「ジャン・コクトー」の版間の差分
m編集の要約なし |
一部の訂正 |
||
1行目: | 1行目: | ||
{{Infobox 作家 |
{{Infobox 作家 |
||
| name = ジャン・コクトー<br>Jean Cocteau |
| name = ジャン・コクトー<br>Jean Cocteau |
||
| image =Jean Cocteau b Meurisse 1923.jpg |
| image = Jean Cocteau b Meurisse 1923.jpg |
||
| imagesize = |
| imagesize = 250px |
||
| caption = 1923年 |
| caption = [[1923年]] |
||
| pseudonym = |
| pseudonym = |
||
| birth_name = |
| birth_name = |
||
| birth_date = [[1889年]][[7月5日]] |
| birth_date = [[1889年]][[7月5日]] |
||
| birth_place = フランス[[イヴリーヌ県]] |
| birth_place = [[フランス]] [[イヴリーヌ県]][[メゾン=ラフィット]] |
||
| death_date = {{死亡年月日と没年齢|1889|7|5|1963|10|11}} |
| death_date = {{死亡年月日と没年齢|1889|7|5|1963|10|11}} |
||
| death_place = フランス[[エソンヌ県]]ミリィ |
| death_place = フランス [[エソンヌ県]]ミリィラ・フォレ |
||
| occupation = [[詩人]]、[[小説家]]、[[劇作家]]、[[評論家]]、[[画家]]、[[映画監督]]、[[脚本家]] |
| occupation = [[詩人]]、[[小説家]]、[[劇作家]]、[[評論家]]、[[画家]]、[[映画監督]]、[[脚本家]] |
||
| nationality = {{FRA}} |
| nationality = {{FRA}} |
||
29行目: | 29行目: | ||
}} |
}} |
||
[[ファイル:Akos Biro et Cocteau.jpg|thumb|200px|ジャン・コクトー、右端]] |
[[ファイル:Akos Biro et Cocteau.jpg|thumb|200px|ジャン・コクトー、右端]] |
||
'''ジャン・コクトー'''('''Jean Cocteau'''、[[1889年]][[7月5日]] - [[1963年]][[10月11日]])は、[[フランス]]の芸術家 |
'''ジャン・コクトー''' ('''Jean Cocteau'''、[[1889年]][[7月5日]] - [[1963年]][[10月11日]]) は、[[フランス]]の芸術家。[[詩人]]、[[小説家]]、[[劇作家]]、[[評論家]]として著名であるだけでなく、[[画家]]、[[映画監督]]、[[脚本家]]としての活動も行った。自身は中でも詩人と呼ばれることを望んだという。[[ダダイスム|ダダ]]や[[シュルレアリスム]]と相互影響はあったと考えられるが、自身は直接は運動に参加せず、むしろ対立も多かった。 |
||
== 生涯 == |
== 生涯 == |
||
フランスの[[パリ]]近郊の小さな町である[[メゾン=ラフィット]]でクレマン・ウジェーヌ・ジャン・モリス・コクトー(Clément Eugène Jean Maurice Cocteau)として生まれる。当時12歳の姉マルト、当時8歳の兄ポールに次いで生まれた末っ子である。父ジョルジュは絵を描く趣味があった。 |
フランスの[[パリ]]近郊の小さな町である[[メゾン=ラフィット]]でクレマン・ウジェーヌ・ジャン・モリス・コクトー(Clément Eugène Jean Maurice Cocteau)として生まれる。当時12歳の姉マルト、当時8歳の兄ポールに次いで生まれた末っ子である。父ジョルジュは絵を描く趣味があった。 |
||
1898年、父ジョルジュがピストル自殺。中学校時代には図工の成績はよかった。同級生のピエール・ダルジュロスは小説『[[恐るべき子供たち]]』のダルジュロスのモデルとも言われる。高校生時代には、学業には力を入れず、[[マルセル・プルースト]]らと出会うなど文学に没頭するが、大学受験に失敗し、進学を断念する。 |
[[1898年]]、父ジョルジュがピストル自殺。中学校時代には図工の成績はよかった。同級生のピエール・ダルジュロスは小説『[[恐るべき子供たち]]』のダルジュロスのモデルとも言われる。高校生時代には、学業には力を入れず、[[マルセル・プルースト]]らと出会うなど文学に没頭するが、大学受験に失敗し、進学を断念する。 |
||
[[1909年]]、自費にて最初の詩集『アラディンのランプ』を発表する。[[ヴァーツラフ・ニジンスキー|ニジンスキー]]に出会うなど、[[バレエ]]関連の人脈も増える。ここから広がるバレエ人脈の中でも、[[セルゲイ・ディアギレフ|ディアギレフ]]のバレエ団[[バレエ・リュス]]を通じて、[[ココ・シャネル]]をはじめ多くの人と出会うこととなる。[[1911年]]、[[イーゴリ・ストラヴィンスキー|ストラヴィンスキー]]にも出会う。 |
[[1909年]]、自費にて最初の詩集『アラディンのランプ』を発表する。[[ヴァーツラフ・ニジンスキー|ニジンスキー]]に出会うなど、[[バレエ]]関連の人脈も増える。ここから広がるバレエ人脈の中でも、[[セルゲイ・ディアギレフ|ディアギレフ]]のバレエ団[[バレエ・リュス]]を通じて、[[ココ・シャネル]]をはじめ多くの人と出会うこととなる。[[1911年]]、[[イーゴリ・ストラヴィンスキー|ストラヴィンスキー]]にも出会う。 |
||
146行目: | 146行目: | ||
=== 映画 === |
=== 映画 === |
||
* 『[[詩人の血 (映画)|詩人の血]]』 ''Le Sang d'un poète'' |
* 『[[詩人の血 (映画)|詩人の血]]』 ''Le Sang d'un poète'' (1932年) 監督・脚本 |
||
* 『[[ |
* 『[[悲恋 (映画)|悲恋]]』 ''L'éternel retour'' (1943年) 原作・脚本 |
||
* 『[[ブローニュの森の貴婦人たち]]』 ''Les dames du Bois de Boulogne'' (1944年) 台詞 |
|||
* 『[[美女と野獣 (1946年の映画)|美女と野獣]]』 ''La Belle et la bête'' (1946年) 監督・脚本 |
|||
*:『美女と野獣』(釜山健訳、創元ライブラリ文庫:東京創元社、1995年)-シナリオ |
*:『美女と野獣』(釜山健訳、創元ライブラリ文庫:東京創元社、1995年)-シナリオ |
||
* 『[[ルイ・ブラス]]』'' |
* 『[[リュイ・ブラース|ルイ・ブラス]]』''Ruy Blas'' (1948年) 脚本 ([[ヴィクトル・ユゴー]]原作) |
||
* 『 |
* 『[[アモーレ (映画)|アモーレ]]』 ''L'amore'' (1948年) 原作 |
||
* 『{{仮リンク|双頭の鷲 (映画)|en|The Eagle with Two Heads|label=双頭の鷲}}』 ''L'Aigle à Deux Têtes'' (1948年) 監督・脚本・原作 |
|||
* 『[[恐るべき親達]]』 ''Les Parents terribles'' |
* 『[[恐るべき親達]]』 ''Les Parents terribles'' (1948年) 監督・脚本・原作 |
||
* 『[[オルフェ( |
* 『[[オルフェ (1950年の映画)|オルフェ]]』 ''Orphée'' (1950年) 監督・脚本・原作 |
||
⚫ | |||
* 『[[恐るべき子供たち]]』 ''Les Enfants Terribles'' (1950年) 原作・脚本 |
|||
⚫ | |||
⚫ | |||
⚫ | |||
== 参考文献 == |
== 参考文献 == |
2014年11月22日 (土) 12:37時点における版
ジャン・コクトー Jean Cocteau | |
---|---|
誕生 |
1889年7月5日 フランス イヴリーヌ県メゾン=ラフィット |
死没 |
1963年10月11日(74歳没) フランス エソンヌ県ミリィラ・フォレ |
職業 | 詩人、小説家、劇作家、評論家、画家、映画監督、脚本家 |
国籍 | フランス |
ウィキポータル 文学 |
ジャン・コクトー (Jean Cocteau、1889年7月5日 - 1963年10月11日) は、フランスの芸術家。詩人、小説家、劇作家、評論家として著名であるだけでなく、画家、映画監督、脚本家としての活動も行った。自身は中でも詩人と呼ばれることを望んだという。ダダやシュルレアリスムと相互影響はあったと考えられるが、自身は直接は運動に参加せず、むしろ対立も多かった。
生涯
フランスのパリ近郊の小さな町であるメゾン=ラフィットでクレマン・ウジェーヌ・ジャン・モリス・コクトー(Clément Eugène Jean Maurice Cocteau)として生まれる。当時12歳の姉マルト、当時8歳の兄ポールに次いで生まれた末っ子である。父ジョルジュは絵を描く趣味があった。
1898年、父ジョルジュがピストル自殺。中学校時代には図工の成績はよかった。同級生のピエール・ダルジュロスは小説『恐るべき子供たち』のダルジュロスのモデルとも言われる。高校生時代には、学業には力を入れず、マルセル・プルーストらと出会うなど文学に没頭するが、大学受験に失敗し、進学を断念する。
1909年、自費にて最初の詩集『アラディンのランプ』を発表する。ニジンスキーに出会うなど、バレエ関連の人脈も増える。ここから広がるバレエ人脈の中でも、ディアギレフのバレエ団バレエ・リュスを通じて、ココ・シャネルをはじめ多くの人と出会うこととなる。1911年、ストラヴィンスキーにも出会う。
1915年、モディリアーニをはじめとするモンパルナスの画家との交流が始まる。同年、サティやピカソとも出会っている。1916年8月12日にモンパルナスのカフェ「ラ・ロトンド」にピカソとそのガールフレンドのモデル、モイズ・キスリング、マックス・ジャコブ、モディリアーニ、マヌエル・オルティス・デ・ザラテ、アンリ=ピエール・ロシェ、マリー・ヴァシリエフ、美術評論家アンドレ・サルモンらと一堂に会し、この時にコクトーが撮った彼らの写真は著名である。
1917年、前年からピカソ、サティらと手がけたバレエ『パラード』初演。1918年、後に六人組と呼ばれる作曲家を集めたコンサートを開く。1920年、一時は興味も覚えていたダダに反対の立場を鮮明にする。同年、プーランクらとジャズ演奏会なども開いている。早熟の天才ラディゲと仕事を共にしていたが、1923年の彼の早すぎる死は、コクトーを悲嘆に暮れさせ、その後10年に渡り阿片に溺れる事になる。
1926年、シュルレアリスト達と激しく対立する。1929年、阿片の療養の中で小説『恐るべき子供たち』を執筆。1930年にかつてブニュエルの『黄金時代』などにも資金を出したド・ノアイユ子爵の資金で『詩人の血』を実質の初監督。1934年、演劇『地獄の機械』を初演。
1936年、日本を訪れ、相撲と歌舞伎に感心し、相撲を「バランスの芸術」と呼び、六代目尾上菊五郎に会って握手したが、その際、白粉が剥げないように気を遣ったため菊五郎を感心させている[1]。この時観た鏡獅子が、後の『美女と野獣』のメイクに影響したという説もある。日本に来て最初に衝撃を受けたのは、石けりをしている少女が地面にチョークで描いた円で、子供がこれほど正確で幾何学的な線を描く国は他にはない、と驚きを述べている[2]
1940年、エディット・ピアフのための演劇『Le Bel Indifferent』。この年に阿片から足を洗っている。
1945年、代表的映画作品『美女と野獣』を監督。1955年、アカデミー・フランセーズ、ベルギー王立アカデミーの会員に選出された。1960年、アンドレ・ブルトンの反対を受けながらも「詩人の王」に選ばれる。
病床で、親友でもあったエディット・ピアフの死を知り、その4時間後に亡くなった。
カルティエの三連リングは彼のデザインであるといわれるが、本国フランスはじめヨーロッパ各国でそのような発表はない。
主な作品
※「ジャン・コクトー全集」(全8巻:東京創元社)に大半が所収。全集以後に出た新訳本や未所収の訳書も有る。
詩集
- 『アラジンのランプ』 La Lampe d'Aladin, 1909年
- 『浮かれ王子』 Le Prince Frivole, 1910年
- 『ソフォクレスの踊り』 La Danse de Sophocle, 1912年
- 『ピカソへの頌歌』 Ode à Picasso, 1919年
- 『喜望峰』 Le Cap de Bonne-Espérance, 1919年
- 『寄港地』 Escale, 1920年
- 『ポエジー』 Poésies (1917-1920), 1920年
- 『用語集』 Vocabulaire, 1922年
- 『フランソワの薔薇』 La Rose de François, 1923年
- 『平調曲』 Plain-Chant, 1923年
- 『天使ウルトビーズ』 L'Ange Heurtebise, 1926年
- 『オペラ』 Opéra, 1927年
- 『神話』 Mythologie, 1934年
- 『謎』 Énigmes, 1939年
- 『寓意』 Allégories, 1941年
- 『レオーヌ』 Léone, 1945年
- 『はりつけ』 La Crucifixion, 1946年
- 『数字7』 Le Chiffre Sept, 1952年
- 『幽明抄』 Clair-Obscur, 1954年
- 『パラプロゾディ』 Paraprosodies, 1958年
- 『不死鳥のスペイン風儀典書』 Cérémonial Espagnol du Phénix, 1961年
- 『鎮魂歌』 Le Requiem, 1962年
- 『コクトー詩集』(堀口大學訳、新潮文庫、改版2008年)
小説
- 『ポトマック』 Le Potomak, 1919年
- 『大胯びらき』 Le Grand Écart, 1923年
- (澁澤龍彦訳、2003年7月、河出文庫)ISBN 978-4309462288
- 『山師トマ』 Thomas l'Imposteur, 1923年
- (河盛好蔵訳、1955年7月、角川文庫、改版1994年)ISBN 978-4042047032
- ゆまに書房で、初版復刻本(2007年3月 ISBN 978-4843322673)
- 『白書』 Le Livre Blanc, 1928年
- 『恐るべき子供たち』 Les Enfants Terribles, 1929年
- (東郷青児訳 1953年3月 角川文庫)ISBN 978-4042047018
- (鈴木力衛訳 1957年1月 岩波文庫) ISBN 978-4003256619
- (高橋洋一訳 1995年7月 求龍堂) ISBN 978-4763095244
- (中条省平・中条志穂訳 2007年2月、光文社古典新訳文庫) ISBN 978-4334751227
- (佐藤朔訳、旺文社文庫、のち「全集」東京創元社)
- 『ポトマックの最後』 La Fin du Potomak, 1940年
- 河出文庫版の『ポトマック』に併収。
戯曲
- 『エッフェル塔の花嫁花婿』 Les Mariés de la Tour Eiffel, 1921年
- 『アンティゴネ』 Antigone, 1922年
- 『ロミオとジュリエット』 Roméo et Juliette, 1924年
- 『オルフェ』 Orphée, 1926年
- 『哀れな水夫』 Le Pauvre Matelot, 1927年
- 『人間の声』 La Voix humaine, 1930年
- 『地獄の機械』 La Machine Infernale, 1934年
- 『未亡人学校』 L'École des Veuves, 1936年
- 『オイディプース王』 Œdipe-Roi, 1937年
- 河出文庫版の『大胯びらき』に所収。
- 『円卓の騎士』 Les Chevaliers de la Table Ronde, 1937年
- 『恐るべき親たち』 Les Parents Terribles, 1938年
- 『聖なる怪物』 Les Monstres Sacrés, 1940年
- 『タイプライター』 La Machine à Écrire, 1941年
- 『ルノーとアルミード』 Renaud et Armide, 1943年
- 『双頭の鷲』 L'Aigle à Deux Têtes, 1946年
- 『バッカス』 Bacchus, 1952年
- 『パレ=ロワイヤル即興劇』 L'Impromptu du Palais-Royal, 1962年
- 『ベスト・オブ・コクトー』(澁澤龍彦・岩瀬孝ほか訳、白水社、新版1993年)
評論
- 『雄鶏とアルルカン』 Le Coq et l'Arlequin, 1918年
- 『白紙』 Carte Blanche, 1920年
- 『職業の秘密』 Le Secret Professionnel, 1922年
- 『無秩序と考えられた秩序について』 Le Rappel à l'Ordre, 1926年
- 『ジャック・マリタンへの手紙』 Lettre à Jacques Maritain, 1926年
- 『阿片』 Opium, 1930年
- (堀口大學訳 1952年4月 角川文庫、改版1994年)ISBN 978-4042047025
- 『僕の初旅』 Mon Premier voyage, 1937年
- 『グレコの神話』 Le Greco, 1943年
- 『美女と野獣』 La Belle et la Bête, 1946年
- 『存在困難』 La Difficulté d'être, 1947年
- 『ぼく自身あるいは困難な存在』(秋山和夫、ちくま学芸文庫、1996年)
- 『アメリカ人への手紙』 Lettres aux Américains, 1949年
- 『知られざる者の日記』 Journal d'un Inconnu, 1953年
- 『一詩人の歩み』 Démarche d'un Poète, 1953年
- 『アカデミー・フランセーズ入会演説』 Discours de Réception à l'Académie Française, 1955年
- 『オックスフォード大学講演』 Discours d'Oxford, 1956年
- 『臍帯』 Le Cordon Ombilical, 1962年
- 『美と王妃たち』(高橋洋一訳、河出書房新社、2004年)-未邦訳の作品エッセイ
映画
- 『詩人の血』 Le Sang d'un poète (1932年) 監督・脚本
- 『悲恋』 L'éternel retour (1943年) 原作・脚本
- 『ブローニュの森の貴婦人たち』 Les dames du Bois de Boulogne (1944年) 台詞
- 『美女と野獣』 La Belle et la bête (1946年) 監督・脚本
- 『美女と野獣』(釜山健訳、創元ライブラリ文庫:東京創元社、1995年)-シナリオ
- 『ルイ・ブラス』Ruy Blas (1948年) 脚本 (ヴィクトル・ユゴー原作)
- 『アモーレ』 L'amore (1948年) 原作
- 『双頭の鷲』 L'Aigle à Deux Têtes (1948年) 監督・脚本・原作
- 『恐るべき親達』 Les Parents terribles (1948年) 監督・脚本・原作
- 『オルフェ』 Orphée (1950年) 監督・脚本・原作
- 『恐るべき子供たち』 Les Enfants Terribles (1950年) 原作・脚本
- 『サント・ソスピール荘』 La Villa Santo-Sospir (1952年) 監督
- 『オルフェの遺言 ―私に何故と問い給うな―』 Le testament d'Orphée, ou ne me demandez pas pourquoi! (1960年) 監督・脚本・出演
参考文献
- ジャック・キム、スプリッジ、ベアールの3名『評伝 ジャン・コクトー』(秋山和夫訳、筑摩書房、1995年)
- 高橋洋一『ジャン・コクトー 幻視の美学』(平凡社ライブラリー、2003年)
- 西川正也『コクトー、1936年の日本を歩く』(中央公論新社、2004年)
- 三木英治『21世紀のオルフェ ジャン・コクトオ物語』(編集工房ノア、2009年)
脚注
外部リンク
- Jean Cocteau website
- Cocteau/cinema Bibliography (via UC Berkeley)
- 「コクトー、日本を去る」西川正也
- Jean Cocteau Dies At 74 - コクトー死亡のニュース映像
前任 ジェローム・タロー |
アカデミー・フランセーズ 席次31 第16代:1955年 - 1963年 |
後任 ジャック・リュエフ |