「越前漆器」の版間の差分

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[[File:Urushi no Sato Kaikan ac (8).jpg|thumb|280px|越前漆器に盛られた[[越前そば]]]]
[[File:Urushi no Sato Kaikan ac (8).jpg|thumb|280px|飲食店の越前漆器に盛られた[[越前そば]]]]
[[File:越前漆器の弁当箱.jpg|thumb|280px|伝統工法による越前漆器の弁当箱。外側は花塗、内側は拭き漆で仕上げている。]]
'''越前漆器'''(えちぜんしっき)は、[[福井県]][[鯖江市]][[河和田村 (福井県)|河和田]]地区を中心に生産される[[漆器]]。伝統産業であり、400近い漆器関係企業や工房が集積している<ref name=漆のれん会,出版年不明,p3/>中心地域の名を冠して「'''河和田塗'''」とも呼ばれる{{sfn|財務省北陸財務局経済調査課著|2008|pp=10}}。


20世紀後半には熱や水に強い新素材への塗装技術が確立されたことにより日本全国の業務用漆器のシェア8割を占めるに到り<ref name=伝統工芸のきほん2017,p30/>、[[眼鏡]]、[[繊維]]とともに鯖江市の三大[[地場産業]]に挙げられる。国の[[経済産業大臣指定伝統的工芸品]]に指定される<ref name=ポプラディア3,p264/>。
'''越前漆器'''(えちぜんしっき)は、[[福井県]][[鯖江市]]で生産される[[漆器]]。[[経済産業大臣指定伝統的工芸品]]。

越前漆器には、従来の伝統工芸品である「漆器」と、1960年代に開発されたプラスチック素地に吹付塗装を行う「塗物」があり、越前漆器工業協同組合の資料ではこれらは明確に区別されているが、一般の多くの文献資料においてはともに「越前漆器」と扱われる例が多い。そのため本項目の記述においても双方とも「越前漆器」と記述する。

== 特徴 ==
[[ファイル:2004 MujiWanoSyokki-UrushiBowl Masahiro-Mori.jpg|thumb|[[無印良品]]の河和田塗り汁椀は、木粉を[[メラミン樹脂]]に混ぜて成形した素地に天然の漆を塗って仕立てられている<ref>{{Cite news |url=https://www.e-begin.jp/article/39113/ |title=無印良品で発見! 1000円ちょっとの汁椀なのに、みょ~に雰囲気がある件 |newspaper=Begin |publisher=Begin |date=2018-07-23 |accessdate=2024-01-14 }}</ref>]]
もともと越前漆器は河和田地区のなかでも片山町地域の主産業であり、「'''片山椀'''」と呼ばれていた<ref name=うるしの里2005,p18>{{Cite book|和書|author= |title=うるしの里 河和田をたずねて 越前漆器を知るたびにでよう! |publisher=越前漆器協同組合 |date=2005 |page=18 |isbn=}}</ref>。1900年代以降、生産地が[[河和田村 (福井県)|河和田]]地区全域に拡大したことから「河和田塗」と呼ばれるようになり、木地に「[[漆|うるし]]」を原料とした伝統的な椀・膳・重箱等が「'''河和田塗'''」の名称で全国に知られるようになった{{sfn|財務省北陸財務局経済調査課著|2008|pp=10}}<ref name=うるしの里2005,p18/>。軽量だが、古典的な優雅さと厚手で堅牢さを備えるところが特長とされる<ref name=伝統工芸のきほん2017,p30/><ref name=日本の郷土産業3,1975,p123>{{Cite book|和書|author=日本地域社会研究所 |title=日本の郷土産業3 中部・北陸 |publisher=新人物往来社 |date=1975 |page=123 |isbn=}}</ref>。

'''技法の特徴'''では、伝統的な木地には黒・朱・溜色の花塗りで仕上げる。普段使い用のものは無地が主流で、奥深い艶が特徴的とされる<ref name=伝統工芸のきほん2017,p30>{{Cite book|和書|author=野水綾乃 |title=伝統工芸のきほん② ぬりもの |publisher=理論社 |date=2017 |page=30 |isbn=}}</ref>。蒔絵や沈金を施す場合もある<ref name=伝統工芸のきほん2017,p30/>。そのほか[[柿渋]]を用いる「渋下地」の技法([[#製法と種類|後述]])に特徴があり、この技法の工夫は1802年(享和2年)に確立された<ref name=森本2012,p189/><ref name=日本の郷土産業3,1975,p121/>。

現代のような漆器産地としての基盤の確立は明治20年代以降である<ref name=日本の郷土産業3,1975,p121>{{Cite book|和書|author=日本地域社会研究所 |title=日本の郷土産業3 中部・北陸 |publisher=新人物往来社 |date=1975 |page=121 |isbn=}}</ref>。漆器産地としては、丈夫で比較的安価であることから、日用品漆器として親しまれる<ref name=漆のれん会,出版年不明,p3/>。また、産業発祥が少なくとも飛鳥時代まで遡れることから、「日本で最も古いうるしの里」とされる<ref>{{Cite book|和書|author= |title=うるしの里 河和田をたずねて 越前漆器を知るたびにでよう! |publisher=越前漆器協同組合 |date=2005 |page=13 |isbn=}}</ref>。

20世紀後半以降は、昔ながらの木製漆器の生産に加え、プラスチック素材や化学塗料の使用、機械化によりスプレー塗装やスクリーン印刷など塗装技術も機械化されるようになり、多彩な色付けと、より安価な大量生産が可能となった<ref name=うるしの里2005,p18/>。プラスチック素材への転換により、21世紀には外食産業用の漆器の80パーセント以上を越前漆器が占める<ref name=伝統工芸のきほん2017,p30/>。鯖江市内の全小学校で学校給食の食器に導入されており、伝統産業の継承と需要の拡大が図られている<ref name=うるしの里2005,p50/>。


== 歴史 ==
== 歴史 ==
=== 越前漆器の発祥と背景 ===
[[眼鏡]]、[[繊維]]とともに鯖江市の三大[[地場産業]]とされ、特に河和田地区において盛んである。
[[File:修繕したと伝わる継体天皇の冠を再現したレプリカ.jpg|thumb|片山の塗師が修繕した継体天皇の冠のレプリカ]]
漆は固まると強い接着力をもつことから、古来、[[石器]]の矢じりと柄を固定する蔓の補強などに用いられていた<ref>{{Cite book|和書|author= |title=うるしの里 河和田をたずねて 越前漆器を知るたびにでよう! |publisher=越前漆器協同組合 |date=2005 |page=10 |isbn=}}</ref>。[[北海道]][[南茅部町]]では[[縄文時代]]初期(約9000年前)の遺跡から漆塗りの装飾品が出土しており、[[福井県]]内でも縄文時代前期(約5000年前)には漆が日用品であったことが、[[鳥浜貝塚]]から出土した[[櫛]]など漆が塗られた道具が見つかっていることから確実視されている<ref name="うるしの里2005,p11">{{Cite book|和書|author= |title=うるしの里 河和田をたずねて 越前漆器を知るたびにでよう! |publisher=越前漆器協同組合 |date=2005 |page=11 |isbn=}}</ref>。


[[大和時代|大和]]・[[飛鳥時代]]に、[[継体天皇]]が今立郡味真野の郷に来た際、冠の塗り替えを片山町の塗師に頼んだところ、黒漆の椀も併せて献上した。その光沢の見事さに深く感銘して大いに奨励されたことが越前漆器の始まりと伝えられる{{sfn|財務省北陸財務局経済調査課著|2008|pp=10}}。
[[奈良時代]]には[[唐]]から伝来した技法や模様が漆の道具にみられるようになり、漆の木の植林がすすめられたと考えられている<ref name=うるしの里2005,p11/>。越前漆器の主生産地である福井県[[鯖江市]][[河和田村 (福井県)|河和田]]地区では、[[大和時代|大和]]・[[飛鳥時代]]に、第26代[[継体天皇]]がまだ皇子であった頃に[[今立郡]][[味真野村|味真野]]の郷を訪れ傷んだ[[]]の塗り替え(補修)を片山町の塗師に頼んだ<ref name=伝統工芸のきほん2017,p30/>。塗師は修繕した冠ともに黒漆の椀も併せて献上し、皇子はその光沢の見事さに深く感銘して漆産業を大いに奨励たことが越前漆器の始まりであると伝えている{{sfn|財務省北陸財務局経済調査課著|2008|pp=10}}。西暦527年のことであったと伝わり、当時は「片山塗」と称された<ref name=うるしの里2005,p17>{{Cite book|和書|author= |title=うるしの里 河和田をたずねて 越前漆器を知るたびにでよう! |publisher=越前漆器協同組合 |date=2005 |page=17 |isbn=}}</ref>
[[File:片山椀.jpg|thumb|left|旧来の「片山椀」]]
この地域で漆器づくりが発展した主な理由として、「豪雪地帯のため、冬でも屋内で生産できることが生計を支えた」「四方を山に囲まれた土地柄、木地となる材料の入手が容易だった」「湿度や気温などの自然環境が漆器づくりに適していた」ことが挙げられる<ref name=うるしの里2005,p14>{{Cite book|和書|author= |title=うるしの里 河和田をたずねて 越前漆器を知るたびにでよう! |publisher=越前漆器協同組合 |date=2005 |page=14 |isbn=}}</ref>。10世紀初めの『[[延喜式]]』には「調副物置(漆をとりたてる役所)を[[越前国|越前]]ほか10ヵ国に置く」と記録された<ref name=日本の郷土産業3,1975,p123/>。


全国的な動向としては、[[平安時代]]に都では[[蒔絵]]の技法を施した漆器がみられるようになり、漆の[[椀]]物が身分の高い人々の間で使われるものとなった。[[鎌倉時代]]には寺社の食器などにも漆塗りが用いられるようになり、蒔絵の技法はこの頃には完成したものとみられている<ref name=うるしの里2005,p11/>。[[室町時代]]には[[沈金]]の技術も広がり、庶民の間でも漆塗りの椀物が使用されはじめ、[[安土桃山時代|安土・桃山時代]]には椀物以外の食器にも発展したとされている<ref name="うるしの里2005,p11" />。さらに[[江戸時代]]に入ると蒔絵の技法が広まりをみせ、漆器はより一般的なものとして使用されるようになる<ref name="うるしの里2005,p11" />。しかし、越前漆器にこれらの技術が導入されたのは明治期以降であり、越前漆器は一貫して安価で丈夫な日用品の域を出ないものだった<ref name="漆のれん会,出版年不明,p3" />。
江戸時代から明治時代にかけて、[[今立郡]]の今立地区(旧[[今立町]])~河和田地区の越前漆器職人であり漆の専門集団である越前衆<ref>[http://www.japanjoboji.com/urushi/jobojiurushi.html 浄法寺の漆 - 漆掻き職人の出稼ぎ] 2017年10月27日閲覧。</ref>が全国に漆掻きに回る。
[[File:報恩講に使用された膳の一例.jpg|thumb|報恩講に使用された漆器膳の一例]]
[[鎌倉時代]]に[[浄土真宗]]が誕生すると、越前ではその布教活動がさかんに行われたことから、[[報恩講]]で多数の客をもてなす際に使う三つ椀の漆器が必需品として普及し、その需要に応じて越前漆器では椀物の生産が発展した<ref name=漆のれん会,出版年不明,p3>{{Cite book|和書|author= |title=越前漆器 漆のれん会 |publisher=鯖江市図書館所蔵小冊子 |date= |page=3 |isbn=}}</ref>。1580年頃に、「片山朱塗」と呼ばれる漆が誕生し、黒色のみでなく朱色の越前漆器も生産されるようになった<ref name=うるしの里2005,p17/>。


=== 江戸時代 ===
明治時代には江戸時代を上回る多くの越前衆<ref>[http://urushi-joboji.com/joboji うるしの國の物語|うるしの國・浄法寺] 2017年10月31日閲覧。</ref><ref>[http://www.yanagiaomeru.com/ 南部の漆を支えた人びと-越前衆の軌跡-工藤紘一 著] 2017年10月27日閲覧。</ref>が[[出稼ぎ]]や[[移住]]を行った。越前衆は漆器製造の向上普及に貢献し、全国に漆器産地が形成された。[[蒔絵]]、[[沈金]]などの伝統的技法・製法による椀や膳が業務用食器として普及し、全国に知られるようになった。
[[File:朱塗りと黒塗りの越前漆器.jpg|thumb|left|伝統的な片山朱塗と黒塗の越前漆器]]
歴史的に漆器は重宝な品物として、歴代の権力者に保護奨励されてきた産業のひとつであり、江戸時代には各[[藩]]とも御用塗師をおいていた<ref>{{Cite book|和書|author=杉本伊佐美 |title=越前漆器 |publisher=越前漆器協同組合内「越前漆器」刊行会 |date=1970 |page=22 |isbn=}}</ref>。この当時の河和田地区は、[[鯖江藩]]と[[小浜藩]]に分割されていたが、いずれの統治下でも領内の貴重な産物として手厚く保護され、明治期を迎えている<ref name=杉本1970,p23>{{Cite book|和書|author=杉本伊佐美 |title=越前漆器 |publisher=越前漆器協同組合内「越前漆器」刊行会 |date=1970 |page=23 |isbn=}}</ref>。


1802年(享和2年)、椀の表面を滑らかにして見た目を美しくし、同時に虫食いや腐食を防ぐことができる「[[柿渋|渋]]下地づくり」の技術が確立された<ref name=日本の郷土産業3,1975,p121/><ref name=森本2012,p189>{{Cite book|和書|author=森本孝 |title=宮本常一とあるいた昭和の日本23 漆・柿渋と木工 |publisher=農村漁村文化協会 |date=2012 |page=189 |isbn=}}</ref>。加飾に耐える堅牢な下地づくりが可能となり、[[嘉永]]年間(1848~1853年)には[[京都]]から[[蒔絵]]師を招いて技術継承を受け、さらに[[輪島塗|輪島]]から[[沈金]]の技法を取り入れたが<ref name=うるしの里2005,p17/><ref name=漆のれん会,出版年不明,p3/>、これらの技術を取り入れた越前漆器の本格的な生産は明治になってからだった<ref>{{Cite book|和書|author=馬場章 |title=漆器業地域の技術変化 |publisher=之潮 |date=2016 |page=66 |isbn=}}</ref>。
1960年代頃から、[[プラスチック]]素地を導入、[[シルクスクリーン]]による絵柄の印刷技術も活用し[[大量生産]]が可能となり業務用漆器の8割以上を生産する産地となる。


この地場産業を支えた職人集団には、江戸時代から明治時代にかけて全国で漆掻きを行い原材料の入手を支えた漆掻き職人の存在がある。[[今立郡]]の今立地区(旧[[今立町]])や河和田地区の越前漆器職人でもある彼らは、漆の専門集団として「越前衆」と呼ばれ、全国を巡り漆を集めると同時に、その技術を各地に伝えた<ref>[http://www.japanjoboji.com/urushi/jobojiurushi.html 浄法寺の漆 - 漆掻き職人の出稼ぎ] 2017年10月27日閲覧。</ref>、現代まで日本各地に伝わる漆掻き法はほぼ共通と考えられており、「越前式殺掻法」と呼ばれている<ref>{{Cite web |url=https://www.urushinext.org/urushitech-1/ |title=越前式殺掻法の概要|漆掻き技術(1) |publisher =NPOうるしネクスト |accessdate=2024-02-15}}</ref>。
1975年には[[経済産業大臣指定伝統的工芸品]]に選定された。


=== 明治期~昭和期戦前 ===
今後への期待として、万人受けする現代社会に順応した応用の効く漆器製品の需要が必要である。[[アニメ]]や[[デジタル]]が普及している現代にあった絵柄、装飾、[[電子レンジ]]に溶けない塗料など。
[[File:木ウルシ液.jpg|thumb|生のウルシ液]]
[[明治|明治時代]]には江戸時代を上回る多くの越前衆<ref>[http://urushi-joboji.com/joboji うるしの國の物語|うるしの國・浄法寺] 2017年10月31日閲覧。</ref><ref>[http://www.yanagiaomeru.com/ 南部の漆を支えた人びと-越前衆の軌跡-工藤紘一 著] 2017年10月27日閲覧。</ref>が[[出稼ぎ]]や[[移住]]を行った。越前衆は漆器生産の向上普及に貢献し、全国に漆器産地が形成されたという。


1890年(明治23年)に「日本漆工会」が誕生し隔年で漆工競技会が開催されるようになると、越前漆器は機関誌の発行や[[東京]]への陳列館の設置など精力的に漆器製品のPRを行い、業界の発展に大きく寄与したという<ref>{{Cite book|和書|author=杉本伊佐美 |title=越前漆器 |publisher=越前漆器協同組合内「越前漆器」刊行会 |date=1970 |page=40 |isbn=}}</ref>。
== 特徴 ==

古典的な優雅さと堅牢なことで知られており、白木地に「うるし」を原料とした椀・膳・重箱等「'''河和田塗'''」の名称で全国に知られている{{sfn|財務省北陸財務局経済調査課著|2008|pp=10}}。
1895年(明治28年)に[[日清戦争]]が終結し、その翌年には[[北陸線]]が開通したことで、越前漆器は発展に拍車をかけた<ref name=杉本1970,p23/>。他地域に学んだ技術の向上と生産・販路の拡大に伴い越前漆器はそのシェアを着実に伸ばしていった<ref name=杉本1970,p23/>。その後も度々の戦中戦後には低迷する時期もあったものの、日本国内の復興にともなって活気を取り戻したとされる<ref name=杉本1970,p23/>。1900年(明治33年)頃に従来の丸物に加えて、角物(板物)の漆器の生産を開始した<ref name=うるしの里2005,p17/>。1900年(明治33年)に現在の越前漆器協同組合の祖となる今立郡漆器業組合が設立されると、工賃などの協定が結ばれ、徐々に産地としてのまとまりが形成され、本格的な生産活動が開始されていった<ref name=日本の郷土産業3,1975,p123/>。京都や輪島のみならず、山中、[[彦根市|彦根]]、[[会津]]などからも積極的に技術の導入を計り、1909年(明治42年)には地元小学校で越前漆器としては初めて漆器品評会を開催した<ref name=日本の郷土産業3,1975,p123/>。
[[ファイル:2004 MujiWanoSyokki-UrushiBowl Masahiro-Mori.jpg|thumb|[[無印良品]]の河和田塗り汁椀は、木粉を[[メラミン樹脂]]に混ぜて成形した素地に天然の漆を塗って仕立てられている<ref>{{Cite news |url=https://www.e-begin.jp/article/39113/ |title=無印良品で発見! 1000円ちょっとの汁椀なのに、みょ~に雰囲気がある件 |newspaper=Begin |publisher=Begin |date=2018-07-23 |accessdate=2024-01-14 }}</ref>]]

1929年(昭和4年)~1930年(昭和5年)頃が[[第二次世界大戦]]以前では全盛期であり、この頃の越前漆器の生産者は198戸、年間生産額は約100万円を記録した<ref name=日本の郷土産業3,1975,p123/>。

一方、かつて越前漆器を支えた漆かき職人は、1878年(明治11年)に安価な[[中国|志那]]漆の輸入が始まると採集業はわりにあわなくなり、生産販売に転向していった<ref name=杉本1970,p67>{{Cite book|和書|author=杉本伊佐美 |title=越前漆器 |publisher=越前漆器協同組合内「越前漆器」刊行会 |date=1970 |page=67 |isbn=}}</ref>。志那漆は初めは[[大阪]]の漆商が[[清国]]から密輸して巨額の利益をあげ、越前から東京に出店していた漆商達がこれに気付いてその手法を真似して[[横浜市|横浜]]から大量に購入した志那産漆に日本漆を混和して安価で販売したという。笑いが止まらぬほど儲けたと伝えられるこれらの人々も、多くはもともとは漆かき職人であった<ref name=杉本1970,p67/>。

=== 昭和戦後期 ===
[[File:漆をこす作業(不純物を取り除くために和紙で濾す).jpg|thumb|伝統的な漆を濾す作業]]
越前漆器産業は戦時中は一時中断を余儀なくされたが<ref name=馬場2016,p67/>、終戦後は[[連合国軍最高司令官総司令部|進駐軍]]人向けの土産物の需要促進に販路を見出し、外国人向け商品として宝石箱や[[ボンボニエール|ボンボン入れ]](菓子器)、[[たばこ]]セット、[[蒸留酒]]用の[[コップ]]などを生産して評判となった<ref name=110周年記念誌,2013,p34/>。1950年(昭和25年)、従来の組合を改組し、現・越前漆器協同組合を設立、第1回全国漆器祭りを開催し、戦前に比べて3分の1まで減少していた漆器生産の再興をはかった<ref>{{Cite book|和書|author= |title=越前漆器 創立110周年記念誌 |publisher=越前漆器協同組合 |date=2013 |page=36 |isbn=}}</ref>。

1960年(昭和35年)頃、外食がさかんになってきた社会では、大量生産できる安価な[[合成樹脂|プラスチック]]製品が求められるようになっていた<ref name=うるしの里2005,p17/>。プラスチック素地に漆塗りを取り入れる技術は1952年(昭和27年)頃に採り入れられており<ref name=うるしの里2005,p17/>、化学塗料の使用も開始された<ref name=日本の郷土産業3,1975,p123/>。やがて[[シルクスクリーン]]による絵柄の印刷技術も活用するようになった。

木製漆器から、「塗物」と呼ばれるプラスチック漆器への転換は、伝統的に分業で成り立ってきたいくつもの生産工程を省略できる革命的な転換であり<ref name=日本の郷土産業3,1975,p123/>、[[大量生産]]が可能となったことで椀や膳などの業務用食器が普及し、越前漆器は業務用漆器の8割以上を生産する一大産地へと発展し、全国に知られる一大産地へと成長した。塗物転換前の越前漆器の販売地域は近畿地方が最も多く次いで[[中国地方|中国]]・[[四国]]地方に及んでいたが<ref name=馬場2016,p67/>、転換後の1966年(昭和41年)の地域別販売動向では、出荷先の34.2パーセントが東京都であり、ついで[[近畿地方]]が20.6パーセント、[[中部地方]]15.4パーセントで、県内消費は10.8パーセントだった<ref name=馬場2016,p75>{{Cite book|和書|author=馬場章 |title=漆器業地域の技術変化 |publisher=之潮 |date=2016 |page=75 |isbn=}}</ref>。1975年には[[経済産業大臣指定伝統的工芸品]]に選定された。

1972年(昭和47年)頃の河和田地区では、地区人口約5,800人のうち約1,500人がなんらかの工程で漆器生産に携わり、総生産額は椀や寿司桶などの日用品を中心に年間で約30億円で<ref name=日本の郷土産業3,1975,p121/>、輪島、木曽、会津、東京に次ぐ全国第5位だった<ref name=日本の郷土産業3,1975,p122/>。製品としては約8割が大量生産のプラスチック製品であり、漆器本来の木製品の生産は縮小されてきた<ref name=日本の郷土産業3,1975,p123/>。このため、蒔絵や沈金などの伝統的な高級技術は、越前漆器業界では後継者が少なく廃れる傾向がある<ref name=日本の郷土産業3,1975,p122>{{Cite book|和書|author=日本地域社会研究所 |title=日本の郷土産業3 中部・北陸 |publisher=新人物往来社 |date=1975 |page=122 |isbn=}}</ref>。これを憂いた若い職人達13人のグループ「漆美会」が「本物をつくろう」を合言葉に1971年(昭和46年)に発足した<ref name=日本の伝統産業3,1975,p125/>。しかし、河和田の漆器商は全国的に高級品として名の通った輪島塗の銘を入れて出荷することがあり、伝統的な木製漆器を越前漆器として流通させることにこだわると、その収入は同等の腕を持つ同僚のほぼ3分の1にしかならなかったという<ref>{{Cite book|和書|author=日本地域社会研究所 |title=日本の郷土産業3 中部・北陸 |publisher=新人物往来社 |date=1975 |page=127 |isbn=}}</ref>。

=== 現代 ===
[[File:学校給食用漆器.jpg|thumb|学校給食用の越前漆器]]
1980年(昭和55年)、[[鯖江市]]に[[越前漆器伝統産業会館]]が建設される<ref name=うるしの里2005,p17/>。

2001年(平成13年)から[[鯖江市立河和田小学校]]で越前漆器が[[給食|学校給食]]に使用されはじめ、2002年(平成14年)には鯖江市の他の学校給食にも越前漆器が導入された<ref name=うるしの里2005,p17/><ref name=うるしの里2005,p50>{{Cite book|和書|author= |title=うるしの里 河和田をたずねて 越前漆器を知るたびにでよう! |publisher=越前漆器協同組合 |date=2005 |page=50 |isbn=}}</ref>。2024年現在、鯖江市内のすべての学校給食で越前漆器を使用する。給食用食器の開発と導入は、河和田地区の職人らによる意向ですすめられ、熱湯での洗浄や高温の乾燥機でも食器が変形しないこと、おぼんに滑り止めを付けるなどの工夫が要点だった<ref name=うるしの里2005,p50/>。

2018年(平成30年)、産地として新素材開発を手掛ける東京のベンチャー企業[[TBM (企業)|TBM]]や[[慶應義塾大学大学院政策・メディア研究科|慶應義塾大学大学院メディアデザイン研究科]]と地域産業振興などに関する連携協定を結び、紙やプラスチックの代替となる新素材「[[LIMEX|ライメックス]](LIMEX)」を木地とする商品開発に着手した<ref name=福井新聞20180821/>。ライメックスは石灰石を主成分とし、これをプラスチックに加工する場合、石油の使用量を60~80パーセント削減できることから環境負荷の低い素材として評価されている<ref name=福井新聞20180821>{{Cite news|title=鯖江市 新素材をものづくりに |newspaper=福井新聞 |page= |date=2018-08-21 |author=}}</ref>。

2023年(令和5年)には福井県工業技術センターと地元企業の共同研究により、従来は職人が手作業で行っていた作業の一部をデジタル加工に置き換える加飾技術が開発され、制作時間の大幅な短縮による量産化や、デジタルならではの多様なデザインが可能となった<ref>{{Cite news|title=伝統の越前漆器、デジタル技術で量産 多様なデザインも |newspaper=日本経済新聞 |url=https://www.nikkei.com/article/DGXZQOCC158IR0V10C23A6000000/ |accessdate=2024-02-12 |date=2023-06-20 |author=}}</ref>。

産地振興としては「うるしの里まつり」春の行事としてパレードや茶会を行い、漆器づくりの工場見学や絵付け体験など普及活動を行っている<ref name=うるしの里2005,p57>{{Cite book|和書|author= |title=うるしの里 河和田をたずねて 越前漆器を知るたびにでよう! |publisher=越前漆器協同組合 |date=2005 |page=57 |isbn=}}</ref>。また、「漆器展覧会」「感謝祭」秋の行事として、新作の漆器発表会を行い、感謝祭では日用に使用している道具への感謝をささげ、古い漆器や使用しなくなった漆器を町内の漆器神社で供養している<ref name=うるしの里2005,p57/>。2005年時点で河和田地区に住む漆器職人は約250人で、越前漆器産業を振興する団体として後述する「越前漆器協同組合」や販売者によるグループ「漆のれん会」、生産者によるグループ「軒下工房」などが活動する<ref>{{Cite book|和書|author= |title=うるしの里 河和田をたずねて 越前漆器を知るたびにでよう! |publisher=越前漆器協同組合 |date=2005 |page=59 |isbn=}}</ref>。

21世紀初頭における河和田地区の人口の増減をみると、漆器産業の少ない上河内・金谷・寺中・別司などでは人口が減少しており、漆器産業の盛んな片山・河和田・北中などでは人口が増加し、全体として河和田地区の人口は増加傾向にあり、越前漆器産業の隆盛が表れている<ref name=馬場2016,p76/>。2021年(令和3年)度の出荷額は63億円であり、日本漆器協同組合連合会(日漆連)に加盟する16団体の中で2年連続1位となった<ref>{{Cite news|title=越前漆器の出荷額2年連続トップ 日漆連加盟2021年度調査 63億円、購入補助が奏功 |newspaper=福井新聞 |url=https://www.fukuishimbun.co.jp/articles/-/1764463 |accessdate=2024-02-12 |date=2023-04-13 |author=}}</ref>。飲食店や旅館など、外食産業で用いられる漆器の80パーセント以上を生産する<ref name=伝統工芸のきほん2017,p30/><ref name=ポプラディア3,p264/>。

== 製法と種類 ==
=== 形状 ===
古代中世には「片山椀」と呼ばれる三つ椀を中心に、丸物(椀物)を主に生産した。1900年代から弁当箱や重箱に用いられる角物(板物)も生産するようになり、第二次世界大戦後は海外向けの商品として様々な小物やインテリアへの転用が工夫された。21世紀現在も多様な商品化が行われているが、主には椀、膳、盆、重箱などを生産する<ref name=ポプラディア3,p264>{{Cite book|和書|author= |title=ポプラディア第3巻 |publisher=ポプラ社 |date=2021 |page=264 |isbn=}}</ref>。

=== 木製漆器 ===
[[File:木地の工房.jpg|thumb|木地の原材料]]
古く伝統産業として生産されてきた木製の越前漆器には、[[轆轤|ろくろ]]を使用して製作する[[椀]]物と、板を組み合わせて作る角物([[重箱]]や[[膳]]など)がある<ref name=うるしの里2005,p14/>。これらの生産は分業制で、それぞれの工程に専門の職人がいる<ref name=うるしの里2005,p29>{{Cite book|和書|author= |title=うるしの里 河和田をたずねて 越前漆器を知るたびにでよう! |publisher=越前漆器協同組合 |date=2005 |page=29 |isbn=}}</ref>。完成までには細かい手作業を重ねる必要があり、数か月を要する<ref name=うるしの里2005,p29/>。

素地の木材には、丸物用荒素地には[[トチノキ|栃]]や[[ブナ]]が多く用いられ、角物(板物ともいう)には[[カツラ (植物)|桂]]や[[ホオノキ]]などがおもに用いられた<ref name=馬場2016,p67>{{Cite book|和書|author=馬場章 |title=漆器業地域の技術変化 |publisher=之潮 |date=2016 |page=67 |isbn=}}</ref>。ほかに[[ミズメ]]、[[ケヤキ]]、[[スギ|杉]]、[[ヒノキ|ヒバ]]なども使用される<ref name=伝統工芸のきほん2017,p30/>。

漆は、昭和の中頃には日本産の漆がもっとも質が良く、次いで中国産のもので、中国産は日本漆に比べれば質が落ちるが産地によっては匹敵する良質なものもあったとされる<ref name=杉本1970,p66/>。[[インド]]産や[[ベトナム]]産など南方の漆は品質が劣るため、越前漆器では単独では使用せず、日本産や中国産の漆に混和して使用した<ref name="杉本1970,p66" />。ただし、漆のもつ接着力や強度などの質の点では品質が劣るとされたが、南方産の漆は発色がよかったので、色を混ぜる場合に使用するのは効果的と考えられていた<ref name="杉本1970,p66">{{Cite book|和書|author=杉本伊佐美 |title=越前漆器 |publisher=越前漆器協同組合内「越前漆器」刊行会 |date=1970 |page=66 |isbn=}}</ref>。

越前漆器の塗は、下地の上に漆を塗り重ね、最後に表面を研ぎださずに仕上げとする「花塗り(塗り立て)」と呼ばれる技法を用いる<ref name=伝統工芸のきほん2017,p30/>。上塗りには油分をふくませた漆が用いられる<ref>{{Cite book|和書|author=野水綾乃 |title=伝統工芸のきほん② ぬりもの |publisher=理論社 |date=2017 |page=36 |isbn=}}</ref>。

==== 河和田の渋下地 ====
[[File:柿渋を作る道具.jpg|thumb|柿渋を作る道具の展示]]
伝統的な木製の越前漆器の特色では、下地に[[柿渋]]を用いる技法に特徴があり、1802年(享保2年)から導入された<ref name=うるしの里2005,p26>{{Cite book|和書|author= |title=うるしの里 河和田をたずねて 越前漆器を知るたびにでよう! |publisher=越前漆器協同組合 |date=2005 |page=26 |isbn=}}</ref>。近隣で[[カキノキ|柿]]の生産が盛んであったことがその理由で、もともとは高価な漆を節約するための工夫だったが、柿渋には漆の密着率を上げ、虫食いや腐食を防ぐ効果があったため、これが越前漆器の主流となった<ref name=森本2012,p189/><ref name=日本の伝統産業3,1975,p125>{{Cite book|和書|author=日本地域社会研究所 |title=日本の郷土産業3 中部・北陸 |publisher=新人物往来社 |date=1975 |page=125 |isbn=}}</ref><ref name=うるしの里2005,p26/>。このため、1945年(昭和20年)~1955年(昭和30年)頃には100人ほどの女性が柿渋を生産する職を担ったが、渋下地は耐久性の点では漆のみを使用する漆下地に劣るため高級品とは見做されなかった<ref name=森本2012,p189/>。そのため近年は木製漆器の高級化をめざして「漆下地」に改めており<ref name=馬場2016,p76>{{Cite book|和書|author=馬場章 |title=漆器業地域の技術変化 |publisher=之潮 |date=2016 |page=76 |isbn=}}</ref>、21世紀現在は[[福井県]]内で生業として柿渋を生産する生産者はいない<ref name=うるしの里2005,p26/>。

柿渋を下地に用いることは、庶民向けの漆器産地では全国に他例があるが、越前漆器の渋下地の特徴は次の通りである<ref name=森本2012,p191>{{Cite book|和書|author=森本孝 |title=宮本常一とあるいた昭和の日本23 漆・柿渋と木工 |publisher=農村漁村文化協会 |date=2012 |page=191 |isbn=}}</ref>。渋下地は3度塗り重ね、1回目は柿渋に柳灰の粉を混ぜたもの、2回目は松煙を混ぜたもの、3回目は柿渋のみを塗る。1回塗るごとに砥石で研ぎあげて表面を滑らかにする。最後に漆を1回上塗りするが、良い品物は2回塗り重ねて仕上げる。柳灰や松煙を混ぜるのは、木地の木目の凹凸を埋めるためで、またこれらは柿渋に混ぜることで固まる性質があるため木部の表面を保護する役割をした<ref name=森本2012,p191/>。

==== 生産工程 ====
木材から器を作る「挽物(ひきもの)」技術と、漆を塗る「塗物(ぬりもの)」技術で生産される<ref name=ポプラディア3,p264/>。

渋下地による越前漆器伝統の工程は最多で15工程あり、荒木地・白木地・刻苧彫・見付布張り・布埋め・刻苧削りと呼ばれる6工程が木地椀を製作・修正・補強する挽物の工程である<ref name=森本2012,p191/>。次いで渋地荒地付け・渋地一辺研ぎ・炭ばなし・渋研ぎ・中塗研ぎ・渋地仕上げの渋下地の作業が6工程あり、最後3工程が漆塗りの中塗り・中塗り研ぎ・上塗りとなる<ref name=森本2012,p191/>。

=== プラスチック漆器 ===
[[File:越前漆器の新素材サンプルLIMEXペレット.jpg|thumb|2018年に開発された新素材 LIMEXペレット]]
現代では越前漆器の主流となったプラスチック製の漆器は分類としては「塗物」と呼ばれ、漆または合成塗料を吹き付け、焼き付ける量産加工で生産される<ref>{{Cite book|和書|author=日本地域社会研究所 |title=日本の郷土産業3 中部・北陸 |publisher=新人物往来社 |date=1975 |page=124 |isbn=}}</ref>。

使用する樹脂粉は当初[[ユリア樹脂]]が多かったが、[[ホルマリン]]による健康問題を避けるため1970年代にはより安全な[[メラミン樹脂]]も用いられるようになった<ref name=馬場2016,p70>{{Cite book|和書|author=馬場章 |title=漆器業地域の技術変化 |publisher=之潮 |date=2016 |page=70 |isbn=}}</ref>。2010年代にはより安く大量生産が可能な[[ABS]]や[[ナイロン]]による素地生産が主流となったが、このためには1台1千万円以上の[[射出成形|インジェクション]](射出型成型機)が必要で、2016年(平成28年)時点でこの機材を持つ素地工場は全体の35パーセントにとどまっている<ref name=馬場2016,p70/>。

== 業界団体 ==
{{博物館
|名称 = 鯖江市越前漆器伝統産業会館
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|画像説明 = うるしの里会館
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|専門分野 = 越前漆器
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|管理運営 = 越前漆器協同組合
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|開館 = 1980年(昭和55年)
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|所在地郵便番号 = 916-1221
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|緯度度 =35 |緯度分 =57 |緯度秒 =12.0 |N(北緯)及びS(南緯) = <!-- N -->
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|座標右上表示 =
|アクセス = JR鯖江駅から車で約20分<br/>
JR鯖江駅からコミュニティバス(つつじバス)河和田線で25分「うるしの里会館」下車
|公式サイト = https://www.echizen.or.jp/urushinosatokaikan|越前漆器協同組合
}}
=== 越前漆器協同組合 ===
越前漆器の生産は、特に河和田地区において盛んである。この河和田地区を中心とする互助組織は、1895年(明治27年)に「漆商工実業協会」が誕生し、1899年(明治32年)には「日本漆商工会」と改組した<ref name=杉本1970,p46/>。役場内に事業所を置いて、原料である漆を安定的に入手するため全国に[[ウルシ|漆樹]]の繁殖をはかり、漆液の改良を研究した<ref name=杉本1970,p46>{{Cite book|和書|author=杉本伊佐美 |title=越前漆器 |publisher=越前漆器協同組合内「越前漆器」刊行会 |date=1970 |page=46 |isbn=}}</ref>。同じ頃、「今立漆器組合」も組織され、活動していた<ref name=杉本1970,p46/>。

現在の'''越前漆器協同組合'''に連なる組合が初めて誕生したのは1900年(明治33年)である<ref name=110周年記念誌,2013,p5>{{Cite book|和書|author= |title=越前漆器 創立110周年記念誌 |publisher=越前漆器協同組合 |date=2013 |page=5 |isbn=}}</ref>。当初は「今立郡漆器業組合」と称し、工賃の協定と漆器製品の粗製乱造を防止して産地崩壊を防ぐことなどを主な目的に設立された<ref name=110周年記念誌,2013,p5/>。やがて1902年(明治35年)10月に「今立郡漆器同業組合」と改称し、以後は職種ごとの徒弟養成所を設立するなど後進の育成に力を入れるようになった<ref>{{Cite book|和書|author= |title=越前漆器 創立110周年記念誌 |publisher=越前漆器協同組合 |date=2013 |page=10 |isbn=}}</ref>。1921年(大正10年)、「今立漆器同業組合」に改組し<ref>{{Cite book|和書|author= |title=越前漆器 創立110周年記念誌 |publisher=越前漆器協同組合 |date=2013 |page=14 |isbn=}}</ref>、さらに1927年(昭和2年)5月には「越前漆器同業組合」となった<ref>{{Cite book|和書|author= |title=越前漆器 創立110周年記念誌 |publisher=越前漆器協同組合 |date=2013 |page=16 |isbn=}}</ref>。

昭和の初期、日本国内の漆器市場では越前漆器は[[輪島塗]]や[[会津漆器]]などの先進産地のブランドに圧され、河和田産の越前漆器が表向きは輪島産として流通し、しかも河和田産と正しく表示された同規格製品の約2倍で取引されていた<ref name=110周年記念誌,2013,p20>{{Cite book|和書|author= |title=越前漆器 創立110周年記念誌 |publisher=越前漆器協同組合 |date=2013 |page=20 |isbn=}}</ref>。この事態を重く見た組合は、1929年(昭和4年)12月12日、新聞報道を通じて「越前塗」と改称を宣言、産地の[[ブランド]]化を図った<ref name=110周年記念誌,2013,p20/>。

1939年(昭和14年)、[[第二次世界大戦]]が勃発すると、その影響で越前漆器は原材料の入手が困難となり、また、統制物資の配分や軍需品配分を受ける都合上、必要に迫られて「越前漆器工業組合」と改組する<ref>{{Cite book|和書|author= |title=越前漆器 創立110周年記念誌 |publisher=越前漆器協同組合 |date=2013 |page=28 |isbn=}}</ref>。1944年(昭和19年)には「福井県漆器統制組合」に改組した<ref name=110周年記念誌,2013,p34>{{Cite book|和書|author= |title=越前漆器 創立110周年記念誌 |publisher=越前漆器協同組合 |date=2013 |page=34 |isbn=}}</ref>。終戦後、1947年(昭和22年)3月に「越前漆器商工業協同組合」となり<ref name=110周年記念誌,2013,p34/>、1950年(昭和25年)に「'''越前漆器協同組合'''」に改組し現在に至っている<ref>{{Cite book|和書|author= |title=越前漆器 創立110周年記念誌 |publisher=越前漆器協同組合 |date=2013 |page=38 |isbn=}}</ref>。

==== 鯖江市越前漆器伝統産業会館「うるしの里会館」 ====
越前漆器協同組合が指定管理者となり、鯖江市の所有する「鯖江市越前漆器伝統産業会館(通称:うるしの里会館)」の管理運営を行っている<ref name=うるしの里会館>{{Cite web |url=https://www.echizen.or.jp/urushinosatokaikan |title=うるしの里会館 |publisher =越前漆器協同組合 |accessdate=2024-02-12}}</ref>。

回廊式の展示施設では、越前漆器の販売や商談スペースのほか、古今の越前漆器の原材料や生産工程など歴史的資料を展示し、越前漆器の取り組みを紹介する<ref name=うるしの里会館/>。主要な展示物に、木地製作から加飾までの全工程を越前漆器の職人のみで一貫して行った「越前塗山車」がある<ref name=うるしの里会館/>。そのほか、大小様々な研修室や茶室があり、レンタルスペースとして提供するほか、職人の指導のもとで漆塗りを体験するワークショップの開催や、越前漆器で食事ができるレストランなどが取り組まれている<ref name=うるしの里会館/>。

また、別棟に職人工房を持ち、伝統工芸士の職人が漆器づくりの「木地作り」「漆塗り」「加飾」の工程を実際に行っており、職人と直接話すことも可能<ref name=うるしの里会館/>。

<gallery>
File:うるしの里会館ミュージアムショップ.jpg|ミュージアムショップ
File:越前塗山車.jpg|越前塗山車
File:Urushi no Sato Kaikan ac (4).jpg|越前漆器の蒔絵の格天井
File:拭き漆塗り体験.jpg|拭き漆体験ワークショップ
</gallery>

=== 漆のれん会 ===
'''漆のれん会'''は、越前漆器を産地直販価格で販売する十数店の販売店舗が加盟する地域団体で、生活様式が多様化しても通用する漆器の良点の普及・啓発を目的に活動する越前市の漆器産業に関わる任意団体のひとつ<ref name=漆のれん会,出版年不明,p3/>。販売促進のみでなく、割れ欠けやヒビの入った木造漆器の修繕も請け負い、これら活動の各所において、「越前漆器協同組合」等と協同している<ref name=漆のれん会,出版年不明,p3/>。

== 漆器神社 ==
[[File:河和田の漆器神社.jpg|thumb|河和田の漆器神社(敷山神社境内社)]]
片山町と河和田町にはそれぞれ漆器神社がある。このうち、片山町の漆器神社は八幡神社境内にあり、越前漆器の発祥として語りづがれる皇子の冠を修繕した職人が、その仕事の前に参拝し身を清めたとされる<ref name=うるしの里2005,p15/>。社には、かつて越前漆器づくりに用いられた刃物や漆塗りの仕上げ道具などが奉納されている<ref name=うるしの里2005,p15>{{Cite book|和書|author= |title=うるしの里 河和田をたずねて 越前漆器を知るたびにでよう! |publisher=越前漆器協同組合 |date=2005 |page=15 |isbn=}}</ref>。

一方の河和田町の漆器神社は、敷山神社の[[境内]]にあり、蒔絵の施された漆天井が華やかなことで知られる<ref name=うるしの里2005,p15/>。境内には漆器づくりの道具を供養する刷毛塚があり、漆器イベントなども開催されている<ref name=うるしの里2005,p15/>。「おこない」「やくばらい」などの行事があり、毎年1~2月に厄年の者が神社の参拝者に餅をまく<ref>{{Cite book|和書|author= |title=うるしの里 河和田をたずねて 越前漆器を知るたびにでよう! |publisher=越前漆器協同組合 |date=2005 |page=56 |isbn=}}</ref>。


== 脚注 ==
== 脚注 ==
{{Reflist|2}}
<references />


== 参考文献 ==
== 参考文献 ==
30行目: 185行目:
* 河田貫三著、『福井県物産誌』、1902年、福井工業新報社、[[国立国会図書館]]蔵
* 河田貫三著、『福井県物産誌』、1902年、福井工業新報社、[[国立国会図書館]]蔵
* 財務省北陸財務局経済調査課著 「北陸財務局統計年報 平成20年版」
* 財務省北陸財務局経済調査課著 「北陸財務局統計年報 平成20年版」
* 『越前漆器 創立110周年記念誌』越前漆器協同組合、2013年
* 『うるしの里 河和田をたずねて 越前漆器を知るたびにでよう!』越前漆器協同組合、2005年
* 杉本伊佐美『越前漆器』越前漆器協同組合内「越前漆器」刊行会、1970年
* 日本地域社会研究所『日本の郷土産業3 中部・北陸』新人物往来社、1975年
* 馬場章『漆器業地域の技術変化』之潮、2016年
* 『越前漆器 漆のれん会』鯖江市図書館所蔵小冊子、出版年不明
* 野水綾乃『伝統工芸のきほん② ぬりもの』理論社、2017年
* 『ポプラディア第3巻』ポプラ社、2021年


== 外部リンク ==
== 外部リンク ==
* [http://www.echizen.or.jp// 越前漆器協同組合]
* [http://www.echizen.or.jp// 越前漆器協同組合]
* [https://kogeijapan.com/locale/ja_JP/echizenshikki/ KOGEI JAPAN]


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[[Category:日本の漆器]]
[[Category:日本の漆器]]

2024年2月14日 (水) 22:57時点における版

飲食店の越前漆器に盛られた越前そば
伝統工法による越前漆器の弁当箱。外側は花塗、内側は拭き漆で仕上げている。

越前漆器(えちぜんしっき)は、福井県鯖江市河和田地区を中心に生産される漆器。伝統産業であり、400近い漆器関係企業や工房が集積している[1]中心地域の名を冠して「河和田塗」とも呼ばれる[2]

20世紀後半には熱や水に強い新素材への塗装技術が確立されたことにより日本全国の業務用漆器のシェア8割を占めるに到り[3]眼鏡繊維とともに鯖江市の三大地場産業に挙げられる。国の経済産業大臣指定伝統的工芸品に指定される[4]

越前漆器には、従来の伝統工芸品である「漆器」と、1960年代に開発されたプラスチック素地に吹付塗装を行う「塗物」があり、越前漆器工業協同組合の資料ではこれらは明確に区別されているが、一般の多くの文献資料においてはともに「越前漆器」と扱われる例が多い。そのため本項目の記述においても双方とも「越前漆器」と記述する。

特徴

無印良品の河和田塗り汁椀は、木粉をメラミン樹脂に混ぜて成形した素地に天然の漆を塗って仕立てられている[5]

もともと越前漆器は河和田地区のなかでも片山町地域の主産業であり、「片山椀」と呼ばれていた[6]。1900年代以降、生産地が河和田地区全域に拡大したことから「河和田塗」と呼ばれるようになり、木地に「うるし」を原料とした伝統的な椀・膳・重箱等が「河和田塗」の名称で全国に知られるようになった[2][6]。軽量だが、古典的な優雅さと厚手で堅牢さを備えるところが特長とされる[3][7]

技法の特徴では、伝統的な木地には黒・朱・溜色の花塗りで仕上げる。普段使い用のものは無地が主流で、奥深い艶が特徴的とされる[3]。蒔絵や沈金を施す場合もある[3]。そのほか柿渋を用いる「渋下地」の技法(後述)に特徴があり、この技法の工夫は1802年(享和2年)に確立された[8][9]

現代のような漆器産地としての基盤の確立は明治20年代以降である[9]。漆器産地としては、丈夫で比較的安価であることから、日用品漆器として親しまれる[1]。また、産業発祥が少なくとも飛鳥時代まで遡れることから、「日本で最も古いうるしの里」とされる[10]

20世紀後半以降は、昔ながらの木製漆器の生産に加え、プラスチック素材や化学塗料の使用、機械化によりスプレー塗装やスクリーン印刷など塗装技術も機械化されるようになり、多彩な色付けと、より安価な大量生産が可能となった[6]。プラスチック素材への転換により、21世紀には外食産業用の漆器の80パーセント以上を越前漆器が占める[3]。鯖江市内の全小学校で学校給食の食器に導入されており、伝統産業の継承と需要の拡大が図られている[11]

歴史

越前漆器の発祥と背景

片山の塗師が修繕した継体天皇の冠のレプリカ

漆は固まると強い接着力をもつことから、古来、石器の矢じりと柄を固定する蔓の補強などに用いられていた[12]北海道南茅部町では縄文時代初期(約9000年前)の遺跡から漆塗りの装飾品が出土しており、福井県内でも縄文時代前期(約5000年前)には漆が日用品であったことが、鳥浜貝塚から出土したなど漆が塗られた道具が見つかっていることから確実視されている[13]

奈良時代にはから伝来した技法や模様が漆の道具にみられるようになり、漆の木の植林がすすめられたと考えられている[13]。越前漆器の主生産地である福井県鯖江市河和田地区では、大和飛鳥時代に、第26代継体天皇がまだ皇子であった頃に今立郡味真野の郷を訪れ、傷んだの塗り替え(補修)を片山町の塗師に頼んだ[3]。塗師は修繕した冠とともに黒漆の椀も併せて献上し、皇子はその光沢の見事さに深く感銘して漆産業を大いに奨励したことが越前漆器の始まりであると伝えている[2]。西暦527年のことであったと伝わり、当時は「片山塗」と称された[14]

旧来の「片山椀」

この地域で漆器づくりが発展した主な理由として、「豪雪地帯のため、冬でも屋内で生産できることが生計を支えた」「四方を山に囲まれた土地柄、木地となる材料の入手が容易だった」「湿度や気温などの自然環境が漆器づくりに適していた」ことが挙げられる[15]。10世紀初めの『延喜式』には「調副物置(漆をとりたてる役所)を越前ほか10ヵ国に置く」と記録された[7]

全国的な動向としては、平安時代に都では蒔絵の技法を施した漆器がみられるようになり、漆の物が身分の高い人々の間で使われるものとなった。鎌倉時代には寺社の食器などにも漆塗りが用いられるようになり、蒔絵の技法はこの頃には完成したものとみられている[13]室町時代には沈金の技術も広がり、庶民の間でも漆塗りの椀物が使用されはじめ、安土・桃山時代には椀物以外の食器にも発展したとされている[13]。さらに江戸時代に入ると蒔絵の技法が広まりをみせ、漆器はより一般的なものとして使用されるようになる[13]。しかし、越前漆器にこれらの技術が導入されたのは明治期以降であり、越前漆器は一貫して安価で丈夫な日用品の域を出ないものだった[1]

報恩講に使用された漆器膳の一例

鎌倉時代浄土真宗が誕生すると、越前ではその布教活動がさかんに行われたことから、報恩講で多数の客をもてなす際に使う三つ椀の漆器が必需品として普及し、その需要に応じて越前漆器では椀物の生産が発展した[1]。1580年頃に、「片山朱塗」と呼ばれる漆が誕生し、黒色のみでなく朱色の越前漆器も生産されるようになった[14]

江戸時代

伝統的な片山朱塗と黒塗の越前漆器

歴史的に漆器は重宝な品物として、歴代の権力者に保護奨励されてきた産業のひとつであり、江戸時代には各とも御用塗師をおいていた[16]。この当時の河和田地区は、鯖江藩小浜藩に分割されていたが、いずれの統治下でも領内の貴重な産物として手厚く保護され、明治期を迎えている[17]

1802年(享和2年)、椀の表面を滑らかにして見た目を美しくし、同時に虫食いや腐食を防ぐことができる「下地づくり」の技術が確立された[9][8]。加飾に耐える堅牢な下地づくりが可能となり、嘉永年間(1848~1853年)には京都から蒔絵師を招いて技術継承を受け、さらに輪島から沈金の技法を取り入れたが[14][1]、これらの技術を取り入れた越前漆器の本格的な生産は明治になってからだった[18]

この地場産業を支えた職人集団には、江戸時代から明治時代にかけて全国で漆掻きを行い原材料の入手を支えた漆掻き職人の存在がある。今立郡の今立地区(旧今立町)や河和田地区の越前漆器職人でもある彼らは、漆の専門集団として「越前衆」と呼ばれ、全国を巡り漆を集めると同時に、その技術を各地に伝えた[19]、現代まで日本各地に伝わる漆掻き法はほぼ共通と考えられており、「越前式殺掻法」と呼ばれている[20]

明治期~昭和期戦前

生のウルシ液

明治時代には江戸時代を上回る多くの越前衆[21][22]出稼ぎ移住を行った。越前衆は漆器生産の向上普及に貢献し、全国に漆器産地が形成されたという。

1890年(明治23年)に「日本漆工会」が誕生し隔年で漆工競技会が開催されるようになると、越前漆器は機関誌の発行や東京への陳列館の設置など精力的に漆器製品のPRを行い、業界の発展に大きく寄与したという[23]

1895年(明治28年)に日清戦争が終結し、その翌年には北陸線が開通したことで、越前漆器は発展に拍車をかけた[17]。他地域に学んだ技術の向上と生産・販路の拡大に伴い越前漆器はそのシェアを着実に伸ばしていった[17]。その後も度々の戦中戦後には低迷する時期もあったものの、日本国内の復興にともなって活気を取り戻したとされる[17]。1900年(明治33年)頃に従来の丸物に加えて、角物(板物)の漆器の生産を開始した[14]。1900年(明治33年)に現在の越前漆器協同組合の祖となる今立郡漆器業組合が設立されると、工賃などの協定が結ばれ、徐々に産地としてのまとまりが形成され、本格的な生産活動が開始されていった[7]。京都や輪島のみならず、山中、彦根会津などからも積極的に技術の導入を計り、1909年(明治42年)には地元小学校で越前漆器としては初めて漆器品評会を開催した[7]

1929年(昭和4年)~1930年(昭和5年)頃が第二次世界大戦以前では全盛期であり、この頃の越前漆器の生産者は198戸、年間生産額は約100万円を記録した[7]

一方、かつて越前漆器を支えた漆かき職人は、1878年(明治11年)に安価な志那漆の輸入が始まると採集業はわりにあわなくなり、生産販売に転向していった[24]。志那漆は初めは大阪の漆商が清国から密輸して巨額の利益をあげ、越前から東京に出店していた漆商達がこれに気付いてその手法を真似して横浜から大量に購入した志那産漆に日本漆を混和して安価で販売したという。笑いが止まらぬほど儲けたと伝えられるこれらの人々も、多くはもともとは漆かき職人であった[24]

昭和戦後期

伝統的な漆を濾す作業

越前漆器産業は戦時中は一時中断を余儀なくされたが[25]、終戦後は進駐軍人向けの土産物の需要促進に販路を見出し、外国人向け商品として宝石箱やボンボン入れ(菓子器)、たばこセット、蒸留酒用のコップなどを生産して評判となった[26]。1950年(昭和25年)、従来の組合を改組し、現・越前漆器協同組合を設立、第1回全国漆器祭りを開催し、戦前に比べて3分の1まで減少していた漆器生産の再興をはかった[27]

1960年(昭和35年)頃、外食がさかんになってきた社会では、大量生産できる安価なプラスチック製品が求められるようになっていた[14]。プラスチック素地に漆塗りを取り入れる技術は1952年(昭和27年)頃に採り入れられており[14]、化学塗料の使用も開始された[7]。やがてシルクスクリーンによる絵柄の印刷技術も活用するようになった。

木製漆器から、「塗物」と呼ばれるプラスチック漆器への転換は、伝統的に分業で成り立ってきたいくつもの生産工程を省略できる革命的な転換であり[7]大量生産が可能となったことで椀や膳などの業務用食器が普及し、越前漆器は業務用漆器の8割以上を生産する一大産地へと発展し、全国に知られる一大産地へと成長した。塗物転換前の越前漆器の販売地域は近畿地方が最も多く次いで中国四国地方に及んでいたが[25]、転換後の1966年(昭和41年)の地域別販売動向では、出荷先の34.2パーセントが東京都であり、ついで近畿地方が20.6パーセント、中部地方15.4パーセントで、県内消費は10.8パーセントだった[28]。1975年には経済産業大臣指定伝統的工芸品に選定された。

1972年(昭和47年)頃の河和田地区では、地区人口約5,800人のうち約1,500人がなんらかの工程で漆器生産に携わり、総生産額は椀や寿司桶などの日用品を中心に年間で約30億円で[9]、輪島、木曽、会津、東京に次ぐ全国第5位だった[29]。製品としては約8割が大量生産のプラスチック製品であり、漆器本来の木製品の生産は縮小されてきた[7]。このため、蒔絵や沈金などの伝統的な高級技術は、越前漆器業界では後継者が少なく廃れる傾向がある[29]。これを憂いた若い職人達13人のグループ「漆美会」が「本物をつくろう」を合言葉に1971年(昭和46年)に発足した[30]。しかし、河和田の漆器商は全国的に高級品として名の通った輪島塗の銘を入れて出荷することがあり、伝統的な木製漆器を越前漆器として流通させることにこだわると、その収入は同等の腕を持つ同僚のほぼ3分の1にしかならなかったという[31]

現代

学校給食用の越前漆器

1980年(昭和55年)、鯖江市越前漆器伝統産業会館が建設される[14]

2001年(平成13年)から鯖江市立河和田小学校で越前漆器が学校給食に使用されはじめ、2002年(平成14年)には鯖江市の他の学校給食にも越前漆器が導入された[14][11]。2024年現在、鯖江市内のすべての学校給食で越前漆器を使用する。給食用食器の開発と導入は、河和田地区の職人らによる意向ですすめられ、熱湯での洗浄や高温の乾燥機でも食器が変形しないこと、おぼんに滑り止めを付けるなどの工夫が要点だった[11]

2018年(平成30年)、産地として新素材開発を手掛ける東京のベンチャー企業TBM慶應義塾大学大学院メディアデザイン研究科と地域産業振興などに関する連携協定を結び、紙やプラスチックの代替となる新素材「ライメックス(LIMEX)」を木地とする商品開発に着手した[32]。ライメックスは石灰石を主成分とし、これをプラスチックに加工する場合、石油の使用量を60~80パーセント削減できることから環境負荷の低い素材として評価されている[32]

2023年(令和5年)には福井県工業技術センターと地元企業の共同研究により、従来は職人が手作業で行っていた作業の一部をデジタル加工に置き換える加飾技術が開発され、制作時間の大幅な短縮による量産化や、デジタルならではの多様なデザインが可能となった[33]

産地振興としては「うるしの里まつり」春の行事としてパレードや茶会を行い、漆器づくりの工場見学や絵付け体験など普及活動を行っている[34]。また、「漆器展覧会」「感謝祭」秋の行事として、新作の漆器発表会を行い、感謝祭では日用に使用している道具への感謝をささげ、古い漆器や使用しなくなった漆器を町内の漆器神社で供養している[34]。2005年時点で河和田地区に住む漆器職人は約250人で、越前漆器産業を振興する団体として後述する「越前漆器協同組合」や販売者によるグループ「漆のれん会」、生産者によるグループ「軒下工房」などが活動する[35]

21世紀初頭における河和田地区の人口の増減をみると、漆器産業の少ない上河内・金谷・寺中・別司などでは人口が減少しており、漆器産業の盛んな片山・河和田・北中などでは人口が増加し、全体として河和田地区の人口は増加傾向にあり、越前漆器産業の隆盛が表れている[36]。2021年(令和3年)度の出荷額は63億円であり、日本漆器協同組合連合会(日漆連)に加盟する16団体の中で2年連続1位となった[37]。飲食店や旅館など、外食産業で用いられる漆器の80パーセント以上を生産する[3][4]

製法と種類

形状

古代中世には「片山椀」と呼ばれる三つ椀を中心に、丸物(椀物)を主に生産した。1900年代から弁当箱や重箱に用いられる角物(板物)も生産するようになり、第二次世界大戦後は海外向けの商品として様々な小物やインテリアへの転用が工夫された。21世紀現在も多様な商品化が行われているが、主には椀、膳、盆、重箱などを生産する[4]

木製漆器

木地の原材料

古く伝統産業として生産されてきた木製の越前漆器には、ろくろを使用して製作する物と、板を組み合わせて作る角物(重箱など)がある[15]。これらの生産は分業制で、それぞれの工程に専門の職人がいる[38]。完成までには細かい手作業を重ねる必要があり、数か月を要する[38]

素地の木材には、丸物用荒素地にはブナが多く用いられ、角物(板物ともいう)にはホオノキなどがおもに用いられた[25]。ほかにミズメケヤキヒバなども使用される[3]

漆は、昭和の中頃には日本産の漆がもっとも質が良く、次いで中国産のもので、中国産は日本漆に比べれば質が落ちるが産地によっては匹敵する良質なものもあったとされる[39]インド産やベトナム産など南方の漆は品質が劣るため、越前漆器では単独では使用せず、日本産や中国産の漆に混和して使用した[39]。ただし、漆のもつ接着力や強度などの質の点では品質が劣るとされたが、南方産の漆は発色がよかったので、色を混ぜる場合に使用するのは効果的と考えられていた[39]

越前漆器の塗は、下地の上に漆を塗り重ね、最後に表面を研ぎださずに仕上げとする「花塗り(塗り立て)」と呼ばれる技法を用いる[3]。上塗りには油分をふくませた漆が用いられる[40]

河和田の渋下地

柿渋を作る道具の展示

伝統的な木製の越前漆器の特色では、下地に柿渋を用いる技法に特徴があり、1802年(享保2年)から導入された[41]。近隣での生産が盛んであったことがその理由で、もともとは高価な漆を節約するための工夫だったが、柿渋には漆の密着率を上げ、虫食いや腐食を防ぐ効果があったため、これが越前漆器の主流となった[8][30][41]。このため、1945年(昭和20年)~1955年(昭和30年)頃には100人ほどの女性が柿渋を生産する職を担ったが、渋下地は耐久性の点では漆のみを使用する漆下地に劣るため高級品とは見做されなかった[8]。そのため近年は木製漆器の高級化をめざして「漆下地」に改めており[36]、21世紀現在は福井県内で生業として柿渋を生産する生産者はいない[41]

柿渋を下地に用いることは、庶民向けの漆器産地では全国に他例があるが、越前漆器の渋下地の特徴は次の通りである[42]。渋下地は3度塗り重ね、1回目は柿渋に柳灰の粉を混ぜたもの、2回目は松煙を混ぜたもの、3回目は柿渋のみを塗る。1回塗るごとに砥石で研ぎあげて表面を滑らかにする。最後に漆を1回上塗りするが、良い品物は2回塗り重ねて仕上げる。柳灰や松煙を混ぜるのは、木地の木目の凹凸を埋めるためで、またこれらは柿渋に混ぜることで固まる性質があるため木部の表面を保護する役割をした[42]

生産工程

木材から器を作る「挽物(ひきもの)」技術と、漆を塗る「塗物(ぬりもの)」技術で生産される[4]

渋下地による越前漆器伝統の工程は最多で15工程あり、荒木地・白木地・刻苧彫・見付布張り・布埋め・刻苧削りと呼ばれる6工程が木地椀を製作・修正・補強する挽物の工程である[42]。次いで渋地荒地付け・渋地一辺研ぎ・炭ばなし・渋研ぎ・中塗研ぎ・渋地仕上げの渋下地の作業が6工程あり、最後3工程が漆塗りの中塗り・中塗り研ぎ・上塗りとなる[42]

プラスチック漆器

2018年に開発された新素材 LIMEXペレット

現代では越前漆器の主流となったプラスチック製の漆器は分類としては「塗物」と呼ばれ、漆または合成塗料を吹き付け、焼き付ける量産加工で生産される[43]

使用する樹脂粉は当初ユリア樹脂が多かったが、ホルマリンによる健康問題を避けるため1970年代にはより安全なメラミン樹脂も用いられるようになった[44]。2010年代にはより安く大量生産が可能なABSナイロンによる素地生産が主流となったが、このためには1台1千万円以上のインジェクション(射出型成型機)が必要で、2016年(平成28年)時点でこの機材を持つ素地工場は全体の35パーセントにとどまっている[44]

業界団体

鯖江市越前漆器伝統産業会館
うるしの里会館
施設情報
愛称 うるしの里会館
専門分野 越前漆器
事業主体 鯖江市
管理運営 越前漆器協同組合
開館 1980年(昭和55年)
所在地 916-1221
福井県鯖江市西袋町40-1-2
位置 北緯35度57分12.0秒 東経136度16分26.3秒 / 北緯35.953333度 東経136.273972度 / 35.953333; 136.273972座標: 北緯35度57分12.0秒 東経136度16分26.3秒 / 北緯35.953333度 東経136.273972度 / 35.953333; 136.273972
アクセス

JR鯖江駅から車で約20分

JR鯖江駅からコミュニティバス(つつじバス)河和田線で25分「うるしの里会館」下車
外部リンク https://www.echizen.or.jp/urushinosatokaikan
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越前漆器協同組合

越前漆器の生産は、特に河和田地区において盛んである。この河和田地区を中心とする互助組織は、1895年(明治27年)に「漆商工実業協会」が誕生し、1899年(明治32年)には「日本漆商工会」と改組した[45]。役場内に事業所を置いて、原料である漆を安定的に入手するため全国に漆樹の繁殖をはかり、漆液の改良を研究した[45]。同じ頃、「今立漆器組合」も組織され、活動していた[45]

現在の越前漆器協同組合に連なる組合が初めて誕生したのは1900年(明治33年)である[46]。当初は「今立郡漆器業組合」と称し、工賃の協定と漆器製品の粗製乱造を防止して産地崩壊を防ぐことなどを主な目的に設立された[46]。やがて1902年(明治35年)10月に「今立郡漆器同業組合」と改称し、以後は職種ごとの徒弟養成所を設立するなど後進の育成に力を入れるようになった[47]。1921年(大正10年)、「今立漆器同業組合」に改組し[48]、さらに1927年(昭和2年)5月には「越前漆器同業組合」となった[49]

昭和の初期、日本国内の漆器市場では越前漆器は輪島塗会津漆器などの先進産地のブランドに圧され、河和田産の越前漆器が表向きは輪島産として流通し、しかも河和田産と正しく表示された同規格製品の約2倍で取引されていた[50]。この事態を重く見た組合は、1929年(昭和4年)12月12日、新聞報道を通じて「越前塗」と改称を宣言、産地のブランド化を図った[50]

1939年(昭和14年)、第二次世界大戦が勃発すると、その影響で越前漆器は原材料の入手が困難となり、また、統制物資の配分や軍需品配分を受ける都合上、必要に迫られて「越前漆器工業組合」と改組する[51]。1944年(昭和19年)には「福井県漆器統制組合」に改組した[26]。終戦後、1947年(昭和22年)3月に「越前漆器商工業協同組合」となり[26]、1950年(昭和25年)に「越前漆器協同組合」に改組し現在に至っている[52]

鯖江市越前漆器伝統産業会館「うるしの里会館」

越前漆器協同組合が指定管理者となり、鯖江市の所有する「鯖江市越前漆器伝統産業会館(通称:うるしの里会館)」の管理運営を行っている[53]

回廊式の展示施設では、越前漆器の販売や商談スペースのほか、古今の越前漆器の原材料や生産工程など歴史的資料を展示し、越前漆器の取り組みを紹介する[53]。主要な展示物に、木地製作から加飾までの全工程を越前漆器の職人のみで一貫して行った「越前塗山車」がある[53]。そのほか、大小様々な研修室や茶室があり、レンタルスペースとして提供するほか、職人の指導のもとで漆塗りを体験するワークショップの開催や、越前漆器で食事ができるレストランなどが取り組まれている[53]

また、別棟に職人工房を持ち、伝統工芸士の職人が漆器づくりの「木地作り」「漆塗り」「加飾」の工程を実際に行っており、職人と直接話すことも可能[53]

漆のれん会

漆のれん会は、越前漆器を産地直販価格で販売する十数店の販売店舗が加盟する地域団体で、生活様式が多様化しても通用する漆器の良点の普及・啓発を目的に活動する越前市の漆器産業に関わる任意団体のひとつ[1]。販売促進のみでなく、割れ欠けやヒビの入った木造漆器の修繕も請け負い、これら活動の各所において、「越前漆器協同組合」等と協同している[1]

漆器神社

河和田の漆器神社(敷山神社境内社)

片山町と河和田町にはそれぞれ漆器神社がある。このうち、片山町の漆器神社は八幡神社境内にあり、越前漆器の発祥として語りづがれる皇子の冠を修繕した職人が、その仕事の前に参拝し身を清めたとされる[54]。社には、かつて越前漆器づくりに用いられた刃物や漆塗りの仕上げ道具などが奉納されている[54]

一方の河和田町の漆器神社は、敷山神社の境内にあり、蒔絵の施された漆天井が華やかなことで知られる[54]。境内には漆器づくりの道具を供養する刷毛塚があり、漆器イベントなども開催されている[54]。「おこない」「やくばらい」などの行事があり、毎年1~2月に厄年の者が神社の参拝者に餅をまく[55]

脚注

  1. ^ a b c d e f g 『越前漆器 漆のれん会』鯖江市図書館所蔵小冊子、3頁。 
  2. ^ a b c 財務省北陸財務局経済調査課著 2008, pp. 10.
  3. ^ a b c d e f g h i 野水綾乃『伝統工芸のきほん② ぬりもの』理論社、2017年、30頁。 
  4. ^ a b c d 『ポプラディア第3巻』ポプラ社、2021年、264頁。 
  5. ^ “無印良品で発見! 1000円ちょっとの汁椀なのに、みょ~に雰囲気がある件”. Begin (Begin). (2018年7月23日). https://www.e-begin.jp/article/39113/ 2024年1月14日閲覧。 
  6. ^ a b c 『うるしの里 河和田をたずねて 越前漆器を知るたびにでよう!』越前漆器協同組合、2005年、18頁。 
  7. ^ a b c d e f g h 日本地域社会研究所『日本の郷土産業3 中部・北陸』新人物往来社、1975年、123頁。 
  8. ^ a b c d 森本孝『宮本常一とあるいた昭和の日本23 漆・柿渋と木工』農村漁村文化協会、2012年、189頁。 
  9. ^ a b c d 日本地域社会研究所『日本の郷土産業3 中部・北陸』新人物往来社、1975年、121頁。 
  10. ^ 『うるしの里 河和田をたずねて 越前漆器を知るたびにでよう!』越前漆器協同組合、2005年、13頁。 
  11. ^ a b c 『うるしの里 河和田をたずねて 越前漆器を知るたびにでよう!』越前漆器協同組合、2005年、50頁。 
  12. ^ 『うるしの里 河和田をたずねて 越前漆器を知るたびにでよう!』越前漆器協同組合、2005年、10頁。 
  13. ^ a b c d e 『うるしの里 河和田をたずねて 越前漆器を知るたびにでよう!』越前漆器協同組合、2005年、11頁。 
  14. ^ a b c d e f g h 『うるしの里 河和田をたずねて 越前漆器を知るたびにでよう!』越前漆器協同組合、2005年、17頁。 
  15. ^ a b 『うるしの里 河和田をたずねて 越前漆器を知るたびにでよう!』越前漆器協同組合、2005年、14頁。 
  16. ^ 杉本伊佐美『越前漆器』越前漆器協同組合内「越前漆器」刊行会、1970年、22頁。 
  17. ^ a b c d 杉本伊佐美『越前漆器』越前漆器協同組合内「越前漆器」刊行会、1970年、23頁。 
  18. ^ 馬場章『漆器業地域の技術変化』之潮、2016年、66頁。 
  19. ^ 浄法寺の漆 - 漆掻き職人の出稼ぎ 2017年10月27日閲覧。
  20. ^ 越前式殺掻法の概要|漆掻き技術(1)”. NPOうるしネクスト. 2024年2月15日閲覧。
  21. ^ うるしの國の物語|うるしの國・浄法寺 2017年10月31日閲覧。
  22. ^ 南部の漆を支えた人びと-越前衆の軌跡-工藤紘一 著 2017年10月27日閲覧。
  23. ^ 杉本伊佐美『越前漆器』越前漆器協同組合内「越前漆器」刊行会、1970年、40頁。 
  24. ^ a b 杉本伊佐美『越前漆器』越前漆器協同組合内「越前漆器」刊行会、1970年、67頁。 
  25. ^ a b c 馬場章『漆器業地域の技術変化』之潮、2016年、67頁。 
  26. ^ a b c 『越前漆器 創立110周年記念誌』越前漆器協同組合、2013年、34頁。 
  27. ^ 『越前漆器 創立110周年記念誌』越前漆器協同組合、2013年、36頁。 
  28. ^ 馬場章『漆器業地域の技術変化』之潮、2016年、75頁。 
  29. ^ a b 日本地域社会研究所『日本の郷土産業3 中部・北陸』新人物往来社、1975年、122頁。 
  30. ^ a b 日本地域社会研究所『日本の郷土産業3 中部・北陸』新人物往来社、1975年、125頁。 
  31. ^ 日本地域社会研究所『日本の郷土産業3 中部・北陸』新人物往来社、1975年、127頁。 
  32. ^ a b “鯖江市 新素材をものづくりに”. 福井新聞. (2018年8月21日) 
  33. ^ “伝統の越前漆器、デジタル技術で量産 多様なデザインも”. 日本経済新聞. (2023年6月20日). https://www.nikkei.com/article/DGXZQOCC158IR0V10C23A6000000/ 2024年2月12日閲覧。 
  34. ^ a b 『うるしの里 河和田をたずねて 越前漆器を知るたびにでよう!』越前漆器協同組合、2005年、57頁。 
  35. ^ 『うるしの里 河和田をたずねて 越前漆器を知るたびにでよう!』越前漆器協同組合、2005年、59頁。 
  36. ^ a b 馬場章『漆器業地域の技術変化』之潮、2016年、76頁。 
  37. ^ “越前漆器の出荷額2年連続トップ 日漆連加盟2021年度調査 63億円、購入補助が奏功”. 福井新聞. (2023年4月13日). https://www.fukuishimbun.co.jp/articles/-/1764463 2024年2月12日閲覧。 
  38. ^ a b 『うるしの里 河和田をたずねて 越前漆器を知るたびにでよう!』越前漆器協同組合、2005年、29頁。 
  39. ^ a b c 杉本伊佐美『越前漆器』越前漆器協同組合内「越前漆器」刊行会、1970年、66頁。 
  40. ^ 野水綾乃『伝統工芸のきほん② ぬりもの』理論社、2017年、36頁。 
  41. ^ a b c 『うるしの里 河和田をたずねて 越前漆器を知るたびにでよう!』越前漆器協同組合、2005年、26頁。 
  42. ^ a b c d 森本孝『宮本常一とあるいた昭和の日本23 漆・柿渋と木工』農村漁村文化協会、2012年、191頁。 
  43. ^ 日本地域社会研究所『日本の郷土産業3 中部・北陸』新人物往来社、1975年、124頁。 
  44. ^ a b 馬場章『漆器業地域の技術変化』之潮、2016年、70頁。 
  45. ^ a b c 杉本伊佐美『越前漆器』越前漆器協同組合内「越前漆器」刊行会、1970年、46頁。 
  46. ^ a b 『越前漆器 創立110周年記念誌』越前漆器協同組合、2013年、5頁。 
  47. ^ 『越前漆器 創立110周年記念誌』越前漆器協同組合、2013年、10頁。 
  48. ^ 『越前漆器 創立110周年記念誌』越前漆器協同組合、2013年、14頁。 
  49. ^ 『越前漆器 創立110周年記念誌』越前漆器協同組合、2013年、16頁。 
  50. ^ a b 『越前漆器 創立110周年記念誌』越前漆器協同組合、2013年、20頁。 
  51. ^ 『越前漆器 創立110周年記念誌』越前漆器協同組合、2013年、28頁。 
  52. ^ 『越前漆器 創立110周年記念誌』越前漆器協同組合、2013年、38頁。 
  53. ^ a b c d e うるしの里会館”. 越前漆器協同組合. 2024年2月12日閲覧。
  54. ^ a b c d 『うるしの里 河和田をたずねて 越前漆器を知るたびにでよう!』越前漆器協同組合、2005年、15頁。 
  55. ^ 『うるしの里 河和田をたずねて 越前漆器を知るたびにでよう!』越前漆器協同組合、2005年、56頁。 

参考文献

  • 南部の漆を支えた人びと~越前衆の軌跡~ 工藤紘一著 「出版社:川口印刷工業」
  • 河田貫三著、『福井県物産誌』、1902年、福井工業新報社、国立国会図書館
  • 財務省北陸財務局経済調査課著 「北陸財務局統計年報 平成20年版」
  • 『越前漆器 創立110周年記念誌』越前漆器協同組合、2013年
  • 『うるしの里 河和田をたずねて 越前漆器を知るたびにでよう!』越前漆器協同組合、2005年
  • 杉本伊佐美『越前漆器』越前漆器協同組合内「越前漆器」刊行会、1970年
  • 日本地域社会研究所『日本の郷土産業3 中部・北陸』新人物往来社、1975年
  • 馬場章『漆器業地域の技術変化』之潮、2016年
  • 『越前漆器 漆のれん会』鯖江市図書館所蔵小冊子、出版年不明
  • 野水綾乃『伝統工芸のきほん② ぬりもの』理論社、2017年
  • 『ポプラディア第3巻』ポプラ社、2021年

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