眞鍋政義
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基本情報 | ||||
国籍 | 日本 | |||
生年月日 | 1963年8月21日(60歳) | |||
出身地 | 兵庫県姫路市 | |||
ラテン文字 | Masayoshi Manabe | |||
身長 | 188cm | |||
体重 | 87kg | |||
選手情報 | ||||
所属 | バレーボール全日本女子 | |||
役職 | 監督 | |||
ポジション | S | |||
利き手 | 右 | |||
スパイク | 328cm | |||
ブロック | 325cm |
眞鍋 政義(まなべ まさよし、1963年8月21日 - )は、日本の元男子バレーボール選手(元全日本代表選手)・指導者。現在は、全日本女子チーム監督。
来歴
- 現役時代
姫路市立白鷺中学校でバレーボールを始め、エーススパイカーとして活躍。大阪商大高校に進学後セッターに転向。1年生からレギュラーセッターとして活躍し、インターハイ優勝に貢献した。
大阪商大進学後は、西日本インカレ・関西リーグ完全優勝(1回生から4回生まですべて優勝)を経験。1985年神戸ユニバーシアードに出場し、同年全日本代表に初選出され、1985年ワールドカップに出場した。
1986年、新日本製鐵に入社。1年目からレギュラーで活躍し新人王を獲得。その後も日本リーグ3連覇・黒鷲旗3連覇など、新日鐵黄金時代に中心選手として貢献。全日本代表としても1988年ソウルオリンピックなど数多くの国際大会に出場。日本を代表するセッターとして活躍した。
1993年からは新日鐵の選手兼任監督に就任。第3・4回Vリーグでのリーグ連覇に導いた。
1999年、新日鐵を退社。イタリア・セリエA・パレルモに移籍。2000年に帰国し、旭化成に入団。2002年、松下電器へ移籍したのち、2004年、旭化成に復帰した。
2004年、選手を続けながら、社会人特別選抜で大阪体育大学大学院スポーツ科学研究科に入学[1]し、翌2005年、論文「バレーボールのセッターのトス回しについてのゲーム分析的研究」[2]で、修士号取得[3]。
- 現役引退後
2005年、現役引退。同年、女子の久光製薬スプリングス監督に就任。1シーズン目からVリーグ準優勝となり、黒鷲旗では初優勝をもたらした。
2007年、2006-07プレミアリーグで久光を5シーズンぶりの優勝に導き、自身は高校及び新日鐵の先輩でもある柳本晶一(男子:新日鐵、女子:東洋紡)に次いで2人目の男女チーム優勝監督となった[注 1]。
2008年12月、全日本女子チームの監督に内定(18人の応募者の中から、プレミアリーグ監督会の推薦を受けた眞鍋が選ばれた)[1]。
2010年11月の世界選手権では、試合中iPadを手にしながら選手に指示[4][5][6][7] し、自らが掲げる「IDバレー」でチームを采配。日本は銅メダルを獲得した(同大会で32年ぶりとなるメダル獲得)。
球歴・受賞歴
- 所属チーム履歴
- 1986年-1998年 新日鐵ブレイザーズ(現・堺ブレイザーズ)
- 1999年 イベコ パレルモ(イタリア・セリエA)
- 2000年-2001年 旭化成スパーキッズ
- 2002年-2003年 松下電器パナソニックパンサーズ
- 2004年-2005年 旭化成スパーキッズ
- 全日本代表 - 1985-2003年
- 全日本代表としての主な国際大会出場歴
- 受賞歴
- 1989年ワールドカップ - ベスト・セッター賞、ベスト6賞
著書
- 『「精密力」〜日本再生のヒント〜』 (2011年5月、主婦の友社)[8]
- 『チームのスイッチを入れる。 カリスマじゃなくてもできる組織を変える55の戦略』 (2011年10月、朝日新聞出版)
- 『逆転発想の勝利学』 (2012年5月、実業之日本社)
- 『バレーボールは眞鍋に学べ!』 (2012年5月、日本文化出版ムック)
脚注
- 註釈
- ^ 決勝の対戦相手だったJTマーヴェラスの寺廻太監督も、NECブルーロケッツ監督時代に優勝を経験しており、JTが勝っても男女チーム優勝監督となっていた。
- 出典
外部リンク
- Special Talk 2012年4月 発刊 UD 第6号 - TIS Direct Web