「ビラ・スタンモーア夜戦」の版間の差分

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|caption=<small>アメリカ軽巡洋艦モントピリア</small>
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'''ビラ・スタンモーア夜戦'''(ビラ・スタンモーアやせん)は[[太平洋戦争]]中の1943年3月5日に[[ソロモン諸島]]で生起した[[海戦]]。[[ケ号作戦|ケ号作戦(ガダルカナル撤退)]]後、日本軍の新たな拠点となった[[コロンバンガラ島]]への輸送に従事していた駆逐艦2隻と、コロンバンガラ島への[[艦砲射撃]]を企図した[[アメリカ海軍]]の巡洋艦部隊が交戦し、日本側の駆逐艦2隻が一方的な攻撃を受けて沈没した。<!--アメリカ軍側の呼称は'''ブラケット水道海戦'''({{lang-en|Battle of Blackett Strait}} )。{{仮リンク|ブラケット水道|en|Blackett Strait}}とはコロンバンガラ島と{{仮リンク|アルンデル島|en|Arundel Island}}の間にある水路の名称であるが、戦闘自体はブラケット水道の東口、[[クラ湾]]に接した海域で行われた。-->
'''ビラ・スタンモーア夜戦'''(ビラ・スタンモーアやせん)は[[太平洋戦争]]中の1943年3月5日に[[ソロモン諸島]]で生起した[[海戦]]。[[ケ号作戦|ケ号作戦(ガダルカナル撤退)]]後、日本軍の新たな拠点となった[[コロンバンガラ島]]への輸送に従事していた駆逐艦2隻と、コロンバンガラ島への[[艦砲射撃]]を企図した[[アメリカ海軍]]の巡洋艦部隊が交戦し、日本側の駆逐艦2隻が一方的な攻撃を受けて沈没した。

「ビラ・スタンモーア夜戦」の海戦名はアメリカ側による呼称で<ref>[[#写真・太平洋戦争]]p.168</ref>、日本側では一方的な敗戦であるためか海戦名は付されていないとする<ref name="m">[[#木俣水雷]]p.308</ref>。ウィキペディア英文版での呼称はブラケット水道海戦({{lang-en|Battle of Blackett Strait}} )となっている。{{仮リンク|ブラケット水道|en|Blackett Strait}}とはコロンバンガラ島と南隣の{{仮リンク|アルンデル島|en|Arundel Island}}の間にある水路の名称であるが、戦闘自体はブラケット水道の東口、[[クラ湾]]に接した海域で行われた。また、戦史研究家{{仮リンク|サミュエル・E・モリソン|en|Samuel Eliot Morison}}は自身の編集による戦史(通称「モリソン戦史」)で「この戦闘は時々クラ湾の第一合戦と呼ばれるが、公式の名称は附與されていない」と記している<ref>[[#村雨の最期]]p.106</ref>。


==背景==
==背景==
[[ガダルカナル島の戦い]]も終末期に差し掛かった1942年11月末、アメリカ軍は[[ムンダ (ソロモン諸島)|ムンダ]]に日本軍が新たな飛行場を建設中であることを知る<ref name="a">ポッター, 313ページ</ref>。ムンダとガダルカナル島の距離は175マイル(約280 [[キロメートル|km]])で<ref name="a" />、ガダルカナル島再奪回やアメリカ軍の進撃を妨害するには好適地であった<ref name="b">佐藤, 192ページ</ref>。[[零式艦上戦闘機|零戦]]のガダルカナル島上空での行動時間は大幅に伸び、爆撃機も従来以上の量の爆弾を搭載してガダルカナル島を爆撃する事も可能となる<ref name="b" />。実際には、日本軍がムンダでの飛行場建設に乗り出したのは12月1日からで<ref name="c">佐藤, 189ページ</ref>、第一期工事は二週間ほどで終了した<ref name="c" />。また、コロンバンガラ島でも1943年1月上旬から飛行場建設を開始する予定だった<ref name="c" />。当然、アメリカ軍からしてみればムンダの基地が本格稼動し、コロンバンガラ島の飛行場も使用可能となった暁には相当な脅威となる厄介な存在と判断されていた<ref>ニミッツ、ポッター, 165ページ</ref>。
[[ガダルカナル島の戦い]]も終末期に差し掛かった1942年11月末、アメリカ軍は[[ムンダ (ソロモン諸島)|ムンダ]]に日本軍が新たな飛行場を建設中であることを知る<ref name="a">[[#ポッター]]p.313</ref>。ムンダとガダルカナル島の距離は175マイル(約280 [[キロメートル|km]])で<ref name="a"/>、ガダルカナル島再奪回やアメリカ軍の進撃を妨害するには好適地であった<ref name="b">[[#佐藤]]p.192</ref>。[[零式艦上戦闘機|零戦]]のガダルカナル島上空での行動時間は大幅に伸び、爆撃機も従来以上の量の爆弾を搭載してガダルカナル島を爆撃する事も可能となる<ref name="b"/>。実際には、日本軍がムンダでの飛行場建設に乗り出したのは12月1日からで<ref name="c">[[#佐藤]]p.189</ref>、第一期工事は二週間ほどで終了した<ref name="c"/>。また、コロンバンガラ島でも1943年1月上旬から飛行場建設を開始する予定だった<ref name="c"/>。当然、アメリカ軍からしてみればムンダの基地が本格稼動し、コロンバンガラ島の飛行場も使用可能となった暁には相当な脅威となる厄介な存在と判断されていた<ref name="d">[[#ニミッツ、ポッター]]p.165</ref>。


そこで、1943年に入るや否や、アメリカ軍南太平洋部隊司令官[[ウィリアム・ハルゼー]]大将は水上部隊にムンダとコロンバンガラ島への艦砲射撃を繰り返し行わせ、同時に爆撃や航空機による[[機雷]]投下も行った<ref name="cc">ニミッツ、ポッター, 165ページ</ref>。すなわち、1月4日にはムンダへの砲撃が、1月23日にはコロンバンガラ島への砲撃がそれぞれ行われて十分な打撃を与えた<ref name="b" />。とはいえ、圧倒的な力をかけるにはアメリカ軍の戦力は十分とは言えず<ref>ポッター, 344ページ</ref>、日本軍は新たな[[橋頭堡]]を強固なものにすべく中部ソロモン諸島行きの「[[鼠輸送|東京急行]]」を次々と送り込んでいた。3月4日16時、日本の駆逐艦「村雨」と「峯雲」が補給物資として米入りのドラム缶や弾薬などを積載して[[ラバウル]]から出撃しコロンバンガラ島へと向かった<ref>戦史叢書9674ページ、木俣、204ページ</ref>。一方アメリカコロンバンガラ島砲撃のこの日隊を出撃させていた<ref>木俣、305ページ、O'Hara, p.167</ref>。
そこで、1943年に入るや否や、アメリカ軍南太平洋部隊司令官[[ウィリアム・ハルゼー]]大将は水上部隊にムンダとコロンバンガラ島への艦砲射撃を繰り返し行わせ、同時に爆撃や航空機による[[機雷]]投下も行った<ref name="d"/>。すなわち、1月4日にはムンダへの砲撃が、1月23日にはコロンバンガラ島への砲撃がそれぞれ行われて十分な打撃を与えた<ref name="b"/>。とはいえ、圧倒的な力をかけるにはアメリカ軍の戦力は十分とは言えず<ref>[[#ポッター]]p.344</ref>、日本軍は新たな[[橋頭堡]]を強固なものにすべく中部ソロモン諸島行きの「[[鼠輸送|東京急行]]」を次々と送り込んでいた。3月4日16時、第四水雷戦隊([[高間完]]少将)指揮下の駆逐艦「村雨」と「峯雲」が補給物資として[[]]入りの[[ドラム缶]]や弾薬などを積載して[[ラバウル]]から出撃しコロンバンガラ島へと向かった<ref name="h">[[#戦史96]]p.74</ref><ref>[[#村雨の最期]]p.13</ref><ref>[[#木俣水雷]]p.304</ref>。「村雨」と「峯雲」は前日3月3日[[ラエ]]に[[第51師団 (日本)|第五十一師団]]を送り込む第八十一号作戦の陽動としてコロンバンガラ島方面を行動しており、[[ビスマルク海海戦]]で第五十一師団を乗せ輸送船団が壊滅した悲報を聞いてラバウルに引き返したが、ラバウル入港直前に「村雨」が[[座礁]]事故を起し、離礁してラバウルに帰投したは3月4の夜明け前のことだった<ref>[[#村雨の最期]]pp.11-13, p.324</ref>。また、「村雨」と「峯雲」は、この輸送作戦が終われば、ブインからラバウルへ航空部基地員140名と物資輸送する任務も与えられていた<ref>[[#四水戦]]pp.11-12</ref><ref>[[#村雨の最期]]p.59,324</ref>。


ムンダおよびコロンバンガラ島を砲撃するアメリカ艦隊には二つの任務部隊があった。一つは{{仮リンク|ヴォールデン・L・エインスワース|en|Walden L. Ainsworth}}少将の第67任務部隊、もう一つがアーロン・S・メリル少将の第68任務部隊であった<ref name="cc" /><ref>ポッター, 344345ページ</ref>。この二つの任務部隊は交替で夜間にムンダとコロンバンガラ島へ接近し、艦砲射撃の後即座に退却して基地に帰投するというパターンを繰り返した<ref name="cc" />。また、ガダルカナル島をめぐる海戦に登場した臨時編成の任務部隊とは違い、夜戦を得意としていた日本艦隊によりよく対抗できるよう、[[レーダー]]に関する知識を学び、常にまとまって訓練と行動を繰り返した結果、均整が取れた部隊となっていた<ref name="cc" />。ハルゼーは過大報告された前回の砲撃結果に基づき、再度の攻撃のためメリルを出撃させた<ref>O'Hara, pp.166-167</ref>。メリルの第68任務部隊は[[エスピリトゥサント]]を出撃し、「ザ・スロット」と呼ばれた[[ニュージョージア海峡]]をひたすら北上する<ref name="e">戦史叢書9676ページ</ref>。このニュージョージア海峡突入時から「ブラックキャット」の異名を持つ夜間哨戒仕様の[[PBY (航空機)|PBY「カタリナ」]]<ref>ニミッツ、ポッター, 172ページ</ref>3機が第68任務部隊の前路警戒配備に就いた<ref name="e" />。なお、第68任務部隊の軽巡洋艦群のうち、「[[コロンビア (軽巡洋艦)|コロンビア]]」 (''USS Columbia, CL-56'') は修理を行う必要があったため作戦から除外された<ref name="ee">フェーイー, 38ページ</ref>。
一方、アメリカ軍もコロンバンガラ島砲撃のためこの日艦隊を出撃させていた<ref>[[#木俣水雷]]p.305</ref><ref>[[#O'Hara ]]p.167</ref>。当時、ムンダおよびコロンバンガラ島を砲撃するアメリカ艦隊には二つの任務部隊があった。一つは{{仮リンク|ヴォールデン・L・エインスワース|en|Walden L. Ainsworth}}少将の第67任務部隊、もう一つがアーロン・S・メリル少将の第68任務部隊であった<ref name="d"/><ref>[[#ポッター]]pp.344-345</ref>。この二つの任務部隊は交替で夜間にムンダとコロンバンガラ島へ接近し、艦砲射撃の後即座に退却して基地に帰投するというパターンを繰り返した<ref name="d"/>。また、ガダルカナル島をめぐる海戦に登場した臨時編成の任務部隊とは違い、夜戦を得意としていた日本艦隊によりよく対抗できるよう、[[レーダー]]に関する知識を学び、常にまとまって訓練と行動を繰り返した結果、均整が取れた部隊となっていた<ref name="d"/>。ハルゼー大将は過大報告された前回の砲撃結果に基づき、再度の攻撃のためメリルを出撃させた<ref>[[#O'Hara ]]pp.166-167</ref>。メリル少将の第68任務部隊は[[エスピリトゥサント]]を出撃し、「ザ・スロット」と呼ばれた[[ニュージョージア海峡]]をひたすら北上する<ref name="e">[[#戦史96]]p.76</ref>。このニュージョージア海峡突入時から「ブラックキャット」の異名を持つ夜間哨戒仕様の[[PBY (航空機)|PBY「カタリナ」]]<ref>[[#ニミッツ、ポッター]]p.172</ref>3機が第68任務部隊の前路警戒配備に就いた<ref name="e"/>。なお、第68任務部隊の軽巡洋艦群のうち、「[[コロンビア (軽巡洋艦)|コロンビア]]」 (''USS Columbia, CL-56'') は修理を行う必要があったため作戦から除外された<ref name="f">[[#フェーイー]]p.38</ref>。


==海戦参加艦艇==
==海戦参加艦艇==
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==戦闘経過==
==戦闘経過==
「村雨」と「峯雲」は3月5日8時30分に[[ブイン (パプアニューギニア)|ブイン]]沖に到着して一息つく<ref name="g">[[#村雨の最期]]p.14</ref>。「村雨」では、第二駆逐隊司令橘正雄大佐、駆逐艦長[[種子島洋二]]少佐ら艦の幹部が第一根拠地隊司令部を訪問したり、「村雨」に乗り組んだ[[海軍兵学校卒業生一覧 (日本)#71期|海軍兵学校71期]]の候補生が[[ショートランド諸島|ショートランド]]の水路見学<ref group="注釈">候補生らが「初めて入港した港湾では必ず行われる実習項目となっており、ガンルーム士官が短艇指揮として陸上との連絡、上陸員の送迎を行う上に必要な実施教育だった」([[#村雨の最期]]p.14)</ref>に出かけたりした<ref name="g"/>。また、「村雨」はここでさらに米を積むよう命じられていたが、米は艦底に積んでいてすぐには出せず、[[乾パン|乾麺麭]]を100箱積むこととなった<ref name="g"/>。16時、「村雨」と「峯雲」はブイン沖を出撃し、コロンバンガラ島へ向かった<ref name="h"/><ref>[[#村雨の最期]]p.17</ref>。「村雨」と「峯雲」は、[[ベララベラ島]]東方から[[ベラ湾]]とブラケット水道を通過し、予定より30分遅れの21時30分にデビル島泊地に到着<ref name="h"/><ref name="i">[[#村雨の最期]]p.18</ref>。直ちに6隻から7隻ほどの[[大発動艇|大発]]が陸上から出てきて揚陸作業を行う<ref name="i"/>。大発群を指揮した第八連合特別陸戦隊の副官は、食糧や弾薬を大発に直接積み込んでほしいと要望したが、出港時間を遅らせれば空襲を受けやすくなることもあり、常套手段だったドラム缶を海中に放り込んで陸上側がこれを回収する方法で物資を揚陸させた<ref name="i"/>。1時間後には全ての作業が終了し<ref name="h"/>。「村雨」と「峯雲」は速力12ノットでコロンバンガラ島の東岸沿いを北上してブインへの帰途に就く<ref name="j">[[#戦史96]]p.75</ref><ref name="l">[[#村雨の最期]]p.19</ref>。この出港の際、「村雨」と「峯雲」の艦首が潮と風の流れで西側に向いていたので、そのまま往路と同じコースを引き返す事も考えられたが、ニュージョージア海峡に出たら、ブイン、ショートランドまでは一直線であるという事もあって、東向きに回頭した上でコロンバンガラ島の東岸沿いを北上するルートが採られたのである<ref name="l"/>。「峯雲」は一旦北向きに後進してから東向きに回頭し、「村雨」の後に続いた<ref>[[#村雨の最期]]pp.19-20</ref>。
「村雨」と「峯雲」は3月5日8時30分に[[ブイン (パプアニューギニア)|ブイン]]沖に到着して一息ついた後、16時に出撃してコロンバンガラ島へ向けて出撃した<ref name="d">『戦史叢書96』74ページ</ref>。ブインを出撃した「村雨」と「峯雲」は、[[ベララベラ島]]東方から[[ベラ湾]]とブラケット水道を通過して21時30分に泊地に到着<ref name="d" />。直ちに揚陸作業を行い、1時間後には全ての作業が終了した<ref name="d" />。「村雨」と「峯雲」は速力26ノットでコロンバンガラ島の東岸沿いを北上してブインへの帰途に就く<ref name="f">『戦史叢書96』75ページ</ref>。しかし、「村雨」と「峯雲」の動きはすでにガダルカナル島の通信隊によって20時30分頃に探知ののち通報されており<ref name="e" /><ref>フェーイー, 35ページ</ref>、また、「ブラックキャット」機のうちの1機が泊地に進入する「村雨」と「峯雲」を探知していた<ref name="e" />。第68任務部隊は22時過ぎにクラ湾に入り、戦闘配置を令して単縦陣、速力20ノットの態勢で南西方向に進む<ref name="e" />。22時57分、「ウォーラー」のレーダーは「ブラックキャット」機が探知したものと思しき目標を探知し、23時1分に魚雷を発射<ref name="e" />。これに続いて巡洋艦群もレーダー射撃を開始した<ref name="e" />。「モントピリア」の元乗員ジェームズ・J・フェーイーは、「モントピリア」が最初に砲撃を開始し、最初に6インチ砲弾を命中させたと主張する<ref name="g">フェーイー, 36ページ</ref>。フェーイーはまた、第68任務部隊の砲撃の様子は「船という船がぶっ放す[[アメリカ独立記念日|7月4日の独立記念日]]みたいだった」と回想している<ref name="g" />。「村雨」が[[ニュージョージア島]]の方向に[[雷|稲妻]]のような閃光を目撃した直後、周囲には爆発音に続いて水柱が林立したのを確認<ref name="f" />。最初は夜間爆撃と判断して「対空戦闘」を令したが、すぐに第68任務部隊の姿を認めて水上砲戦に入る<ref name="f" />。この時点で「峯雲」は[[船橋|艦橋]]より後部が被弾により炎上し<ref name="f" />、間もなく沈没。「村雨」も艦橋を中心に多数被弾して23時25分には航行不能に陥り、23時30分に沈没していった<ref>『第四水雷戦隊戦時日誌』C08030116400, pp.15</ref>。「村雨」は第二駆逐隊[[司令]][[橘正雄]]大佐、駆逐艦長[[種子島洋二]]少佐以下乗員134名がコロンバンガラ島の日本軍に救助された後ラバウルに帰還<ref name="h">『第四水雷戦隊戦時日誌』C08030116400, pp.17</ref><ref>木俣, 307、308ページ</ref>。「峯雲」は乗員45名が救助されたのみで<ref name="h" />、駆逐艦長上杉義男中佐以下残りの乗員は戦死した。朝になり、コロンバンガラ島からの報告を受けて偵察機が飛来したものの、当該海域では油紋と少数の漂流物しか確認できなかった<ref name="f" />。


しかし、「村雨」と「峯雲」の動きはすでにガダルカナル島の通信隊によって20時30分頃に探知ののち通報されており<ref name="e"/><ref>[[#フェーイー]]p.35</ref>、また、「ブラックキャット」機のうちの1機が泊地に進入する「村雨」と「峯雲」を探知していた<ref name="e"/>。第68任務部隊は22時過ぎにクラ湾に入り、戦闘配置を令して単縦陣、速力20ノットの態勢で南西方向に進む<ref name="e"/>。22時57分、「ウォーラー」のレーダーは「ブラックキャット」機が探知したものと思しき目標を探知し、やがて「島が動いている」とのレーダー員の報告により、目標が2つあることが分かった<ref>[[#村雨の最期]]p.94</ref>。「ウォーラー」は23時1分に魚雷を発射<ref name="e"/>。これに続いて巡洋艦群もレーダー射撃を開始した<ref name="e"/>。「モントピリア」の元乗員ジェームズ・J・フェーイーは、「モントピリア」が最初に砲撃を開始し、最初に6インチ砲弾を命中させたと主張する<ref name="k">[[#フェーイー]]p.36</ref>。フェーイーはまた、第68任務部隊の砲撃の様子は「船という船がぶっ放す[[アメリカ独立記念日|7月4日の独立記念日]]みたいだった」と回想している<ref name="k"/>。
第68任務部隊は「村雨」と「峯雲」に対する砲撃め、その5分後には陸上砲撃の態勢を整えてコロンバンガラ島への艦砲射撃を開始する<ref name="e" />。海岸部の軍事施設と兵舎、滑走路を目標に16分間に及ぶ艦砲射撃を実施<ref name="e" />。その間、日本軍に沿岸砲台から反撃があったものの第68任務部隊を確認する事ができず、逆にその一つが砲撃により破壊された<ref name="e" />。上空の「ブラックキャット」機の弾着観測および艦からの観測により、目標は徹底的に破壊され、資材が炎上しているのが確認された<ref name="e" /><ref name="g" />。砲撃を終えてクラ湾を出ようとする時に再び砲撃を受けたが、損害は全くなかった<ref name="i">フェーイー, 37ページ</ref>。また、別のアメリカ駆逐艦3隻が第68任務部隊に呼応してムンダの飛行場に対する艦砲射撃を行った<ref name="e" />。フェーイー曰く、「[[ハドソン川]]をさかのぼって[[ニューヨーク]]の町とその船を砲撃して、そして反転して海に向かう」<ref name="i" />ような作戦を終えた第68任務部隊は、3月9日夕刻にエスピリトゥサントに帰投した<ref name="ee" />。

第68任務部隊が戦闘を開始した23時、針路0度で21ノットの速力で北上を続けていた「村雨」が後続の「峯雲」の姿を確認して間もなく、[[ニュージョージア島]]の方向に閃光を目撃する<ref>[[#村雨の最期]]pp.20-21</ref>。その閃光について「村雨」の種子島駆逐艦長は「[[雷|いなびかり]]だろう」と言ったが、橘司令は「いや、味方の陸上砲台が射ったのかも知れない」と言う<ref name="n">[[#村雨の最期]]p.21</ref>。「村雨」砲術長の鹿山誉大尉が「当りもしないのに陸上砲台が射つとは」と思った次の瞬間、再び閃光が走り、前後して左舷後方200メートルぐらいのところに水柱が立ち、「村雨」の船体が振動した<ref name="n"/>。「峯雲」は水柱にさえぎられて姿が見えず、色めきだった「村雨」は戦闘配置を令して「対空戦闘」に備えた<ref name="o">[[#村雨の最期]]p.22</ref>。「対空戦闘」は鹿山砲術長の判断によるものだったが、これを聞いた方位盤射手が「砲術長、水上艦艇ではないでしょうか」と進言し、間もなく発砲する第68任務部隊の姿を認めて水上砲戦に切り替えられた<ref>[[#村雨の最期]]pp.22-23</ref>。「村雨」は右砲戦で応戦するも、被弾により方位盤と電気系統を損傷して二番煙突からは火が吹く有様であった<ref>[[#村雨の最期]]p.24</ref>。一方的な被弾は続き、方位盤は崩れて一番砲塔も弾薬庫の誘爆により大火災となって、「村雨」は機銃のみで応戦している状態だった<ref>[[#村雨の最期]]pp.24-25</ref>。さらに魚雷の雷跡が「村雨」に向かっていったが、魚雷は「村雨」の艦底を通過してコロンバンガラ島の方向に去っていった<ref name="p">[[#村雨の最期]]p.25</ref>。二番煙突の火災による魚雷の誘爆を防ぐべく魚雷の投棄が試みられるも成功せず、二番砲を人力操作で第68任務部隊の方向に向けようとしたが、「村雨」は右側に大きく傾斜して沈没が避けられない状態となった<ref>[[#村雨の最期]]pp.26-28</ref>。火勢も大きくなり、乗組員は順次退艦するよう促される<ref>[[#村雨の最期]]p.28,30</ref>。橘司令、種子島駆逐艦長も海中に飛び込み、「村雨」は左舷側を上にして、海中に飛び込んだ乗組員からの「村雨万歳」の声とともに沈没した<ref>[[#村雨の最期]]pp.30-32</ref>。第四水雷戦隊の記録では、「村雨」は「二三二五航行不能ニ陥リ二三三〇沈没セリ」とある<ref name="q">[[#四水戦1803]]p.15</ref>。

「峯雲」の状況はあまり定かではない。「村雨」が戦闘配置を令したころには「轟沈したのか水柱と黒煙に包まれている」状態であり<ref name="o"/>、一番砲の火災を確認した時には「もう何処にも見当たらなかった」という状態であった<ref name="p"/>。生還した「峯雲」砲術長徳納浩大尉の回想では、「峯雲」もまた「村雨」と同様に「対空戦闘」だと判断しており<ref>[[#村雨の最期]]p.99</ref>、「砲戦の号令をかけるのがやっと」の状態で一方的に撃たれ、第68任務部隊の「第一斉射から三分以内に沈み始めた」とする<ref>[[#村雨の最期]]p.103</ref>。徳納砲術長を初めとする「峯雲」の生存乗組員は海中から、発砲する「村雨」の姿を前方に見て「なんとかやってくれるだろう」と思っていた<ref>[[#村雨の最期]]p.102,108,123</ref>。第四水雷戦隊の記録は「峯雲交戦直後大火災二三一五沈没」と伝えている<ref name="q"/>。

第68任務部隊は「村雨」と「峯雲」を打ちの、その5分後には陸上砲撃の態勢を整えてコロンバンガラ島への艦砲射撃を開始する<ref name="e"/>。海岸部の軍事施設と兵舎、滑走路を目標に16分間に及ぶ艦砲射撃を実施<ref name="e"/>。その間、日本軍に沿岸砲台から反撃があったものの第68任務部隊を確認する事ができず、逆にその一つが砲撃により破壊された<ref name="e"/>。上空の「ブラックキャット」機の弾着観測および艦からの観測により、目標は徹底的に破壊され、資材が炎上しているのが確認された<ref name="e"/>。砲撃を終えてクラ湾を出ようとする時に再び砲撃を受けたが、損害は全くなかった<ref name="r">[[#フェーイー]]p.37</ref>。また、別のアメリカ駆逐艦3隻が第68任務部隊に呼応してムンダの飛行場に対する艦砲射撃を行った<ref name="e"/>。フェーイー曰く、「[[ハドソン川]]をさかのぼって[[ニューヨーク]]の町とその船を砲撃して、そして反転して海に向かうような」<ref name="r"/>作戦を終えた第68任務部隊は、3月9日夕刻にエスピリトゥサントに帰投した<ref name="f"/>。フェーイーはまた、この海戦について次のようにも記している

{{quotation|今年は[[聖パトリックの祝日|聖パトリックの日]]が早くきたようで、そのメリル司令官パトリックは[[ヘビ]]ではなく日本軍を退治したというわけだ。|ジェームズ.J.フェーイー『太平洋戦争アメリカ水兵日記』37ページ}}

メリル少将は「村雨」と「峯雲」を[[軽巡洋艦]]であると判断しており、ハルゼー大将への緊急報告でも「軽巡二隻撃沈」と記したが、その文言に続いて「今年は獲物制限の要なかるべし、陸上砲撃成功」という文言が付されていた<ref>[[#村雨の最期]]p.106</ref>。「軽巡二隻撃沈」と「陸上砲撃成功」はさて置いて、真ん中の「今年は獲物制限の要なかるべし」については、その意味は定かではない<ref group="注釈">「漸次北上の地歩を固めつつあった時であり、弾薬の補給も意の如くならないので射撃の制限を加えたのかもしれない。しかしむしろ敵は無益な交戦を避けて、極力当面の作戦目的たる基地の推進に重点を置いたと考えるのが正しいであろう」という見方が存在する([[#村雨の最期]]pp.106-107)。この時期、南太平洋部隊は艦船と航空機が不足気味ではあったが([[#ポッター]]pp.344-345)、弾薬に関する制限が実際にあったかどうかについては不明である。</ref>。

==生還==
3月6日未明、[[水上機母艦|特設水上機母艦]]「[[神川丸 (特設水上機母艦)|神川丸]]」([[川崎汽船]]、6,853トン)の水上偵察機が第68任務部隊の捜索のためクラ湾方面を飛行中、クラ湾に直径300メートルほどの油紋2つを確認し、午前には[[零式水上観測機]]2機が同じ地域を飛行して、コロンバンガラ島南端の60度7海里の地点から北の方向に幅約1,000メートル、長さ10海里にも及ぶ油帯を発見した<ref>[[#四水戦1803]]pp.14-15</ref><ref>[[#神川丸]]p.6</ref>。

その頃、生存の「村雨」と「峯雲」の乗組員は泳いだり、浮遊物につかまりながらコロンバンガラ島を目指した。「赤い屋根の家」<ref group="注釈">「椰子林を管理していた人々の家らしい」([[#村雨の最期]]p.47)。目立った建物だったらしく、「潮流に遮られ、泳げども泳げども近づかない赤い屋根の魔法にとりつかれて、遂に力盡き果てコロンバンガラ島の海に「村雨」を追って沈んでしまった」者もいた([[#村雨の最期]]p.58)。</ref>にたどり着いた乗組員は、前日夜に物資等を揚陸した地点からやってきた大発に収容され、大発はコロンバンガラ島の北端まで捜索した<ref>[[#村雨の最期]]pp.49-51</ref>。また、「村雨」の[[カッター (船)|カッター]]が、「村雨」の生存者を上陸させた後海上に引き返し、「峯雲」の徳納砲術長らを収容してコロンバンガラ島に上陸させた<ref name="s">[[#村雨の最期]]p.51</ref>。3月6日の時点では橘司令、種子島駆逐艦長など高級将校の安否が不明だったため、その時点では生存者の中で最先任だった「村雨」の鹿山砲術長が第八連合特別陸戦隊に顛末を報告することになっていたが、橘司令と種子島駆逐艦長は3月7日になって相次いで救助された<ref name="s"/>。その一方で、コロンバンガラ島にたどり着いた者の中には、[[熱傷|やけど]]に耐えかねて海水を飲んで絶命した負傷者もいた<ref>[[#村雨の最期]]p.54</ref>。最後の生存者は3月8日に収容された<ref>[[#村雨の最期]]p.57</ref>。「村雨」は橘司令、種子島駆逐艦長以下134名が救助されたが<ref name="u">[[#四水戦1803]]p.17</ref>、3月12日までに2名が戦病死し、3月12日の再確認では132名生存、戦死51名、行方不明52名と記録された<ref>[[#村雨の最期]]p.59,71</ref>。「峯雲」は徳納砲術長ら45名が救助されたのみで、駆逐艦長上杉義男中佐以下残りの乗組員210名は戦死した<ref name="u"/><ref name="m"/>。生存者はコロンバンガラ島輸送に来た駆逐艦「[[浦波 (吹雪型駆逐艦)|浦波]]」、「[[敷波 (吹雪型駆逐艦)|敷波]]」に分乗し、警戒担当の「[[雪風 (駆逐艦)|雪風]]」や水上偵察機の掩護を得て3月9日未明にブイン沖に到着<ref>[[#村雨の最期]]p.59</ref>。橘司令と種子島駆逐艦長は「雪風」に移って先にラバウルに帰還し、残る生存者も午後にはブインを発って3月10日朝にラバウルに到着した<ref>[[#村雨の最期]]pp.59-61</ref>。

ラバウルに帰還後、直ちに[[第八艦隊 (日本海軍)|第八艦隊]]主宰による研究会が開かれた。研究会には第八艦隊司令長官[[三川軍一]]中将、同艦隊参謀[[神重徳]]大佐、[[南東方面艦隊]]司令長官[[草鹿任一]]中将ら幕僚の面々が列席していたが<ref>[[#村雨の最期]]p.61</ref>、「会場内の雰囲気は研究会を通り越して査問会だった」<ref name="v">[[#村雨の最期]]p.62</ref>。橘司令らが戦闘経過を報告したが、艦隊幕僚らは[[第一次ソロモン海戦]]、[[ルンガ沖夜戦]]などの勝ち戦を引き合いに出し、「夜戦には絶対負けない駆逐艦が、得意とする夜戦でやられるとは何事ぞ」<ref name="v"/>と罵倒したり、レーダー射撃に理解を示そうとはしなかった<ref>[[#村雨の最期]]p.64</ref>。やがて、橘司令は「[[五月雨 (駆逐艦)|五月雨]]」を新しい司令駆逐艦として「五月雨」に移っていき<ref>[[#村雨の最期]]p.73</ref>、他の「村雨」と「峯雲」の生存者も順次ラバウルを後にして新任務に就いたり、日本本土へと帰還していった<ref>[[#村雨の最期]]pp.72-84</ref>。


==海戦の後==
==海戦の後==
ビラ・スタンモーア夜戦ののちも、ムンダおよびコロンバンガラ島への「東京急行」が遅れる事は当面なかった<ref>ポッター, 345ページ</ref>。海戦後に水上偵察機による哨戒が強化され、水上偵察機の援護の下、少なくとも4月までの「東京急行」は概ね成功していた<ref>木俣, 308ページ</ref>。それでも、アメリカ軍がソロモン諸島を北上してくるのは火を見るより明らかであり、現状では戦線維持もおぼつかないと判断した[[連合艦隊司令長官]][[山本五十六]]大将は、[[第三艦隊 (日本海軍)#六代(1942年7月14日新編~1944年11月15日解散)|第三艦隊]]の航空兵力と既存の基地航空兵力を集中的に投入してアメリカ軍に打撃を与え続け、戦線維持を図る事を決心した([[い号作戦]])。
ビラ・スタンモーア夜戦ののちも、ムンダおよびコロンバンガラ島への「東京急行」が遅れる事は当面なかった<ref>[[#ポッター]]p.345</ref>。海戦後に水上偵察機による哨戒が強化され、水上偵察機の援護の下、少なくとも4月までの「東京急行」は概ね成功していた<ref name="m"/>。それでも、アメリカ軍がソロモン諸島を北上してくるのは火を見るより明らかであり、現状では戦線維持もおぼつかないと判断した[[連合艦隊司令長官]][[山本五十六]]大将は、[[第三艦隊 (日本海軍)#六代(1942年7月14日新編~1944年11月15日解散)|第三艦隊]]の航空兵力と既存の基地航空兵力を集中的に投入してアメリカ軍に打撃を与え続け、戦線維持を図る事を決心した([[い号作戦]])。

また、ビラ・スタンモーア夜戦に勝利し多少進歩したとはいえ、アメリカ艦隊が日本艦隊に、特に夜戦分野で対抗するにはもう少し努力が必要であると考えられた<ref name="w">[[#ニミッツ、ポッター]]p.170</ref>。また、レダー射撃の重要性も再認識させられたが、「装置はなお原始的だった」とモリソンは言う<ref>[[#村雨の最期]]p.107</ref>。海戦後も、メリル少将とエインスワース少将の任務部隊はコロンバンガラ島周辺海域で交替して戦闘を続けた。不思議な事に、メリル少将が日本艦隊と再び戦うのは11月2日の[[ブーゲンビル島沖海戦]]までなく、コロンバンガラ島周辺海域で日本艦隊と戦ったのはエインスワース少将であった<ref name="w"/>。しかし、エインスワース少将は[[クラ湾夜戦]](7月5日、6日)と[[コロンバンガラ島沖海戦]](7月12日)で日本艦隊に打撃を与えつつも自らも大きな損害を出し、戦法面で進歩の様子があまり見られなかった<ref>[[#ニミッツ、ポッター]]p.171</ref>。夜戦分野において、ようやく日本海軍を上回る戦法が確立できたと判断されるには、「31ノット・バーク」こと[[アーレイ・バーク]]中佐の登場と、バーク中佐の理論を実践した[[ベラ湾夜戦]](8月6日)での完勝劇を待たなければならなかった<ref>[[#ニミッツ、ポッター]]p.174</ref>。

==アメリカ潜水艦グランパス==
{{seealso|グランパス (SS-207)}}
「村雨」と「峯雲」の一方的な喪失は、次のような憶測を生み出した。当時、アメリカ潜水艦「[[グランパス (SS-207)|グランパス]]」 (''USS Grampus, SS-207'') は2月11日に[[ブリスベン]]を出撃して以降、僚艦「[[グレイバック (潜水艦)|グレイバック]]」 (''USS Grayback, SS-208'') とともにソロモン諸島方面で行動していたが、ついに哨戒から帰らなかった。海戦のあった3月5日夜、「グレイバック」は[[ベラ湾]]近海で「グランパス」と思しき潜水艦を発見する<ref name="x">[[#SS-208, USS GRAYBACK]]p.235</ref>。それから間もなくして、「グレイバック」に「[[ギゾ|ギゾ海峡]]の方向に高速で航行する2隻の駆逐艦を迎え撃て」との指令が入る<ref name="x"/>。その3時間後、「グレイバック」はコロンバンガラ島の南端越しに発砲炎や閃光を見る<ref name="x"/>。その発砲炎や閃光の正体は分からなかったが、「グランパス」に関わっているものだと判断してベラ湾での哨戒を続けた<ref name="x"/>。やがて「グレイバック」は、3月6日夜に哨区の移動を命じられてベラ湾を去った<ref name="x"/>。「2隻の駆逐艦」を「村雨」と「峯雲」、「発砲炎や閃光」を夜戦によるものとするならば、「グレイバック」はビラ・スタンモーア夜戦の一部始終をコロンバンガラ島越しに観察していたことになる。


話はここから飛躍する。要約すれば、「「村雨」と「峯雲」は「グランパス」に出くわして撃沈したが、直後に第68任務部隊に攻撃されて沈没した」という論法となった<ref>[[#木俣敵潜1989]]p.55</ref>。「グランパス」の喪失認定に関する1943年3月29日付文書では、「3月5日から6日にかけての夜に、2隻の日本の駆逐艦がブラケット水道で「グランパス」を撃沈し、翌日大きな油膜が確認された」とあり<ref>[[#SS-207, USS GRAMPUS]]pp.238-239</ref>、またフェーイーは日記の中で、「二隻の日本の軍艦が味方の潜水艦を沈めて港に戻ってきたことを、このとき、僕たちは知らなかった」と記しており、海戦直後からこの手の話が伝えられていたと考えられる<ref name="k"/>。これに加え、「グレイバック」が爆雷攻撃のような音を聴取していない事から<ref name="x"/>、「沈めたとすれば水上で浮上状態を砲撃された」という尾ひれまでついた<ref name="y">[[#木俣敵潜1989]]p.56</ref>。しかし、「村雨」が3月5日16時にブイン沖を出撃して21時30分にデビル島泊地に到着し、揚陸作業を終えて22時30分に出港してコロンバンガラ島東岸を北上、23時過ぎに第68任務部隊の攻撃を受けて沈没するまで、戦闘行為を行ったのは前述のように第68任務部隊に対して反撃を行った時のみであった<ref>[[#村雨の最期]]pp.17-23</ref>。「グランパス」喪失認定に関する文書での「大きな油膜」も、おそらくは「神川丸」機などが3月6日未明から午前にかけて確認した油紋や油帯を指す。このことから、[[第九五八海軍航空隊]]の2機の[[零式水上偵察機]]が2月19日15時40分にグランパスの哨戒海域であった{{coor dm|05|04|S|152|18|E|}}の地点で潜水艦を爆撃し、直撃弾1発を与えて沈没を報告していること<ref>[[#SS-207, USS GRAMPUS]]p.238</ref>を引き合いに出して、この2月19日の攻撃こそが「グランパス」の最期であるという説も提示されている<ref name="y"/>。しかしながら、各種記述とも「グランパス」の喪失原因に結びつけて断定できるほどの材料がそろっていないのも事実であり、「グランパス」の喪失は現時点では謎とせざるを得ない。
また、ビラ・スタンモーア夜戦に勝利し多少進歩したとはいえ、アメリカ艦隊が日本艦隊に、特に夜戦分野で対抗するにはもう少し努力が必要であると考えられた<ref name="j">ニミッツ、ポッター, 170</ref>。海戦後も、メリル少将とエインスワース少将の任務部隊はコロンバンガラ島周辺海域で交替して戦闘を続けた。不思議な事に、メリル少将が日本艦隊と再び戦うのは11月2日の[[ブーゲンビル島沖海戦]]までなく、コロンバンガラ島周辺海域で日本艦隊と戦ったのはエインスワース少将であった<ref name="j" />。しかし、エインスワース少将は[[クラ湾夜戦]](7月5日、6日)と[[コロンバンガラ島沖海戦]](7月12日)で日本艦隊に打撃を与えつつも自らも大きな損害を出し、戦法面で進歩の様子があまり見られなかった<ref>ニミッツ、ポッター, 171ページ</ref>。夜戦分野において、ようやく日本海軍を上回る戦法が確立できたと判断されるには、「31ノット・バーク」こと[[アーレイ・バーク]]中佐の登場と、バーク中佐の理論を実践した[[ベラ湾夜戦]](8月6日)での完勝劇を待たなければならなかった<ref>ニミッツ、ポッター, 174ページ</ref>。ビラ・スタンモーア夜戦も、アメリカ側に一つの損害もなかった完勝劇だったにもかかわらずである


==脚注==
==脚注==
=== 注釈 ===
{{reflist}}
<references group="注釈"/>
=== 出典 ===
{{reflist|2}}


==参考文献==
==参考文献==
* [[アジア歴史資料センター]]
* [http://www.jacar.go.jp/index.html アジア歴史資料センター(公式)](国立公文書館)(防衛省防衛研究所)
: 自昭和十八年三月一日至昭和十八年三月三十一日 第四水雷戦隊戦時日誌』 第四水隊司令部、C08030116400
**Ref.{{Cite book|和書|author=C08030116400|title=自昭和十八年三月一日至昭和十八年三月三十一日 第四水雷戦隊戦時日誌|ref=四水戦1803}}
**Ref.{{Cite book|和書|author=C08030643700|title=神川丸戦闘詳報|ref=神川丸}}
* 防衛庁防衛研所戦史室編『[[戦史叢書]]96 南東方面海軍作戦(3)ガ島撤収後[[朝雲新聞|朝雲新聞社]]、1976年
*{{Cite book|和書|author=[[防衛研]]戦史室編|year=1976|title=戦史叢書96 南東方面海軍作戦(3){{small|ガ島撤収後}}|publisher=[[朝雲新聞|朝雲新聞社]]|ref=戦史96}}
* 木俣滋郎『日本水雷戦史』図書出版社、1986年
*{{Cite book|title=SS-207, USS GRAMPUS|url=http://issuu.com/hnsa/docs/ss-207_grampus?mode=a_p|format=Issuu|publisher=Historic Naval Ships Association|ref=SS-207, USS GRAMPUS}}
* EBポッター/秋山信雄(訳)BULL HALSEY/キル・ジャップス! ブル・ハルゼー提督の太平洋海戦史光人社、1991年、ISBN 4-7698-0576-4
*{{Cite book|title=SS-208, USS GRAYBACK|url=http://issuu.com/hnsa/docs/ss-208_grayback?mode=a_p|format=Issuu|publisher=Historic Naval Ships Association|ref=SS-208, USS GRAYBACK}}
*C・WニミッツEBポッター/[[実松譲]]、冨永謙吾(共訳)ニミッツの太平洋海戦史恒文社、1992年、ISBN 4-7704-0757-2
*{{Cite book|和書|author=海軍水雷史刊行会(編纂)|year=1979|title=海軍水雷史|publisher=海軍水雷史刊行会|ref=海軍水雷史}}
* ジェームズJフェーイー/三方洋子(訳)太平洋戦争アメリカ水兵日記NTT出版、1994年、ISBN 4-87188-337-X
*{{Cite book|和書|author=鹿山誉|year=1982|title={{small|駆逐艦}}村雨の最期|publisher=駆逐艦「村雨会」|ref=村雨の最期}}
* 佐藤和正「ソロモン・ニューギニア作戦 I 」写真・太平洋戦争(第5巻)光人社NF文庫、1995年、ISBN 4-7698-2079-8
*{{Cite book|和書|author=木俣滋郎|year=1986|title=日本水雷戦史|publisher=図書出版社|ref=木俣水雷}}
*Vincent P. O'Hara, ''The U.S. Navy Against the Axis: Surface Combat 1941-1945'', Naval Institute Press, 2007, ISBN 978-1-59114-650-6
*{{Cite book|和書|author=木俣滋郎|year=1989|title=敵潜水艦攻撃|publisher=[[朝日ソノラマ]]|isbn=4-257-17218-5|ref=木俣敵潜1989}}
*{{Cite book|和書|author=E.B.ポッター|others=秋山信雄(訳)|year=1991|title=BULL HALSEY/キル・ジャップス! ブル・ハルゼー提督の太平洋海戦史|publisher=光人社|isbn=4-7698-0576-4|ref=ポッター}}
*{{Cite book|和書|author=[[チェスターニミッツ|C.W.ニミッツ]]|coauthors=E.B.ポッター|others=[[実松譲]]、冨永謙吾(共訳)|year=1992|title=ニミッツの太平洋海戦史|publisher=恒文社|isbn=4-7704-0757-2|ref=ニミッツ、ポッター}}
*{{Cite book|和書|author=ジェームズ.J.フェーイー|others=三方洋子(訳)|year=1994|title=太平洋戦争アメリカ水兵日記|publisher=NTT出版|isbn=4-87188-337-X|ref=フェーイー}}
*{{Cite book|和書|author=佐藤和正「ソロモン・ニューギニア作戦 I 」|editor=雑誌「[[丸 (雑誌)|丸]]」編集部(編)|year=1995|title=写真・太平洋戦争(第5巻)|publisher=光人社NF文庫|isbn=4-7698-2079-8|ref=佐藤}}
*{{Cite book|和書|author=|editor=雑誌「丸」編集部(編)|year=1995|title=写真・太平洋戦争(第5巻)|publisher=光人社NF文庫|isbn=4-7698-2079-8|ref=写真・太平洋戦争}}
*{{Cite book|last=O'Hara|first=Vincent P.|year=2007|title=The U.S. Navy Against the Axis: Surface Combat 1941-1945|publisher=Naval Institute press |location=Annapolis, Maryland|isbn=978-1-59114-650-6|ref=O'Hara }}
*{{Cite book|和書|author=[[原為一]]|year=2011|origyear=1955|title=帝国海軍の最後|publisher=河出書房新社|isbn=978-4-309-24557-7|ref=原2011}}


==関連項目==
==関連項目==

2012年3月30日 (金) 12:01時点における版

ビラ・スタンモーア夜戦

アメリカ軽巡洋艦モントピリア
戦争太平洋戦争 / 大東亜戦争
年月日1943年3月5日
場所:ソロモン諸島、コロンバンガラ島
結果:アメリカの勝利
交戦勢力
大日本帝国の旗 大日本帝国 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
指導者・指揮官
橘正雄大佐 アーロン・S・メリル少将
戦力
駆逐艦2 軽巡洋艦3
駆逐艦3
損害
駆逐艦2沈没
戦死・行方不明313
なし
ソロモン諸島の戦い

ビラ・スタンモーア夜戦(ビラ・スタンモーアやせん)は太平洋戦争中の1943年3月5日にソロモン諸島で生起した海戦ケ号作戦(ガダルカナル撤退)後、日本軍の新たな拠点となったコロンバンガラ島への輸送に従事していた駆逐艦2隻と、コロンバンガラ島への艦砲射撃を企図したアメリカ海軍の巡洋艦部隊が交戦し、日本側の駆逐艦2隻が一方的な攻撃を受けて沈没した。

「ビラ・スタンモーア夜戦」の海戦名はアメリカ側による呼称で[1]、日本側では一方的な敗戦であるためか海戦名は付されていないとする[2]。ウィキペディア英文版での呼称はブラケット水道海戦(英語: Battle of Blackett Strait )となっている。ブラケット水道とはコロンバンガラ島と南隣のアルンデル島英語版の間にある水路の名称であるが、戦闘自体はブラケット水道の東口、クラ湾に接した海域で行われた。また、戦史研究家サミュエル・E・モリソンは自身の編集による戦史(通称「モリソン戦史」)で「この戦闘は時々クラ湾の第一合戦と呼ばれるが、公式の名称は附與されていない」と記している[3]

背景

ガダルカナル島の戦いも終末期に差し掛かった1942年11月末、アメリカ軍はムンダに日本軍が新たな飛行場を建設中であることを知る[4]。ムンダとガダルカナル島の距離は175マイル(約280 km)で[4]、ガダルカナル島再奪回やアメリカ軍の進撃を妨害するには好適地であった[5]零戦のガダルカナル島上空での行動時間は大幅に伸び、爆撃機も従来以上の量の爆弾を搭載してガダルカナル島を爆撃する事も可能となる[5]。実際には、日本軍がムンダでの飛行場建設に乗り出したのは12月1日からで[6]、第一期工事は二週間ほどで終了した[6]。また、コロンバンガラ島でも1943年1月上旬から飛行場建設を開始する予定だった[6]。当然、アメリカ軍からしてみればムンダの基地が本格稼動し、コロンバンガラ島の飛行場も使用可能となった暁には相当な脅威となる厄介な存在と判断されていた[7]

そこで、1943年に入るや否や、アメリカ軍南太平洋部隊司令官ウィリアム・ハルゼー大将は水上部隊にムンダとコロンバンガラ島への艦砲射撃を繰り返し行わせ、同時に爆撃や航空機による機雷投下も行った[7]。すなわち、1月4日にはムンダへの砲撃が、1月23日にはコロンバンガラ島への砲撃がそれぞれ行われて十分な打撃を与えた[5]。とはいえ、圧倒的な力をかけるにはアメリカ軍の戦力は十分とは言えず[8]、日本軍は新たな橋頭堡を強固なものにすべく中部ソロモン諸島行きの「東京急行」を次々と送り込んでいた。3月4日16時、第四水雷戦隊(高間完少将)指揮下の駆逐艦「村雨」と「峯雲」が補給物資として入りのドラム缶や弾薬などを積載してラバウルから出撃しコロンバンガラ島へと向かった[9][10][11]。「村雨」と「峯雲」は前日3月3日、ラエ第五十一師団を送り込む第八十一号作戦の陽動としてコロンバンガラ島方面を行動しており、ビスマルク海海戦で第五十一師団を乗せた輸送船団が壊滅した悲報を聞いてラバウルに引き返したが、ラバウル入港直前に「村雨」が座礁事故を起こし、離礁してラバウルに帰投したのは3月4日の夜明け前のことだった[12]。また、「村雨」と「峯雲」は、この輸送作戦が終われば、ブインからラバウルへ航空部隊基地員140名と物資を輸送する任務も与えられていた[13][14]

一方、アメリカ軍もコロンバンガラ島砲撃のためこの日艦隊を出撃させていた[15][16]。当時、ムンダおよびコロンバンガラ島を砲撃するアメリカ艦隊には二つの任務部隊があった。一つはヴォールデン・L・エインスワース少将の第67任務部隊、もう一つがアーロン・S・メリル少将の第68任務部隊であった[7][17]。この二つの任務部隊は交替で夜間にムンダとコロンバンガラ島へ接近し、艦砲射撃の後即座に退却して基地に帰投するというパターンを繰り返した[7]。また、ガダルカナル島をめぐる海戦に登場した臨時編成の任務部隊とは違い、夜戦を得意としていた日本艦隊によりよく対抗できるよう、レーダーに関する知識を学び、常にまとまって訓練と行動を繰り返した結果、均整が取れた部隊となっていた[7]。ハルゼー大将は過大報告された前回の砲撃結果に基づき、再度の攻撃のためメリルを出撃させた[18]。メリル少将の第68任務部隊はエスピリトゥサントを出撃し、「ザ・スロット」と呼ばれたニュージョージア海峡をひたすら北上する[19]。このニュージョージア海峡突入時から「ブラックキャット」の異名を持つ夜間哨戒仕様のPBY「カタリナ」[20]3機が第68任務部隊の前路警戒配備に就いた[19]。なお、第68任務部隊の軽巡洋艦群のうち、「コロンビア」 (USS Columbia, CL-56) は修理を行う必要があったため作戦から除外された[21]

海戦参加艦艇

日本海軍

  • 第四水雷戦隊
第二駆逐隊:駆逐艦村雨
第九駆逐隊:駆逐艦「峯雲

アメリカ海軍

  • 第68任務部隊
軽巡洋艦:「モントピリア」(任務部隊旗艦)、「クリーブランド」、「デンバー
駆逐艦:「ウォーラー」、「コンウェイ」、「コニー

戦闘経過

「村雨」と「峯雲」は3月5日8時30分にブイン沖に到着して一息つく[22]。「村雨」では、第二駆逐隊司令橘正雄大佐、駆逐艦長種子島洋二少佐ら艦の幹部が第一根拠地隊司令部を訪問したり、「村雨」に乗り組んだ海軍兵学校71期の候補生がショートランドの水路見学[注釈 1]に出かけたりした[22]。また、「村雨」はここでさらに米を積むよう命じられていたが、米は艦底に積んでいてすぐには出せず、乾麺麭を100箱積むこととなった[22]。16時、「村雨」と「峯雲」はブイン沖を出撃し、コロンバンガラ島へ向かった[9][23]。「村雨」と「峯雲」は、ベララベラ島東方からベラ湾とブラケット水道を通過し、予定より30分遅れの21時30分にデビル島泊地に到着[9][24]。直ちに6隻から7隻ほどの大発が陸上から出てきて揚陸作業を行う[24]。大発群を指揮した第八連合特別陸戦隊の副官は、食糧や弾薬を大発に直接積み込んでほしいと要望したが、出港時間を遅らせれば空襲を受けやすくなることもあり、常套手段だったドラム缶を海中に放り込んで陸上側がこれを回収する方法で物資を揚陸させた[24]。1時間後には全ての作業が終了し[9]。「村雨」と「峯雲」は速力12ノットでコロンバンガラ島の東岸沿いを北上してブインへの帰途に就く[25][26]。この出港の際、「村雨」と「峯雲」の艦首が潮と風の流れで西側に向いていたので、そのまま往路と同じコースを引き返す事も考えられたが、ニュージョージア海峡に出たら、ブイン、ショートランドまでは一直線であるという事もあって、東向きに回頭した上でコロンバンガラ島の東岸沿いを北上するルートが採られたのである[26]。「峯雲」は一旦北向きに後進してから東向きに回頭し、「村雨」の後に続いた[27]

しかし、「村雨」と「峯雲」の動きはすでにガダルカナル島の通信隊によって20時30分頃に探知ののち通報されており[19][28]、また、「ブラックキャット」機のうちの1機が泊地に進入する「村雨」と「峯雲」を探知していた[19]。第68任務部隊は22時過ぎにクラ湾に入り、戦闘配置を令して単縦陣、速力20ノットの態勢で南西方向に進む[19]。22時57分、「ウォーラー」のレーダーは「ブラックキャット」機が探知したものと思しき目標を探知し、やがて「島が動いている」とのレーダー員の報告により、目標が2つあることが分かった[29]。「ウォーラー」は23時1分に魚雷を発射[19]。これに続いて巡洋艦群もレーダー射撃を開始した[19]。「モントピリア」の元乗員ジェームズ・J・フェーイーは、「モントピリア」が最初に砲撃を開始し、最初に6インチ砲弾を命中させたと主張する[30]。フェーイーはまた、第68任務部隊の砲撃の様子は「船という船がぶっ放す7月4日の独立記念日みたいだった」と回想している[30]

第68任務部隊が戦闘を開始した23時、針路0度で21ノットの速力で北上を続けていた「村雨」が後続の「峯雲」の姿を確認して間もなく、ニュージョージア島の方向に閃光を目撃する[31]。その閃光について「村雨」の種子島駆逐艦長は「いなびかりだろう」と言ったが、橘司令は「いや、味方の陸上砲台が射ったのかも知れない」と言う[32]。「村雨」砲術長の鹿山誉大尉が「当りもしないのに陸上砲台が射つとは」と思った次の瞬間、再び閃光が走り、前後して左舷後方200メートルぐらいのところに水柱が立ち、「村雨」の船体が振動した[32]。「峯雲」は水柱にさえぎられて姿が見えず、色めきだった「村雨」は戦闘配置を令して「対空戦闘」に備えた[33]。「対空戦闘」は鹿山砲術長の判断によるものだったが、これを聞いた方位盤射手が「砲術長、水上艦艇ではないでしょうか」と進言し、間もなく発砲する第68任務部隊の姿を認めて水上砲戦に切り替えられた[34]。「村雨」は右砲戦で応戦するも、被弾により方位盤と電気系統を損傷して二番煙突からは火が吹く有様であった[35]。一方的な被弾は続き、方位盤は崩れて一番砲塔も弾薬庫の誘爆により大火災となって、「村雨」は機銃のみで応戦している状態だった[36]。さらに魚雷の雷跡が「村雨」に向かっていったが、魚雷は「村雨」の艦底を通過してコロンバンガラ島の方向に去っていった[37]。二番煙突の火災による魚雷の誘爆を防ぐべく魚雷の投棄が試みられるも成功せず、二番砲を人力操作で第68任務部隊の方向に向けようとしたが、「村雨」は右側に大きく傾斜して沈没が避けられない状態となった[38]。火勢も大きくなり、乗組員は順次退艦するよう促される[39]。橘司令、種子島駆逐艦長も海中に飛び込み、「村雨」は左舷側を上にして、海中に飛び込んだ乗組員からの「村雨万歳」の声とともに沈没した[40]。第四水雷戦隊の記録では、「村雨」は「二三二五航行不能ニ陥リ二三三〇沈没セリ」とある[41]

「峯雲」の状況はあまり定かではない。「村雨」が戦闘配置を令したころには「轟沈したのか水柱と黒煙に包まれている」状態であり[33]、一番砲の火災を確認した時には「もう何処にも見当たらなかった」という状態であった[37]。生還した「峯雲」砲術長徳納浩大尉の回想では、「峯雲」もまた「村雨」と同様に「対空戦闘」だと判断しており[42]、「砲戦の号令をかけるのがやっと」の状態で一方的に撃たれ、第68任務部隊の「第一斉射から三分以内に沈み始めた」とする[43]。徳納砲術長を初めとする「峯雲」の生存乗組員は海中から、発砲する「村雨」の姿を前方に見て「なんとかやってくれるだろう」と思っていた[44]。第四水雷戦隊の記録は「峯雲交戦直後大火災二三一五沈没」と伝えている[41]

第68任務部隊は「村雨」と「峯雲」を打ちのめし、その5分後には陸上砲撃の態勢を整えてコロンバンガラ島への艦砲射撃を開始する[19]。海岸部の軍事施設と兵舎、滑走路を目標に16分間に及ぶ艦砲射撃を実施[19]。その間、日本軍に沿岸砲台から反撃があったものの第68任務部隊を確認する事ができず、逆にその一つが砲撃により破壊された[19]。上空の「ブラックキャット」機の弾着観測および艦からの観測により、目標は徹底的に破壊され、資材が炎上しているのが確認された[19]。砲撃を終えてクラ湾を出ようとする時に再び砲撃を受けたが、損害は全くなかった[45]。また、別のアメリカ駆逐艦3隻が第68任務部隊に呼応してムンダの飛行場に対する艦砲射撃を行った[19]。フェーイー曰く、「ハドソン川をさかのぼってニューヨークの町とその船を砲撃して、そして反転して海に向かうような」[45]作戦を終えた第68任務部隊は、3月9日夕刻にエスピリトゥサントに帰投した[21]。フェーイーはまた、この海戦について次のようにも記している。

今年は聖パトリックの日が早くきたようで、そのメリル司令官パトリックはヘビではなく日本軍を退治したというわけだ。 — ジェームズ.J.フェーイー『太平洋戦争アメリカ水兵日記』37ページ

メリル少将は「村雨」と「峯雲」を軽巡洋艦であると判断しており、ハルゼー大将への緊急報告でも「軽巡二隻撃沈」と記したが、その文言に続いて「今年は獲物制限の要なかるべし、陸上砲撃成功」という文言が付されていた[46]。「軽巡二隻撃沈」と「陸上砲撃成功」はさて置いて、真ん中の「今年は獲物制限の要なかるべし」については、その意味は定かではない[注釈 2]

生還

3月6日未明、特設水上機母艦神川丸」(川崎汽船、6,853トン)の水上偵察機が第68任務部隊の捜索のためクラ湾方面を飛行中、クラ湾に直径300メートルほどの油紋2つを確認し、午前には零式水上観測機2機が同じ地域を飛行して、コロンバンガラ島南端の60度7海里の地点から北の方向に幅約1,000メートル、長さ10海里にも及ぶ油帯を発見した[47][48]

その頃、生存の「村雨」と「峯雲」の乗組員は泳いだり、浮遊物につかまりながらコロンバンガラ島を目指した。「赤い屋根の家」[注釈 3]にたどり着いた乗組員は、前日夜に物資等を揚陸した地点からやってきた大発に収容され、大発はコロンバンガラ島の北端まで捜索した[49]。また、「村雨」のカッターが、「村雨」の生存者を上陸させた後海上に引き返し、「峯雲」の徳納砲術長らを収容してコロンバンガラ島に上陸させた[50]。3月6日の時点では橘司令、種子島駆逐艦長など高級将校の安否が不明だったため、その時点では生存者の中で最先任だった「村雨」の鹿山砲術長が第八連合特別陸戦隊に顛末を報告することになっていたが、橘司令と種子島駆逐艦長は3月7日になって相次いで救助された[50]。その一方で、コロンバンガラ島にたどり着いた者の中には、やけどに耐えかねて海水を飲んで絶命した負傷者もいた[51]。最後の生存者は3月8日に収容された[52]。「村雨」は橘司令、種子島駆逐艦長以下134名が救助されたが[53]、3月12日までに2名が戦病死し、3月12日の再確認では132名生存、戦死51名、行方不明52名と記録された[54]。「峯雲」は徳納砲術長ら45名が救助されたのみで、駆逐艦長上杉義男中佐以下残りの乗組員210名は戦死した[53][2]。生存者はコロンバンガラ島輸送に来た駆逐艦「浦波」、「敷波」に分乗し、警戒担当の「雪風」や水上偵察機の掩護を得て3月9日未明にブイン沖に到着[55]。橘司令と種子島駆逐艦長は「雪風」に移って先にラバウルに帰還し、残る生存者も午後にはブインを発って3月10日朝にラバウルに到着した[56]

ラバウルに帰還後、直ちに第八艦隊主宰による研究会が開かれた。研究会には第八艦隊司令長官三川軍一中将、同艦隊参謀神重徳大佐、南東方面艦隊司令長官草鹿任一中将ら幕僚の面々が列席していたが[57]、「会場内の雰囲気は研究会を通り越して査問会だった」[58]。橘司令らが戦闘経過を報告したが、艦隊幕僚らは第一次ソロモン海戦ルンガ沖夜戦などの勝ち戦を引き合いに出し、「夜戦には絶対負けない駆逐艦が、得意とする夜戦でやられるとは何事ぞ」[58]と罵倒したり、レーダー射撃に理解を示そうとはしなかった[59]。やがて、橘司令は「五月雨」を新しい司令駆逐艦として「五月雨」に移っていき[60]、他の「村雨」と「峯雲」の生存者も順次ラバウルを後にして新任務に就いたり、日本本土へと帰還していった[61]

海戦の後

ビラ・スタンモーア夜戦ののちも、ムンダおよびコロンバンガラ島への「東京急行」が遅れる事は当面なかった[62]。海戦後に水上偵察機による哨戒が強化され、水上偵察機の援護の下、少なくとも4月までの「東京急行」は概ね成功していた[2]。それでも、アメリカ軍がソロモン諸島を北上してくるのは火を見るより明らかであり、現状では戦線維持もおぼつかないと判断した連合艦隊司令長官山本五十六大将は、第三艦隊の航空兵力と既存の基地航空兵力を集中的に投入してアメリカ軍に打撃を与え続け、戦線維持を図る事を決心した(い号作戦)。

また、ビラ・スタンモーア夜戦に勝利し多少進歩したとはいえ、アメリカ艦隊が日本艦隊に、特に夜戦分野で対抗するにはもう少し努力が必要であると考えられた[63]。また、レーダー射撃の重要性も再認識させられたが、「装置はなお原始的だった」とモリソンは言う[64]。海戦後も、メリル少将とエインスワース少将の任務部隊はコロンバンガラ島周辺海域で交替して戦闘を続けた。不思議な事に、メリル少将が日本艦隊と再び戦うのは11月2日のブーゲンビル島沖海戦までなく、コロンバンガラ島周辺海域で日本艦隊と戦ったのはエインスワース少将であった[63]。しかし、エインスワース少将はクラ湾夜戦(7月5日、6日)とコロンバンガラ島沖海戦(7月12日)で日本艦隊に打撃を与えつつも自らも大きな損害を出し、戦法面で進歩の様子があまり見られなかった[65]。夜戦分野において、ようやく日本海軍を上回る戦法が確立できたと判断されるには、「31ノット・バーク」ことアーレイ・バーク中佐の登場と、バーク中佐の理論を実践したベラ湾夜戦(8月6日)での完勝劇を待たなければならなかった[66]

アメリカ潜水艦グランパス

「村雨」と「峯雲」の一方的な喪失は、次のような憶測を生み出した。当時、アメリカ潜水艦「グランパス」 (USS Grampus, SS-207) は2月11日にブリスベンを出撃して以降、僚艦「グレイバック」 (USS Grayback, SS-208) とともにソロモン諸島方面で行動していたが、ついに哨戒から帰らなかった。海戦のあった3月5日夜、「グレイバック」はベラ湾近海で「グランパス」と思しき潜水艦を発見する[67]。それから間もなくして、「グレイバック」に「ギゾ海峡の方向に高速で航行する2隻の駆逐艦を迎え撃て」との指令が入る[67]。その3時間後、「グレイバック」はコロンバンガラ島の南端越しに発砲炎や閃光を見る[67]。その発砲炎や閃光の正体は分からなかったが、「グランパス」に関わっているものだと判断してベラ湾での哨戒を続けた[67]。やがて「グレイバック」は、3月6日夜に哨区の移動を命じられてベラ湾を去った[67]。「2隻の駆逐艦」を「村雨」と「峯雲」、「発砲炎や閃光」を夜戦によるものとするならば、「グレイバック」はビラ・スタンモーア夜戦の一部始終をコロンバンガラ島越しに観察していたことになる。

話はここから飛躍する。要約すれば、「「村雨」と「峯雲」は「グランパス」に出くわして撃沈したが、直後に第68任務部隊に攻撃されて沈没した」という論法となった[68]。「グランパス」の喪失認定に関する1943年3月29日付文書では、「3月5日から6日にかけての夜に、2隻の日本の駆逐艦がブラケット水道で「グランパス」を撃沈し、翌日大きな油膜が確認された」とあり[69]、またフェーイーは日記の中で、「二隻の日本の軍艦が味方の潜水艦を沈めて港に戻ってきたことを、このとき、僕たちは知らなかった」と記しており、海戦直後からこの手の話が伝えられていたと考えられる[30]。これに加え、「グレイバック」が爆雷攻撃のような音を聴取していない事から[67]、「沈めたとすれば水上で浮上状態を砲撃された」という尾ひれまでついた[70]。しかし、「村雨」が3月5日16時にブイン沖を出撃して21時30分にデビル島泊地に到着し、揚陸作業を終えて22時30分に出港してコロンバンガラ島東岸を北上、23時過ぎに第68任務部隊の攻撃を受けて沈没するまで、戦闘行為を行ったのは前述のように第68任務部隊に対して反撃を行った時のみであった[71]。「グランパス」喪失認定に関する文書での「大きな油膜」も、おそらくは「神川丸」機などが3月6日未明から午前にかけて確認した油紋や油帯を指す。このことから、第九五八海軍航空隊の2機の零式水上偵察機が2月19日15時40分にグランパスの哨戒海域であった南緯05度04分 東経152度18分 / 南緯5.067度 東経152.300度 / -5.067; 152.300の地点で潜水艦を爆撃し、直撃弾1発を与えて沈没を報告していること[72]を引き合いに出して、この2月19日の攻撃こそが「グランパス」の最期であるという説も提示されている[70]。しかしながら、各種記述とも「グランパス」の喪失原因に結びつけて断定できるほどの材料がそろっていないのも事実であり、「グランパス」の喪失は現時点では謎とせざるを得ない。

脚注

注釈

  1. ^ 候補生らが「初めて入港した港湾では必ず行われる実習項目となっており、ガンルーム士官が短艇指揮として陸上との連絡、上陸員の送迎を行う上に必要な実施教育だった」(#村雨の最期p.14)
  2. ^ 「漸次北上の地歩を固めつつあった時であり、弾薬の補給も意の如くならないので射撃の制限を加えたのかもしれない。しかしむしろ敵は無益な交戦を避けて、極力当面の作戦目的たる基地の推進に重点を置いたと考えるのが正しいであろう」という見方が存在する(#村雨の最期pp.106-107)。この時期、南太平洋部隊は艦船と航空機が不足気味ではあったが(#ポッターpp.344-345)、弾薬に関する制限が実際にあったかどうかについては不明である。
  3. ^ 「椰子林を管理していた人々の家らしい」(#村雨の最期p.47)。目立った建物だったらしく、「潮流に遮られ、泳げども泳げども近づかない赤い屋根の魔法にとりつかれて、遂に力盡き果てコロンバンガラ島の海に「村雨」を追って沈んでしまった」者もいた(#村雨の最期p.58)。

出典

  1. ^ #写真・太平洋戦争p.168
  2. ^ a b c #木俣水雷p.308
  3. ^ #村雨の最期p.106
  4. ^ a b #ポッターp.313
  5. ^ a b c #佐藤p.192
  6. ^ a b c #佐藤p.189
  7. ^ a b c d e #ニミッツ、ポッターp.165
  8. ^ #ポッターp.344
  9. ^ a b c d #戦史96p.74
  10. ^ #村雨の最期p.13
  11. ^ #木俣水雷p.304
  12. ^ #村雨の最期pp.11-13, p.324
  13. ^ #四水戦pp.11-12
  14. ^ #村雨の最期p.59,324
  15. ^ #木俣水雷p.305
  16. ^ #O'Hara p.167
  17. ^ #ポッターpp.344-345
  18. ^ #O'Hara pp.166-167
  19. ^ a b c d e f g h i j k l #戦史96p.76
  20. ^ #ニミッツ、ポッターp.172
  21. ^ a b #フェーイーp.38
  22. ^ a b c #村雨の最期p.14
  23. ^ #村雨の最期p.17
  24. ^ a b c #村雨の最期p.18
  25. ^ #戦史96p.75
  26. ^ a b #村雨の最期p.19
  27. ^ #村雨の最期pp.19-20
  28. ^ #フェーイーp.35
  29. ^ #村雨の最期p.94
  30. ^ a b c #フェーイーp.36
  31. ^ #村雨の最期pp.20-21
  32. ^ a b #村雨の最期p.21
  33. ^ a b #村雨の最期p.22
  34. ^ #村雨の最期pp.22-23
  35. ^ #村雨の最期p.24
  36. ^ #村雨の最期pp.24-25
  37. ^ a b #村雨の最期p.25
  38. ^ #村雨の最期pp.26-28
  39. ^ #村雨の最期p.28,30
  40. ^ #村雨の最期pp.30-32
  41. ^ a b #四水戦1803p.15
  42. ^ #村雨の最期p.99
  43. ^ #村雨の最期p.103
  44. ^ #村雨の最期p.102,108,123
  45. ^ a b #フェーイーp.37
  46. ^ #村雨の最期p.106
  47. ^ #四水戦1803pp.14-15
  48. ^ #神川丸p.6
  49. ^ #村雨の最期pp.49-51
  50. ^ a b #村雨の最期p.51
  51. ^ #村雨の最期p.54
  52. ^ #村雨の最期p.57
  53. ^ a b #四水戦1803p.17
  54. ^ #村雨の最期p.59,71
  55. ^ #村雨の最期p.59
  56. ^ #村雨の最期pp.59-61
  57. ^ #村雨の最期p.61
  58. ^ a b #村雨の最期p.62
  59. ^ #村雨の最期p.64
  60. ^ #村雨の最期p.73
  61. ^ #村雨の最期pp.72-84
  62. ^ #ポッターp.345
  63. ^ a b #ニミッツ、ポッターp.170
  64. ^ #村雨の最期p.107
  65. ^ #ニミッツ、ポッターp.171
  66. ^ #ニミッツ、ポッターp.174
  67. ^ a b c d e f #SS-208, USS GRAYBACKp.235
  68. ^ #木俣敵潜1989p.55
  69. ^ #SS-207, USS GRAMPUSpp.238-239
  70. ^ a b #木俣敵潜1989p.56
  71. ^ #村雨の最期pp.17-23
  72. ^ #SS-207, USS GRAMPUSp.238

参考文献

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関連項目