ムラカ州

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ムラカ州
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Negeri Melaka Bandaraya Bersejarah
نكري ﻣﻼﻙ بندارايا برسجارە

標語:Bersatu Teguh
賛歌:Melaka Maju Jaya
ムラカ州の位置
座標: 北緯2度12分 東経102度15分 / 北緯2.200度 東経102.250度 / 2.200; 102.250
州都 ムラカ・ブルセジャラ特別市
行政
 - 与党 国民戦線
 - 州知事 Mohd Khalil Yaakob
 - 州首相 Mohd Ali Rustam
面積
 - 計 1,650km2 (637.1mi2)
人口 (2007年)
 - 計 770,000人
 - 人口密度 466.7人/km² (1,208.7人/mi²)
人間開発指数
 - HDI (2003) 0.810 (high)
国際郵便番号 75xxx - 78xxx
国際電話番号 06
ナンバープレート M
マラッカ王国 15世紀
ポルトガルの支配 1511年8月24日
オランダの支配 1641年1月14日
英蘭協約 1824年3月17日
日本による占領 1942-1946年
マラヤ連邦 1948年
ウェブサイト http://www.melaka.org.my

ムラカ州マレー語: Melaka, ジャウィ: ملقة)またはマラッカ州英語: Malacca)は、マレーシア の一つである。

概要[編集]

マレー半島西海岸南部に位置し、州都はムラカ(マラッカ)である。

地理[編集]

州政府の地方行政区分[編集]

地方自治体[編集]

  • 特別市

住民[編集]

ムラカ州(マラッカ州)の住民の大半はマレー人(約61%)や華人(約26%)だが、ポルトガル人とマレー人の混血の子孫がおり、彼らは今でもポルトガル語方言を話し、カトリック信仰を持つ。また、中華系(ババ、ニョニャ)、インド系(ママッおよびチッティ)も独自の民族を構成する。

歴史[編集]

スマトラ島パレンバンの王子パラメスワラ1396年マラッカ王国を建国した。彼はパレンバンを統治していたシュリヴィジャヤ国の内乱に乗じて独立を企てたが失敗、テマセック(シンガポール)に逃亡。王を殺し、王座に着いたがタイに追われ、ジョホールからマラッカへ退避。国を建国する。名前の由来は、木の下で休んでいたところ小鹿が猟犬を蹴飛ばすところを目撃、休んでいた木の名前を取った、と言う説が一般的。マラッカ王国は1414年イスラム化し、香辛料の東西貿易における重要な中継港として繁栄を極めた。

1405年には永楽帝より命を受け、遠くアフリカ大陸まで大遠征を行った提督鄭和の艦隊もマラッカ(満剌加)に初寄港している。マラッカ王朝は朝貢貿易を通じ明国との同盟を強固し、北の大国シャム、南のアチェからの脅威を牽制していた。

1511年ポルトガルのインド総督アフォンソ・デ・アルブケルケが征服し、東南アジアにおけるポルトガル海上帝国の拠点とした。ポルトガル時代には要塞(サンチャゴ砦)やキリスト教会(セントポールチャーチ)が建設され、司令官が常駐していた。イエズス会フランシスコ・ザビエルはここから東アジア布教に出発している。

1641年オランダ東インド会社がジョホールのスルターンの援助を得て、マラッカを占領した。オランダの東南アジアにおける拠点はジャワ島バタヴィアであったので、マラッカはマレー半島で産するなどを輸出する地方港に転落した。1824年英蘭協約でスマトラ島のイギリス植民地と交換にイギリスに譲渡された。その際、マラッカ海峡より西側はオランダ領、東側は英国領と定められた。

1826年、イギリスのトーマス・ラッフルズペナンシンガポールとともにマレー半島全域に英領植民地を成立させたが、近代港シンガポールの台頭が著しく、マラッカの港湾機能は衰退した。

1941年12月から3年8ヶ月にわたる太平洋戦争下はイギリスに代わり日本軍に占領された。終戦後の1945年、イギリスが再び植民地としたが、独立の機運が高まり、1948年にイギリス保護領下でマラヤ連邦が成立、1957年8月31日に完全独立を遂げる。これに先立ち1956年2月20日トゥンク・アブドゥル・ラーマン・マラヤ連邦首相がマラヤ連邦の独立宣言を行ったのは、このマラッカである。

外部リンク[編集]