BMW・E30 M3 (グループA)

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BMW・M3
E30
M3 エボリューション(1987)
M3 エボリューション2(1988)
M3 スポーツエボリューション(1989)
ボディ
ボディタイプ 2ドアセダン[1]
エンジン位置 フロント
駆動方式 後輪駆動
パワートレイン
エンジン 直列4気筒 DOHC 16バルブ 2,302 cc
最高出力 200 ps[2]
最大トルク 24.0 mkg/4,750 rpm[2]
変速機 5速MT
前:マクファーソン・ストラット/後:セミ・トレーリングアーム[2]
前:マクファーソン・ストラット/後:セミ・トレーリングアーム[2]
車両寸法
ホイールベース 2,562 mm[2]
全長 4,360 mm[2]
全幅 1,675 mm[2]
全高 1,365 mm[2]
車両重量 1,200 kg[2]
系譜
先代 635CSi
後継 M3 (E36)
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M3 (E30)は、ドイツの自動車メーカーであるBMW1986年から1991年にかけて製造していた、スポーツカーM3」の初代モデルである。

概要[編集]

M3は、BMWがツーリングカーレースでの使用を目的に、3シリーズをベース車両として開発・製作したグループAホモロゲーション車両である。635CSiの後継としてサーキットだけでなくラリーでも活躍、ヨーロッパや日本などで数々のタイトルと優勝を獲得した。1990年代前半、各国のツーリングカーレースがクラス2規定へ移行する中、活動を終えた。

1960年代以降、02シリーズや初代3シリーズで小型セダン市場において成功を収めてきたBMWは[3]、1982年には第2世代の3シリーズ、E30を発表した。しかし、

メルセデス・ベンツも同年に190を発売し小型セダン市場に参入した。更にエンジン・チューニングをコスワースに依頼した高性能車両190 E 2.3-16を発表し、モータースポーツによるプロモーション活動を展開し始めた。小型セダン市場での強敵の出現に対して、BMWはグループA用ホモロゲーション車両・M3を開発。F1からも撤退し、1987年からツーリングカーレースでメルセデスを迎え撃つことになった[4][5][6][7]

メカニズム[編集]

グループA車両はエンジン、サスペンション、ブレーキなどの形式変更は認められず、外観も市販状態を維持しなければならなかった。よって市販の段階で、一定の空力や動力性能を備えている必要があった[8]。そのためBMWモータースポーツは、3シリーズをベースに各種の改造を施し、市販用のM3を開発・製作した。

ダウンフォース増加を目的にフロント/リヤスポイラー、サイドスカートを装備。空気抵抗を低減させるため、Cピラーからトランクへの形状も3シリーズから改造された[9]。さらにフロントバンパーや[10]リヤウインド・フレーム、リヤスポイラー、トランクリッドはプラスチックで製作され、軽量化が図られている[11] 。これらの改良により、Cd値は3シリーズの0.38から0.33へ改善された[11] [12]

エンジンは、それまでツーリングカーレース用車両の主力だった635CSiや325iでは直列6気筒を搭載していたが[13]、M3では一段のコーナリング性能の向上を求めてM1や635CSiに搭載されていた直列6気筒のM88エンジン(de)を4気筒化したS14B23型エンジン(de)を採用した[14][15]。エンジン排気量は2,302ccとされ、グループA規定ではディビジョン2に該当した。燃料供給システムはボッシュのモトロニックで[16] 、トランスミッションは5速MTのクロースレシオ[11]。ブレーキはフロント/リヤともにベンチレーテッド・ディスクで、市販車ではABSも装備されていた[17] 。またブリスターフェンダーによってトレッド幅を拡大し、10インチ幅のリムホイールと15インチホイールを装備可能とした[18]

市販車のM3 エボリューション2に貼られた、FIAの公認を示すプレート

レース仕様M3の開発テストには元F1チャンピオンのニキ・ラウダも参加して熟成が進められていった[19]。市販車で200psを発揮していたエンジンは、レース仕様では294psを発生するようになり、駆動系やシャシーも改良された[20][21]。1987年にM3 エボリューション、1988年にはM3 エボリューション2と、継続的にエボリューションモデルが発売され、戦闘力はさらに増した[9][22]

デビューした1987年にWTC、ETC、DTMの3カテゴリーでタイトルを獲得し、WRCでも優勝した競争力の高さと、デファレンシャル・ギヤの変更程度で済むレースセッティングの簡便さ[23]、メンテナンスフリーなエンジンも評価され[24]世界各国のレーシング・チームがM3の導入を希望した。既に1987年のシーズン開幕前に、BMWモータースポーツ社が40台のグループA仕様のM3を出荷した他[25]シュニッツァー、リンダー(de)、プロドライブなどもコンペティション仕様のM3を製作・販売した[21]。プロドライブの創業者のデビッド・リチャーズよると、プロドライブだけで56台のM3を製作するなど[26][注釈 1]、サーキット、ラリーを問わず広く活躍した。

M3のグループA仕様車の価格は1987年にキットのみで約1300万円[28]、1990年デビューのM3 スポーツエボリューションのグループA仕様は新車で約2800万円、従来車に追加装備するコンバージョン・キットは約1000万円だった[29]

戦績[編集]

BMW・E30 M3(グループA)
1987年のETCを制したリンダー 47号車
概要
製造国 ドイツ
ボディ
ボディタイプ モノコック 2ドアセダン[30]
エンジン位置 フロント
駆動方式 後輪駆動
パワートレイン
エンジン BMW・S14型 2,322 cc 直列4気筒 NA[30]
変速機 ゲトラグ製 5段/リバース MT[30]
車両寸法
ホイールベース 2,565,5 mm[31]
全長 4,355 mm[30]
全幅 1,680 mm[30]
全高 1,330 mm[30]
車両重量 990 kg
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サーキット[編集]

世界ツーリングカー選手権、ヨーロッパツーリングカー選手権[編集]

1987年、ツーリングカーレースの世界選手権(WTC)が初めて開催された。だがFISAが開幕直前にエントラントに1台につき6万ドルの登録料の支払いを求めたことから混乱が起きた。結果、登録料を払って開幕戦に出場したのは15台のみで、M3ユーザーで開幕戦 モンツァに登録料を払って出場したのは、シュニッツァーとリンダーからエントリーした4台のみだった[32]。トラブルは決勝レースでも続いた。M3のカーボン製のトランクリッドがレギュレーション違反とされ、エントリーした8台中7台が失格になった。このため1位でゴールしたシビエムのジョニー・チェコット/リカルド・パトレーゼ組の結果も取り消されることになった[33][34]。その後第2戦 ハラマ、第3戦 ディジョンとM3が連勝し、第4戦 ニュルブルクリンクはフォード・シエラが制した[35]

第5戦 スパ・フランコルシャン24時間は、シビエムのエリック・ヴァン・デ・ポール/ジャン‐ミッシェル・マルタン/ディディエ・ティス組が優勝。3位までをM3が占め、マシンの信頼性の高さを証明した[36]。しかし第6戦 ブルノではフォードがエボリューションモデル、シエラ RS500をデビューさせ、予選で1~4位までを独占。決勝でもエッゲンバーガーにより1‐2でゴールしデビューウィンを飾った[37]。雨中の戦いとなった第7戦 ツーリストトロフィー(en)はシビエムのファビオ・マンチーニ/エンツォ・カルデラーニ組、シュニッツァーのエマニュエル・ピロ/ロベルト・ラヴァーリア組により1‐2フィニッシュを達成[38]

地元のホールデン・コモドアが制した第8戦 バサーストの後[39]、カルダス、ウェリントン、そして最終戦 インターTECまでシエラが3連勝を決めてシーズンは終了した。ドライバーズタイトルはBMWのラヴァーリアが獲得。しかしチームズタイトルはフォードのエッゲンバーガーの手に渡ることになった[40]。全14戦中8戦がWTCとの併催で行われたヨーロッパツーリングカー選手権(ETC)は[41]、リンダーのヴィンフリート・フォクトがチャンピオンとなり、チームズタイトルもリンダーの47号車が獲得した[42]

1988年のETCは、ラヴァーリアが前年のWTCに続いてチャンピオンを獲得した。マシン性能ではフォード・シエラがM3を上回っており、BMWは11戦中3戦しか勝つことが出来なかった。しかしBMWがラヴァーリアにタイトルを取らせるために、シーズン当初から上位走行中のマシンにラヴァーリアを搭乗させ、ポイントを取らせる作戦が実を結んだ[43]。またETC 第7戦 ニュルブルクリンクでエボリューション2がデビューした。併せてパワーバンドの狭いS14型エンジン用に6速ミッションも用意されたが、ドライバー陣の評価は芳しいものではなかった[44]。この他1988年にはアジア・オセアニア地域で、アジア・パシフィックツーリングカー選手権(en)が全4戦で開催され、M3をドライブするトレバー・クロウがチャンピオンに輝いた[45]

ドイツツーリングカー選手権[編集]

BMW・E30 M3スポーツエボリューション(DTM)
1992年、ロベルト・ラヴァーリアのシュニッツァーM3
1991年の有力プライベーター、MMディーベルスのM3。チームズ・タイトルで10位を記録
概要
製造国 ドイツ
ボディ
ボディタイプ モノコック 2ドアセダン[10]
エンジン位置 フロント
駆動方式 後輪駆動
パワートレイン
エンジン BMW・S14型 2,493 cc 直列4気筒 DOHC NA[46]
変速機 BMW製 5段 or 6段 MT[47]
車両寸法
ホイールベース 2,565,5 mm[47]
全長 4,355 mm[47]
全幅 1,680 mm[47]
全高 1,330 mm[47]
車両重量 1040 kg[47]
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1987年からドイツツーリングカー選手権(DTM)登場したM3は、ザクスピードのエリック・ヴァン・デ・ポールがドライバーズ・タイトルを獲得し、初年度から成功を収めた[48]。その後1989年にもシュニッツァーのロベルト・ラヴァーリアが王者に輝いた[49]

1990年には2.5リッターエンジン搭載のスポーツエボリューションがデビュー。DTM仕様では、2.3リッター仕様から15psアップの330psを発生させ、フロント/リヤスポイラーを調節可能とし空力性能も進歩した[50][46]。しかしDTMに新規参入したアウディ4WDマシン・V8クワトロが強く、ドライバーズ・タイトルをハンス=ヨアヒム・スタックに奪われ、BMW勢ではジョニー・チェコットの2位が最上位だった[51]。一方、チームズ・タイトルはシュニッツァー、ビガッツィのBMW勢が1、2位を占めた[52]

1991年のBMW陣営は、ザクスピードがメルセデス陣営に移籍しシュニッツァー、ビガッツィ、リンダーがワークスチームとして活動した[53]。エンジン出力は340psに増し[54]、ワークス車のみABSも装備され戦闘力の向上が図られた[55]。だが、アウディだけでなくメルセデスにも水をあけられ、ドライバーズ・ランキングではチェコットの4位が最上位だった。

1992年のDTM M3。特例で認可された大型のリヤスポイラーが目立つ

1992年、BMWは3年ぶりのタイトル奪還のために、ワークスのシュニッツァーにイタリアツーリングカー選手権(CIVT)を主戦場としていたロベルト・ラヴァーリアを招喚。この他ビガッツィ、ジョニー・チェコットのFINAモータースポーツの3チームをワークスとし、リンダーはワークスから外れることになった[56][57]。1992年型DTM M3のエンジンは、前年型から更に20psアップの約360psを発生させた[58]。しかしシーズンが開幕してみると、メルセデスに対してマシン性能が大きく劣っていることが明らかになった。シーズン中盤にはメルセデスの了解の許、フロント/リヤスポイラーのモディファイが行われた[59]。これによりノリスリンク、ブルノで4連勝し一時的に息を吹き返したが[60]、最終的には24戦中7勝に終わり、メルセデスに完敗を喫することになった[61]。シーズン終了後、BMWはDTMからの撤退を決断。DTMにおけるE30 M3の活躍に終止符が打たれた[62]

ナショナル選手権[編集]

1991年のBTCCで活躍したクラス2仕様のM3。クラス2ではエボリューションモデルは禁止されていた[63]

イギリスツーリングカー選手権(BTCC)では、1988年にプロドライブM3に乗るフランク・サイトナーが[64]、翌1989年にはジェームス・ウィーバーがBクラスを制覇した[14]。1991年、BTCCのクラス2規定への完全移行に対応しイタリア向けの2リッター車、320isに搭載のS14B20型エンジンを移植したクラス2仕様のM3が登場し[65]、ビック・リー・モータースポーツのウィル・ホイが初の王者に輝いた[66]。1992年からBMWはE36 3シリーズの318isを投入、 M3はBTCCから退場した。

フランス・ツーリングカー選手権(fr)では、1987年にガレージ・ドゥ・バックのファビアン・ジロワがドライバーズ・チャンピオンとなり[67]、さらにジャン-ピエール・マルシェが1988、1989年とチャンピオンを獲得。マルシェは1990年のシリーズも制し3連覇を達成した[68]

イタリア・スーパーツーリスモ(CIVT)(it)では1987年にミケーレ・デ・ジョイア、1989年にジョニー・チェコット[69]、1990、1991年にはロベルト・ラヴァーリアが連覇を達成[70][71]。しかし1992年、CIVTはアルファロメオ・155GTAの独壇場となり20レース中17レースで優勝し、シリーズを制圧。M3は3勝に終わった[72]。CIVTも1993年からクラス2に移行し、M3の時代は終わった。

耐久レース[編集]

スパ・フランコルシャン24時間を制した2台のDTM M3。1990年のシュニッツァー(左)と1992年のビガッツィ(右)

WTC、ETCに組み込まれていた1987、1988年にも連覇していたツーリングカーのクラシックレース、スパ・フランコルシャン24時間では、1990年にDTMクラスからエントリーのジョニー・チェコット/ファビアン・ジロワ/マルクス・エストライヒ組が、グループA仕様のシエラとの接戦を制して優勝。ディエター・クェスター/マルク・デュエツ/クリスチャン・ダナー組も2位でゴールし、シュニッツァーが1-2フィニッシュを達成した。またビガッツィが4位、リンダーも5位でゴールした[73]。1992年にも、DTMクラスから出場のビガッツィのジャン‐ミッシェル・マルタン/スティーブ・ソパー/クリスチャン・ダナー組が優勝。2位にシュニッツァー、3位にもビガッツィのマシンが入り表彰台を独占した[74]ニュルブルクリンク24時間でも1989、1990年はグループA仕様で[74][75]、1991、1992年はDTM仕様で4連覇を達成している[76][77]

マカオ・ギアレース[編集]

モータースポーツの複合イベント、マカオグランプリで行われるギアレース(en)には、例年ヨーロッパと日本の有力チームが出場していた。BMWも635CSiでギアレースに参戦していたが、1987年からM3をエントリーさせるようになった。1987年はロベルト・ラバーリア、ディエター・クェスター、ファビアン・ジロワの順でシュニッツァーが1‐2‐3を達成[78]。シュニッツァーは翌1988年もアルフリート・ヘーガー、マルクス・エストライヒによって1‐2で連覇した[79]。しかし1989年はフォード・シエラ勢に完敗。地元のケビン・ウォンの10位が最高成績と惨敗に終わった[80][81]。1990年も長谷見昌弘日産・スカイラインGT-Rに敗れ、シュニッツァーのエマニュエル・ピロが2位、ヨアヒム・ヴィンケルホックは3位に終わった[82][83]

1991年からDTMマシンの参戦が可能となり、シュニッツァーのピロが雪辱。初めてマカオを制覇した。この年はJTC・ディビジョン2のトップチーム、ステラ・インターナショナルがマカオ・ギアに参戦。ステラはDTM M3での参戦を求めたが実現せず、グループA仕様のM3で出走し7位でゴールした[84]。翌1992年もピロが優勝し連覇。ヴィンケルホック、ラバーリアも2、3位に入りシュニッツァーが1987年以来2度目の1‐2‐3フィニッシュを達成した[85]。1993年、BMWのレース活動はクラス2ツーリングカーに移行しており、ギアレースにもシュニッツァーは318iを出場させていたが、地元のドライバー、チャールズ・カーンが1992年仕様のDTM M3で参戦し優勝した[86]

全日本ツーリングカー選手権[編集]

1993年のJTCで活躍した、チーム・テイクワンの綜合警備M3

日本のツーリングカーレース、全日本ツーリングカー選手権(JTC)には、1987年のJTC第4戦 菅生で、オートビューレックのオートテックM3がウィル・ホイ/柳田春人組によってディヴィジョン2からデビューした。優勝したスープラと同一周回でゴールし総合2位・クラス優勝を達成。WTCで見せていた速さをJTCでも発揮した[87]。オートビューレックは1987年のディビジョン2で2勝をあげ、クラスタイトルを奪取した[88]BMW JAPANは、日本でもメーカーが直接支援するワークスチームをJTCに参戦させることも検討したが最終的に断念し、プライベートチームに活動が委ねられることになった[89]

1988年は前年の活躍によりM3のエントリーが増加。ディヴィジョン2はM3のワンメイク状態と化した。ボルクレーシングと[90]、東名スポーツのアドバン・アルファは前年WTCを戦ったシュニッツァーの放出品を使用した他、トリイ・レーシングはザクスピード製を採用し[91]、コスモオイルM3を走らせるジーベック・モータースポーツはプロドライブ製M3を導入した[92][注釈 2]。また最終戦 インターTECから、アドバン・アルファM3を走らせる東名スポーツがシュニッツァー製の新車を購入した。このマシンは車両重量が従来車から約70㎏軽量化され約990㎏となり、エンジンがシュニッツァー製から東名エンジンチューンのものに換装されていた。アドバン・アルファM3はインターTECのディビジョン2クラスで優勝し、競争力の高さを証明した[94]。シリーズはオートビューレックが4連勝をあげるなどして2年連続のクラスチャンピオンとなった[95]。1989年は東名スポーツのアドバン・アルファM3が段違いの強さを見せたシーズンだった。開幕戦 西日本の予選でコースレコードを0.7秒更新し、2位に1秒以上の差をつけてポールポジションを獲得。決勝でも他のM3を全車周回遅れにして圧勝した[96]。その後も他のM3勢を寄せ付けず、5勝をあげて高橋健二が初のチャンピオンとなった[95]

1990年は2勝をあげたステラ(旧オートビューレック)が復権を果たし、ローランド・ラッツェンバーガー/中川隆正組が初タイトルを獲得した[97][95]。マシンに関しては、エンジン出力が従来車より20~30ps向上し約300psに達するとされるM3 スポーツエボリューションの導入がJTCでも進んだ[29]。第4戦 レース・ド・ニッポンで、ケガニが従来車をコンバージョンキットで換装したスポーツエボリューションをデビューさせたのを嚆矢として[98]、続く西仙台ハイランドでは、ステラと東名スポーツも従来車をスポーツエボリューションに換装して出場した[99]。更にステラは最終戦 インターTECで、新車のスポーツエボリューションを導入した[100]。1991年もステラが3勝をあげ連覇[101]。1992年は、ケガニ茂木和男/小幡栄が2勝をあげシリーズ初制覇。チーム・オーバーテイクは3勝をあげるもランキング2位にとどまった[101]。 全9戦に拡大して行われた1993年は、ステラが5勝をあげ通算5度目の戴冠。同年限りでJTCは終了し、全日本選手権でのM3の活躍に終止符が打たれた[101]

N1耐久には、1992年からクラス2にE30 M3でエントリーするチームが現れ[102]、1993年に藤村満男/眞田睦明組がクラス2チャンピオンとなっている[103]

ラリー[編集]

BMW・E30 M3(ラリー)
ADZ 9596
EDZ 4364
ボディ
ボディタイプ モノコック 2ドアセダン[30]
エンジン位置 フロント
駆動方式 後輪駆動
パワートレイン
エンジン BMW・S14型 2,322 cc 直列4気筒 NA[30] [104]
変速機 5段 or 6段 MT [105]
車両寸法
ホイールベース 2,562 mm[105]
全長 4,360 mm[105]
全幅 1,675 mm[105]
全高 1,365 mm[105]
車両重量 1,050 kg[105]
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世界ラリー選手権[編集]

M3によるラリー活動は、プロドライブのデビッド・リチャーズがBMWに提案したことにより始まった。BMW本社からは十分な支援は得られなかったが、フランスとベルギーのディーラーの支援もあり、ナショナル選手権を中心としたプロジェクトが始動した[106]。活動初年度、プロドライブの世界ラリー選手権(WRC)出場は第5戦 ツール・ド・コルスの1戦のみだったが、そのツール・ド・コルスでベルナール・ベガン(fr)がイブ・ルーベ、ミキ・ビアシオンのランチア勢を抑えて優勝を成し遂げた。ベガン、プロドライブ共にWRC初優勝であり、BMWとしても1973年にアキム・ウォームボルド/ジャン・トッド組が2002Tiiでオーストリアン・アルペンを制覇して以来、14年ぶりの優勝であった[107][108]

1989年のポルトガル・ラリーで、5位に入賞したマルク・デュエツ/アラン・ロペス組のEDZ 4346

その後マシンの開発も徐々に進展し、当初はツーリングカーレース用を使用していたエンジンも、1987年シーズン後半にはBMWによってラリー用のエンジンが開発された[109]。1988年にはプロドライブが6速ミッションを独自に開発し[110]1000湖ラリーでは、WRCで初のトラクションコントロールシステムアリ・バタネン車に装備し実戦投入した[26]

1989年、FINA(en)のスポンサードを得たプロドライブとマルク・デュエツ(fr)はモンテカルロ、ポルトガル、ツール・ド・コルス、1000湖、サンレモの5戦に出場するプログラムを立てた[111]。モンテカルロ8位、ポルトガルでは5位と好成績を残し、フランソワ・シャトリオ(fr)とベガンも出場したツール・ド・コルスではシャトリオが2位、ベガンが5位、デュエツは6位と3台揃って入賞を果たした[112]。その後、デュエツはサンレモでも7位に入賞し、ドライバーズ・ランキングで13位の成績を残した。WRCデビュー当時は275psだったエンジン出力も[113]、1989年には300psオーバーに達していた[26]。シャトリオは1990年のツール・ド・コルスでも3位に入る健闘を見せた[26]

ヨーロッパラリー選手権[編集]

E30 M3のヨーロッパラリー選手権(ERC)での初勝利は1987年10月にフランスで行われた係数3のイベント[注釈 3]、第41戦 ラリー・ド・アンティブで、プロドライブのベルナール・ベガンがフォード・シエラを駆るディディエ・オリオールを抑えてのものだった[115]。1988年には6月開催の第18戦 ラリー・ド・ガリグーでフランソワ・シャトリオが優勝[116]。8月には第29戦 マデイラ(en)でパトリック・スナイヤーズ(fr)が優勝した[117]。スナイヤーズはイギリスで9月に開催されたマンクス(en)でも優勝を記録した[118]。1990年はシャトリオが2年ぶりにラリー・ド・ガリグーを制した[119]

その後係数20のイベントでの優勝は途絶えたが、1995年3月、カナリア諸島で開催された第7戦 エル・コルテ・イングレスでホセ・マリア・ポンセが5年ぶりにE30 M3に優勝をもたらした[120]

ナショナル選手権[編集]

活動初年度の1987年こそ各国選手権の制覇を逃したが、1988年以降多くのタイトルを獲得していった。パトリック・スナイヤーズが1988年にM3で4度目のベルギー選手権(nl)制覇を成し遂げ[121]、翌1989年にはデュエツもベルギー選手権のチャンピオンとなっている[26][122]。シャトリオは1989、1990年にフランス選手権を連覇(fr)を連覇[26][123]。またスペイン選手権(es)では1989年にホセ・バーカス[124]が、1991年にはホセ・マリア・ポンセがチャンピオンを獲得している[125]

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ プロドライブのエンジニアのデビッド・ラップワースはテストカー、レッキカー含めて37台、ラリーカーを18台製作したとしている[27]
  2. ^ この他、赤池卓のサンテックがBMWモータースポーツ社チューンのM3を購入し参戦を予定していたが、フォード・シエラによるディヴィジョン1参戦に計画を変更した[93]
  3. ^ ERCでは、イベントの規模や重要性に合わせて係数が割り振られており1987年までは最大で係数4、1988年からは特別に係数20のイベントが設定されていた(1987年までは係数4のイベントに優勝すると獲得ポイントは20×4で80ポイント、1988年以降では20ポイントに係数20が掛けられて優勝者は計400ポイントを獲得できる)。ドライバーズ・タイトルはこれら係数の高いイベントを中心に争われていた[114]

出典[編集]

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関連項目[編集]