「優勝決定戦 (相撲)」の版間の差分
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*幕内での優勝決定戦は[[2009年]](平成21年)9月場所の[[白鵬翔|白鵬]]-[[朝青龍明徳|朝青龍]]まで69回。出場が最も多かったのは貴乃花の10回。決定戦での優勝が最も多いのは[[千代の富士貢|千代の富士]](現[[九重 (相撲)|九重]])の6回。逆に決定戦での敗退(優勝同点)が最も多かったのは[[武蔵丸光洋|武蔵丸]](現[[振分]])の6回。決定戦に出場した7回のうち、優勝は1回だけだった。 |
*幕内での優勝決定戦は[[2009年]](平成21年)9月場所の[[白鵬翔|白鵬]]-[[朝青龍明徳|朝青龍]]まで69回。出場が最も多かったのは貴乃花の10回。決定戦での優勝が最も多いのは[[千代の富士貢|千代の富士]](現[[九重 (相撲)|九重]])の6回。逆に決定戦での敗退(優勝同点)が最も多かったのは[[武蔵丸光洋|武蔵丸]](現[[振分]])の6回。決定戦に出場した7回のうち、優勝は1回だけだった。 |
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*大関同士の優勝決定戦は過去少なく、決定戦が3人以上で行われた例を除けば[[1963年]](昭和38年)7月場所、[[北葉山英俊|北葉山]]-[[佐田の山晋松|佐田乃山]]、[[1970年]](昭和45年)1月場所、[[北の富士勝昭|北の富士]]-[[玉の海正洋|玉乃島]]、[[2002年]](平成14年)1月場所、[[栃東大裕|栃東]]-[[千代大海龍二|千代大海]]の3例である。ちなみに横綱同士による決定戦は2009年 |
*大関同士の優勝決定戦は過去少なく、決定戦が3人以上で行われた例を除けば[[1963年]](昭和38年)7月場所、[[北葉山英俊|北葉山]]-[[佐田の山晋松|佐田乃山]]、[[1970年]](昭和45年)1月場所、[[北の富士勝昭|北の富士]]-[[玉の海正洋|玉乃島]]、[[2002年]](平成14年)1月場所、[[栃東大裕|栃東]]-[[千代大海龍二|千代大海]]の3例である。ちなみに横綱同士による決定戦は2009年9月場所の朝青龍-白鵬まで15例ある。 |
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*横綱、大関のいずれも出場しなかった優勝決定戦は、[[1972年]](昭和47年)3月場所、[[関脇]][[長谷川勝敏|長谷川]]-[[前頭]]7枚目[[魁傑將晃|魁傑]](現[[放駒]])の1例のみ。 |
*横綱、大関のいずれも出場しなかった優勝決定戦は、[[1972年]](昭和47年)3月場所、[[関脇]][[長谷川勝敏|長谷川]]-[[前頭]]7枚目[[魁傑將晃|魁傑]](現[[放駒]])の1例のみ。 |
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*兄弟対決は先述の3代若乃花-貴乃花の1回のみ。両者は[[1993年]](平成5年)7月場所でもともに決定戦に出場したが、このときは[[曙太郎|曙]]を交えた巴戦となり、曙が両者を連破して優勝を決めたために対決はなかった。 |
*兄弟対決は先述の3代若乃花-貴乃花の1回のみ。両者は[[1993年]](平成5年)7月場所でもともに決定戦に出場したが、このときは[[曙太郎|曙]]を交えた巴戦となり、曙が両者を連破して優勝を決めたために対決はなかった。 |
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*同部屋対決は3人以上での決定戦を除けば[[1997年]](平成9年)11月場所の[[貴ノ浪貞博|貴ノ浪]](現[[音羽山 (相撲)|音羽山]])-貴乃花まで5回。 |
*同部屋対決は3人以上での決定戦を除けば[[1997年]](平成9年)11月場所の[[貴ノ浪貞博|貴ノ浪]](現[[音羽山 (相撲)|音羽山]])-貴乃花まで5回。[[1989年]](平成元年)7月場所の[[千代の富士貢|千代の富士]](現[[九重 (相撲)|九重]])- [[北勝海信芳|北勝海]](現[[八角]])は同部屋横綱同士の決定戦で、後にも先にもこの一例だけである(そもそも同じ部屋に二人の横綱が揃うこと自体めったにない)。 |
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*前頭の力士は[[2004年]](平成16年)5月場所の[[北勝力英樹|北勝力]]まで13人が決定戦に出場しているが、[[前頭#平幕で優勝した力士|平幕優勝]]は一度も出ていない。 |
*前頭の力士は[[2004年]](平成16年)5月場所の[[北勝力英樹|北勝力]]まで13人が決定戦に出場しているが、[[前頭#平幕で優勝した力士|平幕優勝]]は一度も出ていない。 |
2009年10月31日 (土) 01:32時点における版
優勝決定戦(ゆうしょうけっていせん)は、大相撲において、各地位での最高成績者が複数でた場合に、優勝者を決めるための本割以外の取組である。
概要
1909年(明治42年)6月場所に大相撲の優勝制度が設けられ、優勝額の授与が始まったが、このときは勝敗同点者がいた場合には、番付上位の力士が優勝することとされていた。
しかし、第二次世界大戦後の大相撲人気回復の方策の一つとして、優勝争いへの興味を喚起するために、同点の場合は優勝決定戦を行い決着をつけることが企画され、1947年(昭和22年)6月場所から実施された。最初の場所には東西制がまだ行われていたこともあって、幕内で9勝1敗の同点者が4人出た(横綱羽黒山・大関前田山・同東冨士・前頭8枚目力道山、優勝は羽黒山)。
そのこともあり、この制度はすぐに定着した。ただし、幕下以下に関しては、1950年(昭和25年)1月場所から1956年(昭和31年)の1月場所までの一時期は決定戦は行われず、上位力士が優勝となっていた。
また、特別なケースとして、春秋園事件からの復帰力士を別席として追加した1933年(昭和8年)1月場所の十両で、別席同士の綾昇と番神山両者の地位序列が不明なため、番外として2人の間で決定戦が行われた(優勝は綾昇)ことがある。
同点者が3人の場合は巴戦が行われる。それ以上の人数のときは、予選を行い、巴戦の形にするか、トーナメント方式にする場合もある。
十両以下の優勝決定戦は、千秋楽の幕内の取組の直前に行われる(関係する力士が幕内で取り組むときにはその結果を待って行われる)。行司はそれぞれの地位に対応した行司がさばくので、序二段や序ノ口の場合には、はだしの行司が満員の観衆のなかで裁くこととなり、行司にとっても晴れ舞台である。決定戦が行われることが館内にアナウンスされると歓声があがり、千秋楽の相撲観戦における楽しみの一つといえる。
本割での対戦がない相手でも決定戦は行われるので、同部屋対決、兄弟対決となる場合もある。代表的なものは1995年(平成7年)11月場所の3代若乃花-貴乃花の一戦である。
主な記録
幕内
- 幕内での優勝決定戦は2009年(平成21年)9月場所の白鵬-朝青龍まで69回。出場が最も多かったのは貴乃花の10回。決定戦での優勝が最も多いのは千代の富士(現九重)の6回。逆に決定戦での敗退(優勝同点)が最も多かったのは武蔵丸(現振分)の6回。決定戦に出場した7回のうち、優勝は1回だけだった。
- 大関同士の優勝決定戦は過去少なく、決定戦が3人以上で行われた例を除けば1963年(昭和38年)7月場所、北葉山-佐田乃山、1970年(昭和45年)1月場所、北の富士-玉乃島、2002年(平成14年)1月場所、栃東-千代大海の3例である。ちなみに横綱同士による決定戦は2009年9月場所の朝青龍-白鵬まで15例ある。
- 同部屋対決は3人以上での決定戦を除けば1997年(平成9年)11月場所の貴ノ浪(現音羽山)-貴乃花まで5回。1989年(平成元年)7月場所の千代の富士(現九重)- 北勝海(現八角)は同部屋横綱同士の決定戦で、後にも先にもこの一例だけである(そもそも同じ部屋に二人の横綱が揃うこと自体めったにない)。
- 下位力士が上位力士を破った優勝決定戦は以下の13回。但し、3人以上は除く。左が優勝力士で地位は当時。太字の四股名の力士は、翌場所大関に昇進している。
- 1948年(昭和23年)10月場所 増位山(関脇)-東冨士(大関)
- 1962年(昭和37年)3月場所 佐田の山(関脇)-大鵬(横綱)
- 1974年(昭和49年)11月場所 魁傑(小結)-北の湖(横綱)
- 1975年(昭和50年)3月場所 初代貴ノ花(大関)-北の湖(横綱)
- 1975年(昭和50年)9月場所 貴ノ花(大関)-北の湖(横綱)
- 1981年(昭和56年)1月場所 千代の富士(関脇)-北の湖(横綱)
- 1995年(平成7年)11月場所 3代若乃花(大関)-貴乃花(横綱) ※同部屋(二子山)、兄弟決定戦
- 1996年(平成8年)1月場所 貴ノ浪(大関)-貴乃花(横綱) ※同部屋決定戦(二子山)
- 1997年(平成9年)11月場所 貴ノ浪(大関)-貴乃花(横綱) ※同部屋決定戦(二子山)
- 1999年(平成11年)1月場所 千代大海(関脇)-3代若乃花(横綱)
- 1999年(平成11年)7月場所 出島(関脇)-曙(横綱)
- 2007年(平成19年)3月場所 白鵬(大関)-朝青龍(横綱)
- 2009年(平成21年)5月場所 日馬富士(大関)―白鵬(横綱)
- 1996年11月場所、横綱曙、大関3代若乃花、同武蔵丸、同貴ノ浪、関脇魁皇の5人(いずれも11勝4敗、優勝は武蔵丸)による優勝決定戦が行われた。これが2009年5月場所現在においても幕内における優勝決定戦の最多出場人数である。また、この時の11勝4敗は、2009年現在幕内優勝としては15日制定着後最少勝ち星となっている(ほかに1972年1月場所、先代栃東も11勝4敗で優勝、このときは決定戦なし)。
- 2005年(平成17年)9月場所、琴欧州(のち琴欧洲)は新関脇として史上最多の13勝2敗の好成績をあげたが、一時は2勝差をつけた横綱朝青龍に優勝決定戦で敗れ、逆転で6連覇を許してしまった。
- 2009年9月場所千秋楽、1敗の白鵬が全勝の朝青龍を破り相星で優勝決定戦となったが、決定戦では白鵬が敗れ逆転優勝はならなかった。白鵬は同年1月場所(朝青龍)、5月場所(日馬富士)でも決定戦で敗れており、決定戦で年間3敗するのは決定戦制度が導入されてからは初のケースとなる。
十両以下
- 1958年(昭和33年)5月場所、十両で7人(若秩父、富樫(のち横綱柏戸)、北葉山、冨士錦、若三杉(のち大豪)、明歩谷(のち明武谷)、玉響の7人、いずれも11勝4敗)による優勝決定戦で若秩父が優勝したが、このうち富樫は横綱、北葉山は大関、冨士錦、若三杉は平幕優勝と、7人のうち幕内最高優勝経験者が4人、明歩谷も2度も幕内優勝決定戦に出場した、という豪華メンバーだった。この決定戦は後々まで語り草になったという。
- 1996年7月場所、幕下で9人(栃天晃、後藤(のち栃乃洋)、金作(のち須佐の湖)、富風、清の海、戦闘竜、大日ノ出、広瀬山(のち双筑波)、隆尾崎(のち隆乃若、現タレント)の9人でいずれも6勝1敗、優勝は金作)による優勝決定戦が行われた。同様な前例として、海乃山が三段目時代の1958年1月場所、7勝1敗(当時、幕下以下は8番相撲)9人による決定戦で優勝している。
- 2001年(平成13年)7月場所、十両で史上最多の8人(貴闘力(現大嶽)、濵錦、寺尾(現錣山)、戦闘竜、大碇(現甲山)、武雄山(現関ノ戸)、玉力道、若兎馬(現押尾川))による優勝決定戦が行われ、武雄山が優勝した。このときの成績は9勝6敗で、2009年現在十両優勝としては15日制定着後最少勝ち星となっている。
- 2009年3月場所、13日目が終わっても幕下以下各段で優勝が決まらず、千秋楽に優勝決定戦を行ったが、幕下以下全てが決定戦になったのは1985年(昭和60年)1月場所以来24年ぶりだった。