LaGG-3 (航空機)

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LaGG-3

モスクワの大祖国戦争博物館で展示されるLaGG-3 29型のモックアップ

モスクワの大祖国戦争博物館で展示されるLaGG-3 29型のモックアップ

LaGG-3Лавочкин-Горбунов-Гудков ЛаГГ-3ラテン文字表記の例:Lavochkin-Gorbunov-Goudkov, LaGG-3)は、第二次世界大戦時にソ連が開発した単発単葉戦闘機である。

開発[編集]

先に設計されたLaGG-1試作機1939年3月30日に初飛行したが、当局が航続距離の要求を800kmから1,000kmに変更したために再設計を余儀なくされた。また、LaGG-1は戦略物資の節減のために製としたために重量が嵩んだので、高出力エンジンへの換装が要求された。それに応えたのが本機である。2年後の1941年初頭には量産が始まったが、改良に手間取ったため、実際に運用が始まったのはその年の後半になってからであった。

設計[編集]

改良の結果、機動力については対抗機種であるBf 109 Fを上回るまでに改善されたが、その他の性能でおよぶことはできなかった。エンジンのアンダーパワーは完全には解消されなかった上、木材を大量に使用する特殊な機体構造が災いして重量過多になった。また、絶対数を確保するため大量生産に重点を置いたことで量産機には粗悪品が多く、前線に送られた機体の中には最高速度がカタログデータより40km/h以上低いものや、耐空性が無いものすらあった。被弾してもLaGG-3は鋼管骨組羽布張り構造のYak-1とは違い容易には火を噴かなかったものの、製のため被弾時に簡単に空中分解してしまった。パイロットたちはLaGG-3に乗ることは不幸な事だと考え、冗談交じりに「保証付きの塗装済棺桶лакированный гарантированный гробLakirovanniy Garantirovanni Grob 、頭文字を合わせると機番と同じLaGGとなる)」とまで呼んだ。度重なる要求に生産中でも改良が続けられ、主翼前縁隙間翼の採用、武装の削減などが行われた。しかし、同時期の他のソ連戦闘機と比べ機体が頑丈で、初期型は火力も強かった。また、防弾装備としては、座席後ろに設置された8mmの防弾鋼板、翼内燃料タンクを保護するセルフシーリングタンク、エンジン排気を冷却し燃料タンクへと注入することで発火を防ぐシステムなどが初期から実装されていた。

生産中にも引き続き改良が行われたために、生産ロットにより多少の変型が生じている。総生産数は6,258機で、生産型は66種類にもおよんだ。最終生産型の66型は操縦性能に大きな改善が見られ、1945年まで使用されている。エンジンの馬力不足の根本的な解決のため、ラボーチキンはLaGG-3にシュベツォフ M-82を搭載し、傑作機といわれるLa-5へと進化させた。

運用[編集]

1941年6月22日ドイツ侵攻時、LaGG-3はまだ後方で訓練の最中であった。この事から、当機の実戦参加はMiG-3Yak-1より遅く、8月からとなった。序盤は僅かであった配備数も、1942年5月頃には全戦闘機兵力のほぼ3分の1を占めるまでになっている。LaGG-3の性能とパイロット戦闘技術の低さもあり、かなりの苦戦を強いられた。だが、いくつかの連隊はこの機で戦果を挙げ「親衛」の名を冠しており、また、幾名かのパイロットもこの機でエースの称号を手にしている者が存在する。

1943年になると前線の機体は次第にYak-9La-5などに置き換えられていったが、海軍航空隊や極東方面では使用され続けており、1945年8月の対日参戦時にも最終生産モデルが投入されている。

鹵獲機[編集]

日本[編集]

1942年(昭和17年)、家族への思想弾圧と日本の政治宣伝に扇動されたソ連空軍極東部隊の曹長が、操縦マニュアルや機密文書を携行したままLaGG-3で亡命し、満州佳木斯飛行場を目指したが、対空砲火に遭遇したために畑地に胴体着陸した。機体は冷却器プロペラを損傷していたが、ハルピン郊外の野戦航空廠で飛行可能な状態に修復されて、9月26日から山本五郎少佐(飛行第85戦隊長)と吉田十二雄曹長(飛行実験部)による飛行試験が行われた。製機として見くびった彼らだったが、外板が滑らかに成形されており、エンジンの配管が整理されているのに驚嘆した。しかし、不時着時に損傷した冷却器とプロペラは完全に修復できず、冷却液の温度上昇とプロペラの振動には最後まで悩まされたほか、飛行85戦隊で行われた一式戦闘機との性能比較実験でも、速度性能が優れているのみと判断されて、脅威にはならないと結論づけられた。機体は日本本土へ空輸されたが、雁ノ巣飛行場で不時着して全損した[1]

フィンランド[編集]

フィンランド空軍のLaGG-3(LG-1)

フィンランド軍は、不時着した敵機を鹵獲・修理の後に運用しており、LaGG-3も修理された3機が、それぞれLG-1, LG-2 ,LG-3とナンバリングし運用していた。フィンランドは、LaGG-3を空戦向きとは考えず、高速爆撃機Pe-2迎撃の任に就かせていた。しかし、何度か迎撃の機会はあったものの、結局1機も撃墜する事はできていない。LG-1は、1944年2月16日32戦隊英語版のエイノ・コスキネンの操縦により、同一機種であるLaGG-3の撃墜を記録している。これが、フィンランドが運用したLaGG-3の唯一の戦果であった。

諸元[編集]

LaGG-3初期型の三面図
LaGG-3 33型

参考文献[編集]

  1. ^ 押尾一彦・野原茂『日本軍鹵獲機秘録』光人社 2002年 ISBN 4-7698-1047-4

関連項目[編集]