割烹着
割烹着(かっぽうぎ)は、日本で考案された、主に着物にかけるエプロンの一種。
家事労働の際に着物を保護するために考案されたもので、着物の袂が納まる程度の袖幅(袖の太さ)と袖丈(袖の長さ)であり、おおむね身丈は膝まである(着物並みの身丈の割烹着もある)。紐は肩のまわりで胸当てのように結ばれる。袖口にゴムを通すこともあり、ポケットがあるものもある。
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[編集] 用途・特徴
- 調理や掃除などの際、衛生上の問題や、着物が汚れるのを防ぐために着用する。
- 着用には襟と腰2箇所にある紐を用いて、背中で結ぶものが多い。
- 現在の割烹着の多くは、襟周りが丸くなっている。昭和中期までは襟周りが角ばっているものが主流であったため、現在でもその古めかしいイメージを好む者もいる。
[編集] 赤堀割烹教場と割烹着
赤堀(現赤堀学園)の歴史は、1882年(明治15年)開設の赤堀割烹教場に始まる。 1887年(明治20年)には日本で最初の西洋料理の教授を開始。1902年(明治35年)には、実用新料理本『日本・西洋・支那』を出版。探究心旺盛な赤堀峯吉は、常に新しい料理と向き合い、覚えたての西洋・中国料理を家庭料理に応用して、その普及と健康面の向上に努めました。日本初のハンバーグが、教場開校披露の席で供されたという記録が残る。 2代目峯吉(初代の長男・熊右衛門)は教場開校と同時に女子師範学校(現お茶の水女子大)、跡見学園で割烹科の講師を務め、のちには日本女子大、青山女学院、東京女学館ほか、多数の学校の教壇にも立つ。また、3代目峯吉(2代目長男・松太郎)は、1908年(明治41年)から約3年間、料理勉学のためフランス、イギリス、アメリカに留学。帰国後、やはり日本女子大、淑徳高等女学校の講師を務めた。 日本橋にあった教場は木造2階建て、洗い場には水道がひとつだった。いまにして思うと考えられないほど質素な設備だが、日本の近代水道史を探ると、淀橋浄水場の通水が開始されたのが1898年(明治31年)で、教場に敷設されたのが同33(1900)年で、たったひとつの水道といえども、まだまだめずらしく、最新の設備だったに違いない。 教場に通学してくる商家の婦人やお嬢さんは、和服姿で、まだ日本髪を結った方も少なくなかった。けれど、和服は、料理に適した装いとはいえず、赤堀教場では、腕と身体をすっぽり包む独特の料理着が愛用されていた。袖を気にすることなく、よごれまで防いでくれる割烹着は赤堀で考案され、さまざまな料理法とともに全国に広まっていった。
[編集] 国防婦人会と割烹着
国防婦人会の会服となった割烹着は、1913年発行の雑誌『婦人之友』に掲載された笹木幸子考案の「家庭用仕事着」であるとされる[要出典]。その後百貨店などで売り出され一般に普及していった。1932年に成立した国防婦人会は「国防は台所から」というスローガンを掲げ、割烹着に襷掛けという会服で、千人針、出征兵士の見送り、廃品回収による献金、軍人遺族の慰問などの諸活動をおこなったが、この会服は「着物競争」に陥りがちな他の婦人会にくらべ、より広汎な大衆動員を可能にしたといえる。1941年には愛国婦人会と大日本連合婦人会を吸収、統合して大日本婦人会となった。しかし、戦況が悪化し本土決戦が近づくと、それにそなえて大日本婦人会は解散、また、急速に物資が欠乏して木綿も入手できなくなったため、婦人の服装ももんぺ姿へと変わっていった。
[編集] 割烹着をかける
ここでは一般的に行われている、着物に割烹着をかける手順の一例を示す。
- 襟ヒモを持ち、割烹着掛けから割烹着を外し、襟ヒモを解く。
- このとき割烹着の外側に素手や着物が触れないようにする。
- 割烹着を広げる。
- 割烹着の襟ヒモを持ってから、割烹着の外側だけに触れるようにして、袖山を滑らすように伸ばし、片方ずつ袖を通す。
- このとき割烹着の外側に素手が触れないようにする。
- 手を袖から出す。手が出にくい場合は、割烹着の内側から反対の袖を引き上げる。外に出た手で襟元を引っ張り、もう片方の手を出す。
- 襟ヒモを結ぶ。
- このとき割烹着の裏地の、着込んでいる着物の帯締めの位置に調節ヒモがある場合は調節ヒモを帯締めに結わえる。
- 腰ヒモを後ろに回して前で結ぶ。
- このとき袖口がヒモの場合は腰ヒモの後に結ぶ。
[編集] 割烹着を脱ぐ
ここでは一般的に行われている、着物に割烹着をかける手順の一例を示す。
- 腰ヒモを解き、手洗いをし、襟ヒモを解く。左手で割烹着の袖の内側を持ちながら右手を引く。
- 割烹着の内側に入れた右手で左手の割烹着を押さえながら左手を割烹着から引いて脱ぐ。
- 割烹着が身体に触れないように離れて襟ヒモを持ち、襟元を合わせる。
- 襟ヒモを結び、内側が外になるようにして割烹着掛けに掛ける。