バレーボール全日本女子

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Volleyball (indoor) pictogram.svgバレーボール全日本女子
国または地域 日本の旗 日本
大陸連盟 アジアバレーボール連盟
協会 日本バレーボール協会
監督 眞鍋政義
国名コード JPN (Japan)
FIVBランキング 3位(2012年8月13日版)
オリンピック
出場回数 11回
初出場 1964 東京
最高成績 1位金メダル(1964、1976)
世界選手権
出場回数 14回
初出場 1960 世界選手権
最高成績 1位金メダル(1962、1967、1974)
ワールドカップ
出場回数 11回
初出場 1973 ワールドカップ
最高成績 1位優勝(1977)
アジア選手権
出場回数 16回
最高成績 1位優勝(1975、1983、2007)
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バレーボール全日本女子(バレーボールぜんにほんじょし)は、国際大会で編成される日本の女子バレーボールナショナルチームである。

日本バレーボール協会での正式名称は、全日本女子バレーボールチーム。日本国内では、全日本女子全日本と単に略称する場合もある。

概要と特徴[編集]

バレーボール全日本女子(2012年ロンドン五輪)
バレーボール全日本女子(2007年ワールドカップ)

プレイスタイル[編集]

ユニチカ以来の守備力重視のバレーを継承している。1996年アトランタオリンピック後は高さ重視のバレーで戦っていたが、主力選手の度重なる怪我により再度守備力重視のバレーに方針を転換した。現在は守備力とスピードを重視した所謂「3Dバレー」を行っている。

IDバレー」を掲げる眞鍋政義監督は、分業制で複数のコーチを起用。2011年には、トスから0.8秒でサイド攻撃のスパイク(従来は1.1秒ほど)という男子並みの「高速バレー」にも挑戦した[1][2]

ユニフォーム[編集]

1964年東京オリンピック前後から日の丸を連想する配色を使用し、これが長らく日本代表の定番であった。また、1972年ミュンヘンオリンピックではシャツとブルマーが深緑色のユニフォームを着用したが、ミュンヘン以後は再び赤と白タイプのものに戻った。

1989年から現在に至るまで、ミズノ社のユニフォームを女子は採用している。

1991年に赤・青・深緑・黒を基調にした4種類のユニフォームが登場。しかしながら公式戦においてはを着用することがほとんどであった。1994年にはワンピースタイプ、1995年には一時期、ワンピースタイプを改造したスパッツタイプ、1997年には定番であったブルマーに代わってスパッツタイプが完全採用され、1998年からは半袖、2003年からはノースリーブ型に移行。2006年にはシャツの着丈とパンツの股上が短くなり、シャツネームの愛称使用も導入された[3]

2009年グランドチャンピオンズカップでは黄色2010年世界選手権では代表ユニホーム色としては珍しいオレンジが登場。また、移動時やベンチではオレンジ色のジャージを着用した[4]

東日本大震災が発生した2011年には、ワールドカップで左胸(日の丸の上部)にこころはひとつと小さく縫いつけられた[5]。また、その日のユニフォームの色に応じて赤・黒・紫のお揃いの細いヘアバンド(ヘアゴム)を着用して臨戦する選手もいた[6]

近年オリンピックにおいては新デザインがお披露目されることがほとんどであったが、ロンドンオリンピックに於いては前年からのデザインのものを着用。

2013年モントルーバレーマスターズから、動きやすさを追求した新ユニフォームを着用[7]。同年秋のグランドチャンピオンズカップでは、それとは異なる新ユニフォームを着用。正面・脇に細かいドット柄のあるデザインで、新素材「テクノスパークLS」を使用し115g[8](従来比約10gの軽量化)を実現した[9]。また、全日本史上初となる、赤を基調としたシューズを着用[10]。なお、監督ほかスタッフのポロシャツ、選手の上ジャージは、共にマゼンタ色のものだった。

呼称について[編集]

かつては競技スポーツ全般において、日本のナショナルチームを「全日本」と呼ぶことが通例であったが、現在では他の競技ではこの呼称は使われなくなってきており、バレーボールに関しても報道機関によっては「日本代表」と呼称している場合がある。しかしながら、日本バレーボール協会では、一貫して「全日本」「全日本チーム」という呼称を使用している。

日本バレーボール協会は、「監督名+ジャパン」のような(例: 「柳本ジャパン」)メディアからの番組放送上の呼称発信ではなく、協会が自らキャッチフレーズを提唱することを決定。2009年3月から4月、チームの愛称を公募した。2009年6月、一般公募の中から協会での選考の結果、チームの愛称を「火の鳥NIPPON」とすることを表明している[11][12]

歴史[編集]

日ソ2強時代[編集]

1951年国際バレーボール連盟へ加盟[13]。初の世界大会となる1960年の第3回世界選手権では予選リーグを全勝で通過すると、進出した決勝リーグでも強豪国を撃破し、ソ連(現:ロシア)には敗れたものの初出場ながら銀メダルを獲得した。

1962年の第4回世界選手権日紡貝塚の単独チームによる出場で金メダルを獲得。1964年東京オリンピックも日紡貝塚中心のチーム構成で金メダルを獲得し、大松博文監督が率いる同チームは東洋の魔女と呼ばれた。

以後は日本とソ連が優勝を争う日ソ2強時代がしばらく続き、1968年メキシコシティオリンピック1972年ミュンヘンオリンピックはいずれもソ連に敗れて銀メダルであったが、1976年モントリオールオリンピックでは日立中心のチーム構成で臨み、守りの粘りとエース白井貴子の「ひかり攻撃」などの速さで他を圧倒し12年ぶりに金メダルを獲得。ソ連との決勝では15-7、15-8、15-2のストレート勝ちを収め、大会史上初となる失セット0の完全勝利という快挙であった。

1980年モスクワオリンピックの出場権は、前大会優勝国として既に獲得していた。選手強化も順調に進み、1979年のプレオリンピックでも優勝したことで五輪連覇できる可能性はかなり高いと言われていた。しかし同年開催国のソ連がアフガニスタンに侵攻し、これに対する対抗措置としてアメリカ政府が提案したオリンピックボイコット日本政府が同調したため不参加となった。

低迷期へ[編集]

1984年ロサンゼルスオリンピックは逆にソ連がボイコットして不参加。米田一典監督が率いる全日本は江上由美(丸山由美)や三屋裕子など日立中心のチーム構成で臨み、準決勝で中国に敗れるも3位決定戦でペルーに勝利し銅メダルを獲得。しかし、この銅メダルという不本意な結果に対し「単独チーム方式」では限界があるという声がしだいに大きくなり、1986年の第10回世界選手権では所属チームにこだわらず広く各チームから才能を集める「純粋選抜方式」で挑んだが、結果は7位と沈んだ。

1988年ソウルオリンピックでは中田久美大林素子など再び日立中心のチーム構成で臨むも、準決勝でペルーに、3位決定戦で中国に敗れて初めてオリンピックでメダル無しに終わった。その後は1992年バルセロナオリンピックでは5位、1996年アトランタオリンピックでは9位と成績は下降を続け[14]2000年シドニーオリンピック最終予選では3連勝の後に中国・イタリアクロアチア韓国に4連敗を喫して初めてオリンピック出場権を逃した。

2001年吉川正博が監督に就任。同年のグランドチャンピオンズカップこそ銅メダルを獲得したものの、アジア選手権では史上初のメダル無し、2002年の第14回世界選手権でも13位タイのワースト記録を更新するなど低迷を続けた。さらに直後の釜山アジア大会でも中国と韓国相手に1セットも取れずに3位で終わったため、低迷の責任を取る形で吉川監督を含む強化委員全員が辞任する事態となった。

柳本監督時代[編集]

2003年柳本晶一が監督に就任。同年のワールドカップではキャプテンとして全日本に復帰した吉原知子佐々木みき竹下佳江といったベテランと、大山加奈栗原恵などの若手選手が融合したチームを作り上げて5位となった。2004年5月のアテネオリンピック世界最終予選では最終戦でロシアに敗れたものの、6勝1敗の1位で2大会ぶりとなるオリンピック出場権を獲得。同年8月の本大会では準々決勝で中国に敗れベスト8となった。

オリンピック出場とその後のワールドグランプリ、世界選手権での躍進によってチームは一時期の低迷を脱し、2007年第14回アジア選手権では木村沙織荒木絵里香など若手の活躍によって24年ぶりに金メダルを獲得。同年のワールドカップでは7位に終わりオリンピック出場権は翌年の世界最終予選へと持ち越されたが、2008年5月に行われた北京オリンピック世界最終予選ではFIVBが大会期間中に出場規定の変更を通知するというトラブルが発生したものの6勝1敗の3位で出場権を獲得。同年8月の本大会では準々決勝でブラジルに敗れアテネと同じく5位に終わった。

眞鍋監督時代[編集]

2009年度より眞鍋政義が公募によって監督に就任し、2012年ロンドン五輪へ向けた新体制が発足。iPadを使用してデータを駆使する「IDバレー」を掲げ、2010年に日本で行われた第16回世界選手権では1982年大会以来28年ぶりにベスト4進出を果たすと、準決勝でブラジルにフルセットの末敗れたものの、3位決定戦でアメリカにフルセットの末勝利し32年ぶりのメダルとなる銅メダルを獲得した。

2011年ワールドカップでは、中国と同じ8勝3敗の成績ながらも勝ち点差2の4位でオリンピック出場権は翌年の世界最終予選へと持ち越されたが、初出場の岩坂名奈新鍋理沙ら新戦力の活躍などで、結果的にロンドンオリンピックで金メダルを獲得したブラジルと、銀メダルを獲得したアメリカにストレート勝ちを収めた。しかし、1位通過を目標として臨んだ2012年5月のロンドン五輪世界最終予選は序盤こそストレート勝ちによる開幕3連勝を飾るも、韓国に敗れてからリズムに乗れず出場権獲得はセルビアとの最終戦まで持ち越され、最終的に4勝3敗の4位でアジア1位として出場権を獲得した。

同年8月の本大会では予選リーグを3勝2敗の3位で通過すると、準々決勝で中国に全セットが2点差決着というフルセットの激闘を制しソウルオリンピック以来24年ぶりのベスト4進出を果たす。続く準決勝でブラジルにストレートで敗れたものの、3位決定戦で韓国にストレート勝ちを収めてロサンゼルスオリンピック以来28年ぶりのメダルとなる銅メダルを獲得。これを受けて日本協会は公募で新監督を決める予定を撤回して眞鍋監督に続投を要請し、同年10月に2016年リオデジャネイロオリンピックまで続投することが発表された。

2013年7月25日、休業していた正セッター竹下佳江が引退を発表。五輪でもう一人のセッターだった中道瞳は、11月のグラチャンバレーから復帰した。江畑幸子が腰痛でほとんど出場できない状況ながら他メンバーの活躍もあり、ランク上位のブラジル・アメリカ合衆国に敗れたものの、同大会における12年ぶりの銅メダルを獲得した。

2014年のワールドグランプリでは、一人の選手が複数のポジションの役割を担う新戦術「ハイブリッド6」を採用し[15]、決勝ラウンドで初戦から4連勝し、最後ブラジルに敗れたが、同大会では初のメダル(銀メダル)を獲得した[16]

エピソード[編集]

男女共にバレーボール全日本の応援として定番の「ニッポン、チャチャチャ」であるが、この応援はサッカー日本代表の最古のサポーター集団「日本サッカー狂会」が1968年5月23日の日本VSアーセナルの親善試合で初めて行なった。なお、バレーボールで最初に使われたのは1981年11月13日に宮城県スポーツセンターで行われたワールドカップ女子第5戦のアメリカ戦である。

過去の成績[編集]

オリンピックの成績[編集]

世界選手権の成績[編集]

ワールドカップの成績[編集]

アジア選手権の成績[編集]

現在の代表[編集]

過去の代表は「日本女子バレーボール代表選手の一覧」を参照。

2014年度の代表登録メンバー及び世界選手権の登録メンバー[1]は下記の通り[17]

監督 日本の旗 眞鍋政義
No. 選手名 シャツネーム 身長 2014/15所属チーム P 備考
1 長岡望悠 NAGAOKA 179cm 久光製薬スプリングス WS
2 中道瞳 NAKAMICHI 159cm 東レ・アローズ S
3 木村沙織 SAORI 185cm 東レ・アローズ WS
4 高田ありさ TAKADA 175cm 東レ・アローズ WS
5 佐藤あり紗 ARISA 164cm 日立リヴァーレ L
6 佐野優子 SANO 159cm デンソー・エアリービーズ L アシスタントコーチ兼任
7 山口舞 YAMAGUCHI 176cm 岡山シーガルズ MB
8 関李香 SEKI 183cm 岡山シーガルズ MB
9 石田瑞穂 ISHIDA 174cm デンソー・エアリービーズ WS
10 佐藤美弥 SATO 174cm 日立リヴァーレ S
11 川島亜依美 KAWASHIMA 181cm 岡山シーガルズ MB
12 石井優希 ISHII 180cm 久光製薬スプリングス WS
13 新鍋理沙 SHINNABE 173cm 久光製薬スプリングス WS
14 江畑幸子 EBATA 176cm フランスの旗 RCカンヌ WS
15 藤田夏未 FUJITA 166cm トヨタ車体クインシーズ S
16 迫田さおり SAKODA 175cm 東レ・アローズ WS
17 大野果奈 OHNO 180cm NECレッドロケッツ MB
18 筒井さやか TSUTSUI 158cm 久光製薬スプリングス L
19 宮下遥 MIYASHITA 177cm 岡山シーガルズ S
20 内瀬戸真実 UCHISETO 170cm 日立リヴァーレ WS
21 井上愛里沙 INOUE 180cm 筑波大学 WS
22 平松美有紀 HIRAMATSU 181cm トヨタ車体クインシーズ MB
古藤千鶴 171cm 久光製薬スプリングス S
白垣里紗 178cm NECレッドロケッツ WS
高橋沙織 177cm 日立リヴァーレ WS
古賀紗理那 180cm 熊本信愛女学院高校 WS
庄司夕起 182cm トヨタ車体クインシーズ MB
宮本小百合 165cm パナソニックエコソリューションズ津 L
大竹里歩 OHTAKE 183cm デンソー・エアリービーズ MB
岩坂名奈 IWASAKA 187cm 久光製薬スプリングス MB
今村優香 IMAMURA 177cm 青山学院大学 WS

歴代の監督一覧[編集]

名前 国籍 就任時の所属 在任期間
前田豊 日本の旗 1960年
大松博文 日本の旗 日紡貝塚 1961 - 1964年
船山浩志 日本の旗 ヤシカ 1966 - 1967年
前田豊 2 日本の旗 日本文化出版 1967年
山田重雄 日本の旗 日立 1967 - 1968年
小島孝治 日本の旗 ユニチカ 1970 - 1972年
船山浩志[18] 2 日本の旗 ヤシカ 1973年
山田重雄 2 日本の旗 日立 1973 - 1978年
小島孝治 2 日本の旗 ユニチカ 1978 - 1982年
生沼スミエ 日本の旗 日立 1982年
米田一典 日本の旗 日立 1983 - 1984年
小島孝治 3 日本の旗 ユニチカ 1985 - 1986年
岩本洋 日本の旗 日立 1987年
山田重雄 3 日本の旗 日立 1988年
宗内徳行 日本の旗 日本体育大学 1989年
米田一典 2 日本の旗 JVA 1990 - 1993年
横田忠義 日本の旗 JVA 1994年
小島孝治 4 日本の旗 ユニチカ 1995年
吉田国昭 日本の旗 ユニチカ 1996年
葛和伸元 日本の旗 NEC 1997 - 2000年
吉川正博 日本の旗 NEC 2001 - 2002年
柳本晶一 日本の旗 2003 - 2008年
眞鍋政義 日本の旗 久光製薬 2009年 -

歴代の主な主将[編集]

1960-1970年代

堀江方子河西昌枝吉田節子松村勝美飯田高子前田悦智子矢野広美

1980年代

横山樹理小川かず子江上(のち丸山)由美石田京子中田久美、丸山(旧姓江上)由美 (再)、佐藤伊知子

1990年代

佐藤伊知子、中西千枝子大林素子、中西千枝子 (再)、多治見麻子

2000年 -

江藤直美熊前知加子高橋みゆき吉原知子竹下佳江荒木絵里香木村沙織

脚註[編集]

  1. ^ バレー女子代表がW杯で体現を狙う「超高速化」。~半永久的な課題を克服するために~ Sports Graphic Number 790号
  2. ^ サオリン東レ、完全V「よかった」/バレー (2/2ページ) - SANSPO.COM、2011年3月25日
  3. ^ 全日本女子、新ユニホームはニックネーム入り! SANSPO.COM 2006年5月9日
  4. ^ 監督以下スタッフは、左胸に日の丸が入った黒い半袖のポロシャツ
  5. ^ 五輪へ夢つなぐブラジル撃破/W杯バレー nikkansports.com 2011年11月14日
  6. ^ 「おしゃれ番長」奮起の6発/W杯バレー nikkansports.com 2011年11月18日
  7. ^ 全日本女子バレーボール オフィシャルユニフォーム|ミズノ ニュースリリース 20130513
  8. ^ スポーツ報知、2013年11月6日6面
  9. ^ 全日本女子バレーボールチーム 新ユニフォーム完成|ミズノ ニュースリリース 20131105
  10. ^ 火の鳥NIPPON、いざ出陣!注目は「新戦術」 グラチャンバレー2013に向けて全日本女子チーム・火の鳥NIPPONが記者会見 - 日本バレーボール協会
  11. ^ 全日本女子チームの愛称決定 日本バレーボール協会プレスリリース 2009年5月18日閲覧
  12. ^ 火の鳥NIPPON 日本バレーボール協会プレスリリース
  13. ^ Asian Volleyball Confederation (AVC)”. FIVB. 2010年8月7日閲覧。
  14. ^ アトランタオリンピックでは1次リーグでアメリカと対戦し敗れたが、この逆転劇を演出したのは母親が1960年世界選手権代表の堀江方子で、自身もかつて全日本入りを目指したヨーコ・ゼッターランド(堀江陽子)だった。ヨーコは当時の全日本選手では恒例だった高校卒業後の実業団入りではなく早稲田大学への進学を選択し、全日本選手選考の対象から外された経験を持っていた。
  15. ^ 日本バレーボール協会. “ファイナル東京大会前日監督記者会見を開催 火の鳥NIPPONの新戦術名は「Hybrid 6」!! FIVBワールドグランプリ2014”. 2014年8月22日閲覧。
  16. ^ 日本バレーボール協会. “ベルギーに勝利!火の鳥NIPPONの銀メダル以上が確定!! FIVBワールドグランプリ2014ファイナル東京大会”. 2014年8月23日閲覧。
  17. ^ 日本バレーボール協会. “2014年全日本女子”. 2014年4月17日閲覧。
  18. ^ 1973年ワールドカップヤシカによる単独チームの監督として出場。同時期に山田重雄が監督を務めるもうひとつの全日本が存在する。

参考文献[編集]

関連項目[編集]

外部リンク[編集]


Flag of Japan.svg 日本のバレーボール
日本バレーボール協会
代表チーム 全日本男子選手一覧) - 全日本女子選手一覧
国内リーグ V.プレミア - V.チャレンジ
国内カップ 天皇杯・皇后杯 - 黒鷲旗全日本選抜
関連事項 日本のバレーボール