三村申吾
三村申吾 みむら しんご | |
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生年月日 | 1956年4月16日(68歳) |
出生地 | 青森県上北郡百石町(現:おいらせ町) |
出身校 | 東京大学文学部 |
所属政党 |
(新進党→) (無所属の会→) 無所属 |
称号 | 文学士 |
公式サイト | 三村申吾オフィシャルサイト |
第62・63代・64代青森県知事 | |
当選回数 | 3回 |
在任期間 | 2003年 - |
選挙区 | 青森2区 |
当選回数 | 1回 |
在任期間 | 2000年6月25日 - 2003年 |
当選回数 | 1回 |
三村 申吾(みむら しんご、1956年(昭和31年)4月16日 - )は、日本の政治家。青森県知事(3期、第62・63代・64代)。
概要
青森県上北郡百石町(現・おいらせ町)出身。青森県立八戸高等学校、東京大学文学部を卒業し、新潮社に入社。編集畑を歩む。
1987年、地元に戻り家業を継ぐ。1992年、田名部匡省衆議院議員の支援を受け、百石町長に当選。1996年、百石町長を辞職し、田名部の後押しを受けて第41回衆議院議員選挙に新進党公認で青森県第2区から出馬したが、落選。
2000年、第42回衆議院議員総選挙に無所属の会公認で青森県第2区から出馬し、初当選する。しかし、2001年の首班指名選挙では自由民主党総裁の小泉純一郎に投票し、自民党寄りの姿勢を明確にする。なお、公明党とは新進党時代からつながりがある[1]。
2003年6月に青森県知事選挙にて当選を果たし、2007年に再選された。さらに、2011年には民主党などが推薦した候補が原子力発電などに関して明確な対立軸を打ち出せなかったこともあり、圧勝で3選を果たしている[2]。その一方で、県知事選挙に対する県民の関心は低下しており、2007年には過去最低の38.45%を記録し、2011年も2番目に低い41.52%に終わっている[3]。
略歴
- 1981年 - 新潮社入社。
- 1987年 - 百石町に帰郷。
- 1990年6月 - 株式会社三村興業社代表取締役に就任。
- 1992年 - 百石町長選挙に出馬し、初当選。
- 1996年 - 第41回衆議院議員総選挙に新進党公認で青森県第2区から出馬するも落選。
- 2000年 - 第42回衆議院議員総選挙に無所属の会公認で青森2区から出馬し、初当選。
- 2003年6月 - 衆院議員辞職。木村守男知事の辞任に伴う青森県知事選挙に無所属で出馬し、当選。
- 2007年6月 - 青森県知事再選。
- 2011年6月 - 青森県知事三選(自由民主党・公明党推薦)。
人物
衆議院議員時代、同じ無所属議員だった中田宏の知遇を得、知事選挙等で応援を受けるなど交友を深めている。小泉内閣誕生時の首班指名では、中田と三村は無所属野党系ながら小泉に投票し、後に官邸に呼ばれ三人で食事を共にしている。また、週刊アサ秘ジャーナルでは、中田宏から推薦され、取材を受ける。中田曰く「おっぱい大好きの三村さん」で、本放送時には浅草キッド相手に、持ち前の陽気さのまま秘書紹介などを行う。幸か不幸か、地元の青森県では週刊アサ秘ジャーナルは放送されていない。自身が町長を務めた百石町(現おいらせ町)には特産としておっぱいいちごなる苺が存在する。
父の輝文は2011年に引退するまで県議を務め、県知事と県議を同時期に親子が務める異例の状況だった。妻の三千代は、国文学特に古典文学が専門で、八戸短期大学の客員教授を務めるほか、文学講座の講師として活躍している。またエッセイストとしてタウン誌や地元ラジオなどにたびたび登場している。
東北楽天ゴールデンイーグルス名誉ファンクラブ会員だが、阪神ファンを公言している。
競馬ファンとしても知られ、かつては社台レースホースでバーニングダイナなどを所有していた。
脚注
- ^ 三村県政支え15年 公明、独自の存在感東奥日報2011年5月24日
- ^ 【解説】三村氏、民主の“自滅”で圧勝東奥日報2011年6月6日
- ^ 有権者の関心高まらず/投票率低迷 各陣営「反省が必要」東奥日報2011年6月6日
外部リンク
- 三村申吾オフィシャルサイト(公式サイト)
- ようこそ知事室へ|青森県庁ホームページ
59 - 61(公選14 - 16)代 木村守男 |
青森県知事 62 - 64(公選17 - 19)代:2003 - 現職 |
65(公選20)代 ‐ |