浅野中学校・高等学校
浅野中学校・高等学校 | |
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過去の名称 |
浅野綜合中学校 浅野学園中学校・高等学校 |
国公私立の別 | 私立学校 |
設置者 | 学校法人浅野学園 |
校訓 |
愛と和 九転十起 |
設立年月日 | 1920年1月20日 |
創立者 | 浅野總一郎 |
共学・別学 | 男女別学(男子校) |
中高一貫教育 | 完全一貫制 |
課程 | 全日制課程 |
単位制・学年制 | 学年制 |
設置学科 | 普通科 |
高校コード | 14511E |
所在地 | 〒221-0012 |
神奈川県横浜市神奈川区子安台一丁目3番1号 | |
外部リンク | 公式サイト |
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浅野中学校・高等学校(あさのちゅうがっこう・こうとうがっこう)は、神奈川県横浜市神奈川区子安台一丁目にある私立中学校・高等学校。中高一貫制男子校。
概要
実業家・浅野總一郎により、1920年(大正9年)にされた。アメリカ視察から帰国した浅野総一郎が、 当時の日本の教育が教養主義に偏っているのを憂い、実学主義に基づく幅広いバランスの取れた教育を行うという新しい理念をもって創立された学校である。勤労主義に基づいた教育(ゲーリーシステム)を導入、実践的な教育を志向し、学校内に実習工場を設置するなど革新的システムを取り入れた。旧校名である浅野綜合中学の「綜合」には、教養主義に陥らない幅広い知識と実践的指導力を身につけさせるという意味が込められている。
沿革
略歴
浅野總一郎は大正期に米国視察を通じ、フォード・モーター等米国の有力企業で人材教育が重視されていることを知り感銘を受け、本学園設立を着想。教養と高度な職業能力を併せ持ちリーダーシップを発揮しうる人材を浅野財閥各社をはじめとする企業へ供給するということを意図して設立された。当初はアメリカのゲイリーシステムという勤労主義を導入。学内の一角に作られた工場による技術教育と、実用的な語学教育を特色としていた。
戦後の学制改革に伴い旧制中学を改組し中高一貫体制を確立、進学校を志向する。1980年代頃より東大早慶等の難関大学への進学実績を伸ばしている。神奈川の男子私立御三家の1つに数えられている。
年表
- 1920年1月 (大正9年) - 淺野總合中學校の設置が認可。
- 1920年4月 (大正9年) - 初代校長に水崎基一就任
- 1923年 (大正12年) - 実習場が建設され、工場実習が課外必修となる
- 1923年9月 (大正12年) - 関東大震災により校舎の大部分が倒壊
- 1924年5月 (大正14年) - 浅野總一郎翁の初代銅像落成
- 1925年5月 (大正14年) - 校内にコンクリート工法講習所(現在の浅野工学専門学校の前身)
- 開設
- 1937年8月 (昭和12年) - 第23回全国中等学校野球選手権大会出場
- 1937年11月(昭和13年) - 初代校長水崎基一死去
- 1938年7月 (昭和13年) - 第二代校長に神名勉聰就任
- 1938年8月 (昭和13年) - 第24回全国中等学校野球選手権大会出場、ベスト8
- 1939年3月 (昭和14年) - 第16回選抜中等学校野球大会出場
- 1943年 (昭和18年) - 戦時協力のため初代銅像供出
- 1945年5月 (昭和20年) - 空襲により木造校舎の全部を焼失
- 1947年3月 (昭和22年) - 新学制により浅野学園中学校を設置
- 1948年3月 (昭和23年) - 新学制により浅野綜合中学校は新制高校に移行
- 校名を浅野学園高等学校と改称する
- 1948年8月 (昭和23年) - 第30回全国高等学校野球選手権大会出場
- 1951年3月 (昭和26年) - 私立学校法の制定により財団法人が発展解消して、
- 学校法人浅野学園となる
- 1951年3月 (昭和26年) - 浅野学園高等学校および浅野学園中学校を、
- それぞれ浅野高等学校、浅野中学校と改称する
- 1959年6月 (昭和34年) - 循環式プール建設
- 1964年9月 (昭和39年) - 体育館竣工
- 1965年11月(昭和40年) - 球戯場竣工
- 1967年6月 (昭和42年) - 学園長に神名勉聰、第三代校長に濱野駿吉就任
- 1970年1月 (昭和45年) - 創立50周年、理科館・食堂設置
- 1971年10月(昭和46年) - 校地が神奈川県愛護林鳥獣保護区に指定される
- 1972年1月 (昭和47年) - 格技場(剣道場)竣工
- 1978年4月 (昭和53年) - 第四代校長に石山延雄就任
- 1984年5月 (昭和59年) - 新格技場(柔道場)竣工
- 1984年9月 (昭和59年) - ハードテニスコート竣工
- 1985年9月 (昭和60年) - 第1回打越祭(文化祭・体育祭)開催
- 1987年3月 (昭和62年) - 高校新校舎(現中学校舎)竣工
- 1990年1月 (平成2年) - 第五代校長に山口敬三就任
- 1994年9月 (平成6年) - 第六代校長に石橋義史就任
- 1995年7月 (平成7年) - 本館・中学・高校新校舎竣工、食堂閉鎖
- 2000年1月 (平成12年) - 創立80周年
- 2002年4月 (平成14年) - 学園長に石橋義史、第七代校長に淡路雅夫就任
- 2004年3月 (平成16年) - 学園長石橋義史退任
- 2006年2月 (平成18年) - クラブハウス竣工
教育方針
概要
自主独立の精神、義務と責任の自覚、高い品位と豊かな情操を具えた、心身共に健康で、創造的な能力を持つ、逞しい人間の育成に努める。
校訓
スローガン
- 各駅停車
カリキュラム
特色として、希望大学への進学を実現するための6ヵ年カリキュラム、授業を基本にした効率的な指導、実績に裏付けられたオリジナルテキストの利用、の三点が挙げられる。
校章の由来
3つのAと月桂樹から形作られている。
Aは浅野の頭文字であると同時に“一番・優秀”の象徴であり、3は“智・仁・勇”“天・地・人”を意味している。 「常に誇り高き勝利者たれ」という生徒たちへの願いが込められている。
校歌
作詞・高野辰之、作曲・信時潔
旧制浅野綜合中学時代に制定された。戦時中、3番の「身を立て道を尽くして後に…」の部分が「身を立て国に尽くして後に…」に変更されていた。浅野学園同窓会ホームページで、聴くことができる。
校風
旧制中学時代からの質実剛健・バンカラ気質であるといわれている。
中高一貫教育であり、クラブ活動への参加率も高く、教員の多くが本校OBでもあることから人的結びつきが強くアットホームな雰囲気が醸成されている。第三代以降の歴代校長は本校OBである。
神奈川県内の中高一貫校のなかにあって、戦後生まれのミッションスクールである栄光学園・聖光学院・サレジオ学院や、大規模新興校である桐蔭学園・桐光学園、仏教系の鎌倉学園、大学まで一貫の慶應義塾各校とは異なった校風であり、私学ではあるが県立高校に似た雰囲気を持っている。
制服は古くから中高ともに黒の詰襟で、かつては制帽もあった。
クラブ活動
体育系17部、文化系12部。任意加入であるが、参加率は中学生ではほぼ100%、受験生である高校3年生でも運動部を中心に3分の2の生徒がチームの中核として引退せずにクラブ活動を続けている。クラブ活動に熱心な生徒は学業成績も概して良好である。
戦前~戦後まもない頃は神奈川県内屈指の野球の強豪校として知られ、甲子園に春1回・夏3回出場している。最高位は全国ベスト8。戦後は、夏の県大会優勝1回(甲子園出場)、同ベスト4が2回、秋季県大会優勝3回、春季県大会優勝1回。
棋道部は近年、文部科学大臣杯中学校囲碁団体戦全国大会で好成績(第3回大会はベスト8、第4回大会は優勝、第5回大会は準優勝)を収めている。
ジャグリング部は全国大会や世界大会などで好成績を収めている。
地理
京浜工業地帯、ベイブリッジを眼下に見渡す高台に位置し、曇天でもよく見える。晴れた日には遠くに富士山を望むこともできる。 58,655m²の広大な敷地を有し、そのほぼ半分は浅野総一郎翁像がある「銅像山」と呼ばれる自然林に占められ、豊かな緑で包まれている。 校地の東側に隣接する「子安台公園」は、戦前まで校地の一部であったが、戦時中に陸軍に高射砲陣地として接収され、返還されることなく公有地となったものである。
交通
施設
校内
敷地内には、グラウンド、本館、中学棟、高校棟、講堂、生徒ホール、体育館、プール、第1広場、第2広場、多目的コート、部室、クラブハウス(中学生用部室)、テニスコート、格技場(柔道場)、剣道場、卓球場、ハンドボールコート、浅野總一郎翁の銅像がある。地下2階、地上5階建ての高校棟は最新機器を導入したコンピュータ室、120インチビデオプロジェクターを備えた語学演習室をはじめ先進の教育環境を整えている。2007年春には中学棟に新しくエレベーターが設置されるなどバリアフリー化も進んでいる。スポーツ施設が各種整い、クラブ活動や体育の授業に活用されている。
銅像山と浅野翁像
銅像山とは、校地の南東に位置する小高い山。頂上には浅野總一郎翁の巨大な銅像が置かれている。台座には、浅野總一郎が設立に関与した各企業名等の記された銘版が埋め込まれ、彼の業績が讃えられている。山頂は駐車場としても利用される広場になっており、浅野翁の開拓した京浜工業地帯を見下ろせる。
銅像山西側斜面には昭和後期まで防空壕がそのまま残されていた。防空壕はエスケープポイントして活用されていた時期もあった。
著名な出身者
- 政治
- 大出俊(元衆議院議員、元郵政大臣)
- 藁科満治(元参議院議員、元内閣官房副長官、電機連合顧問)
- 小泉一郎(元神奈川県議会議員JAセレサ川崎組合長)
- 加藤行一(横須賀市議会議員、元横須賀市議会議長、関東議長会会長)
- 経済・経営
- 堀威夫(ホリプロ取締役ファウンダー)
- 長谷川耕造(グローバルダイニング代表取締役)
- 井上惠博(ケーユー会長兼社長)
- 西谷誠一(監査法人トーマツ元代表社員)
- 田中義正(電通リサーチ元社長)
- 柴田博一(キーコーヒー名誉会長、元社長、会長)
- 上浦種彦(昭栄元社長、会長)…村上ファンドによる敵対的TOBを受けた時の社長
- 法曹
- 加藤修(弁護士、水俣病第三次弁護団)
- 学術・教育
- 永沢満(名古屋大学名誉教授、元豊田工業大学副学長)
- 北本勝ひこ(東京大学教授)
- 太幡利一(昭和薬科大学名誉教授)
- 佐藤寿(元日本大学教授)
- 本谷勲(東京農工大学教授)
- 桜井一郎(明治大学教授)
- 西山良雄(東北学院大学教授、大学院文学研究科長)
- 志村幸雄(関東学院大学教授)
- 山口彦之(東京大学名誉教授)
- 青柳剛(酪農学園大学教授)
- 岩本秀雄(大妻女子大学教授)
- 田中啓陽(香川大学名誉教授)
- 畑孝一(社会学者、奥羽大学教授、福島大学名誉教授、教育学部長)
- 山口惇(元横浜国立大学教授、工学部長、工学研究院長、工学府長)
- 宗川吉汪(京都工芸繊維大学教授)
- 冨安博(東京工業大学教授)
- 棟方正信(北海道大学教授)
- 蔦尾和弘(岡山大学准教授)
- 文化・芸術
- スポーツ
- 小川利雄(プロ野球)
- 茅野健一(プロ野球)
- 山本次郎(プロ野球)
- 石原光男(プロ野球)
- 飯田徳治(プロ野球)
- 渡辺和三(クレー射撃:92年オリンピックバルセロナ大会銀メダル・クレー射撃トラップ)
- 田尾純一(ボクシング:77年岡山総体出場、慶大ボクシング部監督・神奈川県アマチュアボクシング連盟理事)
- 中村開 (ボクシング:高校総体出場、慶大ボクシング部時代全国選手権入賞・神奈川県アマチュアボクシング連盟審判員)
- 報道・マスコミ
- 堺正幸(フジテレビアナウンサー)
- 野村優夫(NHKアナウンサー)
- 井上二郎(NHKアナウンサー)
- 秋元近史 元(日本テレビディレクター)
- 関谷浩至 元(TBSテレビディレクター)(TBSラジオパーソナリティー)
- 歴代学校長
- 浜野駿吉(第三代:大正14年卒)
- 石山延雄(第四代:昭和6年卒)
- 山口敬三(第五代:昭和18年卒・化学)
- 石橋義史(第六代:昭和29年卒・現代文)
- 淡路雅夫(第七代:昭和38年卒・政治経済)
- 阿部義広(現校長:昭和44年卒・現代文)