牟田口廉也

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牟田口 廉也
生誕 1888年10月7日
佐賀県
死没 1966年8月2日
東京都 調布市
所属組織 大日本帝国陸軍
軍歴 1910年 - 1945年
最終階級 陸軍中将
指揮 第4軍参謀長
陸軍予科士官学校長
第18師団長
第15軍司令官
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牟田口 廉也(むたぐち れんや、1888年(明治21年)10月7日 - 1966年(昭和41年)8月2日)は、日本陸軍軍人。最終階級は中将盧溝橋事件や、太平洋戦争大東亜戦争)開戦時のマレー作戦や同戦争中のインパール作戦において部隊を指揮した。

生涯

日中戦争まで

佐賀県出身、陸軍士官学校(22期)卒、陸軍大学校(29期)卒。難関の陸軍大学校を中尉になってすぐに合格しており、荒川憲一は「下級将校時代はいわゆる優等生であったことは間違いない」と評しているが、陸大を卒業してからは18年間は専ら参謀本部陸軍省勤務であった為、典型的軍人官僚とも述べている[1]。大田嘉弘によれば、若いころに陸軍省勤務であった経験が人事を軽く見る後の行動につながったという[2]少佐時代にカムチャツカ半島に潜入し、縦断調査に成功している。

1937年(昭和12年)7月7日夜半に発生した盧溝橋事件では、現地にいた支那駐屯歩兵第1連隊の連隊長であった。牟田口は、同連隊第3大隊長だった一木清直から、同大隊第8中隊が中国軍の銃撃を受けたとして反撃許可を求められ、「支那軍カ二回迄モ射撃スルハ純然タル敵対行為ナリ 断乎戦闘ヲ開始シテ可ナリ」(支那駐屯歩兵第一連隊戦闘詳報)として戦闘を許可した。このことから、牟田口は、自身が日中戦争支那事変)の端緒を作り出したと考えるようになった。もっとも、盧溝橋事件を中国共産党の謀略により中国第29軍が起こしたとする見解を前提にすれば、牟田口の自意識過剰とも評される[3]

太平洋戦争

1941年(昭和16年)12月に太平洋戦争(大東亜戦争)が勃発すると、牟田口は第18師団長として開戦直後のマレー作戦シンガポール攻略戦の指揮を執った。指揮下の佗美支隊が先行してコタバルに強襲上陸を行い、橋頭堡を確保、1942年(昭和17年)1月3日、要衝クアンタンを占領した。牟田口廉也ら師団主力はマレー半島東海岸への敵前上陸作戦も計画されたものの、1月22日、すでに第25軍がクルアンに進出した頃、前線からおよそ1,000km後方のシンゴラに上陸、1月29日にクルアンに到着した[4]。シンガポールの戦いにおいて牟田口は、テンガーの飛行場を占領する際、肉薄したオーストラリア兵の手榴弾により左肩を負傷したが[4]、血まみれになりながらも作戦を指揮した。

ついで第18師団長として部下を率い、ビルマ戦線にも加わった。ビルマ占領後の1942年昭和17年)9月、南方軍インド東部のアッサム地方に侵攻する二十一号作戦を立案した際には、上司である飯田祥二郎第15軍司令官とともに、一挙にインド東部まで侵攻する二十一号作戦案は兵站面の準備不足で実現の見込みが無いとして反対し、同作戦を無期延期とさせた[5]。もっとも、牟田口は、二十一号作戦に反対したことについて、大本営や南方軍の希望を妨げ第15軍の戦意を疑わせてしまったとして後に反省している[6]

牟田口は1943年(昭和18年)3月に第15軍司令官に就任し、1944年(昭和19年)3月から開始されたインパール作戦では、ジャングルと2,000m級の山々が連なる山岳地帯での作戦を立案した。この作戦に対しては当初、上部軍である南方軍司令官や自軍の参謀、隷下師団のほぼ全員が、補給が不可能という理由から反対した[7]。しかしながら戦局の打開を期待する軍上層部の意向に後押しされる形で、最終的にはこの作戦の実施は決定されることとなった[注 1]

この作戦中、補給力の増強がままならないため[9]、牟田口は自軍での食料調達のために、現地で牛を調達し、荷物を運ばせた後に食糧としても利用するという「ジンギスカン作戦」を発案した。しかしもともとビルマの牛は低湿地を好み、長時間の歩行にも慣れておらず、牛が食べる草の用意もおぼつかず、また日本の牛とも扱い方が異なったため[10]、牛はつぎつぎと放棄され、「ジンギスカン作戦」は失敗した。また、当初の危惧通りインパール作戦が頓挫した後も強行・継続し、反対する前線の師団長を途中で次々に更迭した。このとき、戦況の悪化、補給の途絶にともなって第31師団佐藤幸徳中将が命令を無視して無断撤退するという事件を引き起こした。

このインパール作戦失敗の後、8月に第15軍司令官を罷免されて参謀本部附となり、12月に予備役編入される。翌1945年(昭和20年)1月に召集され、応召の予備役中将として陸軍予科士官学校長に補され、同年8月に敗戦を迎えた。

晩年

牟田口は戦後、東京都調布市で余生を過ごした。しばらくの間はインパール作戦に対する反省の弁を述べ、1960年昭和35年)頃まで、敗戦の責任を強く感じて公式の席を遠慮し続けながら生活していた[11]。しかし、1962年昭和37年)にイギリス軍の元中佐・バーカーからインパール作戦成功の可能性に言及した書簡[注 2]を送られたことを契機に、自己弁護活動を行うようになり[13]、死去までの約4年間にはインパール作戦失敗の責任を問われると戦時中と同様、「あれは私のせいではなく、部下の無能さのせいで失敗した」と頑なに自説を主張していた[注 3]。同様の主張は、多くの機会で繰り返された(#主要著述物も参照[注 4][注 5])。

国立国会図書館オーラル・ヒストリーの一環として盧溝橋事件についての証言の録音を牟田口に求め、1963年昭和38年)4月23日にその録音が実施された。このときにも、最初予定のなかったインパール作戦の回想の録音を頼み込んで1965年昭和40年)2月18日に実施された[注 6]

1966年(昭和41年)8月2日、喘息、胆六嚢症、心筋梗塞治療中に脳溢血を併発して死去。なお兵士たちへの謝罪の言葉は死ぬまで無かった。8月4日に行われた自らの葬儀においても、遺言により、自説を記したパンフレットを参列者に対して配布させた[17]。遺骨は多磨霊園に埋葬されたが、墓石は戒名のみが記された質素なものとなっている。

軍歴

  • 佐賀県立佐賀中学校、熊本地方幼年学校、中央幼年学校を経て、1910年(明治43年)5月28日[18]、陸軍士官学校卒業(22期)。歩兵科の恩賜5名には入らず[18]
  • 1910年(明治43年)12月、陸軍歩兵少尉。歩兵第13連隊(熊本)附。
  • 1913年(大正2年)12月、陸軍歩兵中尉。
  • 1917年(大正6年)11月27日、陸軍大学校卒業(29期)。席次は25位(総数57名)。[19]
  • 1918年(大正7年)7月、参謀本部附(船舶班[19])。
  • 1920年(大正9年)4月、陸軍歩兵大尉。参謀本部部員。
  • 1926年(大正15年)3月、陸軍歩兵少佐。近衛歩兵第4連隊附。
  • 1926年(大正15年)8月、近衛歩兵第4連隊大隊長。
  • 1927年(昭和2年)5月、陸軍省軍務局課員(軍務課)。
  • 1929年(昭和4年)2-8月、フランス出張。
  • 1929年(昭和4年)8月、参謀本部部員。
  • 1930年(昭和5年)8月、陸軍歩兵中佐。
  • 1933年(昭和8年)12月20日 参謀本部総務部庶務課長。
  • 1934年(昭和9年)3月、陸軍歩兵大佐。
  • 1936年(昭和11年)
  • 1938年(昭和13年)
  • 1939年(昭和14年)12月1日、陸軍予科士官学校長。
  • 1940年(昭和15年)8月1日、陸軍中将。
  • 1941年(昭和16年)4月10日、第18師団長
  • 1943年(昭和18年)3月18日、第15軍司令官
  • 1944年(昭和19年)
    • 8月30日、参謀本部附。
    • 12月、予備役。
  • 1945年(昭和20年)
    • 1月12日、召集。陸軍予科士官学校長。
    • 8月29日、免本職。
    • 9月、召集解除。
    • 12月、A級戦犯容疑で逮捕。
  • 1946年(昭和21年)9月、シンガポールに移送され裁判。
  • 1948年(昭和23年)3月、釈放。
  • 1966年(昭和41年)8月2日、没。

証言、人物評等

以下の証言の内、生前のエピソードは、牟田口やビルマ戦線関連の書籍などにおいて、匿名を含む関係者の証言として伝えられているものである。中でも高木俊朗の手になる小説『抗命』『全滅』は多くの証言を集めており、高木自身も牟田口に対して極めて批判的である。

  • 第18師団長時代、師団の池田後方主任参謀は牟田口について「中将は後方が無理解で、無理難題を幾度も押し付けられて泣かされたことがある」と述懐したことがある[20]
  • 第18師団長時代の牟田口は、上層部の立案した二十一号作戦に無謀だと反対したが、後に大本営や南方軍に逆らったことを反省している。このことについて、戦史研究家の土門周平は、上司に命じられたことにはただ従えば良いとする発想は、師団長にはふさわしくない下級将校の論理だと非難している[6]
  • 戦後に第18師団の元将兵との面接や部隊史の調査をした大田嘉弘によれば、第18師団長時代の部下の間ではインパール作戦時の前線将兵の証言と異なって、温情ある将軍で郷土の英雄として誇る見方が大多数であるという[21]
  • 作戦開始後1ヵ月半程が経過した4月22日、牟田口は第33師団司令部を視察した。当時第33師団は米国留学組の柳田師団長により、村を一つ占領する度に前進をストップし、部隊の掌握と補給線の維持に重きを置く「統制前進」により進撃を行っていたため、計画より前進が遅延していた。牟田口は「『弓』は何をしておるのか、何をまごまごしておるのか・・・・・・これでは、師団長が兵力の温存を図っているとしか考えられない」と激怒し、司令部の天幕内で柳田を大声で罵倒し、その様子は「あたかも伍長二等兵をどやしつける調子だった」と言う。師団長としての面目を潰された柳田は屈辱に打ち震えたと言う[22]
  • インパール作戦が敗色濃厚となり部下(参謀の藤原岩市)に「陛下へのお詫びに自決したい」と相談した(もとより慰留を期待しての事とされる)。これに対し部下は「昔から死ぬ、死ぬといった人に死んだためしがありません。 司令官から私は切腹するからと相談を持ちかけられたら、幕僚としての責任上、 一応形式的にも止めないわけには参りません、司令官としての責任を、真実感じておられるなら、黙って腹を切って下さい。誰も邪魔したり止めたり致しません。心置きなく腹を切って下さい。今回の作戦(失敗)はそれだけの価値があります」と苦言を呈され、あてが外れた牟田口は悄然としたが自決することなく[23]、余生をまっとうした。
  • インパール作戦失敗後の7月10日、司令官であった牟田口は、自らが建立させた遥拝所に幹部将校たちを集め、泣きながら次のように訓示した。「諸君、佐藤烈兵団長は、軍命に背きコヒマ方面の戦線を放棄した。食う物がないから戦争は出来んと言って勝手に退りよった。これが皇軍か。皇軍は食う物がなくても戦いをしなければならないのだ。兵器がない、やれ弾丸がない、食う物がないなどは戦いを放棄する理由にならぬ。弾丸がなかったら銃剣があるじゃないか。銃剣がなくなれば、腕でいくんじゃ。腕もなくなったら足で蹴れ。足もやられたら口で噛みついて行け。日本男子には大和魂があるということを忘れちゃいかん。日本は神州である。神々が守って下さる…」。訓示は1時間以上も続いたため、栄養失調で立っていることが出来ない幹部将校たちは次々と倒れた[24]
  • 第15師団後方主任参謀野中国男少佐は、1944年7月の佐藤師団長の更迭に際し、15軍の司令部に連絡の為訪れた。出迎えた牟田口の表情は当初温和そのものであったが、佐藤がラングーンに向け移動する途中で司令部に立寄った際にはわざと前線視察に出て会見を避けた。その翌日、牟田口は「烈の幕僚は、ひとりとして、腹を切ってでも佐藤師団長を諌める者は居ないのか」と腹切りに固執した。野中は、前日の物分りのよい司令官とは全く別の人間が現れたように感じたと言う[25][注 7]
  • 野中によれば、15軍司令部を見ていてすぐに分かったのは牟田口と幕僚の間が全く疎隔しており、意思疎通が無かったことであった。只一人牟田口に接近していたのが久野村桃代参謀長であった。参謀が意見具申をしていることがあっても、牟田口は頑なに意見を聞かなかった。一方、牟田口が示す命令は実行不能なものばかりで、参謀達は起案を拒否したため、牟田口が自身で起案していた[25]
  • 野中によれば、牟田口はこの頃「一度、教育総監をやってみたい」と口にし、周囲の笑いものになった[25]
  • クンタンの司令部にも日に日に英軍の砲声が近づいてきた。すると牟田口は当時4日後に移動を予定していたにもかかわらず、「今日すぐに出発する」と発言して周囲を狼狽させた[25]
  • 1944年8月頃、第31師団第58連隊の生き残りである内山一郎、高野(戦後上村に改姓)喜代治の両上等兵は部隊の集結点とされたシッタン周辺に居た。2人はそれぞれ少し離れた場所に居たが、前線視察に出てきた牟田口と15軍司令部の一団を目撃している。内山によれば牟田口は傷病兵を見て「貴様等のこのざまは何だ。それでも帝国陸軍か!こういうのを魂の抜け殻と言うのだ」と怒鳴り散らしていた。それでも兵達は動こうとしなかった。また、兵隊達が年次の低い兵を小突くように、お供していたある少佐を衆目の面前で「軍法会議ものだ。恥を知れ恥を」と殴りつけた[26]
  • 高野が見たその少し後の場面では、撤退し、他の将兵と同じようにぼろぼろとなっていたある師団の少佐が牟田口を見つけ、路上で申告した。牟田口は「貴様は病気を口実に後に下がった。自分の部下をどうしたのか。病気は何だ」と難詰し、少佐が「負傷とマラリアと下痢であります」と答えると「そんなものは病気じゃない。貴様のような大隊長が居るから負けるんだ。この大馬鹿者」と手持ちの杖でその少佐を何度も叩いた。高野もこの一団に誰何されたが、その際の内心を次のように書いている。
    「てめえらにシンから敬礼する気持ちのある兵隊なんざあ、一日中駆けずり回ったところで、一人でも居るかってんだ。(中略)てめえら俺達兵隊を虫ケラとでも思ってやがんのか!性根を据えて返答しやがれ!」[26]
  • 第33師団歩兵第213連隊で大隊長を務めていた伊藤新作少佐は牟田口率いる15軍から発せられる命令を無謀だと考え、面従腹背で済ませようとした。しかし、牟田口は伊藤を抗命罪で罷免し、伊藤がシッタンの軍司令部で牟田口に申告を行った際、罵声と共に杖で3回強打した。伊藤は「予の軍隊生活二十年の間、かくも悔しきことなかりき」と後任の大隊長に送った通信文で述べたと言う[注 8]
  • 第15師団山内正文戦闘詳報に「撃つに弾なく今や豪雨と泥濘の中に傷病と飢餓の為に戦闘力を失うに至れり。第一線部隊をして、此れに立ち至らしめたるものは実に軍と牟田口の無能の為なり」と名が挙げられている。
  • イギリス軍のアーサー・パーカー中佐は、昭和37年7月25日に牟田口へと渡された書簡で、意表をついた作戦と評価し、また、師団長の後退がなければ、最重要援蒋ルートであるレド公路への要衝でもあり、インパールへの補給・増援の起点でもある要衝ディマプールは落ちていたかもしれないと牟田口を高く評価した[28]。もっとも、たとえディマプールを占領できたとしても、維持できたかどうかは別問題である(詳細はインパール作戦)。このパーカー書簡を読んで以後、牟田口は戦後それまでの謝罪活動を止め、上述のように自己弁護につとめた。
  • 読売新聞は1970年頃誌上で『昭和史の天皇』と言う太平洋戦争関連のドキュメント企画を連載し、後に書籍化した。同書はその中で牟田口の弁明について一章を設け、「失意のどん底にあった老将軍が、日頃の鬱積した恨みをこの小冊子[注 9]にぶちまけたとしても、何も目くじらを立てて非難するには当たらないだろう」と記述した。高木俊朗は「個人的主観の評言が客観であるべき史書の記述に混じっているのは異様」と批判した[29]
  • 半藤一利も、兵站や部隊機械化を軽視する日本軍の風潮の極北の存在としてインパール作戦の失敗は牟田口の一連の作戦指導に責任があるという立場から、愚将と見做している[30]
  • イギリスでは、英第14軍司令官ウィリアム・スリムen)中将が回想録Defeat into Victoryでインパール作戦を痛烈に批判しており、「日本陸軍の強みは上層部になく、その個々の兵士にある」と下士官兵を賛辞する一方で、「河辺将軍とその部下」ら高級指揮官については「最初の計画にこだわり応用の才がなく、過失を率直に認める精神的勇気が欠如」「日本の高級司令部は我々をわざと勝たせた」と皮肉っている[注 10]。軍事史研究者のジョン・フェリスは「無能」の一言で切り捨てている[32][注 11]。他方、ウィンゲート旅団en)参謀長のデリク・タラク少将は著書で、牟田口の作戦指導についてはイギリス側からジョセフ・スティルウェルクレア・リー・シェンノートに対するのと並んで低評価されているとしたうえで、インパール作戦以外の主要戦闘では勝利を収めており、最後のインパール作戦でもワーテルローの戦い以上に劣勢な戦力で非常に際どいところまで戦ったと高く評価する私見を述べている[34]
  • インパール作戦当時は参謀本部第三部長、牟田口の予備役編入後の1945年(昭和20年)2月に陸軍省人事局長となり、陸軍消滅まで同職にあった額田坦中将は、下記のように牟田口に同情的な見解を述べている[35]
  1. 参謀本部第三部長であった額田はインパール作戦の経過を注視しており、コヒマ進出を聞き狂喜していた。コヒマという要衝を占拠しながら、まさか佐藤幸徳師団長が独断退却に決するとは夢想だにしなかった。牟田口軍司令官の無念のほどは察するに余りある。
  2. 戦後、当方面の英軍参謀中佐は牟田口中将に書面を寄越し「何故もう一押ししなかったのか?当時英軍は危機に瀕していた」と書き、特にコヒマ進出を称えていた由。
  3. 多くの書類に、本作戦の強行は、「牟田口軍司令官の熱意に押しまくられた」と書かれているが、牟田口軍司令官の企図が無謀ならば、河辺正三方面軍司令官はなぜこれを抑えなかったか。さらに総軍は如何。総軍は、1944年(昭和19年)1月には綾部橘樹参謀副長を上京させて、本作戦の遂行を具申している。そして、大本営はついにこれを承認した。
  4. 牟田口中将の帰還、予備役編入は一応やむなしとするも、もし本作戦が最初から無謀で決行すべきでなかったとすれば、インパール作戦開始前に転職せしめるべきではなかったか。作戦開始後、頽勢挽回の出来ない1944年(昭和19年)8月ともなれば、そのまま現職を遂行させて、牟田口中将にビルマで死処を与えるべきではあるまいか。これが「葉隠れ武士[注 12]」に対する礼であったように考える。
  5. インパール作戦後、牟田口中将が予備役に追われたのに対し、河辺中将が現役に留まって1945年(昭和20年)3月に大将に親任され、同年4月に航空総軍総司令官に栄進したのには割り切れない感を持つ。

以上の様に、牟田口に関しては司令官としての資質を疑問視する声が強い。これらは主にインパール作戦においての暴走、大敗北に起因する物であるが、必ずしも牟田口の暴走のみにより作戦が決行された訳ではない、勝敗は紙一重の所であった、など、牟田口の作戦指揮に対して好意的な解釈も一部に見られる。

主要著述物

  • 『一九四四年ウ号作戦に関する国会図書館における説明資料』32頁 1964年4月23日付
    • 国会図書館での2度目の録音の為に牟田口が準備した説明資料。B6版で32頁の小冊子[36]。牟田口は機会を見ては配布を繰り返した為、『抗命 インパールII』にも主要部分が引用されている[注 13]。『抗命』内で『牟田口文書』と呼んでいる。
  • 『インパール作戦』NHK 1965年7月16日放送
    • 証言者として出演し、佐藤幸徳を批判した。

注釈

  1. ^ 南方軍の綾部総参謀副長は総司令官寺内寿一元帥の上申書を携えて大本営参謀本部に赴き「作戦全域の光明をここに求めての寺内元帥の発意であるから、まげて承認願いたい」と許可を求めた。作戦に反対した第一部長・真田穣一郎は参謀総長・杉山元に別室に呼ばれ、「寺内さんの始めての要望だ。やらせてよいではないか」と指示されて反対意見は封じられている。また、ビルマ方面軍の司令官・河辺正三は、「インパール作戦を全面的に是認し、強力にこれを実行することを企画したのはビルマ方面軍である。したがって、牟田口中将の発意によるがごとき論断は適当ではない」と作戦終了直前に述べている[8]
  2. ^ パーカーの書簡には、「もし日本の連隊がディマプールに突進しておれば、インパールも日本軍によって占領されていたでありましょう。なぜなら、佐藤師団がディマプールに突入していたら、英第四軍団はインパールから撤退していたからであります。」と記されていたという[12]
  3. ^ 1966年7月1日北九州市八幡区で開かれた北九州ビルマ方面戦没者合同慰霊祭における牟田口本人の発言[14]
  4. ^ バーカー中佐とのやり取り以降の牟田口の自己弁明については、「戦いの跡」『抗命 インパールII』、284-287頁に詳しい。同書で挙げられている雑誌の事例として、#主要著作物の「わが作戦に誤りなし」『週刊サンケイ』、「パーカー氏との往復書簡」『文藝春秋』がある。
  5. ^ ほか、『』1964年12月1日号に山岡荘八との対談が掲載されている[15]
  6. ^ 録音の経緯については、高木俊朗が東京新聞記者の槌田満文と共に国会図書館を訪ね、プロジェクトの担当者から聴取したところによる[16]
  7. ^ 野中は戦後、捕虜収容所で『その日その後』と言う回顧録を書き残した。軍司令部に行った際にマラリアにかかり、暫くの間滞在していた為、15軍司令部の様子について記録されている。
  8. ^ 伊藤の部下で軍医だった小沢太郎『回想 インパールわが生涯の夏野』(私家版)からの紹介[27]。上村喜代治の著書と場所、階級、仕打ちが一致しているが、両事件が同一である旨の説明はどちらにもなく不明。
  9. ^ いわゆる『牟田口文書』のこと
  10. ^ スリムの高級指揮官に対する評価は「河辺将軍とその部下」として牟田口等を一括して取り扱っている[31]
  11. ^ 荒川憲一も下記でこの評価を引用している[33]
  12. ^ 牟田口は葉隠思想の本場である佐賀県の出身。
  13. ^ 配布したのは北九州ビルマ方面戦没者慰霊祭(1965年7月11日)、自身の会葬時(1966年)など[37]

出典

  1. ^ 荒川(2002年)、152頁。
  2. ^ 大田(2009年)、526頁。
  3. ^ 土門(2005年)、132頁。
  4. ^ a b 立川京一 (2002年9月). “マレー・シンガポール作戦 -山下奉文を中心に-” (PDF). 防衛研究所. 2011年11月23日閲覧。
  5. ^ 土門(2005年)、68-69頁。
  6. ^ a b 土門(2005年)、131頁。
  7. ^ 『防人の詩 インパール編』、4-9頁。
  8. ^ 大田(2009年)、9、80頁。
  9. ^ 大田(2002年)、121、165頁。
  10. ^ 『責任なき戦場』、148頁。
  11. ^ 伊藤(1973年)、197頁。
  12. ^ 大田(2009年)、287頁。
  13. ^ 『抗命 インパールII』、22-39頁。
    『責任なき戦場』、233頁。
    半藤ほか(2008年)、199頁。
  14. ^ 『抗命 インパールII』、286頁。
  15. ^ 磯部(1984年)「第七章 五 軍司令官牟田口中将の評価」
  16. ^ 「秘史の録音」『抗命 インパールII』
  17. ^ 『抗命 インパールII』、287頁。
  18. ^ a b 秦郁彦編著『日本陸海軍総合事典』東京大学出版会1991年(平成3年)、596頁。
  19. ^ a b 『日本陸海軍総合事典』、536頁
  20. ^ 野口省己 『回想 ビルマ作戦』 光人社〈光人社NF文庫〉、1999年、70頁。
  21. ^ 大田(2009年)、521頁。
  22. ^ 児島襄 『太平洋戦争 下巻』 中央公論新社〈中公文庫〉、1974年、148-149頁。
  23. ^ 中井悟四郎中尉の記録(『抗命 インパールII』、277-278頁、『責任なき戦場』、231頁)。
  24. ^ 高木『抗命』(1966年)、248頁。
  25. ^ a b c d 高木俊朗「烈師団参謀の自決」『文藝春秋』1966年11月。
  26. ^ a b 上村喜代治 『インパール―烈兵団 重機関銃中隊の死闘記』 光人社〈光人社NF文庫〉、2000年、295-305頁。
  27. ^ 牧野弘道「あの戦争 軍医の戦記1 インパール作戦の裏面」『産経新聞』2001年5月20日朝刊10面
  28. ^ 「戦いの跡」『抗命 インパールII』。
    大田(2009年)、287頁。
  29. ^ 「文庫版あとがき」『抗命 インパールII』、301頁。
  30. ^ 半藤ほか(2008年)、200頁。
  31. ^ 磯部(1984年)、303頁。
    『抗命 インパールII』、300頁。
  32. ^ ジョン・フェリス「われら自身が選んだ戦場」『日英交流史3』東大出版会、2001年、226頁。
  33. ^ 日本の戦争指導におけるビルマ戦線—インパール作戦を中心に—(PDF形式)」、152頁。
  34. ^ デリク・タラク(著)、小城正(訳)『ウィンゲート空挺団』早川書房、1978年、15頁。
  35. ^ 額田(1977年)、139-143頁。
  36. ^ 大田(2009年)、286頁。
  37. ^ 「戦いの跡」『抗命 インパールII』。

参考文献

以下は小説である。

  • 高木俊朗 『インパール』 文藝春秋〈文春文庫〉、1975年。
  • 同上 『抗命―インパール 2』 同上、1976年。
    • (ハードカバー版)『抗命―インパール作戦 烈師団長発狂す』 文藝春秋、1966年。
  • 同上 『全滅―インパール 3』 文藝春秋〈文春文庫〉、1987年。
  • 同上 『憤死―インパール 4』 同上、1988年。
  • 同上 『戦死―インパール牽制作戦』 同上、1984年。

関連書籍

  • 山岡荘八 『小説 太平洋戦争』 講談社、1965-1971年。

関連項目

外部リンク