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2013年12月7日 (土) 10:17時点における版
アンドリュー・ジャクソン | |
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ホワイトハウスの公式ポートレート | |
第7代 アメリカ合衆国大統領 | |
任期 1829年3月4日 – 1837年3月4日 | |
副大統領 | ジョン・C・カルフーン (1829-1832) 無し (1832-1833) マーティン・ヴァン・ビューレン (1833-1837) |
前任者 | ジョン・クインシー・アダムズ |
後任者 | マーティン・ヴァン・ビューレン |
フロリダ軍政府長官 | |
任期 1821年3月10日 – 1821年11月12日 | |
大統領 | ジェームズ・モンロー |
前任者 | ホセ・マリア・コッピンガー(スペイン領) |
後任者 | ウィリアム・P・デュヴァル |
アメリカ合衆国上院議員 テネシー州選出 | |
任期 1797年9月26日 – 1798年4月 | |
前任者 | ウィリアム・コック |
後任者 | ダニエル・スミス |
任期 1823年3月4日 – 1825年10月14日 | |
前任者 | ジョン・ウィリアムズ |
後任者 | ヒュー・ローソン・ホワイト |
アメリカ合衆国下院議員 テネシー州大選挙区選出 | |
任期 1796年12月4日 – 1797年9月26日 | |
前任者 | 無し - 初代テネシー州選出下院議員 (statehood) |
後任者 | ウィリアム・C・C・クレイボーン |
上院軍事委員会委員長 | |
任期 1823–1825 | |
前任者 | ジョン・ウィリアムズ |
後任者 | ウィリアム・ハリソン |
個人情報 | |
生誕 | 1767年3月15日 ワクスハウ |
死没 | 1845年6月8日 (78歳) テネシー州ナッシュビル |
国籍 | アメリカ合衆国 |
政党 | 民主共和党、民主党 |
配偶者 | レイチェル・ジャクソン (1791-1828) |
子供 | (全て継子) アンドリュー・ジャクソン・ジュニア リンコヤ・ジャクソン ジョン・サミュエル・ドネルソン ダニエル・スミス・ドネルソン アンドリュー・ジャクソン・ドネルソン アンドリュー・ジャクソン・ハッチングス カロリーナ・バトラー エリザ・バトラー エドワード・バトラー アンソニー・バトラー |
親 | アンドリュー・ジャクソン・シニア、エリザベス・ハッチンソン・ジャクソン |
職業 | 検事, 判事, 黒人奴隷農場主, 兵士(将官) |
宗教 | 長老派教会 |
受賞 | Thanks of Congress |
署名 | |
兵役経験 | |
渾名 | Old Hickory |
所属組織 | テネシー州民兵 アメリカ陸軍 |
最終階級 | 大佐 少将 |
戦闘 | アメリカ独立戦争
第一次セミノール戦争 |
アンドリュー・ジャクソン(Andrew Jackson, 1767年3月15日 - 1845年6月8日)は、アメリカ合衆国の軍人、政治家、黒人奴隷農場主で、第7代アメリカ合衆国大統領。ジャクソンは民主党所属としては初の大統領であり、貴族生まれでない最初の大統領。「オールド・ヒッコリー」の愛称で呼ばれた。「アメリカン・フロンティア」に暮らし、独立13州に関係しなかった最初の大統領。ジャクソンはアメリカ史の象徴となった。
米英戦争の活躍をきっかけに大統領になり、任期中の強権ぶりから「アンドリュー1世」とも揶揄された程であった。アメリカ独立戦争と南北戦争の間、その時代は「エイジ・オブ・ジャクソン」「ジャクソン・エラ」としばしば呼ばれた。
史上唯一、議会から不信任決議をされた大統領であり、またアメリカ大統領史上初の暗殺の標的になった(未遂)。
生い立ち
ジャクソンは1767年3月15日にスコットランド系移民のアンドリュー・ジャクソン・シニアとエリザベス・ハッチンソン・ジャクソン夫妻の間に生まれる。両親がアイルランドから移民して2年後のことであった[1][2]。父親は1738年頃にアイルランド、アントリム州のキャリクファーガスで生まれた[3]。彼はエリザベスと結婚し、1765年に土地を売り払ってアメリカに移住した。一家は恐らくペンシルベニアに到着し、陸路をスコッチ=アイルランド共同体のあるワクスハウに向かった。ワクスハウはノースカロライナとサウスカロライナの間に位置する森林地帯で、白人がまだ入りこんでいないインディアンの土地であった。ジャクソンには二人の兄(ヒュー、1763年生)(ロバート、1764年生)がいた。父親はジャクソンが生まれる3週間前の1767年2月に29歳で事故死した。両親が暮らした家は現在アンドリュー・ジャクソン・センターとして公開されている。ジャクソンはワクスハウエリアで生まれたが、正確な出生地は論争の対象であった。自身はサウスカロライナの小屋で生まれたと主張した。ジャクソンの出身地をめぐる論争は、ノースカロライナとサウスカロライナ間の論争を超えることとなった。その出生地に関しては、彼の英雄的な業績と卑しい出生のため、多くの推測が存在した。
ジャクソンは田舎の「古い」学校で学んだが、十分な教育が受けられなかった。アメリカ独立戦争が始まると、ジャクソンは13歳で急使として大陸会議軍に加わった[4]。長兄のヒューはストノ・フェリーの戦いの間の1779年6月20日、高熱のため死亡した。ジャクソンと次兄ロバートはイギリス軍によって捕らえられ、囚人として拘留された。彼らは餓死する寸前であった。ジャクソンがイギリス軍将校のブーツを片付けるのを拒否すると、将校は彼を刀で切りつけた。ジャクソンは左手と頭に傷跡が残り、イギリス軍に対する激しい憎しみと抱くこととなった[5] 。投獄されている間、兄弟は天然痘に罹患(りかん)した。母親が1781年4月27日に二人の釈放を保証したが、ロバートはその数日後に死亡した。母親はジャクソンの回復を確信した後、チャールストン港に停泊する2隻の船で捕虜の看護を申し出た。そこでコレラが発生した。母親は1781年11月に14歳のジャクソンを残して病気で死亡し、墓標のない墓に埋葬された[5] 。ジャクソンの肉親は戦争の間に全て死亡し、彼はイギリス軍を非難した。
ジャクソンは独立戦争に従軍した最後のアメリカ合衆国大統領であった。
1781年、ジャクソンは鞍職人の店で働いた[6]。その後学校教員として働き、ソールズベリーで法律を学んだ。1787年に法曹界に認められ、ジョーンズボロに移り住み、続いてノースカロライナ州のウェスタン・ディストリクトに移動した。この地域はその後南西部領土となり、後のテネシー州となった。
ジャクソンの法律知識は乏しかったが、辺境地の弁護士としては十分なことを自覚していた。彼は名門の生まれではなかったため、自分の才覚で経歴を創り上げなければならなかった。すぐに彼は開拓時代の無秩序の中で頭角を現した。取り扱った問題の大半は土地問題及び暴行、けんかといったものであった。1788年にジャクソンはウェスタン・ディストリクトの法務官に任命され、1791年にはオハイオ川南部領政府からも法務官職を任命された。
1796年、ジャクソンはテネシー憲法制定会議への代表に選出され、同年にテネシー州が成立すると下院議員に選出された。1797年には民主共和党から上院議員として選出されたが、1年以内に辞任する。1798年にはテネシー州検事総長に任命され、1804年まで同職を務めた[7]。
法律及び政治上の経歴以外に、ジャクソンは奴隷主、農園主および商人として成功した。1803年に彼はギャラティンで家と最初の雑貨店を建設した。1804年にはデヴィッドソン郡、ナッシュビルの近くにハーミテージ(640エーカー (2.6 km2)の農園)を購入した。その後360エーカー (1.5 km2)を加え、農園は結局1,050エーカー (425 ha)まで発展した。主な作物は綿花であり、黒人奴隷によって栽培された。ジャクソンは9名の黒人奴隷から始めて、1820年には44名、その後最大150名の黒人奴隷を所有した。ジャクソンは生涯最大で300名の黒人(混血も含む)奴隷を所有した[8][9]。
ジャクソンは1818年にチカソー族国家と土地の販売交渉を行い、テネシー西部の土地投機を行った。また、1819年のメンフィス設立を行った3名の投資家の内の1人であった。
軍歴
米英戦争とインディアンへの大虐殺
ジャクソンは1801年にテネシー州市民軍の大佐として指揮官となり、おもにインディアン民族の徹底虐殺によって軍歴を積み重ねることとなった。
1812年の米英戦争でテクムセらショーニー族インディアンの抵抗戦は、ショーニー族と同じく白人に領土を侵犯された北アラバマとジョージアのクリーク族を蜂起させ、クリーク族は白人入植者へ攻撃を始めた。フォート・ミムズの虐殺で400名の白人入植者が殺されたのを機にアメリカ陸軍はクリーク族を攻撃、クリーク戦争が始まった。ジャクソンはアメリカ陸軍を指揮したが、その配下にはテネシーの白人民兵だけでなく、米軍と同盟を組んだチェロキー族、チョクトー族および南部のクリーク族が含まれた。
ジャクソンは1814年のホースシュー・ベンドの戦いで、クリーク族の伝統派抵抗戦戦士集団の赤い棒(レッド・スティックス)を打ち破った。「赤い棒」を始め、約800名のクリーク族インディアンが虐殺された。ジャクソンは投降したウィリアム・ウェザーフォード酋長を助命した。サム・ヒューストンとデヴィッド・クロケットがこの戦役に従軍、ジャクソンの下で戦っている。勝利の後ジャクソンはクリーク族にジャクソン砦条約への調印を強制した。ジャクソンに協力して戦ったクリーク族では協約違反として酋長たちが抗議したが、結果はクリーク族が93,000㎢の領土をアメリカ合衆国政府に割譲させられることになった。ジャクソンはこの功績で少将に任命された。
この戦争においては、クリーク族に対してジャクソン大佐は徹底的な大量虐殺を行った。男も女も、子供であってもジャクソンは容赦せず皆殺しにした。児童も含む約800名のクリーク族を殺し、殺したインディアンの死体から鼻を削ぎとらせて戦利品とさせた。女性や児童も含むインディアンの死体からは肉が剥ぎ取られ、それは細く切られ、天日で干して彼らの軍馬の手綱として再利用された。また、「女を生き残らせるとまた部族が増える」との考えから、特に女(乳幼児、女児を含む)を徹底的に殺すよう全軍に命じた。これらはすべてアンドリュー・ジャクソンの指揮によって行われたものである[10]。
米英戦争におけるジャクソンの功績は特筆すべきものであった。イギリス軍がニューオリンズを脅かしたとき、ジャクソンは都市の防衛を指揮し、その配下にはいくつかの西部の州および領土からの民兵が含まれた。彼は厳しい将校ではあったが、配下の兵からは人気があった。彼は軍隊で名声を得、森林地帯の戦場で「古いヒッコリーのように頑丈」"tough as old hickory" と呼ばれ、前述の愛称を得た。1815年1月8日のニューオーリンズの戦いでは配下の5,000名の兵達が、7,500名以上のイギリス軍に勝利した。この戦いでイギリス軍は負傷者2,037名、死者291名(上級将校3名を含む)、1,262が軽傷、484名が虜囚もしくは行方不明となった。アメリカ軍は負傷者71名、死者13名、軽傷者39名、行方不明者19名であった[11]。
この戦いでの勝利でジャクソンは全国的な名声を得ることとなった。1815年2月27日、ジャクソンは議会感謝声明と金メダルを授与された。アレクシス・ド・トクヴィルは後に『アメリカの民主政治』の中で「...was raised to the Presidency, and has been maintained there, solely by the recollection of a victory which he gained, twenty years ago, under the walls of New Orleans.」と論評した。
セミノール戦争
ジャクソンは再び第一次セミノール戦争の間、軍役に就いた。1817年12月、ジェームズ・モンロー大統領はジョージアでセミノール族とクリーク族を攻撃するよう命令した。また、スペイン領フロリダが黒人逃亡奴隷の避難所になるのを防ぐことも命じた。評論家は後にジャクソンのフロリダにおける行動が命令を逸脱していたと主張した。彼の受けた命令は「紛争を終結させる」ことであった[12]。ジャクソンはこれがフロリダを制圧する最も良い方法であると信じていた。任務に赴く前、ジャクソンはモンローに対して「どんな手段を使っても私にそれを伝えてください…フロリダの所有は合衆国にとって望ましいでしょうし、それは60日前後で達成されるでしょう。」との書簡を送っている[13]。モンローはわざとジャクソンへ国際的な否定に対して曖昧な命令を与えていた。
セミノール族はジャクソンの指揮するテネシー州義勇兵を攻撃した。しかしながらセミノール族は自らの村を無防備のままにしたため、ジャクソンの軍は逆に村と作物を焼き払った。そこでスペインとイギリスが密かに援助していた証拠となる手紙を発見した。ジャクソンはイギリスとスペインがインディアンの戦いを支援する限り、アメリカ合衆国の安全は保証されないと信じていた。そして、自らの行動は自衛のために行われると主張した。ジャクソンは警告の威嚇射撃のみでペンサコーラを占領し、スペイン人の知事を追放した。そして2名の英国人、ロバート・アンブリスターとアレクサンダー・アーバスノットを捕らえ、処刑した。アーバスノットはインディアンへの支援と協力を行っていた。
ジャクソンはここでも再びインディアンに対する大量虐殺の方針を採り、女子供を優先的に殺害。沼沢地において徹底的な焦土作戦を行った。ジャクソンの残忍冷酷ぶりはセミノール族を震え上がらせ、彼らはジャクソンを「シャープ・ナイフ」と呼んだ。ジャクソンに反抗する黒人逃亡奴隷はセミノール族の領土へ逃げ込み、米軍に対しセミノール族と共闘した。第一・二次の「セミノール戦争」で、黒人たちとインディアンの混血が増え、彼らはブラック・セミノールと呼ばれるようになった。
ジャクソンのイギリス人処刑とスペイン領への侵入は国際的な問題を引き起こした。モンロー政権の多くがジャクソンを譴責するよう求めたが、ジャクソンの行動は早くからのマニフェスト・デスティニーの信者であった国務長官のジョン・クィンシー・アダムズによって擁護された。スペインの大臣がジャクソンについて「適当な罰」を要求したとき、アダムズは「Spain must immediately [decide] either to place a force in Florida adequate at once to the protection of her territory ... or cede to the United States a province, of which she retains nothing but the nominal possession, but which is, in fact ... a post of annoyance to them.」と返信した[14]。アダムズはジャクソンによる占領とスペイン自身の弱点を利用し、アダムズ=オニス条約でスペインにフロリダを割譲させた。ジャクソンは軍政府長官に任命され、1821年3月10日から1821年12月31日まで同職を務めた。
大統領選
テネシー州議会は1822年にジャクソンを大統領候補に指名した。 また、再び彼を連邦上院議員に選出した。
1824年までに民主共和党は唯一機能している国民政党となった。同党の大統領候補は非公式な幹部会議によって選出されていたが、これは不評を囲うこととなった。1824年には民主共和党員の下院議員の大半が幹部会議をボイコットした。出席者はウィリアム・H・クローフォード財務長官を大統領候補に、アルバート・ギャラティンを副大統領候補に支持した。1ヶ月後のペンシルベニア州における民主共和党党員集会では、非公式な幹部会議が「国民の声」を無視して「彼[クローフォード]が普通の民主主義候補であったと偽ってアメリカ国民に確信させられるかもしれないという儚い望み[15]」で決定したと宣言し、ジャクソンを大統領候補に指名した。ギャラティンはジャクソンを「正直者と軍事的栄光崇拝者のアイドルであるが、無能さと軍人らしい習慣、法律と憲法の条項を習慣的に無視する姿勢はオフィスに全く不適任である。」と批判した[16]。
大統領選にはジャクソン、クローフォードに加え、国務長官のジョン・クィンシー・アダムズおよび下院議長ヘンリー・クレイが候補として出馬した。ジャクソンは一般投票で最多票を獲得したが、過半数とはならなかった。選挙人票でも過半数を獲得できず、大統領の選出は下院にゆだねられた。結果アダムズが大統領に選出されたが、クレイは自らの支持をアダムズの支援に与えたため、ジャクソンの支持者はこの結果を「不正な取引」として糾弾した。大統領に就任したアダムズはクレイを国務長官に任命した。クレイの出身州であるケンタッキー州の有権者の誰も初めはアダムズに投票せず、ジャクソンが一般投票で最多票を得たとき、クレイは人々の意志に反して個人的な政治的便宜の返礼として彼自身の判断を代用したように思われた。しかしながら、ジャクソンの敗北は彼の政治的な信任を高めることとなった。 多くの有権者が「人々の候補」が「東の不正な貴族」によって略奪されたと考えていた。
ジャクソンは1825年10月に上院議員を辞職したが、依然大統領の座を模索していた。テネシー州議会は再びにジャクソンを大統領候補に指名した。ジャクソンは副大統領のジョン・カルフーン、マーティン・ヴァン・ビューレン、トーマス・リッチーを自らの陣営に引き入れた(ヴァン・ビューレンとリッチーは以前クローフォードを支持していた)。ヴァン・ビューレンはフィラデルフィアとリッチモンドの友人からの助けを得て古い共和党を蘇らせ「民主党」という新たな名を与えた。民主党の結成により「政党による競争を復元」し、全国的な組織を鍛え上げた[17]。ジャクソンの陣営はアダムズを手際よく打ち破った。
選挙戦の間、アダムズ陣営はジャクソンを「ロバ(まぬけ)jackass」と呼んだ。ジャクソン自身はこの呼び名を好み、逆手にとる形で、しばらくの間ロバをシンボルとして使用したが、その後途絶えることとなった。しかしながら、風刺漫画家のトーマス・ナストが後にそれを普及させ、ロバは民主党のシンボルとなった[18]。
選挙戦は私生活の暴露など露骨なネガティブ・キャンペーンに終始した。両候補とも個人的には運動しなかったが、支援者達は運動を組織化して行った。両候補ともプレスにより修辞的に攻撃され、ジャクソンの妻レイチェルが中傷されるに至って頂点に達した。レイチェルはジャクソンの就任前の1828年12月22日に急死し、クリスマスイブに埋葬された。ジャクソンは自らを侮辱した者は許すが、妻を攻撃した者は決して許さないと語った。
大統領職
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選挙は戦争の英雄として支持を集めていたジャクソンが勝利した。ジャクソンは自分自身の政治家としてのアイデンティティを庶民(common man)の味方におき、イメージを形成させた。彼はホワイトハウスの前にチーズを置き民衆に分け与え、ホワイトハウスへの見学ツアーを企画、その大統領就任の祝賀パーティーでは「民衆」のあまりの行動に収拾がつかなくなる一幕もあった。
一方、インディアンや黒人などに対する人種差別主義者であり、「インディアン移住法」を制定しインディアンを遠隔地の保留地(Reservation)に強制隔離した(→チェロキー族の「涙の道」)。また、ジャクソン自身、テネシー州のプランテーションで100人以上の黒人奴隷を所有しこれを酷使していた。
ジャクソンの時代までに白人男子普通選挙制が確立したこともあり、彼の時代は「ジャクソニアン・デモクラシー」とも称される。また、官吏の多くを入れ替えて自らの支持者を官吏とする猟官制(スポイルズ・システム)を導入した。当時においてはこの政策が汚職構造の打破と考えられ、これは慣例化した。
大きな政府を望まないジャクソンは、かつて政府が設けた第二合衆国銀行を、州ごとの独自財政を奪うとともに庶民の利益に沿わないとして、これを敵視し、自らの政治生命をかけて廃止に動く(彼の有名なセリフ “the bank is trying to kill me, but I will kill it”)。ジャクソンは連邦議会が認めた第二合衆国銀行の特許更新に対して拒否権を発動。それまで拒否権は、あきらかに違憲の可能性がある時に発動するのが慣例であり、ジャクソンの行動は革新的なものだった。なぜなら最高裁判所でも、連邦議会でも第二合衆国銀行は合憲とされていたからである。議会は反発し、名だたる上院議員が演説をおこなった。しかし、結局拒否権を覆すのに必要な三分の二の票を反ジャクソン派は確保できず、第二連邦銀行は連邦の保証を失い、窮地に追いやられ、その後のジャクソンのさまざまな政策によって破産に追い込まれる。
このことでもわかるようにジャクソンは連邦に対して州の権利を重要視する、南部出身の「州権主義者」だった。彼の時代連邦政府は均衡財政を維持し、負債をださなかった。しかし、サウスカロライナにおいて連邦法を州の権限によって無効にし、州は合衆国から自由に離脱できるとする運動が起こったとき(無効化の危機)、ジャクソンはこの動きを強く牽制。結果サウスカロライナの離反はさけられ、この時の彼の行動は後のエイブラハム・リンカーンの南部諸州の連邦脱退の時の行動に強く影響を与えた。
内閣
職名 | 氏名 | 任期 |
大統領 | アンドリュー・ジャクソン | 1829-1837 |
副大統領 | ジョン・カルフーン | 1829-1833 |
マーティン・ヴァン・ビューレン | 1833-1837 | |
国務長官 | マーティン・ヴァン・ビューレン | 1829-1831 |
エドワード・リヴィングストン | 1831-1833 | |
ルイス・マクレーン | 1833-1834 | |
ジョン・フォーサイス | 1834-1837 | |
財務長官 | サミュエル・インガム | 1829-1831 |
ルイス・マクレーン | 1831-1833 | |
ウィリアム・デュアン | 1833 | |
ロジャー・トーニー | 1833-1834 | |
レヴィ・ウッドベリー | 1834-1837 | |
陸軍長官 | ジョン・ヘンリー・イートン | 1829-1831 |
ルイス・カス | 1831-1836 | |
司法長官 | ジョン・バーリン | 1829-1831 |
ロジャー・トーニー | 1831-1833 | |
ベンジャミン・フランクリン・バトラー | 1833-1837 | |
郵政長官 | ウィリアム・テイラー・バリー | 1829-1835 |
エイモス・ケンドール | 1835-1837 | |
海軍長官 | ジョン・ブランチ | 1829-1831 |
レヴィ・ウッドベリー | 1831-1834 | |
マーロン・ディカーソン | 1834-1837 |
指名した最高裁判所判事
- ジョン・マクレーン - 1830
- ヘンリー・ボールドウィン - 1830
- ジェームズ・ムーア・ウェイン - 1835
- ロジャー・トーニー - 最高裁判所長官 - 1836
- フィリップ・ペンドルトン・バーバー - 1836
インディアンに対する姿勢
ジャクソンは立身出世のきっかけとなった米英戦争においてインディアンの掃討で活躍していたように、彼の目指す民主主義は白人のためのみのものであった。ジャクソンは強制移住、保留地(Reservation)をはじめとする民族浄化政策を推し進めた。ジャクソンが定めたインディアン強制移住法は、インディアンから強制的に土地を収奪するもので、この法律によってインディアンの多くは大陸西部へと追いやられた。このインディアン強制移住法は違憲であるという判決を下した連邦最高裁判所長官ジョン・マーシャルに対し、ジャクソンは「マーシャルがこの判決を下したのだ。だからマーシャルにこの判決を実行させてみようではないか」と嘯き、平然と強制移住法を施行した。
ジャクソンは、インディアンは白人とは相いれない存在とし、1833年には議会での一般教書演説で、以下のような演説を行った。
インディアン問題に関する私の確信はもはや揺るぎない。インディアン部族がわれわれの定住地に囲まれ、我々の市民と接触し共存するなど不可能だ。やつらには知性も勤勉さも道義的習慣さえない。やつらには我々が望む方向へ変わろうという向上心すらないのだ。我々優秀な市民に囲まれていながら、なぜ自分たちが劣っているのか知ろうともせず、わきまえようともしないやつらは環境の力の前にやがて消滅しなければならないのは自然の理だ。
これまでのインディアンの運命がそうだったように、インディアンたちが消滅しなければならない事態が避けられない場合、彼らは我々白人の領土の外へ出ていくことが必要だ。その場合、我々が求める新しい関係に沿った政治体制を彼らが受け入れた場合のみ、これは可能となるのだ。
暗殺未遂
大統領に対して危害を加えようとする最初の試みはジャクソンに対して行われた。ジャクソンは海軍のロバート・B・ランドルフを横領容疑で解雇するよう命じた。1833年5月6日、ジャクソンはシグネット (USS Cygnet) に乗艦してフレデリックスバーグに向かい、ジョージ・ワシントンの母親であるマリー・ボール・ワシントンの墓の近くに建てられる記念碑の定礎式に出席することになっていた。途中アレクサンドリアに立ち寄った際、ランドルフが現れ大統領を殴打し、現場から逃走した。ジャクソン大統領の一行の数名が彼を追いかけたが、その中には作家のワシントン・アーヴィングも含まれた。ジャクソンはこの一件を告発しないと決めた[6]。
1835年1月30日、初の大統領暗殺未遂事件と考えられている出来事が国会議事堂のすぐ外で発生した。ジャクソンがサウスカロライナ州選出下院議員のウォレン・R・デイヴィスの葬儀の後に議事堂を出ると、イギリス出身の塗装工であり失業者のリチャード・ローレンスが、群衆から飛び出したか、隠れていた柱の陰から出るかしてジャクソンにピストルを向けたものの、それは不発に終わった。ローレンスは二番目のピストルを引き抜いたが、これも不発であった。曇天からの湿気が2度の不発の原因だと仮定された[19]。ローレンスは拘束されたが、伝説ではジャクソンが自らの杖でローレンスを殴打し、自らの側近にローレンスを静止するよう促したとされる。デヴィッド・クロケットを含む他の出席者がローレンスを制圧し、武装を解除した。
リチャード・ローレンスは射撃のいくつかの理由を医師に明かした。 彼は最近塗装業の仕事を失い、どうにかジャクソンを非難した。彼は大統領が死ねば、「お金がより十分になるだろう(合衆国銀行との対立を参照)」「大統領が倒れるとき、初めて上昇できる」と主張した。最後には自身が追放されたイギリス王(リチャード3世、1485年に死去)であり、ジャクソンは単なる事務員であると主張した。ローレンスは正気ではないと考えられ、施設に収容された。彼の暗殺計画は決して罰せられなかった。
事件に使用されたピストルはその後、2度の不発に関する検証のためテストが行われた。テストは2度行われたが、その都度問題なく発射された。この結果が公表されると、多くの人々がジャクソンはアメリカ合衆国と同じく神の摂理によって守られたと信じた。
エピソード
- 決闘好きであり、決闘中に命中した銃弾が胸に残り彼を終始悩ませた。
- 英語の有名な表現であるO.K.の語源には諸説あるが、一説にはジャクソンに由来しているというものがある。彼は正規の教育を受けておらず、間違えることもしばしばだった。この場合も『all correct』を省略しようとして誤ったと言われている。
関連項目
- アメリカ合衆国ドル:ジャクソンの肖像は、現在20ドル紙幣に採用されている。 また、彼の肖像は過去に5ドル(1869年)、10ドル(1923年)、10,000ドル兌換金券(1882年)の紙幣にも採用され、この他、正式な通貨ではないが、南部連盟の1,000ドル紙幣にも採用された。
- 1824年アメリカ合衆国大統領選挙
- 1828年アメリカ合衆国大統領選挙:この時の選挙は中傷合戦の様相を呈し、ジャクソンの妻も誹謗中傷の対象になった。反対陣営は彼女を「重婚と不貞の女」として攻撃し、ジャクソン当選後ひょんなきっかけでこの事実を知った彼女はショックのあまり病の床につき、夫の大統領就任式を見ることなく死去した。
- 1832年アメリカ合衆国大統領選挙
- キッチン・キャビネット
- ジャクソン流民主主義
- ジャクソン市:ミシシッピ州の州都であるが、彼の名前から由来している。
- アンドリュー・ジャクソン州立公園:出身地サウスカロライナ州が州出身唯一の大統領であることを称えて設立した公園。
- 米英戦争
- 『血まみれ、血まみれ、アンドリュー・ジャクソン』(Bloody Bloody Andrew Jackson)
- ニューヨークの演劇集団「Les Freres Corbusier」によって2008年から上演されている、人種差別主義者としてのジャクソンを皮肉ったミュージカル。
参照
- ^ “Andrew Jackson”. Information Services Branch, State Library of North Carolina. 2011年1月1日閲覧。
- ^ “Andrew Jackson Cottage and US Rangers Centre”. Northern Ireland Tourist Board. 2011年1月1日閲覧。
- ^ Gullan, Harold I. (c2004). First fathers: the men who inspired our Presidents. Hoboken, N.J. : J: John Wiley & Sons. pp. xii, 308 p. : ill. ; 25 cm. ISBN 0471465976. OCLC 53090968. LCCN 20-3 2010年1月14日閲覧。
- ^ Remini 1:15-17
- ^ a b Remini 1:13
- ^ a b Paletta, Lu Ann; Worth, Fred L (1988). The World Almanac of Presidential Facts. World Almanac Books. ISBN 0345348885
- ^ Jackson, Andrew, (1767 - 1845),. Biographical Directory of the United States Congress
- ^ Remini (2000), p.51 cites 1820 census; mentions later figures up to 150 without noting a source.
- ^ “Hermitage”. Thehermitage.com. 2010年9月6日閲覧。
- ^ 『American Holocaust: The Conquest of the New World』(David Edward Stannard、Oxford University Press、1993)
- ^ Remini, Robert V. (1999) The battle of New Orleans, New York: Penguin Books. p. 285
- ^ Remini, 118.
- ^ Ogg, 66.
- ^ Johnson, Allen (1920年). “Jefferson and His Colleagues”. 2006年10月11日閲覧。
- ^ Rutland, Robert Allen (1995). The Democrats: From Jefferson to Clinton. University of Missouri Press. pp. 48-49. ISBN 0826210341
- ^ Adams, Henry. The Life of Albert Gallatin (1879), 599.
- ^ Rutland, Robert Allen (1995). The Democrats: From Jefferson to Clinton. University of Missouri Press. pp. 55?56. ISBN 0826210341
- ^ “Nickels, Ilona; "How did Republicans pick the elephant, and Democrats the donkey, to represent their parties?"; "Capitol Questions" feature at c-span.com; September 5, 2000”. C-span.org. 2010年9月6日閲覧。
- ^ Jon Grinspan. “Trying to Assassinate Andrew Jackson”. 2008年11月11日閲覧。
外部リンク
- Andrew Jackson on the Web (resource directory)
- Critical Resources: Andrew Jackson and Indian Removal
- A genealogical profile of the President
- Portraits of Jackson on bank notes
- Rachel & Andrew's life together
- United States Congress. "アンドリュー・ジャクソン (id: J000005)". Biographical Directory of the United States Congress (英語).
- Andrew Jacksonの作品 (インターフェイスは英語)- プロジェクト・グーテンベルク
- 図書館にあるアンドリュー・ジャクソンに関係する蔵書一覧 - WorldCatカタログ
就任演説
一般教書演説
- First State of the Union of Andrew Jackson
- Second State of the Union of Andrew Jackson
- Third State of the Union of Andrew Jackson
- Fourth State of the Union of Andrew Jackson
- Fifth State of the Union of Andrew Jackson
- Sixth State of the Union of Andrew Jackson
- Seventh State of the Union of Andrew Jackson
- Final State of the Union of Andrew Jackson
公職 | ||
---|---|---|
先代 ジョン・クインシー・アダムズ |
アメリカ合衆国大統領 1829年3月4日 - 1837年3月4日 |
次代 マーティン・ヴァン・ビューレン |
官職 | ||
新設 | フロリダ軍政府長官 1821 |
次代 ウィリアム・P・デュヴァル Territorial Governorとして |
アメリカ合衆国上院 | ||
先代 ジョン・ウィリアムズ |
テネシー州選出上院議員(第2部) 1823-1825 同職:ジョン・H・イートン |
次代 ヒュー・ローソン・ホワイト |
先代 ウィリアム・コック |
テネシー州選出上院議員(第1部) 1797-1798 同職:ジョセフ・アンダーソン |
次代 ダニエル・スミス |
先代 ジョン・ウィリアムズ |
上院軍事委員会委員長 1823 - 1825 |
次代 ウィリアム・ハリソン |
アメリカ合衆国下院 | ||
新設区 | テネシー州選出下院議員 テネシー州全州選挙区 1796-1797 |
次代 ウィリアム・C・C・クレイボーン |
党職 | ||
新党結成 | 民主党大統領候補 1828, 1832 |
次代 マーティン・ヴァン・ビューレン |
先代 ジェームズ・モンロー |
民主共和党大統領候補1 1824 |
党解散 |
名誉職 | ||
先代 ジェームズ・マディソン |
最長寿のアメリカ合衆国大統領 1836年6月28日 - 1845年6月8日 |
次代 ジョン・クインシー・アダムズ |
先代 リチャード・ストックトン |
アメリカ合衆国上院最年少議員 1796 -1797 |
次代 レイ・グリーン |
注釈 | ||
1. 民主共和党は1824年に分裂し、4名の候補を別々に擁立した。:アンドリュー・ジャクソン、ジョン・クインシー・アダムズ、ヘンリー・クレイ、ウィリアム・ハリス・クローフォード。 |