LaGG-3 (航空機)
LaGG-3 / ЛаГГ-3

駐機中のLaGG-3 66シリーズ
(第88戦闘機連隊所属、1943年夏撮影)
- 用途:戦闘機
- 分類:陸上戦闘機
- 設計者:
- ウラディーミル・ペトローヴィチ・ゴルブーノフ(主任設計者)
- スィミョーン・アレクセーイェヴィチ・ラヴォーチュキン
- ミヒール・イヴァーナヴィチ・ガードコフ
- 製造者:OKB-301設計局
- 運用者:
赤色空軍
- 初飛行:1940年3月28日(LaGG-3)
- 生産数:6,258機
- 生産開始:1941年初頭
- 運用開始:1941年後半
- 退役:1944年
- 運用状況:退役
LaGG-3(Lavochkin-Gorbunov-Gudkov LaGG-3 ラググ3 / 露 : ЛаГГ-3 ラーググ・トゥリー)は、第二次世界大戦時にソ連が開発した単発単葉の戦闘機である。
試作機として製造されたLaGG-1の生産型として改良が加えられた。
開発[編集]
先に設計されたLaGG-1の試作機は1939年3月30日に初飛行したが、当局が航続距離の要求を800kmから1,000kmに変更したために再設計を余儀なくされた。また、LaGG-1は金属を節減するため多用されたデルタ合板で重量がかさみ、高出力エンジンへの換装が要求された。それに応えたのが本機である。2年後の1941年初頭には量産が始まったが、改良に手間取ったため、実際に運用が始まったのはその年の後半になってからであった。
設計[編集]
改良の結果、機動力については対抗機種であるBf 109 Fを上回るまでに改善されたが、その他の性能でおよぶことはできなかった。エンジンのアンダーパワーは完全には解消されなかった上、エンジン回り以外はデルタ合板で構成するという機体構造が災いして重量過多になった。また、絶対数を確保するため大量生産に重点を置いたことで量産機には粗悪品が多く、前線に送られた機体の中には最高速度がカタログデータより40km/h以上低いものや、耐久性が低いものすらあった。
鋼管骨組羽布張り構造のYak-1とは違い、耐火性に優れたデルタ合板を多用したLaGG-3は被弾しても容易には火を噴かなかった。また防弾装備として座席後部に8mm防弾鋼板、翼内燃料タンクを保護するセルフシーリングタンク、エンジン排気を冷却し燃料タンクへと注入することで発火を防ぐシステムなどが初期から実装されており、同時期の他のソ連戦闘機と比べ被弾に強かった。しかしデルタ合板はアルミより強度に劣るため機動飛行のGや被弾の衝撃で合板が割れ空中分解することもあった。パイロットたちはLaGG-3に乗ることは不幸な事だと考え、木製であることにかけて「保証付きの塗装済棺桶(лакированный гарантированный гроб、Lakirovanniy Garantirovanni Grob 、頭文字を合わせると機番と同じLaGGとなる)」とまで呼んだ。
度重なる要求に生産中にも改良が行われたために、生産ロットによりバリエーションが生じている。改良には自動スラットの採用など性能向上もあったが、重量を減らすため武装を削減するなど同世代機としては強かった火力を妥協するトレードオフの変更もあった。
総生産数は6,258機で、生産型は66種類にもおよんだ。最終生産型の66型は操縦性能に大きな改善が見られ、1945年まで使用されている。エンジンの馬力不足の根本的な解決のため、ラボーチキンはLaGG-3にシュベツォフ M-82を搭載し、傑作機といわれるLa-5へと進化させた。
運用[編集]
1941年6月22日のドイツ侵攻時、LaGG-3はレニングラードやモスクワ、極東でまだ訓練の最中であり、国境付近の部隊には配備されていなかった。このため実戦参加はMiG-3やYak-1より遅く、8月からとなった。序盤は僅かだった配備数も、1942年5月頃には全戦闘機兵力のほぼ3分の1を占めるまでになっていた。本機はその性能とパイロットの技量の低さもあり、ドイツ戦闘機を相手にかなりの苦戦を強いられた。しかし本機の配備された幾つかの連隊は戦果を挙げて「親衛」の名を冠され、また幾名かのパイロットはエースの称号を得ている。
1943年になると前線の機体は次第にYak-9やLa-5などに置き換えられていったが、海軍航空隊や極東方面では使用され続けており、1945年8月の対日参戦時にも最終生産モデルが投入されている。
鹵獲機[編集]
日本[編集]
1942年(昭和17年)、家族への思想弾圧と日本の政治宣伝に扇動されたソ連空軍極東部隊の曹長が、操縦マニュアルや機密文書を携行したままLaGG-3で亡命し、満州佳木斯の飛行場を目指したが、対空砲火に遭遇したために畑地に胴体着陸した。日本陸軍に鹵獲された機体は冷却器やプロペラを損傷していたが、ハルピン郊外の野戦航空廠で飛行可能な状態に修復されて、9月26日から山本五郎少佐(飛行第85戦隊長)と吉田十二雄曹長(飛行実験部)による飛行試験が行われた。木製機として見くびった彼らだったが、外板が滑らかに成形されており、エンジンの配管が整理されているのに驚嘆した。しかし、不時着時に損傷した冷却器とプロペラは完全に修復できず、冷却液の温度上昇とプロペラの振動には最後まで悩まされたほか、操縦桿はI-16よりさらに重く、飛行第85戦隊で行われた一式戦闘機との性能比較実験でも、速度性能が優れているのみと判断されて、脅威にはならないと結論づけられた。機体は日本本土へ空輸されたが、雁ノ巣飛行場においてブレーキの故障により離陸に失敗し損傷、修理不能と判断され、その後各部が試験に用いられた[1]。
フィンランド[編集]

フィンランド軍は、不時着した敵機を鹵獲・修理の後に運用しており、LaGG-3も修理された3機が、それぞれLG-1, LG-2 ,LG-3とナンバリングし運用していた。フィンランドは、LaGG-3を空戦向きとは考えず、高速爆撃機Pe-2迎撃の任に就かせていた。しかし、何度か迎撃の機会はあったものの、結局1機も撃墜する事はできていない。LG-1は、1944年2月16日に32戦隊のエイノ・コスキネンの操縦により、同一機種であるLaGG-3の撃墜を記録している。これが、フィンランドが運用したLaGG-3の唯一の戦果であった。
諸元[編集]
- LaGG-3 33型
- 全幅:9.80m
- 全長:8.90m
- 全高:2.57m
- 翼面積:17.50m²
- 空虚重量:2,620kg
- 全備重量:3,300kg
- 発動機:クリーモフ M-105PF液冷V型12気筒×1
- 出力:1,180馬力
- 最高速度:560km/h(575km/h)
- 航続距離:650km
- 実用上昇限度:9,600m
- 乗員:1名
- 武装:ShVAK 20mm機関砲×1、UB 12.7mm機銃×2、小型爆弾またはRS-82 ロケット弾×6
参考文献[編集]
- ^ 押尾一彦・野原茂『日本軍鹵獲機秘録』光人社 2002年 ISBN 4-7698-1047-4