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詩や戯曲を、小説よりも優位に置いていた岸田国士は、自身が銓衡委員をしていた[[芥川賞]]に、戯曲作品を加えることを提案していたが退けられてしまった<ref name="yashi9"/>。


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同年秋、[[ロックフェラー財団]]の[[フェローシップ]]で欧米を洋行していた福田恆存が1年ぶりに帰国し、[[ウィリアム・シェイクスピア|シェイクスピア]]の戯曲翻訳に取り組み始める。文学座の幹事であった[[岩田豊雄]]の後押しもあり、[[1955年]](昭和31年)5月、芥川比呂志の主演で『[[ハムレット]]』を上演。日本の演劇史、シェイクスピア受容史の転換点となる<ref>{{Cite journal|last=INOUE|author=|first=Masaru|year=|date=2020|title=岩田豊雄の中のシェイクスピア--1955年 福田恆存演出『ハムレット』成立の一背景|url=https://doi.org/10.7141/ctr.19.23|journal=|volume=|issue=|page=|pages=23–37|doi=10.7141/ctr.19.23|issn=1347-2720}}</ref>。
なお、福田恆存は三島由紀夫に入座を勧めた身でありながら、女優・[[杉村春子]]と対立して同年4月に文学座を退団し、その後[[1963年]](昭和38年)1月に「[[劇団雲]]」を結成。文学座を脱退した芥川比呂志らと合流した<ref name="kyoko">[[岸田今日子]]「わたしの中の三島さん」({{Harvnb|22巻|2002-09}}月報)</ref>。間もなく三島由紀夫も同年に退団して「[[劇団NLT]]」を結成した<ref name="yashi13">「第十三章 その神」({{Harvnb|矢代|1985-02|pp=195-210}})</ref>。

[[1956年]](昭和31年)3月、両人がいた文学座に三島由紀夫が入り、芥川、福田と共に演劇界を牽引して行く<ref name="kogawa">「文学座評判記」({{Harvnb|粉川|1975-10|pp=94-100}})</ref>{{refnest|group="注釈"|その後、[[三島由紀夫]]は[[岸田国士]]の一周忌の[[法要]]で顔を合わせた[[日夏耿之介]]の同意を得て、日夏耿之介邦訳の『[[サロメ (戯曲)|サロメ]]』([[オスカー・ワイルド]]原作)を演出し、[[1960年]](昭和35年)4月に文学座(主演は[[岸田今日子]])で上演した<ref>「[[日夏耿之介]]宛ての書簡」(昭和34年10月13日、昭和35年1月1日付)。{{Harvnb|38巻|2004-03|pp=802-804}}</ref>。}}。同年4月、福田は三島に入座を勧めた身でありながら、女優・[[杉村春子]]との対立の結果、文学座を退団する。しかしながら、その後も福田訳・演出での『[[マクベス (シェイクスピア)|マクベス]]』、『[[ジュリアス・シーザー (シェイクスピア)|ジュリアス・シーザー]]』の公演が行われるなど、文学座と福田の関係は断絶にまでは至っていない。

[[1963年]](昭和38年)1月、文学座の中堅・若手俳優など総勢29人が杉村体制への反旗から退団する。芥川以下の全員が福田と合流し「[[劇団雲]]」を結成した<ref name="kyoko">[[岸田今日子]]「わたしの中の三島さん」({{Harvnb|22巻|2002-09}}月報)</ref>。同年5月、[[財団法人]]・[[現代演劇協会]](理事長:福田恆存、常任理事:芥川比呂志、理事:小林秀雄・大岡昇平・中村光夫・吉田健一・武田泰淳)の附属劇団となる。

同年5月、岸田、岩田と共に文学座三幹事を務めた[[久保田万太郎]]が死去。

同年12月には、三島も[[喜びの琴事件]]を機に杉村と対立し、文学座を退団して「[[劇団NLT]]」を結成した<ref name="yashi13">「第十三章 その神」({{Harvnb|矢代|1985-02|pp=195-210}})</ref>。岸田、久保田の亡き後、文学座三幹事の最後の一人となっていた岩田は要請に応え顧問に就任する。NLTとは[[ラテン語]]で「新文学座」を表すNeo Litterature Theatreの[[頭文字]]を取ったものであり、岩田が名付け親となった。


== 発行雑誌・本 ==
== 発行雑誌・本 ==

2021年2月12日 (金) 09:05時点における版

雲の会(くものかい)は、1950年(昭和25年)8月に、岸田国士の提唱する「文学立体化運動」を母胎に、日本の劇作家文学者らが集まって結成された団体[1][2][3][注釈 1]。文学、演劇美術音楽映画で活躍する人たちの交流の中から、奥行きのある新たな現代演劇のスペクタクルを生み出すための試みの会として、主宰者の岸田国士をはじめ、内村直也加藤道夫木下順二小林秀雄神西清千田是也菅原卓中村光夫三島由紀夫福田恆存などが実行委員となり発足された[5][3][1]フランスNRF系作家の行き方に倣った運動でもあり[3]小山内薫二代目市川左團次が結成した「自由劇場」以来の「無形劇場の運動」を志したものでもある[2]

結成の意図

文学(小説)と演劇とを結びつけることにより、立体的な奥行きのある総合芸術を創り上げることを目指し、両者の交流によって、これまでの日本の私小説マンネリズム文壇に新風を入れる共に、劇壇には、単なる演技中心から、文学的な刺激による新生面を開拓することを企図した[2]

岸田国士の音頭の元に集まった若い劇作家らは、「実人生と一線を劃す劇的小宇宙の構築」「文学や各芸術ジャンルを後楯にしての政治から離れた演劇の自律性」「詩的要素の導入」「劇的文体の確立」「写実主義といった曖昧な用語を捨てて真実主義への探求」への演劇的志を持った[1]

実行委員でもあった三島由紀夫は、以下のように「雲の会」の意義を語った[2]

自由劇場以後の日本の新劇は、大ざつぱにいふと、築地小劇場の飜訳劇中心主義から、左翼演劇への移りゆきとともに、技術的基礎づけに誤差を生じ、また政治的偏向を生んだ。戦後の新劇界には、かうしたものへの反省から生れたさまざまな新しい動きの芽生えがありながら、それらの動きが結集されて大きな力になるにはいたらなかつた。「雲の会」はその最初の結びつきの機会であり、詩人、小説家、批評家のなかにも芽生えつつある種々の新鮮な反省を、文壇劇壇相互の刺戟に役立てようとした集りである。それは日本の近代の不幸な歪みを矯正しようとねがふ人々の反政治的な集りである。 — 三島由紀夫「雲の会報告」[2]

会員名

以上63名の会員の人選は、岸田国士を中心になされ、事務局長は神西清が務めた[1]

活動経過

1950年(昭和25年)8月1日に有楽町のセントポールにて開催された第1回の打合せ会において、岸田国士により「文学立体化運動」が提唱され、岸田に共鳴する内村直也加藤道夫木下順二小林秀雄神西清千田是也菅原卓中村光夫三島由紀夫福田恆存などが発起人・実行委員となった[3]。事務所は台東区谷中初音町の岸田邸となり、その後、9月4日に実行委員会が開かれた[3]

第1回の会員の会合は、同年9月16日に三越劇場で開かれ、井伏鱒二、岸田国士、小林秀雄、永井竜男、中村光夫、三島由紀夫、三好達治ら、20人あまりの会員が集まり、俳優座講演『令嬢ジュリー』『白鳥姫』(ヨハン・アウグスト・ストリンドベリ原作、青山杉作演出)を観劇しての合評会となった[2][5]。この翻訳劇には、実行委員の千田是也がジュアンの役で出演した[2]

第2回の会合は、10月の実験劇場の『ヘッダ・ガブレル』(ヘンリック・イプセン原作)となった[5]。この10月と11月には、各雑誌で「雲の会」同人による座談会も開かれ、加藤道夫・武田泰淳・三島由紀夫・福田恆存による「新しき文学への道――文学の立体化」(文藝 10月号)、大岡昇平・中村光夫・三島由紀夫、福田恆存による「小説の秘密」(文學界 10月号)、岸田国士・木下順二・小林秀雄・中村光夫・三島由紀夫・福田恆存による「文学と演劇」(展望 11月号)などが掲載された[6]

12月には、三島由紀夫が書いた近代能楽邯鄲』が、芥川比呂志の演出、團伊玖磨の音楽で文学座アトリエ公演された。これは芥川比呂志にとっての最初の日本の創作戯曲の演出となった[1]。キャストやスタッフは無料で参加し、この『邯鄲』と併演の福田恆存の『堅塁奪取』は矢代静一が演出した[1]

この芥川比呂志と三島由紀夫の共演を機に、2人の対談「演劇と文学」が1951年(昭和26年)12月に実施され(雑誌掲載は翌年2月)、海外や日本の芝居、小説について語りながら、戯曲の文体などについて意見交換した[7][1][6]

対談「演劇と文学」の前の同年6月には、「雲の会」発行の雑誌『演劇』が創刊され[1]、8月には、大岡昇平・神西清・中村光夫・三島由紀夫・福田恆存の座談会「劇壇に直言す――二重座談会」と、その他の出席者による座談会「『直言』に答う」が掲載された[6]

劇団内部の活動では、文学座においては前年の1949年(昭和24年)4月から設けられていた「演劇研究所」での芥川比呂志や加藤道夫の講義による俳優養成など、新劇の発展のための教育が行われた[8][1]

詩や戯曲を、小説よりも優位に置いていた岸田国士は、自身が銓衡委員をしていた芥川賞に、戯曲作品を加えることを提案していたが退けられてしまった[1]

そして「雲の会」は、1953年(昭和28年)12月の加藤道夫の縊死自殺や、翌1954年(昭和29年)3月の岸田国士の急逝により、自然消滅を迎える[1]

同年秋、ロックフェラー財団フェローシップで欧米を洋行していた福田恆存が1年ぶりに帰国し、シェイクスピアの戯曲翻訳に取り組み始める。文学座の幹事であった岩田豊雄の後押しもあり、1955年(昭和31年)5月、芥川比呂志の主演で『ハムレット』を上演。日本の演劇史、シェイクスピア受容史の転換点となる[9]

1956年(昭和31年)3月、両人がいた文学座に三島由紀夫が入り、芥川、福田と共に演劇界を牽引して行く[10][注釈 2]。同年4月、福田は三島に入座を勧めた身でありながら、女優・杉村春子との対立の結果、文学座を退団する。しかしながら、その後も福田訳・演出での『マクベス』、『ジュリアス・シーザー』の公演が行われるなど、文学座と福田の関係は断絶にまでは至っていない。

1963年(昭和38年)1月、文学座の中堅・若手俳優など総勢29人が杉村体制への反旗から退団する。芥川以下の全員が福田と合流し「劇団雲」を結成した[12]。同年5月、財団法人現代演劇協会(理事長:福田恆存、常任理事:芥川比呂志、理事:小林秀雄・大岡昇平・中村光夫・吉田健一・武田泰淳)の附属劇団となる。

同年5月、岸田、岩田と共に文学座三幹事を務めた久保田万太郎が死去。

同年12月には、三島も喜びの琴事件を機に杉村と対立し、文学座を退団して「劇団NLT」を結成した[13]。岸田、久保田の亡き後、文学座三幹事の最後の一人となっていた岩田は要請に応え顧問に就任する。NLTとはラテン語で「新文学座」を表すNeo Litterature Theatreの頭文字を取ったものであり、岩田が名付け親となった。

発行雑誌・本

脚注

注釈

  1. ^ 名前の由来は、アリストファネスギリシア喜劇』ではないかとされている[4]
  2. ^ その後、三島由紀夫岸田国士の一周忌の法要で顔を合わせた日夏耿之介の同意を得て、日夏耿之介邦訳の『サロメ』(オスカー・ワイルド原作)を演出し、1960年(昭和35年)4月に文学座(主演は岸田今日子)で上演した[11]

出典

  1. ^ a b c d e f g h i j k l m 「第九章 その『雲の会』」(矢代 & 1985-02, pp. 131–145)
  2. ^ a b c d e f g 「美しい予感――『雲の会』第一回会合を終へて」(毎日新聞 1950年9月19日号)。のち「雲の会報告」と改題して『文学的人生論』(河出新書、1954年11月)に所収。27巻 & 2003-02, pp. 350–352
  3. ^ a b c d e 新聞記事「『文学立体化運動』始まる――まず演劇と握手――岸田国士らが提唱」(朝日新聞 1950年8月17日号)。田中美代子「解題――雲の会報告」(27巻 & 2003-02, pp. 714–716)
  4. ^ 宮本百合子人間性・政治・文学(1)」(文學 1951年1月号)
  5. ^ a b c 岸田国士雲の会」(文學界 1950年11月号)
  6. ^ a b c 山中剛史「対談目録」(42巻 & 2005-08, pp. 513–536)
  7. ^ 三島由紀夫芥川比呂志の対談「演劇と文学」(文學界 1952年2月号)。39巻 & 2004-05, pp. 82–98
  8. ^ 「第八章 その研究所」(矢代 & 1985-02, pp. 115–130)
  9. ^ INOUE, Masaru (2020). 岩田豊雄の中のシェイクスピア--1955年 福田恆存演出『ハムレット』成立の一背景. pp. 23–37. doi:10.7141/ctr.19.23. ISSN 1347-2720. https://doi.org/10.7141/ctr.19.23. 
  10. ^ 「文学座評判記」(粉川 & 1975-10, pp. 94–100)
  11. ^ 日夏耿之介宛ての書簡」(昭和34年10月13日、昭和35年1月1日付)。38巻 & 2004-03, pp. 802–804
  12. ^ 岸田今日子「わたしの中の三島さん」(22巻 & 2002-09月報)
  13. ^ 「第十三章 その神」(矢代 & 1985-02, pp. 195–210)
  14. ^ 加藤道夫自筆年譜」(『新文学全集 加藤道夫集』河出書房、1953年6月)

参考文献

関連項目

外部リンク