チャシ
チャシとは主に近世にアイヌが築造したある種の施設であって、高い場所に築かれ、壕や崖などで周囲と切り離された施設である。
概要
[編集]チャシはアイヌ文化の中でも重要な位置を占めていると考えられているが、アイヌ自身による文献史料が存在しないため、その用途など詳しいことは殆ど分かっていない。また、チャシ自体が研究対象となったのもアイヌ研究史の中では新しく、河野常吉や河野広道による先駆的な研究を除くと、1973年以降に順次行われたチャシの分布調査が初の本格的な調査であった。
チャシの総数も不明であり、地名や伝承には残っているものの、遺構は見つかっていないものも多い。1992年時点では526カ所のチャシコツ(チャシ跡)が確認されている。
チャシの分布は東蝦夷地(太平洋側のアイヌ文化圏)と呼ばれた道南、道東に多く、特に根室、釧路、十勝、日高地方に集中している。これはシャクシャインの勢力圏と一致している為、彼らが和人と戦う中で多くのチャシが築かれたのではないかと推測されている。
語源
[編集]知里真志保は「チャシとは山の上にあって割木の柵を巡らせた施設を指す語であるとされる」としているが、現役のチャシは存在しないため、正しくは「チャシの跡」という意味の「チャシコツ」というアイヌ語を使うべきであると指摘する研究者も存在する。[1] かつてチャシが存在した場所が「チャシコツ」と呼ばれて地名となっている例は多い。
かつて金田一京助は、チャシをアイヌ語の「チ・アシ(我々・立てる)」から来ているのではないかと主張し、中世の東北地方に数多く見られた館(たて、たち)と語源を同じくするのではないかと考えた。しかしチャシの原型を館に求める説は、アイヌ族を古代の蝦夷(えみし)の末裔と見る説の破綻とともに廃されて今日に至っている。[要出典]前出の知里は、チャシの語源は朝鮮語ではないかとも考えていたが、後述するようにチャシが登場するのは14世紀以降であることがわかったため、朝鮮語由来というのは不自然であり、はっきりした結論は出されないままとなっている。
なお、本項ではアイヌが実際に使っている状態の現役の施設としてのチャシと区別する意味で、チャシコツと表記する。
チャシの出現
[編集]チャシがアイヌ族の施設として一般的であったのは16世紀から18世紀、つまり近世アイヌ文化期であると考えられている。チャシの成立時期は不明であるが、擦文文化期の遺物や遺構を伴うチャシコツが見つかっていないことから、宇田川洋は最も古くても14世紀が限界ではないかと指摘している。[1]
チャシの用途
[編集]チャシの用途については現在でも諸説あり、結論は出ていない。チャシが文献に登場するのは17世紀以降で、殆どが和人の残した記録であるが、この時期にはアイヌ族と和人との間で戦争状態が続いていたこともあり、和人はチャシを砦として認識していたようである。例えば1670年に書かれた『寛文拾年狄蜂起集書』では、「シヤクシヤ在所を明け、チャシに籠居申候て不参候」との記述がある。一方、ユーカラではチャシは英雄の住居、牢獄などの性格を与えられていることが多い。
また宇田川が203カ所のチャシコツについて伝承を調査したところ、最も多かったのは戦闘に関する伝承で203件中95件、次に多かったのは神や英雄に関する伝承(ポイヤウンペ、オキクルミ、コロポックル、源義経など)で、同35件、その次がカムイミンタラ(神々が遊ぶ場所)や幣場など聖域であったという伝承で、同22件、見張り場であったという伝承は17件、チャランケを行う会談場であったという伝承は4件であった。
現在では、チャシの用途は複数あり、時代を経るにつれてチャシの主用途は変化していったのではないかと考える研究者が多い。すなわち、最初期のチャシは聖域としての性格が強く、次いでアイヌ族内での緊張状態の影響からチャランケの場として用いられるようになり、和人との戦いが激しくなると軍事施設としての役割が大きくなっていったのではないかとの見方である。さらに宇田川洋はチャシコツから宝物が見つかることが多いことを指摘し、チャシはアイヌの富裕層が蓄積した宝物を保存する施設だったのではないかとの説を提出している。
現代ではチャシコツは観光資源として利用されることもある。
チャシの構造
[編集]チャシは基本的には高い場所に築かれ、壕や崖などで周囲と切り離された施設である。チャシへの登り口はチャシルと呼ばれる。チャシルは非常に傾斜がきついのが一般的で、梯子を使わなければ入れないようなチャシコツもある。1643年にオランダの商船カストリクム号が残した記録中のチャシは山の上に人間の身長の1.5倍ほどの柵を張り巡らしたもので、チャシルは急峻な小径となっており、柵の内部には2,3軒の住居が存在していた。
チャシの形状の分類法は幾つかあるが、最も広く用いられているのは1956年に河野広道が『網走市史』において用いた4分類である。
- 面崖式
- 崖地の上に半円形の壕を築き、その内部をチャシとするもの。
以上の4分類の中では孤島式と丘頂式が新しく、次いで丘先式が現れ、面崖式が最も新しい形式ではないかと見られている。
チャシの築造に必要とされた労働力は、およそ100人から125人/日と考えられており、一般的なコタンであればチャシの築造には一ヶ月ほど要したのではないかと推測されている。
研究状況
[編集]1976年に北海道教育委員会が行った調査では、341箇所のチャシ跡が確認されている。現在では500箇所以上のチャシ跡が見つかっている。北海道(日高支庁)沙流郡の平取町にある二風谷遺跡のように大規模な発掘や調査が行われたチャシもある。
チャシには、北方ユーラシアのゴロディシチェやカムチャツカ半島のオストローフィとの構造における類似点がいくつか見出されている。ゴロディシチェはユーラシア北部に広く分布する砦の一種であり、同様のものがラテン語ではoppidum、ドイツ語ではburg、英語ではboroughやhillfortと呼ばれる。構造上チャシに最も近いのはブリテン島のヒルフォートであるが、これらユーラシア大陸の施設とチャシの関係は全く判っていない。
脚注
[編集]参考文献
[編集]北海道チャシ学会編『アイヌのチャシとその世界』北海道出版企画センター、1994年