京王電気軌道23形電車

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

これはこのページの過去の版です。Ogiyoshisan (会話 | 投稿記録) による 2015年8月25日 (火) 12:24個人設定で未設定ならUTC)時点の版 (画像挿入)であり、現在の版とは大きく異なる場合があります。

35(1937年撮影)

京王電気軌道23形電車(けいおうでんききどう23がたでんしゃ)は、京王電鉄京王線の前身である京王電気軌道(京王電軌)が製造した電動客車(電車)。

1920年から7年間に44両が量産され、大正時代の京王を代表する車種として知られる。

概要

1916年10月の調布 - 府中延長線の開業後、京王電軌は乗客が急増した。

これに対応すべく、まず初の2軸ボギー車として従来の2軸単車を素直にストレッチした構造の車体を備える19形1919年に製造、さらに急速に増加し続ける乗客数に対応すべく、乗降口への扉設置や空気ブレーキの装備などの改良を施した新型車である本形式の量産を1920年より開始した。

各年度に製造された車両番号、竣工日、メーカーは以下の通り。

以上の通り、概ね年6両のペースで増備が続けられ、1923年の関東大震災で24・27・39の3両が被災したもののこれらは復旧されたため、最終的に44両が出揃った。

車体

全長11,735mm、高さ3,404mm、車体幅2,210mmの木造車体を備える。

先行する19形がオープンデッキ構造の車体の前後デッキ部に、ベスティビュールと呼ばれるガラス窓を備えた妻板を取り付けただけの、吹きさらしの運転台を備えていたのに対し、車体両端部を絞った上で、乗降台に引戸を備えた密閉型に改良されており、23 - 54は2枚連接引戸、1925年製の55以降は1枚引戸を備えている。

窓配置は1D (1) 12221 (1) D1(D:客用扉、(1):戸袋窓、数字:窓数)と扉間に5組の2枚窓を配した設計当時の木造車体を備える路面電車では一般的なレイアウトで、絞り込まれて細面となった妻面は緩やかな曲面を描く3枚窓構成とし、直接制御器を配置する中央窓を大きくとって乗務員の視界確保を図っている。

側板は窓下に羽目板を並べるこの時代の標準的な工法によっており、屋根は側面に明かり取り窓と水雷形通風器を交互に配した二重屋根である。

車体長が短いためか床下に補強・台枠垂下防止用のトラス棒は備えられていないが、併用軌道区間を走行するため、同時期の多くの2軸ボギー式路面電車と同様、機器保護用の金網を床下側面に装備する。

座席はロングシートで、運転台と客室はH字状に組んだポールで仕切られている。

車体塗装は凝った装飾を施し客室部の腰板をクリーム色に塗り分けていた在来形式とは異なり、茶色一色に簡素化されている。

主要機器

主電動機

イングリッシュ・エレクトリック社製DK-9C[注釈 1]ライセンス供与先の東洋電機製造で製造したTDK-9C[注釈 2]を各台車に1基ずつ外掛けの吊り掛け式で装架する。歯数比は64:15である。

制御器

制御器は直接式のイングリッシュ・エレクトリックDBI-K4を搭載する。

このため総括制御による連結運転には対応しない。

台車

アメリカJ.G.ブリル社製鍛造軸ばね式2軸ボギー台車であるBrill 76E1を装着する。

軸距は1,473mmである。

ブレーキ

京王電軌の新造車として初めて、新造時よりウェスティングハウス・エア・ブレーキ社製SM直通ブレーキを搭載する。

集電装置

製造当時の京王電軌線では法制上の制約から架線が帰還線も架線とした複式架線であったため、集電装置としてはトロリー・ポールを車体の前後に各2組ずつ搭載して新造されている。

運用

新造開始以来乗客の増加もあって順調に増備が重ねられ、44両もの多数が製造されて大正時代の京王電軌を代表する、文字通りの主力車として重用された。

京王電軌での運用期間中、23 - 54の各車については連接引戸の1枚引戸化が進められ、さらに1927年には京王電軌線の架線が複線式の直接吊架から単線式シンプルカテナリへ変更されたことに対応して、全車について集電装置のパンタグラフへの変更が実施され、東洋電機製造製TDK-B菱枠型パンタグラフ[注釈 3]が搭載された。

以後も主力車として運行が続けられたが、14m級の中型車導入が開始された後、1933年より他社への譲渡と廃車が始まり、荷物電車代用として最後まで残った44が1941年に除籍されて京王電軌線からは消滅した。

廃車・譲渡

多摩湖鉄道22(元京王33。1937年撮影、国分寺駅

手頃なサイズ・仕様であったため、以下の各車が他社へ譲渡された。

  • 31 - 33
    • 多摩湖鉄道へ譲渡。多摩湖鉄道ではモハ20形モハ20 - 22と改番。吸収合併先の武蔵野鉄道が西武鉄道と合併した後の1948年6月に実施された改番ではモハ101形101 - 103に再改番されている。入線後、集電装置がシングルのトロリー・ポールに戻され、さらに側窓を二段上昇式へ変更、屋根も20・22はシングルルーフに改造されるなど、さまざまな改造を実施した後、1949年以降、順次車体を鋼体化した。
  • 23 - 26・28
  • 36・41 - 43・48・58・62 - 65
  • 52・47・59・53・40・46
    • 1934年函館大火で在籍車両を焼失し、車両不足を来していた帝国電力へ譲渡。帝国電力では400形401 - 406と改番。第二次世界大戦後、新造の鋼製2軸ボギー車である710形14両が出揃うまで、約20年に渡ってほぼ原形のまま現役で帝国電力→函館市交通局の主力車として使用された。さらに教習車となっていた405(旧京王電軌40)が長らく駒場車庫構内に保存されていたものの、これは後に解体された。

この他、番号・両数は不明であるが、上記以外の廃車分の中で、中国の大連市および北京市の市電に譲渡されたものが存在する。

日本国内で譲渡された車両については鋼製車体の新造を行った広島のものを含め、空襲や老朽化などにより、全車廃車解体されている。

このため保存車は存在しない。

参考文献

  • 鉄道ピクトリアル No.422 1983年9月臨時増刊号』、電気車研究会、1983年
  • 『鉄道ピクトリアル No.578 1993年7月臨時増刊号』、電気車研究会、1993年
  • 『鉄道ピクトリアル No.614 1995年12月号』、電気車研究会、1995年
  • 『鉄道ピクトリアル No.716 2002年4月臨時増刊号』、電気車研究会、2002年
  • 『鉄道ピクトリアル No.734 2003年7月臨時増刊号』、電気車研究会、2003年

出典

注釈

  1. ^ 端子電圧600V時1時間定格出力45kW/790rpm
  2. ^ ただし京王ではこれを定格出力50馬力=37.3kWとして取り扱った。
  3. ^ ただし一部は部品調達の都合から暫定的により大形のMB-52を搭載し、後にTDK-Bへ再交換している。

関連項目