アンリ (パリ伯)

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パリ伯爵アンリ、1987年

アンリ・ロベール・フェルディナン・マリー・ルイ・フィリップ・ドルレアンフランス語Henri Robert Ferdinand Marie Louis Philippe d'Orléans, 1908年7月5日 - 1999年6月19日)は、フランスの貴族。パリ伯アンリの名前が広く浸透していた。オルレアン家フランス王ルイ・フィリップ玄孫。名目上のフランス王アンリ6世を自称した[1]

生涯[編集]

エーヌ県ル・ヌヴィオン=アン=ティエラシュ城で誕生した。父はギーズ公ジャン、母はルイ・フィリップ王の王太孫・パリ伯フィリップの娘イザベル・ドルレアンモロッコで育ち、ルーヴァン・カトリック大学で学んだ。

1939年第二次世界大戦中にフランス軍イギリス軍の両方に入隊を拒絶され、アンリはフランス外人部隊に入隊した。1950年以降に国外追放令が解かれ、フランスへ帰国した。

1931年4月、旧ブラジル皇家のオルレアンス=ブラガンサ家出身で同じくルイ・フィリップ王の玄孫であるイザベルと結婚した。2人は11子をもうけたが、1986年に離婚した。

アンリは王位請求者でいる間、一族の所有する膨大な資産、宝石、絵画、家具、国外に持つ所領を売り払って放蕩にふけった。一族のアンボワーズの城は、現在彼の設立したトラストが運営している。以前は40億ポンドあったという一族の資産を分割する時には、子供たちと法廷闘争することになってしまった。

1984年、アンリは長男クレルモン伯アンリ(現在のパリ伯及びフランス公)から継承権を剥奪したと宣言した。理由は、長男が最初の妻と離婚後、カトリックの儀礼に従わないやり方で2度目の妻と再婚したためであった。非カトリックの挙式はフランス王家の一員としてふさわしくない、というのである。アンリは長男により格の劣るモルタン伯位を代わりに授け、継承順位から削った。しかし数年後、長男夫婦に元の称号を再び与えた。

アンリは、三男エヴルー伯ミシェルと四男ラ・マルシュ伯ティボーからも継承権を剥奪した。エヴルー伯とラ・マルシュ伯がどちらも王族でない貴族女性と結婚したことを不服としたのである。この決定は、のち現パリ伯及びフランス公アンリが継承後、無効とした。

政治活動も盛んに行っており、シャルル・ド・ゴールと強い関係を持っていたほか、1986年から1988年の第1期コアビタシオン(保革共存政権)においては、左翼政党である社会党出身のフランソワ・ミッテラン大統領を熱心に支持した。

1999年、アンリはドルー近郊で前立腺癌のため死去した。

子女[編集]

  • イザベル(1932年 - ) - シェンボルン=ブヒハイム伯と結婚
  • アンリ(1933年 - ) - 2度目の妻との間に三男二女 
  • エレーヌ(1934年 - ) - リンブルク伯エフラルトと結婚
  • フランソワ(1935年 - 1960年) - オルレアン公
  • アンヌ(1938年 - ) - カラブリア公カルロ両シチリア王位請求者)と結婚
  • ディアーヌ(1940年 - ) - ヴュルテンベルク公カール(ヴュルテンベルク王位請求者)と結婚
  • ミシェル(1941年 - ) - エヴルー伯
  • ジャック(1941年 - ) - ミシェルの双子の兄弟。オルレアン公
  • クロード(1943年 - ) - アオスタ公アメデオと結婚
  • シャンタル(1946年 - ) 
  • ティボー(1948年 - 1983年) - ラ・マルシュ伯。 

[編集]

  1. ^ オルレアン家はレジティミスト(正統派)とは対立する立場にあったが、アンリ・ダルトワ(アンリ5世)の王位請求権は認めていた。

参照[編集]

先代:
ジャン3世
フランス王位請求者
オルレアン派正統派
オルレアン家当主
1940年 - 1999年
次代:
アンリ7世