水道
水道(すいどう)は、
水道は英語では、水の供給を water supply(または water service)、その設備を waterworks と呼ぶ。水道は大別して、上水道、中水道、下水道、簡易水道、工業用水道がある。
より一般的には上水道(水)を指して水道と呼ぶことが多く、日本の水道法においても「水道」を「導管及びその他の工作物により、水を人の飲用に適する水として供給する施設の総体」と定義している(水道法3条1項本文)。なお、臨時に施設されたものについては水道法上の「水道」からは除外される(水道法3条1項ただし書き)。
水質汚染に対応する水処理は、下水だけでなく上水でも行われている。取水や排水の際には、濾過や沈殿凝集、消毒などの処理が行われており、浄水の水質を保ち、排水によって環境を汚染しないように考慮されている。水質の維持や、異臭などに対応するため、高度浄水処理も行われるようになり、活性炭やオゾンなどが用いられている。
世界の水道
歴史を通じて人々は、より便利に水を取得して利用する装置・機関を考案してきた。水路を使用した水道の発祥地はバビロニアといわれる。
2004年には、世界の約35億人(全人口の54%)が家庭で水道の配管を通して水を利用した。別の13億人(同20%)が家庭以外の水道で安全な水を利用した。さらに別の10億人(同16%)以上は安全な水を利用できなかった。
水の供給と健康には大きな関係がある。排泄物などに触れた水を飲むことで、コレラや赤痢、チフスなどの病気が流行する。また、特に体力の弱い乳幼児は、不浄な水の摂取による下痢による脱水症状で、毎年多数が死亡している。
また、清浄な水は洗濯や入浴、食品や食器の洗浄などにも必要である。
日本の水道
水道管を使用した物としては戦国時代後期中国の各地大都市に敷かれた上水道が発見されている中で最も古い。
室町時代後期(戦国時代)相模の戦国大名北条氏康によって小田原城城下町に小田原早川上水が建設されたのが最古の記録である。さらに1583年(天正11年)には豊臣秀吉によって大坂城城下町に日本初の下水道太閤下水(背割下水)が建設された。その後、1590年(天正18年)の小田原征伐において水道を目の当たりにした徳川家康など諸大名により、江戸に水を供給する神田上水や玉川上水などを始め、局所に水道が建設された。これらは基本的に各戸給水をするものではなかった。その隙をつくように長崎へはコレラが上陸し、長崎海軍伝習所が日程を中断しなければならなくなるほどであった。横浜も状況は類似していた。
明治初期の水道史は惨憺たるものであった。西南戦争の起きた1877年には長崎から来たコレラが大阪で蔓延し、罹患者およそ1600人、うち死亡者およそ1200人を数えた。ここに西洋の近代的水道を導入する強い動機があった。オランダなどからお雇い外国人を招いたり、民間事業者を募集して空振りに終わったりしながら、公衆衛生の確保のため都市部を中心に上水道を敷設、1888年に簡易水道こみで普及率2%を確保した。一般には近代化の相当進んだ時期とされる大正末期ですら普及率は20%にとどまった。[1]
その後第二次世界大戦期は地下断水によるザル給水という壊滅的被害を蒙った。戦後復興と高度経済成長期を経て飛躍的に普及したが、同じ敗戦国のドイツに普及率で大きく差をつけられた理由と、自治体が水道のために連発した地方債引受人の素性は謎に包まれている。おおむね1975年(昭和50年)ごろには一部を除き日本全国に上水道網が完成した。また、経済成長や、風呂・洗濯機などの普及に伴って生活用水、工業用水の需要は大きく増加し、各地でダムの建設など、水源の確保が図られた。
脚注
- ^ 近代水道整備事業は財源7割以上が地方債により調達され、そのおよそ半分は外債であった。
- 坂本大祐 我が国の近代水道創設事業とその財源について 2014年3月