ブライアン・クラーク

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ブライアン・クラーク
プロフィール
リングネーム ブライアン・クラーク
アダム・ボム
ラス
ザ・ナイトストーカー
本名 ブライアン・クラークJr.
ニックネーム 原爆男
身長 196cm
体重 132kg
誕生日 (1964-04-14) 1964年4月14日(60歳)
出身地 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
ペンシルベニア州ハリスバーグ
トレーナー オックス・ベーカー
デビュー 1990年
引退 2003年
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ブライアン・クラークBryan Clark1964年4月14日 - )は、アメリカ合衆国プロレスラーペンシルベニア州ハリスバーグ出身。WCWではタッグチームクロニックKroniK)、WWEではアダム・ボムAdam Bomb)のリングネームで知られる。

来歴[編集]

1990年ザ・ナイトストーカーThe Nightstalker)のリングネームでAWAの提携団体CCWにてデビュー。AWAが活動停止すると、しばらくジム・コルネットのSMWに参戦する。

1993年WWF(現:WWE)と契約。ジョニー・ポロマネージャーに迎え、アダム・ボムと名乗り活動する。リング上でポーズを構えると、バックでキノコ雲が噴煙するというド派手なパフォーマンスを見せていた。ヨーロッパ遠征などではジ・アンダーテイカーに次ぐ人気があったという。スター候補としてWWFからもプッシュされるが、レスリングテクニックが稚拙だったこともありチャンスをモノにすることができず退団。また、キノコ雲のパフォーマンスが批判を浴び、途中で中止になっている。

1997年WCWに新天地を移す。怪奇系ギミックのラスWrath)として活動するが、特に目立った活躍はできず、途中で怪我をしてしまったこともあり、ここでもチャンスを生かせなかった。

2000年に、ブライアン・アダムスと共にクロニックを結成。タッグ結成後すぐに2度のタッグ王座となるなど活躍するが、ダーク・カーニバル(グレート・ムタ&バンピーロ)にタイトルを奪われてからは王座に返り咲くことはなかった。若手ユニットのナチュラル・ボーン・スリラーズとの抗争などもあったが、負けの方が多くなっていた。そんな中、クラークはまた怪我をし、アダムスは虫垂炎とことごとくチャンスをダメにし、結局アダムスの虫垂炎になったと同時にその後クロニックはWCWで試合することがなかった。

WCW崩壊後はWWEの契約リストには名前がなくしばらく消息は絶っていたが、2001年9月にスティーブン・リチャーズの用心棒として現れ、アンダーテイカーのバイクを攻撃し喧嘩を売った。そして、同月に行われたアンフォーギヴェンでテイカー&ケインのWCWタッグ王座に挑戦。しかし、これが大凡戦となってしまい、WWEからディベロップメント契約(下部団体でやり直し)を要請される。クラークはその条件に激怒しWWEをそのまま退団。アダムスだけは下部組織のHAWで活動することになったが、彼もその後すぐに解雇されてしまう。

2002年7月に全日本プロレスに登場。武藤敬司太陽ケア組が持つ世界タッグ王座にいきなり挑戦し、なんと奪取にまで成功する。この試合はクロニックの生涯のベストバウトとも言われる好試合であった。その後全日の外人エースの主導を奪うため、マイク・バートンジム・スティールと対戦するなどするが、クロニックは精彩を欠いた。それからしばらくし、アダムスがボクサーに転向のためにクロニックは解散することになった。

2003年1月のファンタジーファイトWRESTLE-1に一夜限りの復活なのか参戦する。しかしこの試合も各雑誌で酷評される。

2006年に古傷である背中の手術を受けている。

得意技[編集]

メルトダウン(WCW)
コブラツイストで相手を捕獲し、相手の股下に手を通しリストクラッチする。その状態で持ち上げ叩きつける。
アダムスマッシャー(WWF)
パワーボム
ハイタイム
アダムスとの合体技で、ダブルチョークスラム。きれいに決まると見栄えもいいが、息が合わないことが多々あった。

獲得タイトル[編集]

SMW
  • ビート・ザ・チャンプ TV王座:1回
WCW
全日本プロレス

外部リンク[編集]