山形県立寒河江高等学校
山形県立寒河江高等学校 | |
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北緯38度22分51.3秒 東経140度16分9.8秒 / 北緯38.380917度 東経140.269389度座標: 北緯38度22分51.3秒 東経140度16分9.8秒 / 北緯38.380917度 東経140.269389度 | |
過去の名称 | 山形県立寒河江中学校 |
国公私立の別 | 公立学校 |
設置者 | 山形県 |
学区 |
山形県東学区(村山地方の一部) 北学区(最上地方、北村山) |
併合学校 | 山形県立高松高等学校 |
設立年月日 | 1921年4月 |
創立記念日 | 5月1日 |
共学・別学 | 男女共学 |
課程 | 全日制課程 |
単位制・学年制 | 単位制 |
設置学科 | 普通科 |
学期 | 2学期制 |
学校コード | D106220650011 |
高校コード | 06112D |
所在地 | 〒991-8511 |
山形県寒河江市六供町二丁目3番9号 | |
外部リンク | 公式サイト |
ウィキポータル 教育 ウィキプロジェクト 学校 |
山形県立寒河江高等高校(やまがたけんりつ さがえこうとうがっこう、英称:Yamagata Prefectural Sagae High School)は山形県寒河江市にある県立の高等学校。略称は「寒高」(かんこう)。
概要[編集]
- 歴史
- 旧制中学校を前身とする。旧・西村山郡寒河江町には1902年(明治35年)に「西村山郡立西村山中学校」が開校したが、翌年起こった火災により1904年(明治37年)にわずか2年あまりで閉校した。その後、旧制中学校が町内に存在しない期間が17年続いたが、1921年(大正10年)に県立の旧制中学校「山形県立寒河江中学校」が開校し、1948年(昭和23年)の学制改革で新制高等学校となった。1921年(大正10年)を創立年としている。
- 教育目標
- 遠大な開拓者精神とはつらつとした自由の精神を基盤に、質実剛健と気品清純の気風を継承発展させる。
- 自ら学ぶ姿勢を培い、英知ある人間を育てる。
- 健康なからだと豊かなこころをもった人間を育てる。
- 創造力に富み、責任感と実践力をもって、たくましく生きる人間を育てる。
- 広い視野を持ち、自己の可能性を最大限に発揮できる人間を育てる。
- 校章
- 山査子(さんざし、メイフラワー)をモチーフにしており、校内にも木が植えられている。
- 校歌
- 現在の校歌は創立30周年目の1951年(昭和26年)に制定された。作詞は神保光太郎、作曲は芥川也寸志による。歌詞は3番まであり、校名は歌詞中に登場しない。
- なお旧制中学校時代の校歌は作詞が土井晩翠、作曲が梁田貞によるもの。
- 応援歌
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- 「緑ヶ丘」(作詞作曲者は不明)
- 「嗚呼繚乱と」(作詞:井上五郎、作曲:秋葉光市)
- 「桜にかおる」(作詞:井上五郎、作曲:松田光郎)
- 「飾るさんざし」(作詞:橋本宏、作曲:菊地義美)
- 授業
- 基本的に授業時数は50分×6コマであるが、火・水・木(木は1年をのぞく)は基本的に50分×7コマとなる。2001年(平成13年)から生徒に時間の意識を持って欲しいとの理由でチャイムは鳴らさない「ノーチャイム制」をとっている。更に、平成25年度より進学型単位制へ移行し、2学期制を導入している。水曜日の7コマ目は基本的に全学年LHR(ロングホームルーム)があり、講話や各クラスレクレーションをする時間にあてられる。
- 進路指導
- 進路室には様々な進路に関する書籍及び書類またはDVDや、各大学に関する資料などがある。
- 進路講演も1年生のうちから行われ、成績上位者が参加できる勉強会もある。卒業生の受験生活を綴った合格体験記や、過去の卒業生の受験結果が載せてある「進路の指針」という冊子のように独自で作っている書物もある。
- 同窓会
- 「長陵同窓会」(長陵の読みは「ちょうりょう」)と称している。
高松校舎[編集]
果樹園芸科は本校とは別の校地・校舎を持っていた。2015年の閉科後、山形県立左沢高等学校に農場、果樹園を移管して、左沢高校果樹園芸系列で引き続き農業教育が行われている。
- 果樹園芸科(閉科) - 〒990-0524 山形県寒河江市大字高松49(北緯38度23分53.9秒 東経140度14分37.3秒 / 北緯38.398306度 東経140.243694度)
沿革[編集]
- 前史
- 正史
- 旧制中学校時代
- 1921年(大正10年)
- 4月 - 「山形県立寒河江中学校」が開校(創立年)。仮校舎を西村山郡役所内に設置。
- 11月 - 現在地に移転。
- 1926年(大正15年)
- 3月 - 第1回卒業式を挙行。70名が卒業。
- 8月 - 同窓会が発足。
- 1945年(昭和20年)
- 4月 - 学校での授業を停止。ただし勤労動員は開始。
- 9月 - 授業を再開。
- 1947年(昭和22年)4月1日 - 学制改革(六・三制の実施)が行われる。旧制中学校の募集を停止。
- 新制高等学校
- 1948年(昭和23年)
- 4月1日 - 学制改革(六・三・三制の実施)により、旧制中学校は廃止され、新制高等学校「山形県寒河江高等学校」(男子校)が発足。通常制普通課程を設置。
- 5月 - 定時制普通課程(男女ともに募集、修業年限4年)を設置。ただし通常制(全日制)普通課程は男子校のみ。
- 1949年(昭和24年)
- 1951年(昭和26年)12月 - 創立30周年を記念し、校歌を制定。
- 1952年(昭和27年)4月 - 通常制および定時制に家庭課程を設置。
- 山形県立高松高等学校(本校及び西川分校)を統合し、高松分校(定時制2課程(農業・家庭))と西川分校(定時制2課程(普通・家庭))の2校を設置。
- 1954年(昭和29年)4月 - 女子制服を制定。
- 1956年(昭和31年)4月1日 - 高松分校に通常制農業課程を設置し、農業校舎とする。農業校舎定時制家庭課程の募集を停止。
- 1957年(昭和32年)4月1日 - 西川分校の普通課程の募集を停止し、農業課程を設置。
- 1960年(昭和35年)
- 6月 - 体育館が完成。
- 9月 - 弓道場が完成。
- 1962年(昭和37年)
- 4月 - 本校の定時制2課程(普通課程・家庭課程)の募集を停止。
- 7月 - 山形県立寒河江工業高等学校準備委員会が校舎内に設置される。
- 1963年(昭和38年)
- 4月1日 - 通常制を全日制課程、定時制を定時制課程、普通課程・農業課程・家庭課程をそれぞれ普通科・農業科・家政科に改称。山形県立寒河江工業高等学校を併設。
- 8月 - 寒河江工業高等学校の校舎が完成し、移転を完了。これに伴い併設を解消。
- 1965年(昭和40年)4月30日 - 西川分校の4年生が関西への修学旅行に行くために乗ったバスが、国道1号を走行中、静岡県磐田郡豊田村で大型ダンプカーと衝突、生徒2人およびバスガイドの3人が死亡、19人が負傷した[1]。
- 1966年(昭和41年)
- 3月 - 本校の定時制課程を廃止。
- 4月1日 - 本校全日制課程家政科の募集を停止。
- 1967年(昭和42年)4月1日 - 西川分校定時制の家庭科を生活科に改称。
- 1974年(昭和49年)
- 7月 - 長陵会館(同窓会館)が完成。
- 8月 - 長陵会館に食堂がオープン。
- 1980年(昭和55年)5月 - 同窓会育英奨学資金設立・貸与を開始。
- 1986年(昭和61年)4月1日 - 西川分校に定時制課程普通科を設置。これに伴い、農業科と生活科の募集を停止。
- 1987年(昭和62年)4月1日 - 農業校舎(旧・高松分校)に果樹園芸科を設置。農業科の募集を停止。
- 1988年(昭和63年)
- 4月1日 - 西川分校の募集を停止。
- 7月 - 武道館を解体。
- 1989年(平成元年)
- 3月 - 学習センターが完成。
- 9月 - プールを解体。
- 1990年(平成2年)8月 - 新体育館と柔剣道場が完成。
- 1991年(平成3年)3月31日 - 西川分校が閉校。
- 1992年(平成4年)4月 - 校章を新調。
- 1993年(平成5年)3月 - 農業校舎実習用地の清助新田冨沢の水田120.99m2を東北電力に譲渡。
- 1995年(平成7年)3月 - 新グラウンド(第4種公認陸上競技場)が完成。
- 1999年(平成11年)2月 - 推薦入試を開始。
- 2001年(平成13年)5月 - 第1回月陵聖火祭を開始。ノーチャイム日課を開始。
- 2004年(平成16年)7月 - 新プールが完成。
- 2006年(平成18年)4月 - 文部科学省から学力向上拠点形成推進事業の指定を受ける。
- 2008年(平成20年)4月 - 普通科定員が5学級200人になる。
- 2010年(平成22年)3月 - 旧体育館を解体。
- 2013年(平成25年)4月 - 果樹園芸科の募集を停止。推薦入試を廃止。
- 2015年(平成27年)3月31日 - 果樹園芸科を閉科。
- 歴代校長
- 初代:有堀市三郎(1921年3月7日 - 1924年11月8日)
- 2代:市原真次(1924年12月1日 - 1933年1月24日)
- 3代:山元兵七(1933年1月25日 - 1936年9月3日)
- 4代:岩下富蔵(1936年10月19日 - 1938年9月6日)
- 5代:内藤理八(1938年9月7日 - 1940年5月29日)
- 6代:半沢儀一郎(1940年6月20日 - 1946年3月29日)
- 7代:上倉裕二(1946年3月30日 - 1946年7月30日)
- 8代:池田清(1947年1月31日 - 1950年3月31日)
- 9代:永山信良(1950年4月1日 - 1955年3月31日)
- 10代:佐々木俊光(1955年4月1日 - 1957年3月31日)
- 11代:渋谷忠太郎(1957年4月1日 - 1962年3月31日)
- 12代:小関守之助(1962年4月1日 - 1965年3月31日)
- 13代:阿部酉喜夫(1965年4月1日 - 1970年3月31日)
- 14代:山田博夫(1970年4月1日 - 1973年3月31日)
- 15代:堀口昌太(1973年4月1日 - 1976年3月31日)
- 16代:国井董(1976年4月1日 - 1978年3月31日)
- 17代:川内芳夫(1978年4月1日 - 1981年3月31日)
- 18代:松田善夫(1981年4月1日 - 1983年3月31日)
- 19代:堤睦水(1983年4月1日 - 1985年3月31日)
- 20代:五十嵐和夫(1985年4月1日 - 1988年3月31日)
- 21代:佐々木周榮(1988年4月1日 - 1991年3月31日)
- 22代:逸見大吉郎(1991年4月1日 - 1994年3月31日)
- 23代:佐々木亮(1994年4月1日 - 1996年3月31日)
- 24代:佐藤浩平(1996年4月1日 - 1999年3月31日)
- 25代:森義矩(1999年4月1日 - 2001年12月6日) 12月6日に死去。
- 26代:鈴木宏毅(2001年12月25日 - 2004年3月31日)
- 27代:佐藤通隆(2004年4月1日 - 2006年3月31日)
- 28代:大滝潤二(2006年4月1日 - 2009年3月31日)
- 29代:阿部均(2009年4月1日 - 2012年3月31日)
- 30代:兼子健三郎(2012年4月1日 - ?)
生徒会[編集]
- 執行部役員
- 会長
- 副会長
- 常任委員
- 会計委員
- 監査委員
- 生徒会議長
- 生徒会副議長
- 書記
- 委員会
- 学級委員会
- 生活委員会
- 選挙管理委員会
- 交通安全委員会
- 図書委員会
- LHR実行委員会
- 保健委員会
- 体育祭実行委員会
- 寒高祭実行委員会
- 生徒会誌「暁鳴」
- 暁鳴の読みは「ぎょうめい」で、毎年3月に配られる。生徒から成る暁鳴編集委員会により編集される。中身は今年1年を振り返る内容で、部活動の記録、生徒会行事を振り返り、特集、修学旅行、クラス紹介などが載っている。
- 毎年後ろの見開きには、「暁鳴」という名を命名した井上五郎の『「暁鳴」解題』が載っている。
部活動[編集]
弓道部は1936年(昭和11年)3月の 明治神宮競技大会にて全国優勝。剣道部(女)は1973年(昭和48年)の全国高校総体で団体戦優勝し、市内でパレードを行った。
学校行事[編集]
- 1年生歌唱指導(4月) - 校歌と応援歌を生徒会執行部が1年生に指導。
- メイフラワーセミナー(4月) - 新入生を対象にした研修。メイフラワーは校章の「山査子」にちなんでいる。
- 創立記念日(5月) - 記念式典や聖火リレーや卒業生による記念講演が行われる。
- 体育祭(7月) - 体育祭ではバスケットボール、バレーボール、ソフトボール、サッカー、卓球、長縄跳び、クラス対抗リレーをする。生徒はクラス内でチームを作り、各クラスで制作したTシャツを着て2日間行う。教員チームも参加する。2007年(平成19年)からは卓球も競技として加わった。
- 寒高祭(8月) - 寒高祭実行委員会によって運営される。1日目は1年生による合唱コンクールをはじめ、有志発表、吹奏楽部発表、演劇部発表などの催しが行われる。1日目の会場は寒河江市民会館、2日目の会場は本校となる。2日目は校舎と中庭で一般公開の催しが行われる。2、3年の各クラスが模擬店を出店する。平行して文化部の展示、生徒が教員の似顔絵を描く似顔絵コンテストなどがある。
- メイフラワーカレッジ(9月) - 様々な分野の大学から講師を招き、テーマ別に分かれて講義を受ける。
- マラソン大会(10月) - 男子8.8km、女子5.3km走る。2008年(平成20年)には初めて雨天中止となった。
- 修学旅行(2年の11月) - 3泊4日、目的地は広島・奈良・京都
- 出陣式(1月) - 大学入試センター試験前日に3年生全員で決意を固める
アクセス[編集]
舞台となった作品[編集]
著名な出身者[編集]
- 板垣清一郎(元山形県知事)
- 松浦東介(元衆議院議員)
- 斎藤脩(JFEエンジニアリング社長)
- 中村晃(作家)
- 鬼海弘雄(写真家)
- 佐藤誠六(前寒河江市長)
- 片桐千晶(元秋田テレビアナウンサー)
- 丸屋真也(臨床心理学者)
- 鈴木貞敏(元警察庁長官、元自由民主党参議院議員)
- 鈴木淳史[3](音楽評論家)
- 森谷俊雄(河北町長、元モンテディオ山形社長)
- 若松正俊(山形県副知事、山形県住宅供給公社理事長)
- 布川弘(歴史学者)
脚注[編集]
- ^ 「修学旅行の長距離バス衝突 3人死に19人ケガ」読売新聞 1965年(昭和40年)4月30日 夕刊9頁
- ^ その際に行われた記者会見。
- ^ “鈴木淳史 FaceBook” 2012年12月23日閲覧。
参考資料[編集]
- 山形県立寒河江高等学校生徒手帳
- 長陵同窓会誌