出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
一条 冬良(いちじょう ふゆよし、寛正5年6月25日(1464年7月29日) - 永正11年3月27日(1514年4月21日))は戦国時代の公卿、関白。名はふゆらとも呼ぶ。号は後妙華寺。一条兼良の第二十三子。母は町顕郷女南御方。
文明4年(1472年)応仁の乱のため、避難していた奈良で元服。正五位下に叙される。兄教房が土佐国にあり、また、教房の嫡男政房が摂津国福原で横死したため、教房の養嗣子となり家督を継ぐ。文明9年(1477年)兼良とともに帰京する。長享2年(1488年)関白内大臣となる。明応2年(1493年)には太政大臣に任ぜられる。同年関白を辞任したが明応6年(1497年)再度関白職に復帰した。永正11年(1514年)3月27日薨去。享年51。京都東山の東福寺に墓がある。父兼良の影響を受け、学問に熱心で古今和歌集の講義を行ったり、新撰菟玖波集の編纂に尽力した。
跡継ぎが居なかったため、兄教房の孫の房通を婿養子にして家を継がせた。
|
---|
飛鳥時代 | |
---|
奈良時代 | |
---|
平安時代 | |
---|
鎌倉時代 | |
---|
南北朝時代 | |
---|
室町時代 | |
---|
戦国時代 | |
---|
安土桃山時代 | |
---|
江戸時代 | |
---|
カテゴリ |
|
---|
平安時代 | |
---|
鎌倉時代 | |
---|
南北朝時代 |
|
---|
室町時代 | |
---|
戦国時代 | |
---|
安土桃山時代 | |
---|
江戸時代 | |
---|
|
|
---|
皇親太政大臣 |
白鳳時代 | |
---|
奈良時代 |
- 舎人親王(知太政官事)720-735
- 鈴鹿王(知太政官事)737-745
|
---|
|
---|
人臣太政大臣 |
奈良時代 | |
---|
平安時代 | |
---|
鎌倉時代 | |
---|
南北朝時代 |
|
---|
室町時代 | |
---|
戦国時代 | |
---|
安土桃山時代 | |
---|
江戸時代 | |
---|
明治時代 | |
---|
|
---|