ダグラス・エアクラフト

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ボーイング > マクドネル・ダグラス > ダグラス・エアクラフト
ダグラス A-1(AD-4NA)スカイレイダー

ダグラス・エアクラフト社Douglas Aircraft Company )は、かつて存在したアメリカ航空機メーカー。

概要

設立

アメリカ陸軍航空隊のC-47
ダグラス A-4(A-4E)スカイホーク
カナダ太平洋航空のダグラスDC-8

ドナルド・ウィルズ・ダグラスマサチューセッツ工科大学出身でグレン・マーチンでチーフエンジニアを務めていたが、1920年にマーチンを去ってサンタモニカカリフォルニア州)でデービス・ダグラス社を設立した。1921年7月には共同出資者から事業を買い取って、社名をダグラス・エアクラフトに変更した。早くも1924年にはダグラスの航空機が世界初の世界一周飛行(ダグラス ワールド クルーザー)を行って社名が広く知れわたった。

当初ダグラスはアメリカ海軍向けに雷撃機を製造していたが、さらに雷撃機をベースとして偵察機や民間航空便向けの機体なども開発し、5年もしないうちに毎年100機以上の航空機を製造するようになった。初期の社員にはエドワード・ハイネマン英語版A-1スカイレイダーの設計者で後の社長)、ジェームズ・キンデルバーガー英語版(後のノースアメリカン社長)、ジャック・ノースロップ(後のノースロップ社長)がいる。

拡大

1920年代後半には軍用機市場での地位を確保し、水陸両用車市場にも乗り出した。またサンタモニカのクローバーフィールドへ工場を移転している。サンタモニカの工場群は広大だったため、メール係はローラースケートを使って社内メールを配達していた。

1933年には民用双発機DC-1と、翌年にDC-2を製造し、続いて1936年には有名なDC-3を送り出した。DC-3はダグラスの民間部門を一躍トップシェアにした上に、軍の輸送機C-47 スカイトレインのベースになったことでも知られている。その後継機であるDC-4もベストセラーとなり、DCシリーズは近代的な旅客機の代名詞となった。多くのダグラス製航空機は非常に耐用期間が長く、DC-3やDC-4は21世紀初頭の今日も多数が現役である。

第二次世界大戦はダグラスに大きな成長をもたらした。大戦終結までにサンタモニカエルセガンド英語版ロングビーチトーランスタルサミッドウェストシティ英語版シカゴに工場を所有しており、1942年から1945年の間に約3万機が生産され、従業員は16万人に膨らんだ。

ダグラスは旅客機のみならず、アメリカ軍、特にアメリカ海軍とアメリカ陸軍航空隊、後のアメリカ空軍のために、SBD ドーントレスなどの艦上爆撃機A-20 ハヴォック(ボストン)A-26 インベーダーなどの軽爆撃機、中型爆撃機、戦闘機、C-47などの輸送機、偵察機、実験機といった多様な分野にわたる幅広い航空機を製造した。第二次世界大戦中にはボーイング及びベガエアクラフト(ロッキードの子会社)とともに B-17 を製造。大戦後はボーイングのライセンス下で B-47 を生産した。ダグラスは射出座席空対空ミサイル地対空ミサイル空対地ミサイルロケット爆弾と爆撃懸吊架といった関連分野でも先駆的だった。

マクドネルとの合併

1967年は、ダグラスは大型旅客機のDC-8と、その後ベストセラーとなったDC-9A-4 スカイホーク攻撃機の需要に間に合わせるための増産に苦労した。ベトナム戦争のための資材不足により品質とキャッシュ・フローの問題はマクドネル・エアクラフト社との合併によるマクドネル・ダグラスの形成に同意することとなった。

ボーイングへの吸収

しかし、1997年にマクドネル・ダグラスもボーイング社に吸収され、75年以降のダグラス製航空機の製造は終了した。吸収合併後、マクドネル・ダグラス社が所有していたロング・ビーチの工場で設計された最後の民間機であるボーイング717(DC-9の派生型)は、2006年5月に生産を終えた。2009年現在、軍用機C-17 グローブマスター IIIがロングビーチにおける最後の生産機となっている。

製品

航空機

ダグラス DC-3
アメリカ海軍のSBDドーントレス
ダグラス C-74
ダグラス C-124
ダグラス DC-6
ダグラス DC-9

ミサイル及びロケット

スカイネット人工衛星を打ち上げるデルタロケット

関連項目

外部リンク