管弦楽のための協奏曲 (バルトーク)

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管弦楽のための協奏曲(かんげんがくのためのきょうそうきょく)は、バルトーク・ベーラ1943年に作曲した5つの楽章からなる管弦楽曲である。バルトークの晩年の代表作であり、最高傑作のひとつにも数えられる。

概説[編集]

この曲は1943年当時ボストン交響楽団の音楽監督だったクーセヴィツキーが、自身の音楽監督就任20周年を記念する作品として、また亡くなったナターリヤ夫人の追憶のための作品として、彼女と共に設立した現代音楽の普及を目的としたクーセヴィツキー財団からの委嘱としてバルトークに作曲を依頼したことにより作曲された。

アメリカへ移住したバルトークは、完全に創作の意欲を失っており、この委嘱が無かったら、弦楽四重奏曲第6番がバルトークの最後の作品になっていたであろうと考えられている。そもそもクーセヴィツキーの依頼自体が、当時健康状態の悪化で病院に入院し、ライフワークである民俗音楽の研究すら出来ず、戦争による印税収入などのストップによる経済的な困窮も相まって強いうつ状態にあったバルトークを励まそうと、バルトークがハンガリーから移住する手助けをしたフリッツ・ライナーヨーゼフ・シゲティら仲間がクーセヴィツキーに提案して行われた、とも言われる。ブージー・アンド・ホークス社の現在の版の前書きによると、クーセヴィツキーは委嘱のためにバルトークの病室を訪れる際に当時としては破格の1000ドルの小切手を持参した。

この委嘱はバルトークに創作意欲を取り戻させただけでなく、周囲の人には生命力さえ呼び起こしたように見えたようだったという。体力的に作曲できるかわからないと渋っていたというバルトークに、クーセヴィツキーは「この委嘱には期限がない」と説得したというが、結果的には「作曲者・著作者・出版者の為のアメリカ協会 (the American Society for Composers, Authors, and Publishers) 」の世話で滞在したニューヨーク郊外のリゾート地・サラナック湖で作曲に着手すると、たった2ヶ月でこの作品を仕上げる。その後1945年に死去するまでこの曲以外にも『無伴奏ヴァイオリンソナタ』や『ピアノ協奏曲第3番』などの作品を残している。

なおこの曲の発想には、彼の楽譜を出版しているブージー・アンド・ホークス社の社主ラルフ・ホークスが1942年にバルトークに送った「バッハブランデンブルク協奏曲集のような作品を書いてみたらどうでしょう」という書簡や、バルトークがアメリカ移住時に携えてきた盟友コダーイ同名の作品(1939年作)の影響を指摘する声もある。

初演に際してバルトークは医師の忠告を無視してボストンに行き、リハーサルから立ち会った。当時のボストン交響楽団メンバー、ハリー・ディクソンの回想によると、リハーサルでのバルトークは「大きすぎる」「急ぐな」と再三にわたり曲を止めて指示を出していたので、業を煮やしたクーセヴィツキーは「ご意見をメモしておいてはいかがでしょう。あとで検討しましょう」とその場を乗り切った。休憩時間中二人は話し合い、バルトークは帰っていった。リハーサルに戻ったクーセヴィツキーは「問題は全て解決した」と楽団員に語ったという。初演も成功に終わり、彼は何度も舞台に出ては聴衆の喝采に応えたことを友人に話したり手紙で送ったりしている。そしてこの曲は一気にポピュラーになり、彼の代表作として演奏会レパートリーとして定着している。

自身による改訂[編集]

出版譜は、バルトークが初演を聴いた際の反省に基づいて1945年2月に改訂を加えた形で刊行されている。初演からの大きな変更点として、終楽章のコーダの部分が長くなった新しいバージョンが加えられたことがある。

追加版は補遺として一部の小節の重複を含めて後のページに収録し、改訂前後の両方を確認できるようになっているため、改訂前と改訂後の両方の版が演奏されているが、バルトーク自身が手紙の中で「エンディングが唐突過ぎる感がある」と述べている初演の反省を元に書き加えたという経緯があることと、演奏効果的にも派手であることから、改訂後のバージョンを採用する演奏が圧倒的に多い。

なお、改訂前の版は小澤征爾[1]などがレコーディングしている他、ナクソス・ヒストリカルからクーセヴィツキーによるライヴ録音(1944年12月30日録音)も発売されている。

曲の構成[編集]

五つの楽章からなり、交響曲と言っても良い規模を備えている。ただし作曲者自身が初演のプログラムに寄せた解説でも述べているように、オーケストラの各楽器をあたかも独奏楽器のように扱ったり、全合奏と室内楽的アンサンブルが交錯するような楽曲構造をとっていることから、「協奏曲」と言う名が与えられている。また各楽章のタイトルはバルトーク自身による。

第1楽章 Introduzione(序章)
Andante non troppo - Allegro vivace
序奏付きソナタ形式。ゆっくりとした神秘的な(バルトーク的な)序奏に続き、主部はフーガ風な激しい第1主題(ヘ短調)とオーボエがつむぎ出すどこか物悲しいロ調の第2主題が中心となる。ブラームスの交響曲等によく見られる展開部と再現部が一体化したスタイルを採用しており、展開部は第1主題の素材を様々に変容させて用い、再現部は第2主題から始まる。また展開部の最後では第1主題と第2主題を繋ぐ推移主題を用いて、全金管楽器によるカノンが聴かれる。
第2楽章 Giuoco delle coppie(対の遊び)
Allegro scherzando
三部形式。最初と最後の小太鼓のリズムが特徴的。その間では、対になった木管楽器群が旋律を吹く。それぞれのパッセージで、対になっている二管のなす音程は異なる。たとえば、ファゴットは短六度、オーボエは三度、クラリネットは七度、フルートは五度、トランペットは二度といった具合である。スケルツォのような雰囲気を漂わせるが、中間部では一転して金管の静かなコラールが聞こえる。
ゲオルク・ショルティが1980年にシカゴ交響楽団とこの作品を録音した際、ショルティはライナーノート(英語版)に、当初出版譜の発想記号及びメトロノーム指定が間違っていた件の他、アメリカ議会図書館に所蔵されている自筆スコアでは、タイトルが一度“Presentando le coppie”(意味的にはほとんど同じ)となっていたと言う文章を寄せている。
第3楽章 Elegia(悲歌
Andante non troppo
バルトークの典型的な「夜の歌」。彼独特のアーチ形式(A-B-C-B-A)をとり、Bの主題は第1楽章の序奏の主題が再帰してくる。中間部(C)のヴィオラから始まる旋律には、バルカン民謡の特徴が垣間見られるとも言われる。
第4楽章 Intermezzo interrotto(中断された間奏曲)
Allegretto
三部形式だが、バルトーク本人の初演プログラム時の解説に従えば「A-B-A-中断-B-A」となる。
タイトルの「中断」は曲の中盤で乱入してくるショスタコーヴィチ交響曲第7番の第1楽章の展開部の主題(ナチスによるレニングラード侵攻を描いたもの。元々この旋律自体レハールの『メリー・ウィドウ』からの引用の可能性が高い)が引用されている部分のこと。トロンボーングリッサンドによる「ブーイング」と、木管楽器の「嘲笑」が特徴的である。 一方、第2主題に当たるヴィオラに始まる旋律は、非常に美しい。この旋律も近年の研究で19世紀のハンガリーの作曲家(現在は無名)のオペレッタからの引用が指摘されている。
第5楽章 Finale(終曲)
Pesante - Presto
三部形式ともとれるが、作曲者自身はソナタ形式と述べており、ロンドソナタ形式に近い。大きく動くホルンの印象的なユニゾンで始まり、ヴァイオリンが急速な、ジグザグに音階を行き来する無窮動風の旋律を奏するが、これが第1主題にあたり何度も再帰する。中間部では金管楽器のソロによるフーガ風の旋律を中心に構成。極上の対位法が編まれる華やかな終曲。
エンディングは先述のように初演時の「コーダの盛り上がりから急速に終結するもの」と、改訂時に追加された「全管弦楽による更なる盛り上がりを見せて終わるもの」がある。

楽器編成[編集]

編成表
木管 金管
Fl. 3
(Pic.1)
Hr. 4 Timp. Vn.1
Ob. 3
(Ehr.1)
Trp. 3 Cym., Tri., B.D., S.D., Tam-t., 吊り下げ式のシンバル Vn.2
Cl. 3
(B.Cl.1)
Trb. 3 Va.
Fg. 3
(Cfg.1)
Tub. 1 Vc.
Cb.
その他 Hp.2

脚注[編集]

  1. ^ 小澤征爾指揮ボストン交響楽団、RCAレコード1962年発売