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東部方面において[[カザン・ハン国]]征服は治世初期からの懸案で、[[正教会]]からも[[イスラーム]]に対する[[聖戦]]として支持された。当初は傀儡を立てた間接統治を目指すが失敗、1552年10月に[[カザン]]を攻めて陥落させた。しかし残存勢力の撃退は長引き、1557年まで続いている。1556年には、カスピ海の西北岸に位置する[[アストラハン・ハン国]]を併合。また1581年には、[[ストローガノフ家]]の援助で、[[シビル・ハン国]]制圧に乗り出す[[コサック]]の首領[[イェルマーク]]にお墨付きを与え、[[シベリア]]征服事業を推進している。 |
東部方面において[[カザン・ハン国]]征服は治世初期からの懸案で、[[正教会]]からも[[イスラーム]]に対する[[聖戦]]として支持された。当初は傀儡を立てた間接統治を目指すが失敗、1552年10月に[[カザン]]を攻めて陥落させた。しかし残存勢力の撃退は長引き、1557年まで続いている。1556年には、カスピ海の西北岸に位置する[[アストラハン・ハン国]]を併合。また1581年には、[[ストローガノフ家]]の援助で、[[シビル・ハン国]]制圧に乗り出す[[コサック]]の首領[[イェルマーク]]にお墨付きを与え、[[シベリア]]征服事業を推進している。 |
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2011年7月9日 (土) 12:19時点における版
イヴァン4世 Иван IV Васильевич | |
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モスクワ大公 ロシアのツァーリ | |
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在位 | 1533年 - 1574年、1576年 - 1584年 |
戴冠式 | 1547年1月16日(ユリウス暦) |
全名 | イヴァン・ヴァシリエヴィチ |
出生 |
1530年8月25日 モスクワ大公国モスクワ |
死去 |
1584年3月18日 ロシア・ツァーリ国モスクワ |
配偶者 | アナスタシア・ロマノヴナ |
マリヤ・テムリュコヴナ | |
マルファ・ソバーキナ | |
アンナ・コルトフスカヤ | |
アンナ・ヴァシリチコヴァ | |
ヴァシリーサ・メレンティエヴァ | |
マリヤ・ナガヤ | |
子女 |
アンナ マリヤ ドミトリー イヴァン エウドキヤ フョードル1世 ヴァシーリー ドミトリー |
王朝 | リューリク朝 |
父親 | ヴァシーリー3世 |
母親 | エレナ・グリンスカヤ |
イヴァン4世(Иван IV Васильевич / Ivan IV Vasil'evich、1530年8月25日-1584年3月18日 / グレゴリオ暦3月28日)は、モスクワ大公(在位1533年 - 1547年)、モスクワ・ロシアの初代ツァーリ(在位1547年 - 1574年、1576年 - 1584年)。イヴァン雷帝(Иван Грозный / Ivan Groznyi)という異称でも知られる。当時の表記はヨアン4世またはイオアン4世(Иоан IV / Ioan IV)。ヴァシーリー3世の長男、母はエレナ・グリンスカヤ。
主な事績
対外的には、東方への領土拡大が進められ、アストラハン・ハン国とカザン・ハン国をモスクワ国家に組み入れて、治世末期にはシビル・ハン国征服事業も成功裡に進んでいた。しかし、西部国境で長期にわたって続けられたリヴォニア戦争は、完全な失敗に終わり、国内を激しく疲弊させる結果となった。内政面では、16世紀ヨーロッパにおける絶対君主制の発展のなかで、ツァーリズムと呼ばれるロシア型の専制政治を志向し、大貴族の専横を抑えることに精力を傾注した。1547年の「全ルーシのツァーリ」の公称開始、行政・軍事の積極的な改革や、大貴族を排除した官僚による政治が試みられた。その反面、強引な圧政や大規模な粛清、恐怖政治というマイナス面も生じた。結果的に大貴族層は権力を保持し、イヴァン4世の亡き後のツァーリ権力の弱体化に乗じ、ロマノフ朝の成立までモスクワ国家を実質的に支配することになる。
異称「雷帝」
きわめて残虐・苛烈な性格であったためロシア史上最大の暴君と言われる。「雷帝」という渾名は、彼の強力さと、冷酷さをともに表わすものである。ただし、ロシア語の渾名「グローズヌイ」(Гро́зный)は「峻厳な、恐怖を与える、脅すような」といった意味の形容詞で、この単語自体に「雷」という意味はない。元となった名詞に「雷雨」ないし「ひどく厳格な人」という意味の「グロザー」(Гроза́)があり、この単語との連関から畏怖を込めて「雷帝」と和訳された。英語ではIvan the Terribleと呼ばれる。
生涯
親政以前
イヴァン4世は、長く後継者のいなかったヴァシーリー3世にとって待望の嫡男だったが、父は1525年に正教会の猛反対を押し切って、不妊の先妻を追放してイヴァン4世の母エレナを妻に迎えており、イェルサレム総主教はこの結婚を「邪悪な息子をもつだろう」と呪ったとされる。またエレナは1380年のクリコヴォの戦いでドミトリイ・ドンスコイに敗れたジョチ・ウルスの有力者ママイの子孫と言われており、イヴァン4世はクリコヴォの戦いにおける勝者と敗者双方の血を引くことになる。
1533年12月に3歳で大公に即位し、最初は貴族会議が、ついで母后エレナが摂政として政務を執行した。エレナの政府は全国レベルでの単一通貨の導入、辺境防衛の強化など精力的に政治に取り組み、隣国リトアニア大公国との国境紛争にも勝利した。また大公位を狙うイヴァン4世の二人の叔父ドミトロフ公ユーリーとスターリツァ公アンドレイを失脚させている。母方のグリンスキー家が実権を掌握すると、それまで無視されていたイヴァン4世は、1547年1月16日に史上初めて「ツァーリ」として戴冠した。生神女就寝大聖堂での戴冠式にはモノマフの帽子が使われ、ビザンツ帝国との連続性が強調された。同年6月、モスクワ大火に伴う暴動によってグリンスキー家が失脚したため、本格的な親政を開始するにいたった。
国内政策
イヴァン4世はアダシェフやシリヴェーストルといった有能な顧問団に助けられ、1549年頃から本格的な改革に着手した。行政面では、下層階級の訴えに応じる嘆願局、中小貴族にも政治参加の機会を与えるゼムスキー・ソボル(全国会議)が創設された。外務局、財務局などの機関が独立して設けられ、1550年には法治主義を浸透させるべく1550年法典が発布された。また地方行政に関しても、腐敗の起きやすい代官制度に代えて地方自治制度に移行させている。軍隊も改革対象となり、身分序列に基づく指揮系統には十分なメスを入れられなかったが、ロシア初の常備軍であるストレリツィ(銃兵隊)が新設された。1556年には全ての領主貴族に兵役義務が課せられ、戦時の費用負担も所有地の規模に応じたものとして、大貴族の負担を多くしている。またロシア正教会に対するツァーリ権力を強化しようと試み、1551年に教会会議を招集して、教会がツァーリの許可なく新たに領地を獲得できないと認めさせるところまでこぎ着けた。
しかし、1560年代に入ると、最愛の妻アナスタシヤ、信頼する府主教マカリーを次々に亡くし、顧問団も失脚してイヴァン4世を支えていた主な人物が消えた。ツァーリはだんだん凶暴で残虐な性格を現し、非理性的な振る舞いが目立ち始めた。1564年、イヴァン4世は突然家族を連れてモスクワ郊外のアレクサンドロフに移り、退位を宣言した。多くの大貴族がリヴォニア戦争に反対し、クリミア・ハン国征服を要求してツァーリと対立していたためだった。
大貴族の嘆願で復位に同意する際、反逆者を自由に処罰する権限をはじめとする非常大権を認めさせたイヴァン4世は、有名な恐怖政治を開始した。全国を直轄領(オプリーチニナ)とそれ以外の国土(ゼームシチナ)とに分け、直轄領を自ら選んだ領主オプリーチニキに統治させることにしたのである。オプリーチニナ地域は独自の貴族会議・行政組織・軍隊が設けられ、ゼームシチナとは違う命令系統を持った。オプリーチニキは富裕層の財産を狙って多くの犠牲者を出し、またイヴァン4世の命令に従って、次々に要人らの粛清を実行した。主な標的としては、モスクワ府主教フィリップ、ノヴゴロド大主教ピーメンらの高位聖職者、ツァーリの従弟で有力なライバルであったスターリツァ公ウラジーミルなどがいる。1570年には、イヴァン4世はノヴゴロドがリトアニア側につこうとしていると思い込み、市の有力者とその家族全員に対する大虐殺を実行した。1572年、イヴァン4世は突然オプリーチニナの廃止を宣言し、その存在を抹消した。
1574年には再び大粛清が起きたが、イヴァン4世はその年末に再び突然退位を宣言して、チンギス・ハンの子孫の一人シメオン・ベクブラトヴィチにモスクワ大公の座を譲り、自らはモスクワ分領公を称した。そして1576年の年明けには、再びツァーリとして復位し、シメオンはトヴェーリ公となって引退した。この謎の退位事件は後世の歴史家の首を傾げさせている。モンゴル帝国研究者はチンギス統原理説を提唱しているが、ロシア史研究者の多くは「1575年にロシア君主が死ぬ」という占い師の進言を警戒した、あるいはポーランド王位を狙うための戦略だったなどの説を支持している。
対外政策
東部方面においてカザン・ハン国征服は治世初期からの懸案で、正教会からもイスラームに対する聖戦として支持された。当初は傀儡を立てた間接統治を目指すが失敗、1552年10月にカザンを攻めて陥落させた。しかし残存勢力の撃退は長引き、1557年まで続いている。1556年には、カスピ海の西北岸に位置するアストラハン・ハン国を併合。また1581年には、ストローガノフ家の援助で、シビル・ハン国制圧に乗り出すコサックの首領イェルマークにお墨付きを与え、シベリア征服事業を推進している。
1555年、イングランドと通商協定を結び、ヨーロッパとの本格的な交易が始まった。しかし白海のアルハンゲリスク経由によるイギリス・モスクワ会社との貿易は、1年のうち短期間しか通れない北極海航路であり、バルト海への進出が急がれた。ついに1558年モスクワ国家はドイツ騎士団の残党が治めるリヴォニアを支配下におくため、リヴォニア戦争を開始した。当初戦争は優位に進み、バルト海沿岸のナルヴァを獲得している。しかしリヴォニアの領土分割を狙う近隣列強がこれに介入し、モスクワ国家はポーランドとの戦争に入った。1564年にウラ川の戦いでポーランドに大敗したモスクワ側の大貴族は、スウェーデンと7年の和平協定を結び、ポーランドとも休戦交渉に入った。しかしイヴァン4世はこれに納得せず、全国会議を招集して戦争継続を支持させ、交渉を打ち切らせた。しかし1569年ルブリン合同でポーランドとリトアニアが連合体制に入ってポーランド・リトアニア共和国となり強大化、戦争はモスクワに不利な方向へ向かう。1571年にはクリミア・ハン国がリトアニアとの同盟に基づきロシア領に侵攻、首都モスクワを焼き払った。
1575年、ポーランドでステファン・バートリが即位すると、その隙を狙ってイヴァン4世は再びリヴォニアに侵入してその大半を占領し、スウェーデンとポーランドが持つ領土を奪った。両国は反ロシア同盟を結んでロシアに反撃し、1581年にナルヴァがスウェーデンに落とされた。イヴァン4世は1582年にポーランドと、1583年スウェーデンと休戦したが、ロシアの国境線はリヴォニア戦争開始時まで後退し、バルト海交易ルートも失った。長い戦争はロシアの国力を大きく疲弊させ、重税や治世末年の飢饉に苦しむ逃亡農民が大量に発生して南部・東部に移った。
最期
1581年、イヴァン4世は後継者であった同名の次男イヴァンを誤殺してしまった。以後、イヴァン4世は息子を殺した罪の意識に苛まれ続ける晩年を送った。1584年、イヴァン4世は重病に陥り、占星術師に算出させた死亡予定日の3月18日、発作を起こして不帰の人となった。知的障害があり後継者には不適格と思われた三男フョードルが即位し、イヴァン4世の遺言で指名された摂政団に荒廃した国家の統治が委ねられた。
人物・逸話
- 複雑な性格の持ち主で、処刑や拷問を好むなど非常に残虐であると同時に、きわめて敬虔な一面をも持っていた。
- 1552年10月2日の生神女庇護祭の祭日、モスクワ軍がカザンを陥落させると、イヴァン4世はこの戦勝を記念してクレムリンの隣に生神女マリヤの庇護に捧げる大聖堂を建立した。この聖ワシリイ大聖堂(正式名称を生神女庇護大聖堂)は1560年に完成し、伝統的なロシア建築でありながら、あざやかな色彩と装飾が特徴的である。イヴァン4世はその美しさに感動したあまり、設計者がそれ以上に美しいものをつくらないようにと彼を失明させたという伝説を残している(史実ではないらしい)。1566年には紙が西欧より輸入されて、ロシア初の印刷所が造られた。
- クルプスキー公によれば、1564年のはじめに酒宴の席で酩酊して放浪芸人とともに踊りだしたイヴァン4世を大貴族レプニン公が諌めたが、イヴァン4世は彼に仮面をつけて踊りに加わるように命じ、レプニン公が拒絶するとその夜のうちに彼を殺害させたという。
- 1564年にリトアニアに政治亡命したクルプスキー公とは互いを非難する往復書簡を交わしており、この書簡は16世紀ロシアに関する重要史料である。この書簡での論争の中で、イヴァン4世は神学的な教養を窺がわせる内容を書き残しており、また幼少期に植えつけられた大貴族への恨みと嫌悪を表明している。
- 1565年にオプリーチニナ制度を導入して以後、アレクサンドロフ離宮で常にオプリーチニキと起居をともにしていた。
- この時期にイヴァン4世のもとを訪れた外国使節らの記録によれば、イヴァン4世はオプリーチニキとともに修道院を模した共同生活を送り、黒衣をまとって早朝から長時間の祈祷や時課を行ない、毎夜のように生神女マリヤのイコンに祈りを捧げ、好んで鐘つき役や聖歌隊長を勤めたという。
- 神を深く畏れており、ミクラという佯狂者に激しい非難を浴びたときは強い衝撃を受け、予定していたプスコフへの「懲罰」を中止している。
- 一方、午後には処刑や拷問が行なわれ、イヴァン4世自身もそれに加わるのが常だった。イヴァン4世は拷問の様子を観察するのを好み、犠牲者の血がかかると興奮して叫びをあげたと記されている。
- 夜には放縦な酒宴が開かれたが、イヴァン4世は不眠に悩まされて深夜まで寝付くことができず、しばしば夜伽師の物語に耳を傾けたり離宮内をひそかに徘徊していたという。
- 晩年、イヴァン4世はオプリーチニキの殺戮の犠牲者たちの記録簿作成を命令し、遺言状のなかで自らの行為を悔やむかのような言葉を残している。
皇妃たち
イヴァン4世は生涯に7回結婚した(一説には8回)。これは多くの妻を持ったことで有名なヘンリー8世の6回を上回る数である。
- アナスタシヤ・ロマノヴナ・ザハーリナ(婚姻期間1547年‐1560年 / 死別)
- マリヤ・テムリュコヴナ(婚姻期間1561年‐1569年 / 死別)
- マルファ・ソバーキナ(婚姻期間1571年 / 死別)
- ノヴゴロドの商人の娘。わずか結婚16日目に急死した。
- アンナ・コルトフスカヤ(婚姻期間1572年‐1575年 / 離別)
- アンナ・ヴァシリチコヴァ(婚姻期間1575年‐1577年 / 死別)
- この結婚以降は教会法に抵触するため、教会は祝福を与えず私通とみなした。
- ヴァシリーサ・メレンティエヴァ(婚姻期間1577年-1580年 / 離別)
- リヴォニア戦争で夫を亡くした下級貴族の妻だった。不貞が明るみに出て、修道院に入れられた。
- マリヤ・ナガヤ(婚姻期間1580年‐1584年 / 1608年没)
またイヴァン4世はイングランドとの友好に期待をかけ、1582年に妻のいる身でエリザベス1世にイングランドの王族との結婚を打診した。ロシア使節が白羽の矢を立てたのはハンティントン伯爵の末娘レディ・メアリー・ヘイスティングス(マーガレット・ポールの曾孫)だったが、エリザベス女王はこの縁談を進めようとせず、翌1583年には破談とした。イヴァン4世はイングランドを貿易相手国としてだけでなく、失脚した時の亡命先にしようと考えていた。
ノンフィクション
- ドキュメンタリー『失われた世界の謎』 第30回『イワン雷帝のロシア』(ヒストリーチャンネル)
フィクション
- 『イワン雷帝』 - セルゲイ・エイゼンシュテインによるイヴァン4世の一生を描いた映画。
- 『イヴァン雷帝』 - アンリ・トロワイヤの歴史小説。
- 『白銀公爵』- アレクセイ・コンスタンチノヴィッチ・トルストイによる、イヴァン4世時代の貴族を主人公とする小説。
- 『イヴァン・ヴァシーリエヴィチの転職』 - タイムトラベルもののコメディー映画。
- 『イワン雷帝』 - セルゲイ・プロコフィエフの音楽にもとづいてユーリー・グリゴローヴィチが振り付けた全2幕のバレエ。
参考文献
- アンリ・トロワイヤ著 / 工藤庸子訳『イヴァン雷帝』中央公論新社(中公文庫)1987年 / 改版2002年
- R.G.スクルィンニコフ著 / 栗生澤猛夫訳『イヴァン雷帝』成文社 1994年
- デヴィッド・ウォーンズ著 / 栗生澤猛夫監修『ロシア皇帝歴代誌』創元社 2001年7月 ISBN 4-422-21516-7
- 川又一英著『イヴァン雷帝 ーロシアという謎ー』新潮選書、1999年5月30日 ISBN 4106005662
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