サファヴィー朝
- イラン守護領
- ممالک محروسه ایران
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←1501年 - 1736年 →
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→(国旗) (国章)
サファヴィー朝の最大版図-
公用語 ペルシア語 宗教 イスラム教シーア派
(十二イマーム派)首都 タブリーズ(1501年 - 1555年)
ガズヴィーン(1555年 - 1598年)
イスファハーン(1598年 - 1736年)- シャー
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1501年 - 1524年 イスマーイール1世 1587年 - 1629年 アッバース1世 1732年 - 1736年 アッバース3世 - 大宰相
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1501年 - 1507年 モハンマド・ザカリーヤ・クジュジ(初代) 1729年 - 1735年 ナーディル・クリー・ベグ(最後) - 面積
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2,850,000km² - 変遷
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建国 1501年12月22日 チャルディラーンの戦い 1514年8月23日 ホルムズ占領 1622年 ロシア・ペルシャ戦争 1722年 - 1723年 アフシャール朝によって滅亡 1736年3月8日
通貨 トマン
アッバーシ
シャーヒ
サファヴィー朝(サファヴィーちょう、ペルシア語: صفويان Safaviyān)は、16世紀から18世紀前半にかけてペルシア (現在のイランを中心とした地域)を支配したイスラーム王朝(1501年 - 1736年)である。
概要
[編集]ホラーサーンからメソポタミアに至る歴史的ペルシア地域を支配した王朝としては初めてシーア派の一派十二イマーム派を国教とし、現在のイランとアゼルバイジャン、イラク南部で十二イマーム派が住民の大多数を占める状況を導いた。
かつてはアラブ・テュルク・モンゴルなどの異民族の支配を脱して数百年ぶりにペルシア人が建設した民族王朝としばしば説明され、十二イマーム派の採用もペルシア人の民族意識の高揚によるとの理解が一般的であった。しかし、現実にはサファヴィー朝の勃興はトゥルクマーンと呼ばれるペルシア(現イラン・アゼルバイジャン)一帯に遊牧していたテュルク系遊牧民の軍事力に依っており、初期の国制もセルジューク朝から白羊朝までのペルシア諸王朝にみられたのと同様に遊牧民の有力部族が地方の封建領主として実権を握り、ペルシア人の官僚(タージーク)が文官として君主を支えるという体制から外れるものではない。
そもそも、初代君主であるイスマーイール1世自身も祖母をテュルク系王朝白羊朝の英主ウズン・ハサンの妹、母をウズン・ハサンの娘とするきわめてテュルク系の血筋の濃い人物であった。ソ連解体により新たに独立したアゼルバイジャン共和国の歴史学会では、サファヴィー朝をイランを征服したアゼルバイジャン人王朝とみているほどである。この王朝が系統的にいずれの民族に属しているかは、この王朝の性格を考える上ではっきりと規定することは難しいし、規定すること自体はあまり重要ではない。しかし、この王朝が十二イマーム派を採用したことでイラン、アゼルバイジャンなどにシーア派が根付き、これらの地域が他の地域から政治的・文化的に分かれた地域として、イラン国家、アゼルバイジャン国家に繋がる民族意識の基礎が築かれたことは否定できない[1]。
歴史
[編集]サファヴィー朝の起源
[編集]サファヴィー朝の遠源は、13世紀末から14世紀初頭頃のイルハン朝期のペルシアに生きたスーフィー、サフィー・ウッディーンが興したイスラム神秘主義サファヴィー教団である。アゼルバイジャン地方のアルダビール(現イラン北西部)に生まれたサフィー・ウッディーンは、神秘主義の師シャイフ・ザーヒドの娘婿となって師の教団を受け継ぎ、サファヴィー教団を興した。サファヴィーとは、サフィーに従う者達という意味である。教主(シャイフ)の座はサフィー・ウッディーンの子孫によって世襲され、歴代の教主は信徒からの寄進によって富を蓄えて、サフィー廟のあるアルダビールを中心に隠然たる勢力を築きあげていった。
サフィー・ウッディーン自身はスンナ派に属していたといわれるように、サファヴィー教団は本来はスンナ派に近い立場の教義をもっていた。しかし15世紀中頃、教主の座を巡ってサファヴィー家の中で起こった争いに敗れたジュナイドが、シーア派の中でも特に過激とされる「過大派(グラート)」に類する教説を唱え、スンナ派の教えに飽き足らない、シャーマニズム的な要素を色濃く残した東アナトリアやアゼルバイジャンのトゥルクマーン達を信者に取り込んで軍事力を獲得し、教主の座を実力で奪取するに及んで宗教的に先鋭化した。この信徒の遊牧民達は、後にジュナイドの子ハイダルが12人のイマームを象徴させて白い布を十二巻きした赤いターバンを着用させ始めたことから、テュルク語で「紅い頭」を意味するクズルバシュ(キズィルバーシュ)の名で呼ばれるようになる。クズルバシュの指導者として政治権力化したサファヴィー教団は、タブリーズを都としてアゼルバイジャンを支配する世俗権力白羊朝の利害と関りあうことになり、彼らと和戦を繰り返した[2]。
新国家の形成
[編集]白羊朝との戦いでサファヴィー教団はハイダル、シャイフ・アリーと2代の教主を立て続けに失い、サファヴィー教団をわずか7歳で継いだハイダルの次男でシャイフ・アリーの弟のイスマーイールは、1499年、12歳の時白羊朝の混乱に乗じて亡命先のギーラーンから檄文を発し、クズルバシュを決起させて兵をあげ、1501年、ついに白羊朝を破ってその都タブリーズを占領した。これにより建国されたサファヴィー朝はタブリーズを最初の都とする。イスマーイール1世はサファヴィー教団の教主であると同時に優れた資質をもった詩人でもあり、テュルク語で詩作してクズルバシュの宗教的情熱をかきたてた。こうしてサファヴィー朝は宗教的情熱に支えられ、クズルバシュの軍事力により、またたくまにペルシアの中部から西部を統一する。
1510年、中央アジアに覇権を確立しヘラートに拠るティムール朝最後の政権を滅ぼして、ペルシア東部のホラーサーンに勢力を伸ばしつつあったシャイバーニー朝のムハンマド・シャイバーニー・ハン率いるウズベク遊牧民の軍と、サファヴィー朝のイスマーイール1世率いるクズルバシュ遊牧民の軍は、ホラーサーンのメルヴで衝突した。この戦いはサファヴィー朝の圧勝に終わり、英主シャイバーニー・ハンを失ったシャイバーニー朝の南下は挫かれることになった。
チャルディラーンの戦いの敗戦とクズルバシュの台頭
[編集]一方、サファヴィー朝の成功は、オスマン帝国の支配下にありながら、中央集権的な帝国からは政治的に疎外されていた東部・中部アナトリアの遊牧民に帝国からの離反の傾向を呼び起こした。1514年、オスマン帝国スルタンのセリム1世はアナトリアの不安を一度に取り除く決意を固め、アナトリア東部のチャルディランでサファヴィー朝軍と会戦した(チャルディラーンの戦い)。イスマーイール1世はこの戦いでもこれまでの遊牧民同士の戦いと同じような戦法で決戦に臨むが、よく組織された歩兵と大量の火砲を装備したオスマン軍の前に惨敗した[3]。
チャルディラーンの戦いの敗戦によりサファヴィー朝は多くの将兵を失い、宗教的情熱に支えられた軍事拡大の時代は終わりを迎えた。クズルバシュは占領地を支配領土として分配されて封建領主化し、それまでの過大派に属するシーア派信条は、シーア派の当時の中心地だったシリアから迎えた穏健な十二イマーム派の教えに取って代わられた。十二イマーム派はやがてペルシア社会に浸透し、サファヴィー朝は宗教的情熱に支えられた先鋭運動からテュルク系遊牧民の貴族とペルシア人の官僚(タージーク)に支えられた、セルジューク朝以来の伝統的なペルシアにおける遊牧イスラム王朝の典型に転化していった。
チャルディラーンの戦いの後、政治への興味を失ったイスマーイール1世は酒に溺れ(外交で対オスマン帝国同盟を模索していたとも)、失意の中で1524年に37歳で亡くなった。第2代の君主(シャー)となった息子のタフマースブ1世はわずか10歳で、抑えを失ったクズルバシュは君主の後ろ盾の座を巡って有力部族同士で内紛を繰り返し、サファヴィー朝は王朝最初の危機を迎えた。
成人したタフマースブ1世はシャイバーニー朝の侵攻を退け、1533年にクズルバシュでも有力者のフサイン・ハーン・シャムールーを処刑して部族を抑えることに成功し親政を開始した。タフマースブ1世はペルシア系を重視するなど人事面でクズルバシュを抑え、対外的にはシャイバーニー朝の侵攻を防ぎ、オスマン帝国との戦争(第一次オスマン・サファヴィー戦争)ではスレイマン1世(セリム1世の子)の盛んな攻勢をイラク・バグダードなど西部辺境の割譲でしのぎ、北西のコーカサス南部に進出してグルジア方面へ勢力を拡大した。また、首都をタブリーズから南東のガズヴィーンへ移したのもタフマースブ1世の治世である。
しかし1576年、タフマースブ1世が死ぬと後継者を巡る争いが起こり、サファヴィー朝は再び危機を迎えた。実権はタフマースブ1世の娘パーリー・ハーン・ハーヌムが掌握し、異母兄のイスマーイール2世を擁立し、翌1577年にイスマーイール2世が死ぬとその兄ムハンマド・ホダーバンデを傀儡として擁立するに至るが、彼女もやがてムハンマドの妻マフディ・ウリヤに殺害され、ウリヤも敵対するクズルバシュによって殺された。タフマースブ1世に抑えられていたクズルバシュも内乱を起こしペルシアは無政府状態となり、これを見てオスマン帝国とシャイバーニー朝が再び侵攻を開始し(第二次オスマン・サファヴィー戦争)、サファヴィー朝発祥の地タブリーズを含むアゼルバイジャンとホラーサーンの大部分が失われた[4]。1579年にはオスマン帝国の宰相ソコルル・メフメト・パシャを暗殺したことで一時的にオスマン帝国軍を撃退した。しかし、ウリヤとクズルバシュの対立が再燃してマフディ・ウリヤも後宮で絞殺され、ムハンマドの長男ハムザもオスマン・サファヴィー戦争で敗北し、1586年にクズルバシュに暗殺され、実権を握ったクズルバシュの内部対立が激化すると無政府状態に陥った。
アッバース1世の再興
[編集]1587年、ヘラートにいたムハンマドの王子アッバース(1世)はムルシド・クリー・ハーン・ウスタージャルー(波: مرشدقلی خان)に擁立されて兵をあげ、首都ガズヴィーンを占領して父から王位を譲り受けた。翌1588年、17歳のアッバース1世はクズルバシュを抑えて実権を掌握し、1590年にオスマン帝国及びシャイバーニー朝と和平を結んで軍事活動を中断した。
アッバース1世は、クズルバシュに頼った軍事制度を改め、オスマンにも対抗できる軍隊を目指した。クズルバシュから選出されたコルチ軍団と、グルジア系、アルメニア系出身の奴隷からなるグラーム軍団のふたつからなる常備騎兵軍を組織すると共に、ペルシア系定住民出身者を中心とする銃兵軍団、砲兵軍団を創設した。
1597年、アッバース1世は、ガズヴィーンからペルシア中部のイスファハーン(エスファハーン)に遷都し、イスファハーン旧市街の郊外に王宮を中心に庭園に囲まれた新都が造営された。新都と旧市街の中間に「王の広場」を中心に「王のモスク」(現イマーム・モスク)などのモスクが立ち並ぶ公共空間が建設され、ペルシア系、テュルク系の宮廷の人々のほか、アルメニア商人やインド商人など遠隔地交易に従事する多くの異郷出身者が住み着いたイスファハーンの人口は50万人に達した。
アッバース1世は盛んな軍事行動や建設事業の財源としてそれまでクズルバシュの部族が支配していた土地を没収して王領地に収め、君主権力を拡大した。アッバース1世の時代にサファヴィー朝はそれまでの遊牧国家型の分権的な体制を抜け出し、ライバルであったオスマン帝国と同じように、君主の絶対権力のもとで君主の信任によってのみ権力を保障されるエリートたちが統治を担う専制国家へとさらなる転身を遂げた[5]。
1598年、攻勢に出たアッバース1世はシャイバーニー朝を破ってホラーサーンを回復した。第三次オスマン・サファヴィー戦争では、1603年にオスマンと開戦してアゼルバイジャンを回復し、ディムディムの戦い(1609年 - 1610年)後の1612年にナスフ・パシャ条約が結ばれ、カヘティ・カルトリ遠征(1616年)に勝利して1618年にセラヴ条約が結ばれた。
アッバース1世の軍事的成功には、彼個人の才能も十分あるが、同時期に西欧諸国との同盟関係も大きいと言える。特に17世紀に全盛期を迎えたネーデルラント連邦共和国(オランダ)との同盟はサファヴィー朝の強化に貢献した。オランダの起こした軍事革命による恩恵も大きかっただろう。西欧との同盟関係は、オスマン帝国との政治的な問題でもあった。西欧は、ヨーロッパに食い込むオスマンを駆逐するために有益なアジアの同盟者として、オスマンの背後にいるサファヴィー朝との関係を重視したのである。オスマン帝国の弱体化は双方にとって有益であり、サファヴィー朝にとってもヨーロッパの先進的な軍事力は、国力強化や中央集権化など、国益に繋がるものであった。
イングランド王国とは重要な関係を築き、1616年にアッバース1世とイギリス東インド会社の間で貿易協定が結ばれた。この時期、ロバート・シャーリーに率いられたイングランド人冒険者の一団は、ペルシア軍の近代化に重要な役割を果たし、西側との接触を発展させた。1622年、イングランド・ペルシア連合軍はホルムズ島を占領し(ホルムズ占領)、ペルシャ湾からポルトガルとスペインの貿易商人を追放した[6]。1624年、ロバート・シャーリーは貿易協商を締結するために、イングランドにペルシア大使館を設立させた[7]。同1624年には100年ぶりにバグダードを再征服して創建当時のサファヴィー朝の領域を取り戻し、サファヴィー朝はアッバース1世のもとで最盛期を迎える。
衰退から滅亡へ
[編集]1629年にアッバース1世が亡くなった後は、孫のサフィー1世が即位した。第四次オスマン・サファヴィー戦争では、1638年に反撃に出たオスマン帝国によってイラクを失い、1639年にはガスレ・シーリーン条約によってオスマン朝との間の国境線が確定した。
1642年に10歳のアッバース2世が即位すると、大宰相サルー・タキが実権を掌握したが、1645年にサル・タキが政敵に暗殺されると親政を開始。1648年にはムガル帝国からカンダハールの奪還に成功した。
1666年に、政治への関心をもたない君主サフィー2世スライマーンが即位した。この時の様子は、フランス人商人ジャン・シャルダンがエスファハーンを訪れた紀行文「ペルシア王スレイマーンの戴冠」(1670年出版)から知ることが出来る。サフィー2世スライマーンのもとで、君主権力が絶対的な専制国家となっていたサファヴィー朝の活力を急速に失わせた。1669年頃、コサックのスチェパン・ラージンによるカスピ海沿岸への略奪(ダゲスタン・ペルシア・アストラハン遠征)では、デルベント、バクー、ラシュトを抜かれた。
無能な君主スルターン・フサインが続いたことで18世紀に入ると衰退は決定的となり、クルディスタンのクルド人、バローチスタンのバローチ人など辺境の民族が相次いで反乱を起こした。特にアフガニスタンでパシュトゥーン人のギルザイ部族に属するミール・ワイスが1709年に起こした反乱は、カンダハールにホータキー朝を自立させるに至った。1719年、ミール・ワイスの子ミール・マフムードはペルシア本土への進軍を開始しケルマーンを攻略した。
1722年、ホータキー朝軍がイスファハーンに迫るに至ってスルターン・フサインはようやく討伐軍を派遣したが、3月8日、グルナーバードの戦いにおいてサファヴィー朝軍は数において勝るにもかかわらず惨敗、壊滅した。マフムードはイスファハーンを包囲し、10月21日にフサインは退位、マフムードに降伏した。イスファハーンを失ったサファヴィー朝はこれにより事実上滅亡する。
ロシア帝国の南下政策
[編集]サファヴィー朝の崩壊をみてオスマン帝国スルタン・アフメト3世の宰相ネヴシェヒルリ・イブラヒム・パシャとロシア帝国皇帝・ピョートル1世がホータキー朝への侵攻(オスマン・ペルシア戦争、ロシア・ペルシャ戦争)を開始し、サファヴィー朝領の分割は時間の問題であった。特にロシアは南下政策の一環としてこれ以降もペルシアに干渉を繰り返し、ペルシアの混乱に拍車をかけることになった。
ナーディル・シャーの傀儡国家としてのサファヴィー朝再興
[編集]同年11月10日、フサインの子タフマースブ2世が旧都ガズヴィーンで即位するも、諸勢力の攻勢の前に逃亡を続けるが、やがてホラーサーンにいたクズルバシュ(トルクメン人)のアフシャール部族を率いるナーディル・クリー・ベグがタフマースブ2世を庇護し、その摂政となった。
マフムードの方はサファヴィー朝の王族を大量虐殺したせいで人心を失い1725年に暗殺され、従兄弟(甥とも)のアシュラフがギルザイ部族を率いたが、支配体制は不安定であった。ナーディルはこうした好機を見逃さず、ギルザイ部族を1729年のダムガンの戦いで破り、捕らえたアシュラフを翌1730年に処刑してイスファハーンを取り戻し、オスマン帝国との戦争(オスマン戦役)も有利に進めた。1735年にギャンジャ条約を締結してロシアとも和睦している。こうして、ナーディルはサファヴィー朝領の大半の回復に成功、自ら絶大な権威を確立し、サファヴィー朝の末期にペルシアの国力は急速に上昇した。
しかし、ナーディルの権勢が増大する一方、タフマースブ2世の影は薄くなり、1732年にオスマン帝国と不平等条約を結んだことを口実にしたナーディルに廃位・追放され、子のアッバース3世が傀儡としてナーディルに擁立された。そして1736年、ナーディルはアッバース3世を退位させ、サファヴィー朝は名実ともに滅亡した。
後世への影響
[編集]アフシャール朝からガージャール朝へ
[編集]ナーディルはナーディル・シャーと称してアフシャール朝を開いたが、ナーディルの死後ペルシアは群雄割拠状態となった。
1750年にカリーム・ハーンはサファヴィー朝の生き残りであるイスマーイール3世を擁立してザンド朝を興し、ペルシア統一を進めたが、1773年にイスマーイール3世が死去した頃には既にカリーム・ハーンがザンド朝の支配者となっていたため、以後サファヴィー朝の王子は擁立されなかった[8]。
1779年にザンド朝のカリーム・ハーンが死ぬと、ガージャール朝のアーガー・モハンマド・シャーが台頭し、1794年にモハンマドが勝利を飾り、ペルシアはガージャール朝が統治することになった。
歴代君主
[編集]サファヴィー朝は、サーサーン朝滅亡以来、王侯や有徳者を示す一般名詞化していたシャーを王固有の称号として復活させた。
- イスマーイール1世(1501年 - 1524年)
- タフマースブ1世(1524年 - 1576年)
- イスマーイール2世(1576年 - 1578年)
- ムハンマド・ホダーバンデ(1578年 - 1588年)
- アッバース1世(1588年 - 1629年)
- サフィー1世(1629年 - 1642年)
- アッバース2世(1642年 - 1666年)
- サフィー2世スライマーン(1666年 - 1694年)
- スルターン・フサイン(1694年 - 1722年)
- タフマースブ2世(1722年 - 1732年)
- アッバース3世(1732年 - 1736年)
- スライマーン2世(1749年 - 1750年)
- イスマーイール3世(1750年 - 1773年)
簒奪した君主
[編集]系図
[編集]①~⑦はサファヴィー教団教主(シャイフ)、1~11はシャー。
サフィー・ウッディーン① | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
サドル・ウッディーン② | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
ホージャ・アリー③ | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
イブラヒーム④ | ヨハネス4世 トレビゾンド皇帝 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
ジュナイド⑤ | ハディージャ・ベーグム | ウズン・ハサン 白羊朝スルターン | デスピナ・ハトン | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
ハイダル⑥ | アーラム・シャオ | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
アリー⑦ | イスマーイール1世1 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
スルターナ・ベーグム | タフマースブ1世2 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
ハイルン・ニサー・ベーグム | ムハンマド・ホダーバンデ4 | イスマーイール2世3 | パーリー・ハーン・ハーヌム | ハイダル | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
アッバース1世5 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
ムハンマド・バーキール・ミールザー (サフィー・ミールザー) | ディルラム・ハーヌム | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
サフィー1世6 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
アッバース2世7 | マリヤム・ベーグム | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
サフィー2世スライマーン8 | ミール・ワイス (ホータキー朝) | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
スルターン・フサイン9 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
タフマースブ2世10 | ジャウハル・ベーグム | マフムード | アブドゥル・アジズ | ラズィーヤ・ベーグム | ナーディル・シャー アフシャール朝シャー | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
アッバース3世11 | アシュラフ | シャーザデー・ベーグム | ファーティマ・スルターン・ベーグム | レザー・クリー・ミールザー | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
シャー・ルフ アフシャール朝シャー | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
脚注
[編集]- ^ 羽田、P307 - P311、永田、P196 - P197、ブロー、P24 - P25。
- ^ 羽田、P294 - P303、永田、P194 - P196、ロビンソン、P273、ブロー、P17 - P21。
- ^ 羽田、P243 - P247、P303 - P307、永田、P196 - P202、林、P104 - P112、ロビンソン、P274 - P275、ブロー、P21 - P27。
- ^ 羽田、P319 - P323、P345 - P357、永田、P202 - P208、林、P136 - P143、P176、ロビンソン、P275 - P281、ブロー、P27 - P62。
- ^ 羽田、P323 - P327、永田、P208 - P213、林、P177、P188、ロビンソン、P284 - P297、ブロー、P62 - P248。
- ^ Badiozamani, p.182
- ^ Maquerlot, p.17
- ^ 羽田、P406 - P410、永田、P215 - P227、林、P274、ロビンソン、P298 - P328、ブロー、P351 - P368。
参考文献
[編集]- 永田雄三・羽田正『世界の歴史15 成熟のイスラーム社会』中央公論社、1998年。
- 永田雄三編『新版 世界各国史9 西アジア史Ⅱ イラン・トルコ』山川出版社、2002年。
- 林佳世子『興亡の世界史10 オスマン帝国500年の平和』講談社、2008年。
- フランシス・ロビンソン著、小名康之監修『ムガル皇帝歴代誌』創元社、2009年。
- デイヴィッド・ブロー著、角敦子訳『アッバース大王 現代イランの基礎を築いた苛烈なるシャー』中央公論新社、2012年。