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*1864年 [[シュレースヴィヒ=ホルシュタイン戦争]]
*1864年 [[シュレースヴィヒ=ホルシュタイン戦争]]
*1866年 [[普墺戦争]]、[[ケーニヒグレーツの戦い]](サドワの戦い)。[[リッサ海戦]]。[[ヴェネツィア]]割譲。ドイツ連邦の終焉と[[北ドイツ連邦]]成立。
*1866年 [[普墺戦争]]、[[ケーニヒグレーツの戦い]](サドワの戦い)。[[リッサ海戦]]。[[ヴェネツィア]]割譲。ドイツ連邦の終焉と[[北ドイツ連邦]]成立。
*1867年 [[オーストリア=ハンガリー帝国]]成立([[アウスグライヒ]])
* [[1867年]] - ハンガリーと[[アウスグライヒ]](妥協)。オーストリア=ハンガリー二重帝国成立
* [[1869年]] - [[日墺修好通商航海条約]]締結、[[日本]]との国交が結ばれる。
* [[1873年]] - [[6月]]、[[三帝同盟]]成立。
* [[1878年]]
** [[6月13日]] - [[ベルリン会議 (1878年)|ベルリン列国会議]]に参加。[[ベルリン条約 (1878年)|ベルリン条約]]で、[[ボスニア]]・[[ヘルツェゴヴィナ]]の行政権を得る。
* [[1879年]] - [[ドイツ帝国]]と同盟。
* [[1882年]] - [[2月]]、[[三国同盟 (1882年)|三国同盟]]成立。
* [[1888年]] - ドイツとロシア再保障条約。オーストリア、三帝同盟の更新を受けず。
* [[1897年]] - 最初の普通選挙による帝国議会選挙。[[バデーニ言語令]]によるドイツ系・チェコ系の対立で国政が混乱。
* [[1900年]] - [[清国]]で[[義和団の乱]]が発生したため、列強国連合として派兵を行う。
* [[1902年]] - 清国[[天津市]]市域の一部を租界地として獲得。
* [[1907年]] - 男子普通選挙法成立。
* [[1908年]] - ボスニア、ヘルツェゴヴィナの併合を宣言。ドイツ帝国はこれを支持し、ロシアを牽制。
* [[1912年]] - 第一次[[バルカン戦争]]。この時、[[セルビア王国 (近代)|セルビア王国]]の力を抑制すべく[[アルバニア公国|アルバニア]]の建国を支援。
* [[1914年]]
** [[6月28日]] - オーストリア大公[[フランツ・フェルディナント大公|フランツ・フェルディナント]]夫妻、[[サラエヴォ]]で暗殺される。
** [[7月5日]] - [[セルビア]]に対抗すべく、ドイツの支援を求めこれを獲得する。
** [[7月23日]] - 厳しい内容の最後通牒をセルビア政府に送付。
** [[7月25日]] - セルビアが最後通牒の一部を拒否、ロシア帝国に支援を求める。
** [[7月26日]] - イギリス外相[[エドワード・グレイ]]が危機解決のための会議を提案するも、ドイツ・オーストリアはこれを拒否。
** [[7月28日]] - セルビアに宣戦布告。
** [[7月29日]] - ベオグラードを砲撃。ロシアが兵力動員を開始。
** [[7月31日]] - ドイツがロシアに兵力動員の最後通牒、ロシア回答せず。
** [[8月1日]] - ドイツがロシアに宣戦布告。イギリス艦隊動員。フランス軍、ドイツの[[ルクセンブルク]]侵攻に対して兵力動員。
** [[8月3日]] - ドイツがフランスに宣戦布告。
** [[8月4日]] - ドイツがベルギーに侵攻、イギリスがドイツに宣戦布告。
* [[1915年]]
** [[5月23日]] - イタリア王国がオーストリアに対して宣戦布告、イソンゾ戦線の開始。
** [[10月]] - セルビア全土を占領。
* [[1916年]]
** [[6月]] - [[ブルシーロフ攻勢]]でロシア軍に惨敗を喫し、東部戦線が崩壊の危機に陥る。
** [[8月]] - [[ルーマニア王国]]がオーストリアに対して宣戦布告、[[トランシルヴァニアの戦い]]で撃退する。
** [[11月21日]] - [[フランツ・ヨーゼフ1世]]崩御、[[カール1世 (オーストリア皇帝)|カール1世]]即位。
** [[12月]] - ルーマニアの大半を占領、[[ルーマニア王国]]を降伏させる。
* [[1917年]]
** [[1月]] - 皇后[[ツィタ・フォン・ブルボン=パルマ|ツィタ]]の弟であるシクストゥス公子による単独講和工作の初め。
** [[10月]] - 膠着したイソンゾ戦線にドイツ軍が参戦、助力により[[カポレットの戦い]]でイタリア王国に勝利を収める。
* [[1918年]]
** [[3月3日]] - [[ロシア・ソビエト連邦社会主義共和国|ロシア革命政府]]、同盟軍と単独講和を行い戦争を離脱。
** [[4月]] - 帝国内の諸民族による自治要求(ローマ会議)。
** [[6月15日]] - イソンゾ戦線で単独攻勢を開始、[[ピアーヴェ川の戦い]]でイタリア王国軍に敗北する。
** [[10月]] - [[ブダペスト]]暴動起こる。[[チェコスロバキア|チェコスロヴァキア]]共和国独立を宣言、以後帝国内で独立相次ぐ。
** [[10月24日]] - [[ヴィットリオ・ヴェネトの戦い]]で敗北。退却中に主力軍が降伏し、主戦力を喪失。
** [[10月27日]] - 連合国各国に対し降伏を宣言。
** [[11月3日]] - イタリア王国と[[ヴィラ・ジュスティ休戦協定]]を結び停戦、降伏。
** [[11月11日]] - カール1世退位。




== 関連項目 ==
== 関連項目 ==

2015年11月7日 (土) 15:54時点における版

オーストリア帝国
Kaisertum Österreich
オーストリア大公国
神聖ローマ帝国
1804年 - 1918年 オーストリア=ハンガリー帝国
オーストリアの国旗 オーストリアの国章
国旗国章
国歌: 神よ、皇帝フランツを守り給え
オーストリアの位置
公用語 ドイツ語(話されていた言語としては他に、ハンガリー語チェコ語ポーランド語ルテニア語ルーマニア語スロヴェニア語クロアチア語セルビア語イタリア語
首都 ウィーン
皇帝
1804年 - 1835年 フランツ1世
1835年 - 1848年フェルディナント1世
1848年 - 1867年フランツ・ヨーゼフ1世
首相
1821年  - 1848年 国家宰相クレメンス・ヴェンツェル・フォン・メッテルニヒ(初代)
1867年 - 1867年 閣僚評議会議長フリードリヒ・フェルディナント・フォン・ボイスト(最後)
面積
1804年698,700km²
人口
1804年21,200,000人
変遷
成立 1804年8月11日
アウスグライヒ1867年5月31日
通貨マリア・テレジア・ターラー

オーストリア帝国(オーストリアていこく、ドイツ語Kaisertum Österreich)は、1804年の成立から1867年オーストリア=ハンガリー帝国への改組まで、オーストリアハプスブルク=ロートリンゲン家(以下、単に「ハプスブルク家」と呼ぶ)がオーストリア皇帝として支配した多民族国家。

前身の、神聖ローマ帝国及びその有力な構成国であったオーストリア大公国時代と、オーストリア帝国、オーストリア=ハンガリー帝国の時代とをあわせて、ハプスブルク君主国あるいはハプスブルク帝国と総称される。

概要

17世紀初頭から続いた三十年戦争を経て成立したヴェストファーレン体制を端緒とし、さらに18世紀オーストリア継承戦争七年戦争などによる、政体としての神聖ローマ帝国の形骸化は誰の目にも明らかであった。さらにフランス革命を受けたナポレオン帝国の出現で、中世以来の神聖ローマ帝国は名実ともに消滅した。ハプスブルク家は、事実上の国家を形成していた中東欧に広がるオーストリア大公国の支配領域(ハプスブルク君主国)をもってオーストリア帝国を形成、帝室の勢力圏を再編成した。

この時期の前半はナポレオン戦争とその後のメッテルニヒ時代であり、後半は1848年「諸国民の」によるウィーン体制崩壊後のフランツ・ヨーゼフ1世時代前半である。この時代はドイツ近代国家の模索期で、「オーストリア皇帝を戴く大ドイツ主義」か、「プロイセン王を戴く小ドイツ主義」かで揺れ動いていたが、1866年普墺戦争により大ドイツ派のオーストリアは完敗し、最終的には統一ドイツから除外される。また1848年革命に代表される非ドイツ民族の不満を収拾するため、ドイツ民族に次ぐ大勢力であったハンガリー系(マジャル人)に大幅な譲歩を認め(アウスグライヒ)、1867年オーストリア=ハンガリー帝国(二重帝国)が発足した。

領域

主要年表

オーストリア帝国のデータ
国旗
王家 ハプスブルク家
首都 ウィーン
人口 約4000万人 (19世紀中頃)
存続期間 1806年 - 1867年
民族構成 ドイツ人: 24%
ハンガリー人: 20%
チェコ人: 13%
ポーランド人: 10%
ルテニア人(ウクライナ人): 8%
ルーマニア人: 6%
クロアチア人: 5%
スロバキア人: 4%
セルビア人: 4%
スロベニア人: 3%
イタリア人: 3%
公用語 ドイツ語
宗教 カトリック正教イスラム教


関連項目