニ封ジ、全軍結束、作戦目的ノ達成ヲ期セ
部隊はどんどん南下していったが、依然連合軍に発見されなかった。26日16時3分、かねての予定通り、足柄から水上偵察機2機が対潜哨戒に発進する。
16時25分頃、重巡洋艦足柄は水上偵察機を射出した[4]。同時刻、挺身部隊はアメリカ軍機(B-24リベーレーター爆撃機)に発見された。B-24は直ちに周辺部隊に向けて「敵発見」の打電を行い、足柄は「北緯12度48分、東経119度12分、戦艦1、巡洋艦1、駆逐艦6、針路90度、速力28ノット」という電文を傍受している[4][注 1]。しかしこれを木村司令官は意に介せずそのまま部隊を進撃させ、関係各部に対して「予定通リ、突入ス」と打電した。18時から20時にかけてB-25ミッチェル双発爆撃機やP-38ライトニング戦闘機などアメリカ軍機が続々と部隊上空にやってくるが、数が少なく周辺を飛行するだけで攻撃はかけてこなかった[4]。
アメリカ軍の対応
日本艦隊を発見したアメリカ軍は、ミンドロ島の航空部隊による攻撃を命じるとともに、第7艦隊の一部をチャンドラー少将の指揮の下で迎撃に向かわせた。しかし、ミンドロ島の航空部隊は爆弾の備蓄などが不十分で、戦闘機による機銃掃射なども含めたありあわせの攻撃を行うことになった。
ミンドロ島には、輸送船4隻と魚雷艇10隻のみが在泊中だった[注 2]。輸送船にはマンガリン湾のイリン島の島影への退避が命じられ、魚雷艇は迎撃態勢に入った。
空襲
現地は18時39分、日没を迎えた[4]。しかし当日の天候は晴れ、月齢11と夜になっても部隊は上空から丸見えであった。20時45分、まず朝霜が爆撃を受けた。これは命中しなかったが、これを皮切りに続々とアメリカ軍機が各艦に攻撃を始めた。21時01分、今度は大淀が爆撃を受けた。250kg爆弾2発が命中したが何故かこの爆弾には信管が付いておらず、一発は艦橋脇を貫通し海中へ突入し、もう一発は缶室直上まで甲板を貫通して止まった[5]。次に清霜が狙われ、舷中部に爆弾1発が命中、これが機関室を直撃、航行不能となるとともに浸水が始まった。しかし他艦に救助に当たる余裕は無く、洋上に停止し炎上する清霜を取り残して各艦は進撃していった。清霜はその後30分ほどで沈没した[注 3][注 4]。
このほか足柄にB-25が衝突し、火災が発生した。そのため、足柄は搭載魚雷を投棄せざるを得なかった。死傷者は70名に上った。
艦隊突入ス
挺身部隊はマンガリン湾に突入し、23時頃サンホセの敵上陸地点に向けて攻撃を始める。まず、上陸地点沖合にいた輸送船4隻に砲雷撃を加え(霞4本、樫2本、榧2本)[6]、3隻以上の撃沈破を報じた。アメリカ軍の記録では、輸送船「ジェームス・A・ブリーステット」が大破炎上した。ついで、海岸の物資集積所に向けて砲撃を開始。約20分間、砲撃を行った。
戦闘の間、足柄から発進した水偵が照明弾を投下したほか、基地から発進した瑞雲水上偵察機3機が飛来して援護を行った。アメリカ軍は魚雷艇PT-77など数隻が航空機の攻撃で損傷している[注 5]。日本陸軍も戦闘機8機と重爆撃機1機を出動させ、飛行場4箇所炎上を報じている。
日本艦隊の帰投
27日午前0時04分、木村司令官は攻撃終了命令を出し、部隊は避退行動に移った[6]。
避退途中で木村司令官は『これより清霜の救助に旗艦があたる。各艦は合同して避退せよ』と下令した。そして、上空に敵機がおり敵魚雷艇の襲撃の危険性がある中で、霞は機関を停止して清霜の乗員の救助を始めた。そのうち、2隻の米魚雷艇が攻撃を仕掛けてきたが、旗艦周辺で警戒に当たっていた足柄と大淀が霞の側面に立ちはだかると、照射砲撃でこれを撃退した。さらに朝霜も機関を停止すると救助活動を始めた。2時15分、両艦は救助活動を終了し、残存の部隊は29日18時30分にカムラン湾へ無事帰投した[6]。なお、清霜の乗員342名のうち隊司令、艦長以下258名が救助された他、5名がその後アメリカ軍魚雷艇に救助され、戦死・行方不明は79名であった。
迎撃に派遣された巡洋艦4隻、駆逐艦8隻からなるチャンドラー部隊は日本艦隊を捕捉出来なかった[7]。
結果
この戦闘で日本側の作戦は成功し、太平洋戦線における帝国海軍の組織的戦闘における最後の勝利であるとも言われる。
もっとも、アメリカ側の記録では損害は輸送船1隻喪失と魚雷艇数隻損傷のほか、飛行場施設が若干の損傷、荷揚作業が一時中断した程度になっている。航空部隊は26~31機を喪失し、うち20機が直接の戦闘による喪失で、残りは滑走路の破損のため着陸できずに失われたものである[注 6]。いずれにしろ、戦況の大局には大きな影響は与えなかった[8]。連合艦隊参謀長草鹿龍之介中将は木村昌福少将(草鹿とは海軍兵学校同期)と本作戦について以下のように回想している[8]。
彼は兵学校の卒業成績こそ最後尾にちかかったが、細心大胆の天性は若い時から名駆逐艦長として、その操艦の手腕と部下統率の人格は儕輩をぬき、将来を嘱望されたのであったが、果たして今次戦争において、キスカ撤退戦、あるいは「多号作戦」などにおいてよく難作戦をみごとに完遂し、その天分を発揮したのである。が、この「礼号作戦」においても大胆果敢なる突入により、所在敵艦船をほとんど掃滅し、わがほうはわずかに駆逐艦一隻を失ったのみで、当時沈滞を免れなかったわが戦局に、一抹の涼風をおくったのである。 — 草鹿龍之介、同著『連合艦隊参謀長の回想』343、344ページ
12月30日、ハルゼー提督が率いるアメリカ軍機動部隊(第3艦隊)はウルシー環礁を出撃して台湾方面に出動する[2]。ルソン島方面の作戦を支援しつつ1945年(昭和20年)1月9日にはルソン海峡を突破して南シナ海に進出[9]。カムラン湾付近に潜伏中と推定した日本艦隊(日向、伊勢)を攻撃することで、リンガエン湾からミンドロ島間の補給路を安全にしようとした[10]。だが日本艦隊(礼号作戦部隊を含む)は退避していたので発見できず、仏印周辺で行動していた練習巡洋艦香椎や輸送船団を攻撃[10]、続いて台湾や香港を強襲した[10]。アメリカ軍機動部隊の活動により、ヒ86船団とヒ87船団は壊滅した(グラティテュード作戦)。
注釈
- ^ 戦艦は重巡洋艦足柄を誤認したもの。
- ^ 木俣。魚雷艇は連日の日本軍機の空襲で稼動12隻に減少しており、うち2隻は別任務で出航中だった。
- ^ 連合軍側記録では大破後に魚雷艇PT-223により撃沈とするが、時刻などがまったく異なり誤認と思われる。(木俣)
- ^ #ニミッツの太平洋海戦史406頁では『十二月二十六日から二十七日にかけての真夜中、日本水上部隊はミンドロ島沖に達し、短時間飛行場を砲撃したが、空中攻撃を受けて後退した。避退運動中駆逐艦1隻が魚雷艇の放った魚雷射線によって沈められた』とある
- ^ アメリカ軍の記録では友軍機の誤爆となっているが、日本軍機の攻撃の可能性もあると思われる。(木俣)
- ^ レイテ島に向かう途中で燃料切れとなり、失われた。(木俣)
脚注
参考文献
- 小淵守男『航跡の果てに 新鋭巡洋艦大淀の生涯』今日の話題社、1990年。ISBN 4-87565-136-8。
- 木俣滋郎『第二水雷戦隊突入す 礼号作戦 最後の艦砲射撃』(光人社NF文庫、2003年) ISBN 4-7698-2375-4
- 草鹿龍之介『連合艦隊参謀長の回想』光和堂、1979年1月。ISBN 4-87538-039-9。
- 佐藤和正『太平洋海戦3 決戦篇』(講談社 1988年) ISBN 4-06-203743-2
- チェスター・ニミッツ/E・B・ポッター、実松譲・富永謙吾訳『ニミッツの太平洋海戦史』恒文社、1962年12月。
- 森田友幸『25歳の艦長海戦記 駆逐艦「天津風」かく戦えり』光人社、2000年。ISBN 4-7698-0953-0。 森田は「霞」水雷長。