ノート:東洋大学/過去ログ1

ページのコンテンツが他言語でサポートされていません。
過去ログ1 過去ログ2

ここ数回の編集について

東洋大学の記事ですが、問題点がありますので指摘致します。

まず、21世紀COEプログラムの欄ですが、バイオ・ナノエレクトロニクス研究センター、大学院工学研究科、大学院生命科学研究科は入れないで下さい。この欄はWikipedia:ウィキプロジェクト 大学/大学テンプレート (日本国内)#21世紀COEプログラムにあるように

  • 採択x件
  • 20xx年
分野名
採択プロジェクト名称

のように記すことに決められています。これはWikipedia:ウィキプロジェクト 大学/大学テンプレート (日本国内)にてコミュニティの同意を得て決められたフォーマットです。このフォーマットに異議がある場合にはまずはWikipedia:ウィキプロジェクト 大学/大学テンプレート (日本国内)で提起を行い、コミュニティの同意を取り、それを確定させてから入れるようにお願いします。

次に総合大学という表現です。この表現は単科大学と総合大学にあるように現在では法的な基準が無く、何を持って総合大学とするのかきちんとした根拠がないため使用しません。これに関して、法的な根拠があるということでしたら単科大学と総合大学にてノートにソースを示した上で編集を実施、そのあとで東洋大学の記事を編集して下さい。また、歴史的・社会的に「総合大学」としなければ東洋大学に関して説明できない何らかの事情があるということでしたらこちらのノートで説明をお願い致します。

また、 入試インフォメーションセンターは入試課が常設している受験生向けの部屋の名称です。入試インフォメーションセンター=入試課となりますので附属機関ではありません。[1]にもでておりません。セミナーハウスなどは学生部附属の組織ですが、運営自体は学生部の職員が直接現地へ派遣されているわけではなく、独立していますので掲載可能です。もし、このセンターが入試部からは独立した機関であるということでしたら、証拠をご提示ください。

以上、24時間程度待ちまして、特にご返答なき場合は元の内容に戻させて頂きます。また、何か問題があれば書く基準や東洋大学のノートにおいて所定の方法で提起した上でコミュニティの同意を取ってから編集するようにお願いいたします。返答無きままこの内容に固執した編集を続けるとコミュニティの同意に反する行為となり、荒らしとして扱われ、投稿ブロックの対象となります。ご注意下さい。--秋の虹 2006年2月6日 (月) 02:51 (UTC)

ご意見ございませんでしたので合意が取れたものとみなし、本文へ反映させます。--秋の虹 2006年2月7日 (火) 03:33 (UTC)

校友会について

校友会に関して大幅に修正されましたが、土地の契約などで色々と取り決めがあるということになっています。この件に関して何かソースとなる文献はあるのでしょうか。Wikipedia:検証可能性を満たすソースをご提示下さい。--秋の虹 2006年11月7日 (火) 13:30 (UTC)

ソースについて校友会から連絡がありましたのでお伝えします。
  • 『東洋大学百年史 通史編Ⅱ』(1994年11月 学校法人東洋大学発行)879~881頁
  • 『東洋大学百年史 資料編Ⅱ・下』(1994年5月 学校法人東洋大学発行)899~902頁
  • 『東洋大学校友会100周年記念誌』(1994年11月 東洋大学校友会発行)資料編 242~250頁(契約書・念書・覚書も掲載)
  • 「東洋大学校友会報」(東洋大学校友会発行)
    • 第42号(昭和41年5月発行)
    • 第60号(昭和44年6月発行)
    • 第109号(昭和53年7月発行)
    • 第204号(平成12年8月発行 契約書・議事録・覚書も掲載) ほか
なお、すべての契約書・念書・覚書は、東洋大学校友会本部事務局に保管されているそうです。--miya 2006年11月8日 (水) 05:10 (UTC)

なるほど東洋大学の校友会から直接管理者へ連絡があったのですね。それではテンプレートなどを外しておきます。--秋の虹 2006年11月11日 (土) 12:31 (UTC)

各キャンパスの内容を充実させています。ここで反対がなければ分割してよいようです。白山第2キャンパスはまだ歴史も浅いので白山キャンパスと一緒にしています。後は川越と板倉です。出来上がったらキャンパスごと(白山第2は白山と一緒にします)に分割します。--ToyoMaster 2007年2月15日 (木) 08:46 (UTC)

タイプミス

放送通信教育の節で、「証言取引」とあるのは正しくは「証券取引」でしょう。どなたか修正よろしく。--218.222.50.56 2007年9月2日 (日) 03:13 (UTC)

記事の統合について

  • 東洋大学白山キャンパス東洋大学朝霞キャンパスの記事については、削除依頼で一度削除されたものであり、記事の内容を加味するなどして、東洋大学の記事に再統合すべきと考えますが、いかがでしょうか。--田島飛松 2008年4月13日 (日) 11:43 (UTC)
    • 内容が足りないということでしたがその後きちんと内容を精査して追記をしています。他の大学キャンパスに関する記事を参考にして十分に内容を記録しており、問題ないと思います。そういう事情があるため、内容が充足していない川越と板倉は分割していないですし、白山第2キャンパスは白山キャンパスで一緒にしています。また、合意形成が足りないというご意見もありましたので、内容を充実した上で2007年2月15日 (木) 08:46に分割を提案しました。そして一ヶ月待って反対がなかったので分割しています。いま思えばテンプレートを使うなどのやり方があったようなのでその点は足りなかったことは反省しますが、内容自体は現時点でもかなり充実しており、統合してしまうとこの記事が読みにくくなるので統合には反対します。--ToyoMaster 2008年4月14日 (月) 08:38 (UTC)

田島さんはこんなところで「釣り」ですか(笑)。東洋大学の内容に関してクレームつければ二人とも現れて「ほら同じ記事でいちゃもんつけているから同一人物だ」ってやりたいんだろうね。まだ同一人物だと思っているようだからあえて書いて釣られてあげますね(笑)。そもそも変だよね。中央大学市ヶ谷キャンパスあたりは統合申請していないのにこっちだけ統合申請しているっていうのがね。ああ、そうそう、本題だけど内容が十分あるから存続でいいと思いますよ。これだけ書いてあって統合だというならちゃんと中央大学の方も申請しましょうね。これじゃああまりにも作戦がバレバレで釣りにもなっていないよ。--Ihsanan 2008年4月15日 (火) 15:49 (UTC)

  • 大学関係の編集を長いことやっていた秋の虹氏にウィキメールを送ってこの件に意見をもらうことにしました。他の大学関係の編集者に考えてもらう必要があるのでWikipedia‐ノート:ウィキプロジェクト 大学にこの問題を提起しました。他の大学キャンパスをどうするのかという問題もありますから以後はそちらでお願いします。--Ihsanan 2008年4月17日 (木) 13:39 (UTC)

社会との関わり節について

社会との関わり節について、陸上部における不祥事が記載されていますが、現在の記述はWikipedia:ウィキプロジェクト 大学/大学テンプレート (日本国内)における合意事項である「当該大学にとって不名誉な内容であってもそれが社会的に大きな意味を持つ場合には、その事象が大学とどのように関わり、社会的・歴史的にどのような意義を持ち、さらにWikipediaを利用する人に理解できる文章で記述」されていないので一度コメントアウトしました。「社会的・歴史的にどのような意義を」持っているのか、第三者でも理解できるようにそれぞれの内容について出典などを交えながら再度の記述をお願い致します。--秋の虹 2008年12月8日 (月) 02:37 (UTC)

大学昇格が遅れたのは哲学館事件のせいか?

「東洋大学が大学昇格を実現したのは、昭和3(1928)年であり、大学令 の施行から9年を経過していたが、この昇格が遅れた最大の理由は、供託金を調達することができなかったためであった。」 (『東洋大学百年史 通史編Ⅰ』(1993年 学校法人東洋大学発行)649頁)

哲学館事件が影響したとはどこにも記されていません。これはどういうことでしょうか?--ukagukok 2016年1月25日 (月) 20:05 (UTC)

編集について

調べに来たらあまりにもごちゃごちゃしていてひどい状況なので一旦戻しました。年表などなんでも書けばいいというものではないです。 また、文献もなく適当な決めつけも多いのはいただけません。文献の提示なき記述は、褒める内容も貶す内容も無意味であると心得て下さい。--こりんたいず会話2017年9月13日 (水) 10:59 (UTC)

「白山の哲学」は捏造では?

私は戦前の新聞や文献などをいろいろ調べてみましたが、「白山の哲学」と記されたものは見たことがありません。文献の提示なき記述は、褒める内容も貶す内容も無意味であると心得て下さい。

そもそもこのページを編集している人々は『東洋大学創立五十年史』『東洋大学百年史』などを読んだことがあるのでしょうか?

東洋大学『東洋大学創立五十年史』1937年 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1712060

--Netsuaba会話2017年9月25日 (月) 01:59 (UTC)

昭和30年代の東洋大学

四聖像[東洋大学] 薄くなってきた影 “時代の波”に押されて

東京都文京区の白山台にある東洋大学の、正門からグラウンドを抜けて、「みそひともじ」にちなんだ31段の石段を登ると、正面に5階建の本館がそびえている。その入り口の上部に、4人の老人が眠るがごとく浮き彫りされていた。

これが四聖像――左から韓図(カント)、孔子釈迦、瑣克刺底(ソクラテス)。東西哲学史の四横綱を並べたところが、この大学の特徴である。

「人誰レカ生レテ国家ヲ思ハサルモノアランヤ、人誰レカ学ンテ真理ヲ愛セサルモノアランヤ」と28歳の青年井上円了氏が、50人の学生と2人の教師とで寺子屋的な哲学館をおこしたのが明治20年。当時の西欧思潮万能にレジスタンスして“日本主義”のプラカードをかかげたこの哲学教育は、明治39年東洋大学と改称するころには、すでにりっぱな花を咲かせていた。

それから大正、昭和へと順調に咲きつづけた花園も、戦後になると急にしぼみかけた。 「いつの間にか坊さんの大学と思われていたのですね。とにかく文科系の学部だけでは学生が集まらない」 ……こうして、東洋いや“騒動大学”と陰口をきかれるように、経営をめぐってのゴタゴタがつづいた。

しかし今は大丈夫である。哲学の花、いわば文学部のほかに、経済学部(25年)、法学部(31年)、社会学部(34年)、工学部(36年)と、やつぎばやに新しい花が咲きはじめたからだ。とくに工学部は“産学協同”という肥料をたっぷりかけて、埼玉県川越市の約30㌶の地に新花園をつくろうとしている。

こうなると影が薄くなったのが四聖像だ。31年本館を新築して四聖人のレリーフをとりつけたころには「なぜマルクスを入れないのだ?」と、学生たちも関心をもっていたが、今の学生は「四聖像?キリストははいっていないんですか?興味ないですね。それよりも工学部ができると聞いたとき、われわれの授業料が使われるのではないかとヒヤヒヤしましたよ」

焼け残った戦前の大講堂の建物に、テレビ・スタジオがつくられ、テレビ授業が行われているこのごろである。この大学の急変ぼう、“おしゃかさまでも”…… — 『朝日新聞』昭和36年9月26日付
  • かつての東洋大学は“騒動大学”と呼ばれ、世間からは仏教系と見られていた。
  • 「経営をめぐってのゴタゴタがつづいた」というのは獅子吼会事件のことであろう。
  • 大学の規模が拡大するにつれて哲学色が薄れていったことがわかる。--Netsuaba会話2017年9月26日 (火) 01:34 (UTC)

繰り返しになりますが

自分の書きたいことをただ書いていけばいいのではないです。文献まであるなら要点を整理して、誰が読んでもわかるようにまとめて下さい。とにかく思うがままに書いた、というのでは百科事典ではありません。褒める内容は翼賛的にならないよう、貶める内容は中傷にならないよう、それぞれ客観的にわかりやすい内容でお願いします。--こりんたいず会話2017年9月26日 (火) 15:32 (UTC)

大学令による東洋大学の昇格が遅れたのは哲学館事件のせいではない──こりんたいず氏への反論

哲学館事件の過去ページにこのような記述がありました。

この後、哲学館は東洋大学となり、1928年昭和3年)に大学令1919年大正8年)施行)による大学となるが、申請をしたにもかかわらず他の大学に比べて認可が遅れた(慶應義塾大学、早稲田大学、國學院大學などは1920年(大正9年)に認可)のは哲学館事件が尾を引いたからではないかと当時の新聞は論説を書いている。また、公文書の開示結果、1920年(大正9年)に既に認可できる要件は整っていたが、この事件が影響して認可できないという内容が残されていることが判り、東洋大学が遅れた存在では東洋大学が遅れた存在ではなかったことが証明された。 — 2017年9月13日 (水) 10:55版

これは捏造です。『東洋大学百年史 通史編Ⅰ』ではこう書かれています。

東洋大学が大学昇格を実現したのは、昭和3(1928)年であり、大学令の施行から9年を経過していたが、この昇格が遅れた最大の理由は、供託金を調達することができなかったためであった。 — 『東洋大学百年史 通史編Ⅰ』649ページ

また、大正12年の紛擾事件(境野事件)も影響しました。

事件勃発後は校友会も二派に分かれて対立し、また教授側と協力して大学昇格運動をおこなってきた昇格基金部も教授委員の脱退によりほとんど解体状態となり、昇格運動は一頓挫するに至った。 — 『東洋大学百年史 通史編Ⅰ』673ページ

そもそも東洋大学は昭和2年の時点でも大学昇格の基準を満たしていませんでした。

昭和2年1月19日、財団理事中島徳蔵名による文部大臣岡田良平宛の大学設立の認可申請書(『昭和二年 学務課 私立学校 冊ノ二〇一』東京都公文書館所蔵)が小石川区役所を経て、東京府庁へ進達された。(中略)しかし、この申請書は差戻となった。その理由については『東洋大学新聞』第16号(昭和2年4月20日)に「提出した書類に不備な点があったので、急遽該書類再提出」することになったと述べられているだけで、具体的にはわからない。しかしこの差戻後、大学当局は新たに昇格部を設けて積極的な寄附金募集運動を展開することから、基本金の供託方法が問題となったものと考えられる。 — 『東洋大学百年史 通史編Ⅰ』988ページ
大学令による大学としてその設立を認可されるためには、基本財産の国庫への供託という財政面での条件を満たすほかに諸施設の整備もまた課題の一つであった。すなわち、大学として十分な教授および研究ができるだけの施設を整えていることが設立の条件とされたのである。東洋大学の場合はこの条件を満たすため、まず第一期工事として昭和2年以降校舎の建築にとりかかり、ついで第二期工事として図書館(図書類の充実も含む)の建築に着手し、最後に第三期工事として講堂の建築をおこなって施設面の充実をはかっていった。新校舎は昭和3(1928)年7月、図書館は昭和4年6月にそれぞれ竣工したが、講堂は昭和8(1933)年3月になって、ようやく建築の基礎工事に着手し同年12月にその竣工をみたのであり、施設面での昇格条件を充足するためにはかなりの年月を要した。 — 『東洋大学百年史 通史編Ⅰ』1037ページ

今後は出典のないデタラメ記事を書き込むのはやめてくださいね。--Netsuaba会話2017年9月28日 (木) 01:43 (UTC)

Netsuaba様はこちらの大学に対して何らかの思いがあるのかもしれませんが、私は一切ないので正直ご指摘の点が事実か事実でないかには興味がありません。私は個別の記載に関しては事実関係を何も指摘していないことをご留意下さい。記述内容があまりにも散漫すぎるので整理をして記述し直すように促しております。書きたいことを単に書くだけではなく、読者にわかりやすく整理して記載して下さい。それができないのであれば記述されない方がましということも理解していただけるとありがたく思います。--こりんたいず会話2017年9月28日 (木) 01:05 (UTC)

はぁ?そんな奇麗事を言って捏造コピペを繰り返しす気か?要するにてめえは自分が見せたいものだけを(ソースなしで)書き込み、見せたくないものを削除しているだけだろうが。--Netsuaba会話2017年9月29日 (金) 17:05 (UTC)

Wikipedia:検証可能性をよく読んで下さい

--以上の署名の無いコメントは、Netsuaba会話投稿記録)さんが 2017年9月28日 (木) 02:07 (UTC) に投稿したものです。

方針

  1. 記事には、信頼できる情報源が公表・出版している内容だけを書くべきです。
  2. 記事に新しい内容を加筆するときは、信頼できる情報源―出典(参考文献)―を明らかにすべきです。出典が明示されていない編集は、誰でも取り除くことができます(出典のない記述は除去されても文句は言えません)。
  3. 出典を示す義務を負うのは、書き加えようとする側であり、除去を求める側ではありません。

私は単純に戻しているだけで、私が書いていることではない点をご留意下さい。まだ冗長なところがあるとは思うもののかなり読みやすくなったと思います。いまのような形で書き進めていただければよりよい記事になると思います。ありがとうございました。--こりんたいず会話2017年9月28日 (木) 15:38 (UTC)

単純に戻しているだけ?捏造を元に戻してどうする?貴様は哲学館事件のページでも捏造工作を続けているようだが、一体どういうつもりだ?--Netsuaba会話2017年9月29日 (金) 16:53 (UTC)

そもそも東洋大学は2007~2008年にかけてWikipediaでの捏造工作が最もひどかった大学で、 他校のページを改竄しまくるわ、自校のページを「保護」するわで、本当にやりたい放題だった。

文部省が哲学館事件で廃校勧告を行ったって、どこの文献に載ってるの?--Netsuaba会話2017年10月1日 (日) 00:32 (UTC)

私はこの大学に何らの関係もないので正直どうでもよいのです。読みにくい記事が無意味だと申しているのみです。個人的な恨みが何かあるのかもしれないですが、ここはそれを晴らす場所ではないことをご留意下さい。ここはあなたの書きたいことや主張したいことを書く場所なのではなく、読者に有益な情報をわかりやすく提供する場所だと今一度ご理解いただきますよう、お願いします。--こりんたいず会話2017年10月2日 (月) 05:09 (UTC)

こっちは「捏造記事を元に戻すな」と言っている。 「自分は正々堂々と捏造します」と高らかに宣言しているのと同じだ、馬鹿野郎。--Netsuaba会話2017年10月4日 (水) 00:53 (UTC)

開示された公文書 ――こりんたいず氏への反論

公文書の開示結果、1920年(大正9年)に既に認可できる要件は整っていたが 、この事件が影響して認可できないという内容が残されていることが判り、東洋大学が遅れた存在ではなかったことが証明された。 — 哲学館事件 2017年9月13日 (水) 10:55版

じゃあ、公文書を開示してやるよ。

東洋大学設立に関する通牒(昭和3年5月1日)
辰学第五三七号
東京府知事[印]
東洋大学設立者殿
東洋大学設立ニ関スル件
本年一月二十日付ヲ以テ申請相成候標記ノ件ニ関シテハ左記条件ヲ履行スルモノトシテ認可相成リタル趣キニ付篤ト御承知相成度此段及通牒候也
                記
一、基本財産分割供託及校舎建築設備図書購入等既定計画ヲ違[遺]漏ナク遂行スルコト — 『認可書等綴 大学 自明治四十年四月至昭和五十年三月』東洋大学企画室所蔵
  • 東洋大学の昇格要件は整っていなかったが、いわば見切り発車のような形で認可された。
  • 供託金の納付、新校舎建設、図書購入などの高いハードルをクリアする必要があった。
  • 哲学館事件云々の話はどこにも記されていない。--Netsuaba会話2017年10月11日 (水) 04:05 (UTC)

「教育精神」について

「教育精神」つまり大学の理念等の欄において、1930年代から50年代頃にあったとされる「護国愛理」について、国家主義思想であるとして批判がなされていました。 思想の是非はともかく、ここは「現在の」大学の教育にかかる理念等を記載する場所であるはずですので、現在の大学HPから「建学の理念」を引用して充てました。 反論のある方は24時間以内にソースを含めてご提示ください。--moto会話2018年8月29日 (水) 06:46 (UTC)

反論はありませんでしたので、このままに致します。 moto会話2018年9月1日 (土) 00:20 (UTC)

公式HPを丸写しですか?だったら「広告・宣伝活動のような記述内容」のテンプレを貼らせてもらいますよ。Wikipediaは特定の大学のプロパガンダ機関ではないはずです。

過去の東洋大学が「護国愛理」を建学精神としていた証拠ならいくつもありますよ。

  • 「護国愛理の金字塔 不滅の城の王者なる」(東洋大学学生歌 『観想の華1928年
  • 「我が東洋大学の根柢を築くものは、創立者井上円了先生の護国愛理の大信念である。」(『東洋大学創立五十年史1937年、1ページ)
  • 大学の沿革 本学は故井上円了博士が護国愛理を建学の精神とし、情熱に燃ゆる若々しい青年たちとともに、東洋学再建の理想をもって、明治二十年本郷湯島に哲学館を設立したのにはじまっている。」(『昭和38年版 東京学校案内 大学編』 オクムラ書店1962年、38頁)
  • 「彼(井上円了)は国体擁護の愛国者で、明治二十年には『仏教活路序論』を刊行して、その護国精神を説いている。」(松本清張 『小説東京帝国大学』 新潮社1969年、12頁)
  • とうようだいがく 東洋大学 私立大学。井上円了が1887(明治20)年東京本郷に哲学館を創立。護国愛理を唱え、東洋哲学と関係諸学を講じた。」(『角川日本史辞典』 第二版、1993年1974年初版)、681頁)

東洋大学は新設大学ではありません。百数十年の歴史を誇る大学だからこそ歴史を踏まえた記述とすべきです。高木宏夫や三浦節夫などの東洋大学史研究なども参考にすべきです。--ブルーメンタール会話2018年9月1日 (土) 02:34 (UTC)

提起への投稿、ありがとうございます。 この「教育の精神」について、他大学のものは概ね「現在の」理念等が書かれているのに対し、この大学については現在のものが書かれておらず「1930年代から50年代頃に『護国愛理』があり、それは現在書かれていない」という事のみが書かれているので、大学HPで確認したところ、リンクしたように全く別の事が書かれていました。 この大学の「宣伝」「プロパガンダ」をするつもりもありませんし、その立場でもありません。また、「護国愛理」と大学が言った、言っていない、という事を論争するつもりもありません。 大学が「護国愛理」を歴史上どの様に扱ったか、という事を記入されたいのであれば、それは「脚注」として入れるか、あるいは「大学の理念の歴史」と別の節として書いたらいかがでしょうか。Wikiは現在の大学の事を知るための「百科事典」であるべきですから、いきなり過去への批判ではなく、まずは現在大学が発表している事実を書くべきと思います。--moto会話2018年9月1日 (土) 07:51 (UTC)

ブルーメンタールさんの仰る通り、大学のHPからそのままコピペでしたので、他の情報を読み込んで修正してみました。大学についてよくご存じの方は、追加、修正をお願いできれば幸いです。--moto会話2018年9月1日 (土) 08:36 (UTC)

私としては「かつての東洋大学は護国愛理を建学精神としていた」と必ず明記すべきだと思っています。

他校のページも参考になるかと。

大学のHP引用先の詳細を、ガイドラインの通り「~参照」と入れました。 再度書きますが、今回の修正前、この大学の「建学の理念」項目につき、現在この大学が掲げるものが全く書かれておらず、「1930年代から50年代頃に『護国愛理』が言われ、それは現在書かれていない」という事のみが書かれていました。これではこのページを見る人に画一的な情報を与える事にしかならず、まずは現在この大学が発信する「理念」を書くべきと考え、そのようにしました。 その上で、ブルーメンタルさんが「『かつての東洋大学は護国愛理を建学精神としていた』と必ず明記すべきだ」と仰るのであれば、それについて私からは何もありません。ただ、それは現在の大学が発信する「理念」を削除してまでなされるべきではないと考えます。 であれば、別に見出し、或いは小見出し等で「大学の理念の変遷」「大学の理念の歴史」等のタイトルで書いたら分かり易いか、と思いますがいかがでしょうか。--moto会話2018年9月2日 (日) 15:21 (UTC)

ブルーメンタールさん、「東洋大学一覧」等を読んで、私もこの「教育精神」を入れておくべきではないかという考えに至りました。 「建学の理念」の追加項として入れてみました。--moto会話2018年9月4日 (火) 14:42 (UTC)

井上円了の思想と行動』(高木宏夫編、学校法人東洋大学、1987年)という本を発見しました。

そこには「東洋大学における『建学精神』継承の問題点」という論文が掲載されていました。それによると、

  • 井上円了は明治20年に『仏教活論序論』で「護国愛理」を唱えた
  • しかし、井上の晩年の著書に「護国愛理」はあまり見られない
  • その後の東洋大学では「護国愛理」はそれほど重視されていなかった
  • 大正15年に学長に就任した中島徳蔵は、同年の『東洋大学新聞』で東洋大学の創立精神の象徴は護国愛理であると表明
  • 昭和6年に学友会が「学祖の精神に還れ」という運動を起こし、学生たちの間でも護国愛理に対する関心が強まる
  • 昭和12年に学長に就任した大倉邦彦の下で護国愛理をいっそう強調する
  • 昭和32年版の大学入学案内から「諸学の基礎は哲学にあり」が登場する
  • しかし、昭和40年代までは護国愛理も併記されることが多かった
  • 昭和50年代以降は「諸学の基礎は哲学にあり」にほぼ一本化

となっています。

  • 「昭和40年代半ばまでは、戦前の『建学の精神』=『護国愛理』が色濃く残存していたと言えよう。」(同書、226頁)

--ブルーメンタール会話) 2018年9月8日 (土) 00:30 (UTC)--ブルーメンタール会話2018年9月8日 (土) 00:29 (UTC)

ブルーメンタルさん、色々調べていらっしゃいますね。恐れ入ります。 ただ、現在の「建学の精神」が「いつから?」のテンプレートを付けていらっしゃいますが、これは何故、この大学のみに張っているのでしょうか?他の大学の「建学の精神」あるいは準ずる部分には、「いつから」があるものとないものがあります。ということは、「いつから」は必要が無いからではないでしょうか?この大学のみ「いつから」を記入すべきであるとお考えの理由は何でしょうか?--moto会話2018年9月8日 (土) 15:20 (UTC)

そもそも「建学」とは何ぞやということですよ。

ひとことで言えば建学=学校を開設すること。

ならば『東洋大学創立五十年史』に収録されている哲学館開設趣意書(11-12頁)にはどう書かれているか?そこには「諸学の基礎は哲学にあり」も「独立自活」も「知徳兼全」も書かれていません。おそらく現在の東洋大学の建学精神なるものは創立者井上円了の著書からおいしそうな箇所をつまみ食いしただけなんでしょうね。

東洋大学に限らず、「建学精神」を変更した大学については変更前と変更後の両方を記載すべきでしょう。

たとえば中央大学

  • 変更前:実地応用ノ素ヲ養フ
  • 変更後:個人の自由の尊重と実証的・合理主義の学風
    • 行動する知性。-Knowledge into Action-(2010年から)
      • 「質実剛健」は旧校歌の歌詞にも記されている

東洋大学の場合は昭和2年に中島学長が「護国愛理」を建学精神として正式採用し、戦後もその影響は長く続きました。平成初期の歴史辞典にも「護国愛理を唱え」とはっきり書かれています。現在の公式HPに載ってないという理由だけで記事から削除するというのは到底納得できません。「東洋大学=護国愛理」と信じている年配者はまだまだ健在ですよ。

私は図書館で昔の入試案内なども実際に調べています。「諸学の基礎は哲学にあり」については昭和30年代の入試案内で確認できました(護国愛理も併記)。しかし、「独立自活」や「知徳兼全」は昭和50年代の入試案内でも確認できませんでした(その代わりに「公正愛理」を発見しました。「護国」はダメでも「愛理」は何とか残したいという大学当局の思惑が見え隠れしています)。「独立自活」や「知徳兼全」が「建学精神」として採用されたのは比較的最近じゃないでしょうか?

  • 一般に「私立大学にとっての建学の精神は、時代の変遷や社会の変化に左右されないその大学固有の教育研究の理念を示すもの」といわれる。しかし、この不変性が現実に教育・研究に具現化されなければ、単なる観念やスローガンにとどまり、現実に対応する新たな理念を生み出すものとはなり得ない。(『井上円了の思想と行動』 228頁)

私は「公式HP絶対主義者」ではありません。東洋大学に限らず、どの大学の公式HPにも嘘や誇張、曲解、隠蔽が多々見られます。公式HPの記述のみをベースにして記事を作成することには危うさを感じます。戦時中の大本営発表、あるいは終戦直後のマッカーサー声明をそのまま垂れ流すの何ら変わりません。「昔は護国愛理と言ってたのに(証拠は山ほどある)、なぜ言わなくなったんだ?」私はそこまで考えますよ。--ブルーメンタール会話2018年9月25日 (火) 01:16 (UTC)

なんというか、国家主義的だとかレッテルを貼りつつ過去の歴史を隠匿することの方がよほど大学に失礼な事だと思うんですが。でもって太字強調多用したプロパガンダにすり替えるのも如何なものかと。ちなみに「なぜこの大学だけいつからとか貼るんだ!」というお怒りについてですが、こういうのをスピード違反の論理といいます。--Fusianasan1350会話2018年9月25日 (火) 01:31 (UTC)

ブルーメンタールさん、ありがとうございます。確かに「建学の理念」は大学を「設立する時点」に在るべき物のはずですね。それがコロコロ変わっているこの大学の状態が、おかしい物なのかも知れません。 恐らくその「理念」「精神」は「護国愛理」でも「諸学の基礎は…」でもなかったのでしょう。これを言っては元も子もありませんが、建学の時点ではそのようなものが定まっていなかった可能性が高い。 そうするとやはりある程度、歴史を追って併記して行く形がいいのかもしれません。そこは言い出しっぺの私もどの様にすべきか、改めて考えてみます。--moto会話2018年9月30日 (日) 15:34 (UTC)

Fushianasanさん、こんにちは。大学に「失礼」かどうかは特に気にしませんが、引用部分を太字にした方が見やすいかと思って使ってみました。「プロパガンダ」に見えますかね?見えたら申し訳ない。 尚、「大言壮語」は考え方が違うと思いますが…。以下ガイドラインから引用しますね。

『大言壮語とは、事実としての情報なしに、記事を単に引き立たせるための表現のことです。例えば以下のような表現を使うことは避けてください。 「重要な……」「最も重要な……の一つ」「重大な……」「最も影響力のある……」「最善な……の一つ」「議論の余地のないほど……」他にも「…明白な、伝説的な、美しい、話題となった、究極の、非常に、極めて、絶大な、屈指の、有数の、有力な、国民的な、とてつもなく、有名な、は必読、過ぎる…」など。』

この様な言い回しは、現在の節には見られないと思います。どの部分が「大言壮語」だと思われますか?--moto会話2018年9月30日 (日) 15:39 (UTC)

「諸学の基礎は哲学にあり」「独立自活」「知徳兼全」の出典文献が不明です。企業や組織のウェブサイトではなく、念のために文献の提示をお願いします。--ブルーメンタール会話2018年11月9日 (金) 01:02 (UTC)

ブルーメンタールさん、最近の文献を見つけましたので、出典を入れました。また「護国愛理」についてもこちらに書かれていましたので、出典を入れて記述してみました。 現在のこの大学としては、「護国愛理」は突っ込まれる可能性があるので難しい部分なのでしょうね。--moto会話2018年11月26日 (月) 02:23 (UTC)

私が知りたいのは初出文献です。「諸学の基礎は哲学にあり」「知徳兼全」「独立自活」が最初に登場したのはいつなのかが依然として不明。

それから、現在の東洋大学は「護国愛理」を隠したがっているようですが、それを隠したら東洋大学の歴史を真面目に語れなくなります。「護国愛理」あったればこその東洋大学、というのが真実でしょう。

「今般私を動かして学長就任を受諾せしむるに至つた動機は実に本学学祖井上円了先生の熱烈なる護国愛理の建学精神である。学祖のこの精神は私が精神文化研究所を創立した精神と全く合致し、今般の学長就任の交渉は実に井上学祖の生ける魂が私の心に呼びかけられた如く感じられ、微力を顧みず、事情に囚はれる事なく起つて学祖の精神を興隆すべき責任をさへ覚へるに至つた。」(『東洋大学百年史』 通史編Ⅰ、1118頁)

→実業家でもあった大倉学長の下で東洋大学は深刻な経営難から立ち直った。

「大塚会長は、学祖の『護国愛理』の建学精神は法華経精神と通ずるものであり、又東洋大学を復興させ、日本再建の人材養成機関とすることが国家に対する御奉公であるとの信念に基づいて、東洋大学に対し財政援助をすることを承諾されたのである。」(『東洋大学百年史』 資料編Ⅱ・下、637頁)

→大塚日現が巨額の資金援助を行ったおかげで、東洋大学は単科大学から総合大学へと発展することができた。

「護国愛理」は急に消滅したのではなく、昭和40~50年代にかけて徐々にフェードアウトしたというのが実情です。

  • 「人類愛の自覚の上に諸学を研究するという学問本来の道を建学の精神とする本学は、創立当初から学問の深奥を究めると同時に、穏健で着実な人格の養成につとめることを特色としてきた。この精神は本学の貴重な伝統として、現在では教授と学生の家族的な接触の中に、自然に公正愛理の気風が生まれ、今日最も社会の要請する真の学問の府として、社会一般から高く評価されている。」(『全国大学案内』 昭和52年版、梧桐書院、246頁)--ブルーメンタール会話2018年12月12日 (水) 01:28 (UTC)

大学関係者の著書だけでは中立的な記事にならないので、部外者の著書も提示します。

--ブルーメンタール会話2018年12月12日 (水) 01:30 (UTC)


そもそも井上円了は「諸学の基礎は哲学にあり」と本当に言ったのか

高木宏夫の編著で重要な箇所を見落としていました。

  • 「この標語(諸学の基礎は哲学にあり)の出所については、円了の著述中でこれと同じ文言が現在のところまだ確認されていない。」(高木宏夫編 『井上円了の思想と行動』 学校法人東洋大学、1987年、231頁)

つまり、「諸学の基礎は哲学にあり」は後世の創作である可能性である可能性が極めて高くなったということ。おそらく『井上円了選集』を全巻読破しても見つからないでしょう。

私は現在の東洋大学が「諸学の基礎は哲学にあり」を唱えることに反対していませんし、Wikipediaから削除すべきだとも思っていません。しかし、「諸学の基礎は哲学にあり」は井上円了の言葉である、と断定的に書いてはいけないと思っています。

参考:クラーク博士は本当に「少年よ、大志を抱け」と言ったのか?--ブルーメンタール会話2018年12月22日 (土) 02:11 (UTC)


修正前のものをよく読んでみてください。「諸学の基礎は哲学にあり」は井上円了の言葉である」と断定的に書かれていませんでしたよ。

〇初期の著作である「哲学一夕話」第一篇の序三頁に、『純正哲学は哲学中の純理の学問にして、心理の原則、諸学の基礎を論究する学問というべし』とある。

〇井上が1887年6月に発表した「哲学館開設ノ旨趣」では「哲学ハ学問世界ノ中央政府」と述べている(『東洋大学創立五十年史』 11頁)。

この2つから、「円了の言葉を典拠としたものである」と記述されていました。 なぜ、この典拠の基を消されているのでしょうか?

「後世の創作である可能性が高い」とまで書かれるのであれば、「創作である」事がわかる文献をお願いします。 試しに、一つ前に戻してみます。ご確認ください。 --moto会話2019年1月6日 (日) 09:08 (UTC)


竹村牧男著、「井上円了 その哲学・思想」(春秋社)には以下のようにあります。

「よくこの言葉は実は井上円了の言葉ではない、後の学長・佐久間鼎が作った言葉だと言われます。しかし円了の著作の中、もっとも初期のものである『哲学一夕話』第1篇の「序」に『・・・略してこれをいえば、純正哲学は哲学中の純理の学問にして、心理の原則、諸学の基礎を論究する学問というべし。』とある個所に、その典拠を見出すことが出来ると思います。(P235)」

「ちなみに『諸学の基礎は哲学にあり』という句は、井上円了自身の言葉ではありません。それは、後の第22代学長・佐久間鼎が作った言葉だという事です。しかしこの句に近いものが円了の著作の中、『哲学一夕話』などに見いだされる事はすでに述べました(P261~262)」

現在の東洋大学関係者でも、「言った言葉」ではなく「典拠とした言葉」であるという認識なのでしょう。--moto会話2019年1月6日 (日) 09:31 (UTC)

いろいろ言い訳しておられるようですが、「発言改竄」「後付け」であることには変わりません。「典拠」とは「正しいよりどころ」のこと。「諸学の基礎は哲学にあり」には典拠が存在しないじゃないですか。

1957年以来、東洋大学は対外的関係において自らの精神を伝えるために、「諸学の基礎は哲学にあり」という標語を使用するようになった。」
円了自身が書いたものと内容的に一致するものではあるが、この言葉は、円了の言葉のそのままの引用ではない。」 — ライナ・シュルツァ(Rainer SCHULZER)、「東洋大学における井上円了研究」(2014年)

他校は東洋大学みたいな発言改竄をしてませんよ。

  • 早稲田大学の建学精神=「学問の独立」(出典:東京専門学校開校式における小野梓の演説)
  • 立教大学の建学精神=「自由の学府」(出典:校歌の歌詞)

なお、「護国愛理」についても『東洋大学八十年史』を主な出典として記事化しました。--ブルーメンタール会話2019年2月2日 (土) 01:11 (UTC)


「言い訳」とは…。勘違いされて修正をかけていらっしゃった部分について、説明しただけですよ。

話が2転、3転してしまっていますが、私の申し上げたいことは、

この大学の「建学の理念」項目につき、現在この大学が掲げるものが書かれず、現在の大学が発信していない「護国愛理」が大きく取り扱われている事です。これではこのページを見る人は現在の大学について混乱をしてしまう。まずは現在この大学が発信する「理念」「精神」を書くべきと考えます。 その上で、「かつての東洋大学は護国愛理を建学精神としていたと必ず明記すべきだ」と仰るのであれば、それは表題の「建学の精神」において、現在の大学が発信するものを押しのけてまで書かれるべきではないと考えます。 その上で、別項として「大学の理念の変遷」「大学の理念の歴史」等のタイトルで書いたら分かり易いかと思います。

以上です。

また、数か所で「建学の理念は護国愛理」と書かれていますが、私が調べたところでは、「教育精神」として「護国愛理」が扱われている物は見ましたが、「建学の理念」として「護国愛理」が扱われている物は確認できていません。これについては私も調べてみます。 大学が「発言改竄している」「隠したがっている」と仰いますが、そんなことはないと思いますよ。現在、それを発信していないだけではないのでしょうか。--moto会話2019年2月3日 (日) 14:56 (UTC)


興味深い文書を見つけました。井上円了三宅雄二郎棚橋一郎井上哲次郎有賀長雄らと共に明治17年に「哲学会」を設立しました。これにより文学界は2分され、もう一方は「国家学会」となったそうです(「井上円了の教育理念」、高木宏夫、三浦節夫著、東洋大学・昭和62年発行、平成20年改訂第11版)。 その後明治20年に、学会誌「哲学会雑誌」を創刊。その巻頭で井上は「哲学ノ必要ヲ論シテ本会ノ沿革ニ及フ」という論文を発表。そこにはこうあります。

『それ哲学は通常理論と応用理論の二科に分つも、要するに理論の学にして、思想の法則事物の原理を究明する学なり。ゆえに思想の及ぶところ事物の存するところ、ひとつとして哲学に関せざるはなし』『純正哲学において論定せるものは、倫理、論理その他の諸哲学の原理原則となり、哲学諸科の論定せるものは、理学、法学その他の諸学科の原理原則となりて、学問世界の中央政府は即ち哲学なり。』(「哲学ノ必要ヲ論ジテ本会ノ沿革ニ及ブ」哲学会雑誌一号、二号 明治20年2月、3月)

文章の中で井上は、3点を強調しています。第一に、哲学が諸学の基礎であること。第二に、哲学を研究・普及させることが国家の文明を発展させるためには不可欠であること。第三に、西洋哲学の研究に加えて東洋哲学の研究が必要であり、哲学の研究が究極的には日本の文明開化を進め、不況を助けるものであること。この文章も「諸学の基礎は哲学にあり」の典拠と考えられます(「井上円了の教育理念」高木宏夫、三浦節夫著、東洋大学)。--moto会話2019年2月3日 (日) 16:53 (UTC)

発言改竄は改善されてません。

  1. 「諸学の基礎は哲学にあり」は井上円了の発言を忠実に引用したものではない(=発言改竄、歴史論文なら不合格)
  2. 「諸学の基礎は哲学にあり」は井上円了の死後何十年もたってから表に出た(=後出しジャンケン)
  3. 昭和30年代以前の建学精神は何だったのか?(=護国愛理を隠蔽)
  4. 佐久間鼎を完全無視?

百歩譲って井上が「諸学の基礎は哲学にあり」に近いことを言ったと認めるとしても、その言葉は哲学館→東洋大学では久しく忘れ去られ、昭和30年代に至って再注目されるに至りました。忘れ去られていた時期のことをどう説明するのですか?

過去と現在を分断するような編集は私には受け入れがたいですね。「護国愛理」を唱えた東洋大学は東洋大学ではないと言わんばかりの態度じゃないですか。昭和後期の東洋大学で新旧2つの建学精神が並立していたということをどう説明するのですか?

昭和四〇年代半ばまでは、それまでの「護国愛理」の他に、新たに「諸学の基礎は哲学にあり」が登場し、二つの標語で「建学の精神」が表わされ、五〇年代に入ると後者の「諸学の…」に一本化されるのである。 — 高木宏夫、『井上円了の思想と行動』 学校法人東洋大学、1987年、224頁

「現在の大学が発信していない」という理由だけで過去を隠蔽するような編集も私には受け入れがたいですね。

「現在の大学が発信していない」3番の歌詞はどこに消えたのでしょうか?

motoさんは井上円了国粋主義者だったという事実も否定されるのですか?

せいきょうしゃ 政教社 国粋主義的文化団体。1888(明治21)三宅雪嶺・志賀重昂・杉浦重剛・井上円了らを同人として創立。政府の欧化主義・内外政策批判の立場から国粋主義を提唱、雑誌「日本人」および同人の著作を刊行。 — 『角川日本史辞典』 第二版、681頁

井上は「国体擁護の愛国者」(松本清張)で、教育勅語の普及につとめ、死の直前には「皇主主義」を唱えました。それも否定されるのですか?

「護国愛理」の何がいけないのですか?

円了は「護国愛理」(「国を護り、真理を愛する)を理想としていたが、彼の考える「国」は日本の伝統文化ならびに日本人全体のことであり、政府とイコールではなかった。もし政府が誤った政策を採ろうとするなら、これを諫めて正すことも「護国」であり、真の忠君愛国だと考えていた。 — 長山靖生、『帝国化する日本』 筑摩書房、70頁

私の記事に出典がないとは何事ですか?
私はこれまでに『慶応義塾百年史』『早稲田大学百年史』『青山学院九十年史』『関西大学百年史』などを用いて大学記事を書きましたが、そのことで文句を言われたことは1度もありません。なぜ『東洋大学八十年史』や『東洋大学百年史』を用いてはいけないのですか?motoさんの記事こそ出典不足です。

  • 「諸学の基礎は哲学にあり」を再発見したのは誰ですか?
  • 「諸学の基礎は哲学にあり」が再登場したのはいつですか?
  • 「諸学の基礎は哲学にあり」を掲げざるを得なくなった裏事情は何ですか?
  • 「智徳兼全」と「独立自活」の初出文献は?
  • 「智徳兼全」と「独立自活」はいつから東洋大学の建学精神になったのですか?
  • 「智徳兼全」と「独立自活」が東洋大学で久しく忘れ去られた理由は何ですか?

問題が解決していないのに「要出典」のテンプレをはがさないでください。

私は東洋大学や井上円了をけなしているのではなく、事実は事実として認めるべきだと言っているのです。昔の文献を調べれば「護国愛理」はいくらでも見つかります。「要出典」と言われればいくらでも出せます。

[沿革] 明治二十年、学祖井上円了博士が「護国愛理」の精神にもとづいて、哲学館を本郷湯島に設立したのを始めとする。後、白山台の現在の地に移り、哲学館大学となり、明治三十九年に東洋大学と改称し、以来七十年の歴史をもっている。 — 「蛍雪時代」秋季臨時増刊 全国大学内容案内号、旺文社、1959年、253頁

「あったこと」を「なかったこと」にすることはできません。昭和30年代の東洋大学が受験生集めのために「護国愛理」を利用していたことは紛れもない事実です。

極端に言えば、学校(特に私立校)にとって「建学精神」なるものは受験生集めの道具に過ぎません。現在の東洋大学が掲げる「建学精神」なるものを過度に強調・美化されるのであれば、「大言壮語的な記述」「広告・宣伝活動のような記述内容」などのテンプレを貼らざるを得なくなりますよ。--ブルーメンタール会話2019年2月7日 (木) 03:11 (UTC)

大学当局の提灯記事から少し距離を置いてみましょうか?

諸学の基礎は哲学にあり
明治20年に哲学者・井上円了がその前身となる哲学館を創立して以来、131年の歴史と伝統を誇る。井上円了は、日本が近代国家として歩みはじめた明治の時代に哲学を説き、世界を自ら見て回り、新たな時代に直面した日本人が持つべき「ものの見方・考え方」を全国各地を行脚し、伝え続けた。いまグローバル時代を迎え、大きな社会のうねりのなかで、井上円了の精神を受け継ぎながら、哲学を基礎として、地球規模の視野を持ち、社会の課題に主体的に立ち向かい、新たな価値を創り出していくことのできる人材を育成している。 — 「蛍雪時代」8月臨時増刊 2019(平成31)年入試対策用 全国大学内容案内号

ここでは「智徳兼全」も「独立自活」も紹介されていませんし、「諸学の基礎は哲学にあり」の発言者についても明言を避けています。--ブルーメンタール会話2019年2月7日 (木) 03:20 (UTC)


いま少し、冷静になっていただけませんか?
思い込み、独自研究の連続投稿になっているのではないでしょうか。
まるで「この悪の組織にはこんなな過去があった」と書きたくてたまらない様です。
「あったことを無かった事には」できないと私も思いますが、大昔にあって、現在はあまり顧みられない事象を、わざわざ「概観」に大項目として入れる事が中立的ではないと申し上げているだけです。

東洋大学のHPや、大学案内には、
◆◆建学の精神◆◆
「諸学の基礎は哲学にあり」「独立自活」「知徳兼全」
と書かれています。公式HP,建学の理念

ブルーメンタールさんは「蛍雪時代には書かれていない」と仰いますが、受験雑誌に書かれていないからと言って、大学が発信する物を無視するのですか?それでは本末転倒ではないですか? ちなみに「私はホームページ絶対主義ではない」との事でしたが、Wikiのガイドラインでも現在、一般的にインターネットで信用されないのは個人のブログ等であり、組織や団体の公式HPは、発行書籍などと同様の重要性を持ちます。


Wikipediaの3大方針を確認させてください。

Wikipedia:独自研究は載せない

Wikipedia:中立的な観点

Wikipedia:検証可能性


判断材料が明確になっていない物を「後世の創作の可能性が高い」などと書くのは、悪意を持った独自研究としか捉えられないと思います。まさに「出典がない」書き方です。これは引っ込めなさった様ですが。
「隠蔽」「改竄」「隠したがっている」などと不穏な言葉のオンパレードですが、そこまでこの大学を非難することはないでしょう。明らかに「中立的な観点」からの言葉ではありません。
「護国愛理を大学が隠したがっている」と書いていらっしゃいますが、先日も書きましたけれど別に隠しているわけでもなく、その理由も無いと思いますよ。大昔に言われていた事であって、現在は発信していないだけでしょう。私も「護国愛理」が「悪い」は考えだとは思いません。
因みに東洋大学公認のムック本では、大学関係者(三浦節夫ライフデザイン学部教授)が「護国愛理」を詳細に書いていますよ。「『愛理(心理を愛する=哲学、合理的思考)』がなければ『護国(国の発展)』はない(『東洋大学by AERA 哲学を、持て』朝日新聞出版、2012年)」。
また、私学は大学運営、金策のために、大学として本位でない結論を導き出さなければならない場面も出てくるのでしょう。これは私立大学においては、現在・過去問わず考えられます。その事実をもって私立大学を非難するなら、多くの私学を非難しなければならなくなります


1. 「『諸学の基礎は哲学にあり』は井上円了の発言を忠実に引用したものではない」
→「典拠としたものである」と書いています。そうとしか言えないでしょう。「発言である」とも言えません。ただ円了はこの趣旨の事を何度か書いていますね。「後世の創作の可能性が高い」などと書くのは明らかな独自研究であり、悪意を感じますよ。「佐久間鼎が作った」というのも後述の理由で明確に書くべきではありません。

2. 「『諸学の基礎は哲学にあり』は井上円了の死後何十年もたってから表に出た」
→これは明らかに、ブルーメンタールさんの独自研究でしょう。井上円了の文章を紐解くと、「哲学は学問世界の中央政府にして~(「哲学館開設の旨趣」より)」など、何度も出てきます。さすがにこの書かれ方では現在の時流に沿わないので、「諸学の基礎は哲学にあり」と大学はしているのではないでしょうか。

3. 「昭和30年代以前の建学精神は何だったのか?(=護国愛理を隠蔽)」
→これ以前に「建学精神」と明記された物は無かったのでは?「教育精神」として「護国愛理」が謳われた事は、文書が残っていますが。「護国愛理」を「建学の精神」とした当時の書物は確認されているのですか?

4. 「佐久間鼎を完全無視?」
→これは意見が分かれるようですよ。竹村牧男も「井上円了 その哲学・思想(春秋社 2017年、P235)」で「よくこの言葉は実は井上円了の言葉ではない、後の学長・佐久間鼎が作った言葉だといわれます」としか書いていません。しかも他の書物で多く書かれている物でもありません。定説として定まっていないのですから書かれるべきではないでしょう。

• 「諸学の基礎は哲学にあり」を再発見したのは誰ですか?
• 「諸学の基礎は哲学にあり」が再登場したのはいつですか?…
等々、6つの質問をされていらっしゃいますが、これらは過去の事象に対するブルーメンタールさん個人の疑問であり、Wikipedia上で明確にする理由がありません。また、ほぼすべてが確認できず、「確たる説は見つけられない」とするしかないでしょう。

•「「現在の大学が発信していない」という理由だけで過去を隠蔽するような編集も私には受け入れがたいですね」
→隠蔽(…)私はしていません。現在の大学が発信していない80~120年前の事を、現在の大学が発信する事を押しのけてまで書く理由が無いと言っています。故に、「概観」においては、現在の大学が発信する事を主とし、読みやすくするため、この昔の事は別項とするべきと申し上げていますし、この点でブルーメンタールさんが書いたものを隠蔽、削除などしたつもりはありません。

•「学校(特に私立校)にとって「建学精神」なるものは受験生集めの道具に過ぎません」
「建学精神」が「何であるか」を決めるのは、大学ではないでしょうか。それを勝手な個人の思い込みで片づけてしまうのであれば、「Wikiに書く必要はない」となってしまうのではないですか。「受験生集めの道具」であれば、それは「宣伝・広告」という事にもなってしまいますね。
大学も変化するものですし、それを「以前はこんな事を言っていた云々」と批判する事は、全くの「余計なお世話」になってしまいませんか?時代が変われば、「建学の精神」」等も変わって然るべきだと思いますし(実際に変わった大学は中央大学、國學院大學、関西学院大学など結構な数の大学が上げられるようです)、変化を批判する権利は我々にも無いと思います。

•「私はこれまでに~~大学記事を書きましたが、そのことで文句を言われたことは1度もありません。」
→・・・どうお返しすればいいのでしょうか。今まで文句を言われた事がないのだから文句を言うな、という事なのでしょうか。

「井上円了の教育理念(東洋大学、平成20年第11版)」のサブタイトルには「歴史はそのつど現在が作る」とあります。過去を殊更に強調するのでなく、まずは現在の大学を見るべきと考えます。 --moto会話2019年2月14日 (木) 05:31 (UTC)


「建学の理念の変遷」部分について、「沿革」の中ですと内容として収まるかと考え、この部分については「沿革」章に移動しました。
「建学の精神」は、大学が発信したものとしては「諸学の基礎は哲学にあり」「独立自活」「知徳兼全」の3つであり、「護国愛理」「智徳並進」は「教育精神」です(東洋大学一覧、昭和9年度)。
よって、「建学の精神の変遷」ではなく「建学の理念の変遷」としました。--moto会話2019年2月14日 (木) 06:46 (UTC)

この記事の正確性に疑問が呈されています」のテンプレを貼らせてもらいます。

理由。

  1. 「諸学の基礎は哲学にあり」は「円了の言葉のそのままの引用ではない」。(ライナ・シュルツァ)
  2. 「諸学の基礎は哲学にあり」は昭和32年に登場した「新標語」(三浦節夫)である。

問題箇所が修正されないのであれば、ずっとテンプレを貼ったままにしてください。

「現在の大学が発信していない」ことは書くべきでない?
それは「大本営発表こそが全てだ」ということですか?そんなことはないでしょう。Wikipediaは大学の広報機関じゃないんですから、大学が公開しないこと、隠したがっていることなども書いていいんですよ。

これまでに私は他校についても批判的な記事を書きましたし、他校の年表にも不祥事を書き込みました。それでも私の編集に対して異論を唱える人は現れませんでしたよ。いずれ私は法政騒動植原・笹川事件についても書いてみたいと思っています。

昔の東洋大学が「護国愛理」を唱えたことは決して不祥事じゃないでしょう。『蛍雪時代』にも堂々と記載されていたのですから。

不祥事といえば、東洋大学では某教授を批判する立て看板をめぐって騒動が起きたそうですね。『東京新聞』などでも報じられました。私はこの騒動について記事化するつもりはありませんが、決して無視もしません。

「インド哲学科や中国哲学文学科を廃止する代わりに国際系や情報系の学部を増やし、実学偏重路線に突き進んでいる。それを私学の先端でやっている。××さん(某教授)がきているのはその象徴であり、このままでは大学が終わっていく」

「円了は庶民に哲学を広めようと、啓蒙活動に生涯を捧げた。それを受け継いだはずなのに、200年、いや3,000年の蓄積がある思想を捨て、わずか十数年のはやりにすぎないコンピューターや語学教育にすがりついている」

「ゼミ生は、せいぜい20人が上限で読書会などをするものですが、今、ゼミには40~50人くらいの学生がいる。ゼミなのに、やっていることは講義。哲学を勉強したくて東洋大に入ったのに、これでいいのかと思った」 — 某教授を批判した東洋大生

仮に報道内容が全て事実だとすれば、現在の東洋大学が掲げている哲学の看板に偽りあり、ということになります。なので、「大言壮語的な記述」のテンプレも貼らせてもらいます。

なお、私は理由なく警告テンプレを貼ることはありません。そこのところは誤解しないでください。--ブルーメンタール会話2019年2月23日 (土) 02:42 (UTC)


ところで中央大学の「質実剛健」はどうなるのでしょうね?

「質実剛健」が中央大学の相言葉になって久しい。そして、歴代の大学関係者は、「堅実」を旨としてもっぱら「国家教育機関」の目的を達成することに努めてきたことを強調していた。そこでは、英吉利法律学校の建学の精神である「英吉利法律学」の「実地応用」は影をひそめ、「国情」を重視する立法、国民生活の安定を実現する日本の「淳風美俗」の民族精神に立つ教育を力説していたのである。こうして、中央大学の「質実剛健」は、創立五〇周年のころから校風として声高く叫ばれるようになった。外部からも「質実剛健」は中央大学の建学の精神とみなされるようになっていった。 — 『中央大学百年史』 通史編下巻、81頁

「質実剛健」は戦時中に国家主義と密接に結びついていましたが、現在の中央大学は「質実剛健」を全否定するようなことはありません。--ブルーメンタール会話2019年2月23日 (土) 02:47 (UTC)


これも読んで下さい。→「正義を権力より護れ」雑考(市原靖久)|関西大学学長室

東洋大学に置き換えれば、こう言えるのではないでしょうか?

  • 「諸学の基礎は哲学にあり」の精神を井上円了は抱いていたといえるかもしれない。しかし、だとしても、その精神が遡って哲学館創立の精神=“建学の精神”となるわけではないことは確認しておかなければならないであろう。

ちなみに関西大学では大正期の学長山岡順太郎が掲げた「学の実化」を今でも大事にしています。

「学の実化」とは「大学教育の社会化」であり、「社会の大学化」である。世を挙げて学問至上主義の風潮滔々たる中に、敢然として「学の実化」の旗印を掲げて立った山岡の卓見は敬服に値するものである。しかも経済都市大阪を背後に控えた本学の環境に想到する時、山岡の指示した方向は決して誤っていなかったと思う。そしてこの時定められた学是が現在に至るまで、本学の良き伝統となり、良き指針となっている。 — 『関西大学七十年史』 258頁

なぜ東洋大学はすべての過去を素直に受け入れないのでしょうか?歴史を切り貼りするような態度はかえって不気味です。--ブルーメンタール会話2019年2月23日 (土) 02:55 (UTC)

「護国愛理」は「教育精神」?

今や大学令に依る大学として確固不抜の基礎に立ち、我国文科大学中特異なる存在を以て嶄然頭角を抜んで、護国愛理の建学精神を益々発揮するの道程に上つたことは、洵に欣懐に堪へぬ所である。 — 『東洋大学創立五十年史東洋大学、1937年、135-136頁]
創立五十周年を契機に護国愛理が東洋大学の建学の精神あるいは学是として、これまで以上に強調されることになった。 — 『東洋大学百年史』 通史編Ⅰ、学校法人東洋大学、1167頁
戦後も建学の精神や教育理念を表す言葉は「護国愛理」であった。 — 高木宏夫、『井上円了の教育理念』 学校法人東洋大学、1987年、176頁]

「建学精神」「建学の精神」と記された文献は存在しますが何か?それも学校法人東洋大学から刊行された文献です。「護国愛理」を矮小化するのはやめてください。

ちなみに『東洋大学創立五十年史』では「護国愛理の大信念」「護国愛理は哲学館創立の根本精神」「確固不抜の創立精神」など多数の表現があります。


戦後の学内文書もいくつか提示しますよ(いずれも『東洋大学百年史』 資料編Ⅱ・下に収録されています)。

昭和34年 - 趣意書(父兄会)

東洋大学は、学祖井上円了博士の建学以来、七十一星霜の歴史をもち、各界に人材を輩出している、わがくに有数の私学である。 その建学の精神である護国愛理の学是を基盤として、文学部に加えて、経済学部、法学部、社会学部をもち、さらに、理工学部、薬学部、通信教育部等の新設準備の段階にある。

昭和37年 - 工学部建設資金募集趣意書

東洋大学は、その前身を哲学館と称し、明治二十年井上円了博士によつて、創設されて以来本年をもつて七十五年を迎えました。 建学以来、学祖の提唱する「護国愛理」の精神を貫き、哲学を根幹とした人文科学系に力を注ぎ、戦後は社会状勢の変革と産業界の要請に応え経済学部、法学部、社会学部等の諸学部を相ついで増設してまいりました。

昭和39年 - 東洋大学創立八十周年記念事業資金募集趣意書

わが東洋大学は、故井上円了博士が、明治二十年九月、私立哲学館を本郷龍岡町麟祥院に創立され、護国愛理の大信念のもと世の学徒の教育指導にあたられて以来、明治三十七年に私立哲学館大学と改め、更に同三十九年には東洋大学と改称して今日に及び、三万有余の卒業生を世に送り、教育界、宗教界、実業界等において活躍する者多く、わが国の文化発展に貢献して参りました。

昭和49年 - 東洋大学教育振興施設拡充資金募集趣意書

東洋大学は、創立者井上円了先生により、明治二十年九月、「諸学の基礎は哲学にあり」という建学の精神のもとに創立され、爾来八十七年の歳月を重ねこの高邁な理想を具現するため、大学関係者の協力により幾多の困難を克服しながら、最高学府としての使命を果すため努力してきました。

おそらく昭和39~49年の間に学内で「何か」が起きたのでしょう。--ブルーメンタール会話2019年2月24日 (日) 01:25 (UTC)

「東洋大学は井上のXYZを東洋大学の建学精神とした」とする情報源があるのであればそう書く(これには自称も含めます)。「いやそれはおかしい、東洋大学の建学精神はABCだ」とする情報源があればそれを併記する。それだけのことです。「東洋大学はこう言っているが私は怪しいと思う」「そもそも井上円了は……と本当に言ったのか」「ある時点で何らかの意図で建学の精神が変更されたのではないか」といったことは、仮に妥当な指摘であったとしても、Wikipediaの記事やノートページでやるべきことではありません。そういった突き詰める調査をしたければ、Wikipedia外でどうぞ、(WP:OR)という他ありません。我々が興味があるのは、そういった論争や調査がWikipedia外で行われて信頼できる情報源で発表されたかどうかだけです。ここで論争そのものをやっても仕方ありません。 --2001:240:2415:8A11:C81C:AD56:672:5D42

でもやはり後出しジャンケンですな。

  • 「純正哲学は哲学中の純理の学問にして、心理の原則、諸学の基礎を論究する学問」
  • 「学問世界の中央政府は即ち哲学なり」
  • 「哲学ハ学問世界ノ中央政府」
  • 「思想の及ぶところ事物の存するところ、ひとつとして哲学に関せざるはなし」

これらは「哲学とはこういう学問です」という一般論を述べただけで、1887年の哲学館開校時にスローガン的な文言として明確に掲げていたわけではないでしょう。

関西大学の「学の実化」は違います。

何れの大学たるを問はず、皆同様の目的を持つてゐるといふことは明かである。併し各大学は各自多少の異つた色彩のあることは、個人個人が、夫々独自の特徴を有するのと同様であつて、本学は殊に一大特色を発揮するの必要を認めるのである。この意味に於て、私は学の実化といふことを本学特有の本領とし度いと思ふのである。 — 山岡順太郎関西大学始業式(1922年9月11日)の式辞(『千里山学報』 第四号)

山岡は関大の始業式で「学の実化」を「本学特有の本領」にしたいと明言しました。ならば井上は「諸学の基礎は哲学にあり」(またはその類義語)を「本学特有の本領」にしたいと明言したのですか?哲学館の開校時からスローガンが存在したかのごとき記述はそれこそ誤解を招きますよ。

「歴史はそのつど現在が作る」?
それって「歴史の改竄」を正当化するために用いられる言葉でしょ?なんかトロツキーの功績をことごとく抹殺したスターリンの姿と重なって見えるのは気のせいでしょうか?

情報公開という点で東洋大学は立命館の足元にも及ばないようですな。東洋はかつて存在した3番の歌詞を隠したまま頬かむり。

motoさんは現在の東洋大学のピュア(?)な姿を伝えたいと努力しておられるようですが、私は「大本営発表など糞食らえ」というスタンスで編集を行ってますからね。

私のように昭和期の文献を用いて執筆活動を行っている者にとっては、「諸学の基礎は哲学にあり」も「知徳兼全」も「独立自活」も薄っぺらい付け焼刃にしか見えませんね。歴史の重みが少しも感じられない。

東洋大学昇格基金募集趣意書(昭和2年4月)

東洋大学昇格基金募集趣意書

文学博士井上円了は、護国愛理の精神に基き、東西の文化を融合して新日本文化を建設せむと企て、明治二十年哲学館を創立し、続て著書に講演に、これが為にその一生を捧げられたり。先生の大学設立趣旨の詩に曰ふ、日域由来三道分、真如一貫斯文、従今富士峰頭月、照破大西洋上雲。と是れ実に本学設立の大精神なり。

哲学館は後哲学館大学となり、更に東洋大学と改称せしも、四十年来創立の精神を以て一貫し、校運益々隆盛を加へ、在学者毎年数千を算へ、已に本邦唯一の東洋学研究所として、又最も権威ある私学として、宗教に教育に倫理に、哲学に言論に、文章に将に社会事業に幾多の人材を養成して、国家に貢献し、社会に寄与したる業績の顕著なるものあり。畏くも明治大正の御代を通じて、御下賜金の恩命を蒙ること前後二回に及べるもの、蓋し所以なくばあらざるなり。

今や之を外にしては、欧洲大戦後の変革ありて、思想界の紛淆倍々甚しく之を内にしては、大震災の創痍尚未だ癒えず、加ふるに最近財界の混乱を以てし、社会の動揺、人心の不安、殆ど底止する所を知らず。此時に当り、本学がその伝統的精神に基きて、東西の思想を統一し、新日本文化の光輝を発揚するは、洵に本学のみに考へられたる、重要且つ特殊なる使命にあらずとせむや。本学は此使命を果さむがため茲に規模を拡大し、学制を改新して、大学令に拠る大学と為さむと欲し、嚮に着手したる昇格事業を継ぎて、更に計画を新にし、陣容を整へ、以て多年の宿志を貫徹せむことを期す。

冀くは同志の諸賢、本学の如き異彩ある教育機関の拡張発展が、国家の為社会の為、一日も忽にすべきにあらざるを知り、奮てこの計画を援助し、この募金に加盟あらむことを。蓋しこれ実に、本学の幸のみにあらざればなり敢て大方の諸賢に愬ふ。

昭和二年四月 東洋大学々長 中島徳蔵

東洋大学はそれまでの専門学校から大学(旧制)へと飛躍せんとする時に「護国愛理」の旗幟を鮮明にしました。旧制東洋大学は「護国愛理」とともに出発したのです。

護国愛理の金字塔
不滅の城の王者なる
時黎明の鐘鳴れば
集まる学徒七千余

— [東洋大学学生歌 2番](昭和3年)

みよ黎明の鶏声台を
護国愛理の旗ひるがへり
戦士の門出に意気は揚れり
この日 この日 われ等東洋護れよ

— 東洋大学応援団歌 1番(昭和5年)

真理を愛づる若き子の
求道の日日慎しく
聖の跡を追ふ胸に
嗚呼護国の血は踊る
輝く涙君知るや、君知るや

— 東洋大学寮歌 2番(昭和14年)

世の黎明に高々と
護国愛理の声あげて
文化の暁導ける
鶏声台の光はも
うつくし 清し 遍し
これ 東洋の かゞやき

— 東洋大学創立五十年記念歌 1番(昭和12年)
  • 「護国愛理」の歌はいくつもある。
  • 「諸学の基礎は哲学にあり」の歌、「智徳兼全」の歌、「独立自活」の歌…そんな歌あるんですか?

昔の東洋大生は「護国愛理」を心のよりどころにしていたんじゃないですか?それなのに今になって「護国愛理」を厄介者扱いするなんておかしいでしょう。

ちなみに私は今でも「諸学の基礎は哲学にあり」を「創作に等しいもの」と思っていますよ。--ブルーメンタール会話2019年3月3日 (日) 01:51 (UTC)


相変わらず東洋大学に対する強い思い込み、独自研究の連投のようですね。

ブルーメンタールさんが東洋大学の建学の理念について疑念があるのは理解しましたが、それは東洋大学の関係者に直接言うべきことであり、大学関係者が発言しないことをいいことにWikipedia上で理屈をこねても仕方がないでしょう。

「建学精神」が「何か」を決めるのは大学です。我々ではありません。

現在、判断できる事実を、中立的な立場から書くべきです。


• 「私は「大本営発表など糞食らえ」というスタンスで編集を行ってますからね」

→本人が発信した事実を受け入れない、というのであれば、「私は独自研究を発表します」と言う事と同義です。Wikipediaで書くべきことではありません。

• 「仮に報道内容が全て事実だとすれば、現在の東洋大学が掲げている哲学の看板に偽りあり、ということになります。なので、「大言壮語的な記述」のテンプレも貼らせてもらいます。」

→それでは「報道内容が全て事実である」と調査、確認してからにしてください。また、以前も書きましたが「大言壮語的な記述」とは「過剰な形容詞」の事です。「重要な……」「最も重要な……の一つ」「重大な……」「最も影響力のある……」「最善な……の一つ」「議論の余地のないほど……」。ここにはそのような形容詞は書かれていません。

• 「私は他校についても批判的な記事を書きましたし、他校の年表にも不祥事を書き込みました。それでも私の編集に対して異論を唱える人は現れませんでしたよ」

→この書き方、前回もありましたがどう反応すべきかわかりません。他で異論を唱えられていないから、異論を唱えるな、という事でしょうか。

• 「「護国愛理」は「教育精神」?」

→私が知りたいのは初出文献です。「護国愛理」が「教育精神」と書かれた文書は確認しましたが、「建学の精神」と明確に解る文書が依然として不明。また、ブルーメンタールさんが以前書いたとおり、大学関係者の著書だけでは中立的な記事にならないのではないでしょうか。(ちなみにここは、ブルーメンタールさんの以前の理屈の組み立て方をお借りしています。)

まずは、東洋大学が現在発信するものを否定すべきではありません。またそれを押しのけてまで過去の(それも遠い過去の)何かを入れ込むべきではありません。それは2001:240:2415:8A11:C81C:AD56:672:5D42さんが書かれたとおり、「Wikipediaの記事やノートページでやるべきことではありません。そういった突き詰める調査をしたければ、Wikipedia外でどうぞ、(WP:OR)という他ありません。」となるでしょう。

再度、Wikipediaの3大方針を確認させてください。

Wikipedia:独自研究は載せない

Wikipedia:中立的な観点

Wikipedia:検証可能性


--moto会話2019年3月4日 (月) 17:15 (UTC)

自分が認めたくない内容はすべて「独自研究」ですか?

これらは偽書ですか?学校法人東洋大学偽書を刊行したのですか?自分が読んだことのない文献をすべて偽書と見なすのですか?motoさんは愉快な人ですね。

「諸学の基礎は哲学にあり」は「新標語」です。

新標語「諸学の基礎は哲学にあり」の登場である。案内書での所出は昭和三二年版で、「本学の特色」の項の「(1)人格の基礎を哲学においている」で、「本学の教育方針は学祖建学の精神、いわゆる諸学の基礎は哲学にありと云う基本線の上にたっての修学であるため、落ち着いた人格と信念が自然につちかわれていく、これは本学に学んだ者および本学を知る人々の等しく感ずるところである。」と記されている。 — 高木宏夫編、『井上円了の思想と行動』 学校法人東洋大学、224頁

私が提示した文献を読んだ後で批判されるならまだしも、読みもせずに「要出典」だの「独自研究」と言われるのはギャグなんでしょうね。--ブルーメンタール会話2019年3月6日 (水) 01:57 (UTC)

念のために昭和32年以前の入学案内も調べてみました。

昭和二八年度 東洋大学入学案内

東京都文京区原町一七 電大塚(八六)〇四四三・二七二一・三二一二 国電水道橋駅より都電「白山、巣鴨、板橋、志村行」にて白山上又は曙町下車
国電巣鴨駅より「日比谷、神田橋、神保町行」にて曙町又は白山上下車

一、沿革
本学は学祖故井上円了博士が「護国愛理」の精神にもとず[づ]いて本郷湯島に哲学館を設立したのにはじまる。これが我が東洋大学の前身であつて当時校舎の広さは僅かに二十四坪に過ぎない狭隘なものであつたが開館と同時に入学した者は百名を越へ[え]、学生の中には既に相当の年輩者もあり研学の態度は真摯にして、然も覇気に富み、将来哲学館の発展を予想せしむるものがあつた。

その後本郷駒込蓬莱町の現在の郁文館の地に、更に小石川原町の現位置に移転し、哲学館大学、東洋大学と改称し、学制を改革し新興の意気に燃えつゝ内容の改善に努力した結果、忽ち天下にその名を謳はれるようになつた。 — 『東洋大学百年史』 資料編Ⅱ・下、428-429頁
東洋大学

学長 加藤精神
設置 昭和二四、二、二一
所在地 東京都文京区原町一七 (電)大塚二七二一、三二一二、国電巣鴨または水道橋駅より都電にて五分曙町下車、国電御茶ノ水駅よりバス十分、国電駒込駅より都電七分

[概観]
本学は学祖故井上円了博士が「護国愛理」の精神にもとづいて本郷湯島に哲学館を設立したのにはじまる。明治三十九年には東洋大学と改称、以来哲学を根基として東西の学問文化を融合し、普遍妥当にして民族の個性豊かな新文化を創造し、その神髄を昂揚し来ったのである。また創立以来六十余年の伝統を有する本学は、宗教界・教育界・出版界・新聞界に一万数千の卒業生を送り、それぞれ活躍している。

終戦後は、学園の大拡張を企図し、文学部のほかに経済学部を設置し、更に昼間就学できない勤労学徒のために、学問の開放、勉学の機会均等を期して夜間の短期大学、四年制の文学部二部・法経学部などを設置した。二十七年には大学院修士課程を置き、二十九年にはその一部を改組するとともに、博士課程を新設し真に学問研究の府たらしめんとしている。 — 『昭和30年版 全国大学大観』 旺文社、301頁

昭和28年版でも30年版でも「諸学の基礎は哲学にあり」は見当たりません。--ブルーメンタール会話2019年3月8日 (金) 02:35 (UTC)

引き続き、いま少し、冷静になりませんか。
「私は「大本営発表など糞食らえ」というスタンスで編集を行ってますからね」
「学校(特に私立校)にとって「建学精神」なるものは受験生集めの道具に過ぎません」
「歴史の改竄」「トロツキー」「スターリン」…
東洋大学を快く思われていないことは理解しますが、明らかに中立性に欠け、独自研究です。
まるで「この悪の組織にはこんなな過去があった」と書きたくてたまらない様です。
100年前の「教育精神」とされるものを、わざわざ現在の「建学の精神」に大げさに入れ込む事は中立的ではないと申し上げているだけです。

東洋大学のHPや、大学案内には、
◆◆建学の精神◆◆
「諸学の基礎は哲学にあり」「独立自活」「知徳兼全」
と書かれています。公式HP,建学の理念
大学が「建学の精神」として述べている事実は、これ以上でも以下でもありません。

Wikipedia:独自研究は載せない
「特定の観点を推進するような、発表済みの情報の合成」
Wikipedia:中立的な観点
「意見を事実として記さない」
「深刻な論争がある主張を事実として記さない」
Wikipedia:検証可能性
--moto会話2019年3月9日 (土) 15:15 (UTC)

出典があるのに「ない」と決めつけるのは言論弾圧

なんか意味不明なことを連呼しておられたようですが、聞かなかったことにしましょうか?

Wikipediaの三大方針? それがどうかしましたか?

  • 独自研究は載せない→高木宏夫の編著に書かれていることを紹介したら独自研究になるのですか? 学校法人東洋大学は独自研究の文献を刊行したのですか?
  • 検証可能性→私が提示した文献はごく一般的な図書館に行けば誰でも自由に閲覧できます。
  • 中立的観点→中立的な文献にも「護国愛理」と書かれてますが何か?
とうようだいがく 東洋大学 私立大学。井上円了が1887(明治20)年東京本郷に哲学館を創立。護国愛理を唱え、東洋哲学と関係諸学を講じた。 — 『角川日本史辞典』 第二版、1993年(初版1974年)、681頁

現在の「公式発表」こそが全て? でもお役所や大企業のデータ改竄などは日常茶飯事でしょうに。教育機関だって嘘ついたり、何かを隠したりすることは当然ありますよ。

東洋大学は3番の歌詞をいつ消したのですか? なぜ消したのですか?

沈黙が一種の虚偽である事がある。 — 今井登志喜、『歴史学研究法』 東京大学出版会、1991年(初版1953年)、57頁

1、独自研究は載せない
私は独自研究をしているつもりはありませんが、仮に独自研究だとしても、なぜそれがいけないのですか? 独自研究は全部ダメなら、地動説進化論も独自研究の産物なので削除せよということになります。邪馬台国論争のように決着のついていない論争記事も削除せよということになります。あれもダメこれもダメなら、結局何も書けなくなります。

つまるところmotoさんにとって「独自研究」なる言葉は「魔法の言葉」なのでしょう。

  • 自分の知らない物、理解できない物はすべて「独自研究」。
  • たとえ出典があっても「独自研究」、疑いようのない事実であっても「独自研究」。
  • 自説と合致しない物はすべて「独自研究」。何が何でも「独自研究」。

そうやってすべての物を「独自研究」の一言でなかったことにしてしまう。
motoさんって恐ろしい人ですね。まるでどこかの独裁国家の思想警察みたいだ。

2、検証可能性
私は別に機密文書を暴露しているわけではありません。

井上円了の思想と行動』はこれらの図書館で閲覧できます。

  • 北海道立図書館、青森県立図書館、岩手県立図書館、宮城県図書館、秋田県立図書館、山形県立図書館、福島県立図書館、茨城県立図書館、栃木県立図書館、埼玉県立熊谷図書館、千葉県立西部図書館、東京都立中央図書館、神奈川県立図書館、新潟県立図書館、富山県立図書館、石川県立図書館、県立長野図書館、岐阜県図書館、静岡県立中央図書館、愛知県図書館、三重県立図書館、滋賀県立図書館、京都府立図書館、大阪府立中央図書館、大阪市立図書館、奈良県立図書情報館、和歌山県立図書館、鳥取県立図書館、岡山県立図書館、香川県立図書館、愛媛県立図書館、福岡県立図書館、佐賀県立図書館、長崎県立長崎図書館、熊本県立図書館、大分県立図書館、宮崎県立図書館、鹿児島県立図書館

全国大学大観 昭和30年版』(旺文社)はこれらの図書館で閲覧できます。

  • 千葉県立中央図書館、東京都立中央図書館、山梨県立図書館、岐阜県図書館、名古屋市鶴舞中央図書館、滋賀県立図書館、岡山県立図書館、山口県立山口図書館、愛媛県立図書館、福岡県立図書館、大分県立図書館

東洋大学百年史』(全8巻)も全国各地で閲覧できます。

  • 大学図書館所蔵 224件
    • 東洋大学 附属図書館
    • 東洋大学 附属図書館 川越図書館
    • 東洋大学 附属図書館 朝霞図書館

motoさんは「一流大学」出身の「偉い人」ですよね? だったら私が提示した文献を調べることなど朝飯前でしょう。調べもせずに「独自研究」と決めつけるのは単なる食わず嫌いですよ。

3、中立的観点
私に中立的な記事を書け、とおっしゃいますが、そのくせmotoさんは2019年現在の大学当局が公表しているデータのみを信用しておられる。ならば東洋大学ページは事実上単一出典ということになりますよ。


記事がひとつの出典のみに依拠していることを警告するためのテンプレートです。

出典がひとつだけでは内容が不正確ないし偏っているかもしれないため万全とはいえません。傍証となる他の出典がない場合、正確性または中立性が保たれているかは疑わしいかもしれません。複数の独立した出典に依拠することで、百科事典の信頼性は改善されます。

なので、複数の独立した文献を調べてみました。

とうようだいがく 東洋大學 とうやうだいがく
一八八七(明治二〇)年井上円了が東京本郷湯島に哲学館を創設、一九〇四年哲学館大学、〇六年東洋大学と称した。大学部と専門部および予科をもち、井上の護国愛理の学是のもとに、東洋的精神文明の樹立をめざし、文学・宗教・思想方面に重きをおく異色ある私立大学となった。四九(昭和二四)年新制大学として発足。現在は文学部・法学部・経済学部・経営学部・社会学部・工学部の六学部一九学科と大学院(四研究科)よりなる総合大学。卒業生は教育界で活躍するものが多い。現在の所在地は、東京都文京区白山五の二八の二〇。(福地重孝) — 『普及新版 日本歴史大辞典』 第七巻、河出書房新社、1989年(初版1985年)、202頁
東洋大学 とうようだいがく 私立。一八八七年(明治二〇)、哲学者井上円了により「諸学の基礎は哲学に在り」の理念のもとに「護国愛理」を建学の精神とし、東洋学再建のために創設した私立哲学館を前身とする。一九〇三年(明治三六)専門学校令による哲学館大学をを設立、〇六年東洋大学と改称、二八年(昭和三)大学令による大学となり、文学部(哲学科、仏教学科、国文学科、支那哲学支那文学科からなる)を設立した。四九年(昭和二四)新制大学へ移行。八七年現在、文学部(一部、二部)のほかに、経済学部(一部、二部)、法学部(一部、二部)、社会学部(一部、二部)、工学部、経営学部(一部、二部)の各学部と、文学・社会学・法学・工学・経営学の各研究科からなる大学院をもつ総合大学に発展した。本部は東京都文京区白山五-二八-二〇。→井上円了〈喜多村和之〉 — 『日本大百科全書 16』 小学館、1990年(初版1987年)、821頁
井上円了 いのうええんりょう(1858~1919、安政5~大正8)
明治・大正期の仏教哲学者・教育者。新潟県の寺に生まれる。1885年(明治18)東京大学哲学科卒。欧化政策下のキリスト教の伸長を憂え、86年「真理金針」、翌年「仏教活論」を著し、護国愛理の立場からキリスト教を批判、仏教の擁護・改革を行いもって国家の独立を主張した。また妖怪研究会を組織して迷信打破にも努めた。哲学会・国家学会・政教社の創立に参画、さらに哲学館(のち東洋大学)、哲学堂を創建した。[中島三千男] — 京大日本史辞典編纂会 『新編 日本史辞典』 東京創元社、1990年、68頁
東洋大学では、十四年四月、専門部に法政・経営・貿易三専攻をもつ拓殖科(東亜経営科)および、拓殖(東亜経営)専修科(一年制)を設立した。同大学の建学精神は「護国愛理」であり、これを踏まえて拓殖科設立の目的を「東洋ノ精神ヲ把握セル護国ノ士ヲ養成シ、以テ国策遂行ノ任ニ耐フル人物ノ輩出」にあるとしている(『東洋大学百年史』 資料編Ⅰ・上)。また国学院大学の場合も、十五年四月に専門部興亜科を設立したが、目的は「東亜大陸ニオイテ日本語ノ教師、神社奉仕、宣撫業務等ニ従事スル人材ヲ錬成セムトスルモノ」(『國學院大學百年小史』)とある。国策に沿うものであったとはいえ、同大学のもつ学風は尊重されている。 — 『明治大学百年史』 第四巻、1994年、136頁

motoさんがどんなに言い訳しても「護国愛理の学是」「護国愛理の建学精神」といった文言はいくらでも見つかりますよ。私のやってることが「独自研究」なら、角川旺文社河出書房小学館京大明大も「独自研究」をやってたということですか? 冗談もほどほどにしてくださいよ。--ブルーメンタール会話2019年5月25日 (土) 04:21 (UTC)