ハービー・マン

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ハービー・マン
ハービー・マンとウィル・リー(1975年)}
ハービー・マンとウィル・リー(1975年)
基本情報
出生 1930年4月16日
出身地 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国 ニューヨーク市ブルックリン
死没 2003年7月1日(満73歳没)
ジャンル ジャズ・ボサノヴァ
担当楽器 フルート

ハービー・マン(Herbie Mann、本名:Herbert Jay Solomon 1930年4月16日 - 2003年7月1日)は、アメリカジャズフルート奏者。

初期には、テナー・サクソフォンおよびクラリネット(バス・クラリネットを含む)も演奏したが、ジャズの境界を破るフルート・テクニシャン、あるいは「ワールドミュージック」のパイオニアとして、1960年代以降のフルートを用いる最も秀でたジャズ・ミュージシャンと目される。また、プロデューサーとしても積極的で、多くの新人音楽家を発掘した。

来歴・音楽活動[編集]

ハービー・マンは、ニューヨークブルックリン区ルーマニアロシアの家系をもつユダヤ人の両親の間に生まれ、ブライトン・ビーチリンカーン・ハイスクールに通った。キャッツキルズ・リゾートで初めてプロとして舞台に立ったのは15歳のときである。

1950年代、フィル・ウッズらのミュージシャンたちとのコンボに参加してバス・クラリネット、テナー・サックスおよびソロ・フルートを担当したが、20歳を過ぎる頃からはバップ・フルートの第一人者たるべく、この楽器一本に絞る。

彼はフュージョンあるいはワールドミュージックの初期の開拓者とされる。’59年には政府支援のアフリカ旅行に同行してアフロ・キューバン・ジャズのアルバム『フルーティスタ Flutista』を録音、’61年にはブラジルに旅しアントニオ・カルロス・ジョビンギタリストバーデン・パウエルら現地ミュージシャンを引き連れてレコーディングをするため帰国した。これらのアルバムは欧米において「ボサ・ノヴァ」を大いに流行らせ、彼はしばしばブラジルを題材とする仕事をした。

’62年の『カミン・ホーム・ベイビー Comin’ Home Baby』のブレークにて大いに名を上げ、1960年代の半ばには彼のバンドにまだ若かったチック・コリアを加えて、ニューポート・ジャズ・フェスティバルへの登場は、’65年のチック・コリアをフィーチュアしたアルバム『Standing Ovation at Newport』に、’67年のパフォーマンスは『New Mann at Newport』に、それぞれ記録されるべき演奏として収められリリースされた。また、1970年の終わりから80年代初期にかけては、ニューヨークのライブハウス・ボトムラインやジャズクラブ・ヴィレッジゲートで、インドの古典弦楽器サロードの名手ヴァサント・レイ(Vasant Rai)とのデュエット演奏を行った。

’69年のヒット・アルバム『メンフィス・アンダーグラウンド Memphis Underground 』に引き続く、数多くのディスコ・スタイルのスム-ズ・ジャズの録音は、純ジャズ主義者からの批判をもたらせはしたが、彼の活躍はジャズにおける関心が衰退するまで続いた。これらのレコーディングに参加したミュージシャンは、歌手シシー・ヒューストンホイットニー・ヒューストンの母)、ギタリストであるデュアン・アルマンラリー・コーイェル、ベーシストのドナルド・ダック・ダンチャック・レイニー、そしてドラマーのアル・ジャクソンバーナード・パーディらで、いずれもソウル・ミュージックやジャズ界でも良く知られたセッション・プレイヤーの面々である。

この頃、ハービー・マンはジャズ・ミュージシャンには珍しく、数多くのポップ・ヒットの作品保持者であった。後になって1998年のインタビューによれば、当時彼はビルボードポップ・チャート200に入る少なくとも25枚のアルバムを制作しており、その実績はほとんどのジャズ仲間を凌駕していたという。また、彼の最もポピュラーなシングル『ハイジャック Hi-Jack 』は、1975年のビルボードにおいて3週間首位の座を勝ち取ったダンスヒット・ナンバーである。彼はまた、’78年のカナダ国家の映画制作部門(National Film Board of Canada)におけるアニメ作家イシュ・パテルIshu Patel)によるショート・フィルム『Afterlife』のための音楽を提供している。

1969年、彼自身のレーベル「エンブリオ・レコード(Embryo Records)」を設立し、本格的にプロデューサー業務に乗り出す。配給はアトランティックのコティリオン・レコード(Cotillion Records)を通じて行われた。エンブリオは1977年までジャズからロック指向まで様々なアルバムを制作・リリース(Embryo Records参照)してきたが、以降は立ち行かなくなり、後の1990年代に至って「ココペリ・レコード(Kokopelli Records)」が立ち上げられた。

1996年、エイズ基金「レッドホット・オーガニゼイション(RHO)」のためのボサ・ノヴァ・アルバム『Red Hot + Rio』では他の多くの音楽家たちに交じり、オルタナティブ・ミュージックバンドのステレオラブと一緒に『ワンノート・サンバ / サーフボード One Note Samba/Surfboard 』を競演した。

最晩年は前立腺癌との長い闘いの末、2003年5月3日のニューオーリンズ・ジャズ祭への73歳での登場を最後に、その2か月後の7月3日に亡くなった。

ディスコグラフィ[編集]

Herbie Mann discography を参照)

外部リンク[編集]