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[[1990年]]4月には[[日米レスリングサミット]]への参戦で久々に日本に登場。[[ジャンボ鶴田]]と組んで[[カート・ヘニング]]&[[リック・マーテル]]を撃破した。同年下期にアンドレが戦列を離れると、大相撲時代の盟友[[シオネ・ヴァイラヒ|ザ・バーバリアン]]を新パートナーにミッドカード戦線で活動。[[1992年]]は当時WWFと提携していた日本の[[SWS]]を主戦場に、[[谷津嘉章]]とナチュラル・パワーズなるチームを結成、[[天龍源一郎]]&[[阿修羅・原]]の[[龍原砲]]とタッグ王座を争う。同年秋にWWFを退団し、[[1993年]]6月には[[WAR (プロレス)|WAR]]経由で[[新日本プロレス]]のリングに初登場。8月の[[G1 CLIMAX|G1クライマックス]]にも来日した。 |
[[1990年]]4月には[[日米レスリングサミット]]への参戦で久々に日本に登場。[[ジャンボ鶴田]]と組んで[[カート・ヘニング]]&[[リック・マーテル]]を撃破した。同年下期にアンドレが戦列を離れると、大相撲時代の盟友[[シオネ・ヴァイラヒ|ザ・バーバリアン]]を新パートナーにミッドカード戦線で活動。[[1992年]]は当時WWFと提携していた日本の[[SWS]]を主戦場に、[[谷津嘉章]]とナチュラル・パワーズなるチームを結成、[[天龍源一郎]]&[[阿修羅・原]]の[[龍原砲]]とタッグ王座を争う。同年秋にWWFを退団し、[[1993年]]6月には[[WAR (プロレス)|WAR]]経由で[[新日本プロレス]]のリングに初登場。8月の[[G1 CLIMAX|G1クライマックス]]にも来日した。 |
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[[1994年]]11月、'''ミング'''('''Meng''')の名前で[[WCW]]に登場。サングラスに黒スーツ姿で悪徳[[マネージャー (プロレス)|マネージャー]]の[[ロバート・フラー|カーネル・ロバート・パーカー]]の[[ボディーガード]]役を務める。翌[[1995年]]には、日本育ちという出自から武道家スタイルのヒールに変身。同年7月の[[ペイ・パー・ビュー|PPV]] "Bash at the Beach" では、[[スティング (プロレスラー)|スティング]]の[[WCW・ユナイテッドステイツ王座|USヘビー級王座]]に挑戦した。以降もWCWに定着し、[[ケビン・サリバン]]のダンジョン・オブ・ドゥームへの加入や、旧友バーバリアンとの'''フェイシズ・オブ・フィアー'''('''Faces of Fear''')などで活動。フェイシズ・オブ・フィアーでは[[1996年]]12月の[[スターケード (プロレス)|スターケード]]でジ・アウトサイダーズ([[ケビン・ナッシュ]]&[[スコット・ホール]])のWCW世界タッグ王座にも挑戦している。その後はセミレギュラーの立場で単発的な出場を続け、[[1998年]]8月には当時連勝記録を更新中だったWCW世界ヘビー級王者[[ビル・ゴールドバーグ|ゴールドバーグ]]のチャレンジャー兼[[ジョブ (プロレス)#ジョバー|ジョバー]]としてマンデー・ナイトロに登場。WCW末期は[[ハードコアマッチ|ハードコア]]戦線に進出し、[[2001年]][[1月14日]]には師匠の[[テリー・ファンク]]からWCWハードコア王座を奪取した。 |
[[1994年]]11月、'''ミング'''('''Meng''')の名前で[[WCW]]に登場。サングラスに黒スーツ姿で悪徳[[マネージャー (プロレス)|マネージャー]]の[[ロバート・フラー|カーネル・ロバート・パーカー]]の[[ボディーガード]]役を務める。翌[[1995年]]には、日本育ちという出自から武道家スタイルのヒールに変身。同年7月の[[ペイ・パー・ビュー|PPV]] "Bash at the Beach" では、[[スティング (プロレスラー)|スティング]]の[[WCW・ユナイテッドステイツ王座|USヘビー級王座]]に挑戦した。以降もWCWに定着し、[[ケビン・サリバン]]のダンジョン・オブ・ドゥームへの加入や、旧友バーバリアンとの'''フェイシズ・オブ・フィアー'''('''Faces of Fear''')などで活動。フェイシズ・オブ・フィアーでは[[1996年]]12月の[[スターケード (プロレス)|スターケード]]でジ・アウトサイダーズ([[ケビン・ナッシュ]]&[[スコット・ホール]])のWCW世界タッグ王座にも挑戦している。その後はセミレギュラーの立場で単発的な出場を続け、[[1998年]]8月には当時連勝記録を更新中だったWCW世界ヘビー級王者[[ビル・ゴールドバーグ|ゴールドバーグ]]のチャレンジャー兼[[ジョブ (プロレス)#ジョバー|ジョバー]]として[[WCWマンデー・ナイトロ||マンデー・ナイトロ]]に登場。WCW末期は[[ハードコアマッチ|ハードコア]]戦線に進出し、[[2001年]][[1月14日]]には師匠の[[テリー・ファンク]]からWCWハードコア王座を奪取した。 |
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その1週間後の[[1月21日]]、WWFの[[ロイヤルランブル]]に出場してファンを驚かせる。以降はWWFに復帰し、ヒールターンした[[ソロファ・ファトゥ|リキシ]]のタッグパートナーを務めた。翌[[2002年]][[3月1日]]には、WWF初の単独日本公演である[[スマックダウン・ツアー・ジャパン]]に参加、[[横浜アリーナ]]で[[ダイヤモンド・ダラス・ペイジ]]との試合が組まれた。 |
その1週間後の[[1月21日]]、WWFの[[ロイヤルランブル]]に出場してファンを驚かせる。以降はWWFに復帰し、ヒールターンした[[ソロファ・ファトゥ|リキシ]]のタッグパートナーを務めた。翌[[2002年]][[3月1日]]には、WWF初の単独日本公演である[[スマックダウン・ツアー・ジャパン]]に参加、[[横浜アリーナ]]で[[ダイヤモンド・ダラス・ペイジ]]との試合が組まれた。 |
2009年10月15日 (木) 13:40時点における版
キング・ハク | |
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プロフィール | |
リングネーム |
プリンス・トンガ キング・トンガ ハク キング・ハク ミング |
本名 | ウリウリ・フィフィタ |
ニックネーム | 南海の暴君 |
身長 | 185cm |
体重 | 125kg(全盛時) |
誕生日 | 1959年2月3日(65歳) |
出身地 | トンガ・ヌクアロファ |
スポーツ歴 | 大相撲 |
トレーナー |
ジャイアント馬場 ザ・ファンクス |
デビュー | 1978年 |
キング・ハク(King Haku)などのリングネームで知られるウリウリ・フィフィタ(Tonga 'Uli'uli Fifita、1959年2月3日 - )は、トンガ・ヌクアロファ出身のプロレスラー。
大相撲・朝日山部屋出身の元力士であり、プロレス転向後は全日本プロレスを経てアメリカのWWF(現・WWE)やWCWで活躍した。
来歴
1974年末、トンガ国王の命で16代朝日山親方に連れられて来日し、大相撲の朝日山部屋に入門。福ノ島の四股名で幕下27枚目まで昇進するも、親方死去後に起こった部屋のお家騒動のため1976年9月に廃業の憂き目に遭う。その後1977年7月に全日本プロレスに入団し、同年12月に渡米。テキサス州アマリロのザ・ファンクスのもとでトレーニングを積み、翌1978年、アマリロ地区にてプリンス・トンガ(Prince Tonga)のリングネームでデビュー。アイランダー系のベビーフェイスとして南部のローカル・エリアを転戦し、1979年にはテネシー地区でデビッド・シュルツらのチームを破り、NWA6人タッグ王座を獲得した。
1980年に凱旋し、7月11日の津島市体育館におけるリック・デビッドソン戦で日本マットでのデビューを果たす。以降、1982年頃まで全日本の若手選手としてキャリアを積んだ。1983年、プエルトリコのWWCに参戦し、ヒールのキング・トンガ(King Tonga)に改名。その後は北米マットを主戦場とするようになり、フロリダ地区やAWAなど当時の主要テリトリーにも登場。1984年10月にはカナダのモントリオール地区でディノ・ブラボーからカナディアン・インターナショナル・ヘビー級王座を奪取している。
1986年、ハク(Haku)のリングネームでWWFと契約。当初はベビーフェイスとして、トンガ・キッドことタマとのタッグチーム、ジ・アイランダーズ(The Islanders)で売り出された。やがてヒールターンし、ボビー・ヒーナンのファミリーに加入してブリティッシュ・ブルドッグスらと抗争。タマの離脱後はシングルプレイヤーとなり、1988年6月にはハーリー・レイスの負傷欠場で空位となっていた「キング」の称号をバトルロイヤルに勝ち抜いて獲得した。以降、キング・ハク(King Haku)を名乗り、同年の8月から10月にかけてはハルク・ホーガンとの連戦も行われている。
翌1989年1月のロイヤルランブルでレイスを破り正式に「王位」を継承するが、その後ジム・ドゥガンに敗れキングの座から陥落。同年下期からはヒールに転向していたアンドレ・ザ・ジャイアントとのタッグチーム、コロッサル・コネクション(Colossal Connection)で活躍。アックスとスマッシュのデモリッションを相手に、WWF世界タッグ王座を巡る抗争を展開した。
1990年4月には日米レスリングサミットへの参戦で久々に日本に登場。ジャンボ鶴田と組んでカート・ヘニング&リック・マーテルを撃破した。同年下期にアンドレが戦列を離れると、大相撲時代の盟友ザ・バーバリアンを新パートナーにミッドカード戦線で活動。1992年は当時WWFと提携していた日本のSWSを主戦場に、谷津嘉章とナチュラル・パワーズなるチームを結成、天龍源一郎&阿修羅・原の龍原砲とタッグ王座を争う。同年秋にWWFを退団し、1993年6月にはWAR経由で新日本プロレスのリングに初登場。8月のG1クライマックスにも来日した。
1994年11月、ミング(Meng)の名前でWCWに登場。サングラスに黒スーツ姿で悪徳マネージャーのカーネル・ロバート・パーカーのボディーガード役を務める。翌1995年には、日本育ちという出自から武道家スタイルのヒールに変身。同年7月のPPV "Bash at the Beach" では、スティングのUSヘビー級王座に挑戦した。以降もWCWに定着し、ケビン・サリバンのダンジョン・オブ・ドゥームへの加入や、旧友バーバリアンとのフェイシズ・オブ・フィアー(Faces of Fear)などで活動。フェイシズ・オブ・フィアーでは1996年12月のスターケードでジ・アウトサイダーズ(ケビン・ナッシュ&スコット・ホール)のWCW世界タッグ王座にも挑戦している。その後はセミレギュラーの立場で単発的な出場を続け、1998年8月には当時連勝記録を更新中だったWCW世界ヘビー級王者ゴールドバーグのチャレンジャー兼ジョバーとして|マンデー・ナイトロに登場。WCW末期はハードコア戦線に進出し、2001年1月14日には師匠のテリー・ファンクからWCWハードコア王座を奪取した。
その1週間後の1月21日、WWFのロイヤルランブルに出場してファンを驚かせる。以降はWWFに復帰し、ヒールターンしたリキシのタッグパートナーを務めた。翌2002年3月1日には、WWF初の単独日本公演であるスマックダウン・ツアー・ジャパンに参加、横浜アリーナでダイヤモンド・ダラス・ペイジとの試合が組まれた。
WWF離脱後はハーリー・レイスのWLWなど各地のインディー団体を転戦。2004年5月には新日本プロレスの東京ドーム大会に来日し、天龍源一郎と組んでブルー・ウルフ&ドルゴルスレン・スミヤバザルと対戦した。
得意技
- トンガン・デス・グリップ(コブラクロー)
- パワースラム
- ダイビング・スプラッシュ
- トラース・キック
- バックハンド・チョップ
- ヘッドバット
- ドロップキック(プリンス・トンガ時代に使用。ジャイアント馬場は彼のドロップキックを高く評価していた)
獲得タイトル
- NWA6人タッグ王座(ミッドアメリカ版):1回(w / ケン・ルーカス&ジョージ・グラス)
- NWAハワイ・ヘビー級王座:1回
- WWCプエルトリコ・ヘビー級王座:2回
- WWC北米タッグ王座:1回(w / エル・グラン・アポロ)
- WWC世界タッグ王座:1回(w / ヘラクレス・アヤラ)
- カナディアン・インターナショナル・ヘビー級王座:1回
- カナディアン・インターナショナル・タッグ王座:1回(w / リチャード・チャーランド)
- WWF世界タッグ王座:1回(w / アンドレ・ザ・ジャイアント)
- SWSタッグ王座:2回(w / 谷津嘉章)
- WCWハードコア王座:1回
- WLWヘビー級王座:3回