久世氏

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久世氏
家紋
久世鷹の羽くぜたかのは
本姓 小野氏[1]
称・藤原氏[1]
家祖 久世広長[1]
種別 武家
華族子爵
出身地 三河国[1]
凡例 / Category:日本の氏族

久世氏(くぜし)は、下総国関宿藩(現・千葉県野田市)藩主、譜代大名の家系である。

概要

久世氏は村上源氏久我流三河国額田郡に住していた小野十郎高広の子高長が、母方の姓を称し久世氏の祖となった。孫にあたる久世広宣大須賀康高率いる「横須賀衆」として、渥美勝吉坂部広勝らとともに武田勢との戦いに武勇を誇った。のちに徳川家康の直参となり、下総上総国2,500旗本に取り立てられた。長男広当は、寛永3年(1626年)に下総国海上郡内500石を弟久世広之に分与しているが、新田開墾により7,000石余の旗本となった。広之は、のちに小姓より累進し寛文9年(1669年大名に列し、関宿藩5万石の藩主(藩祖)となり、若年寄老中を歴職した。久世氏は久世重之の時、関宿藩から庭瀬藩丹波亀山藩、三河吉田藩と転封されるが、関宿藩に復帰する。幕末久世広周は老中首座として公武合体を進めるが失脚。関宿藩4万8,000石で久世広業の時明治維新を迎える。華族令によって子爵となる[2]

歴代当主

藩祖・久世広之

従四位下侍従老中

寛文9年(1669年)下総関宿5万石を封られる

2代・久世重之

従四位下侍従・老中

家督・延宝7年(1679年)相続
天和3年(1683年庭瀬藩へ転封
貞享3年(1686年丹波亀山藩へ転封
元禄10年(1697年三河吉田藩へ転封
宝永元年(1704年寺社奉行
宝永2年(1705年関宿藩へ再封、若年寄
正徳3年(1713年)老中

3代・久世暉之

従五位下讃岐守

家督・享保5年(1720年)相続 5万8,000石 - 寛延元年(1748年)隠居

4代・久世広明

老中

家督・寛延元年(1748年)相続
天明元年(1781年)老中

5代・久世広誉

従五位下大和守

家督・天明5年(1785年)相続 - 文化14年(1817年)隠居

6代・久世広運

従五位下長門守

家督・文化14年(1817年)相続

7代・久世広周

従四位下侍従・老中

家督・天保元年(1830年)相続
嘉永4年(1851年)老中 - 安政5年(1858年)解任
万延元年(1860年)再任 6万8,000石 - 文久2年(1862年)辞任

8代・久世広文

従五位下隠岐守

家督・文久2年(1862年)相続 5万8,000石 - 明治元年(1868年)隠居

系譜

脚注

  1. ^ a b c d 太田 1934, p. 2065.
  2. ^ 太田 1934, p. 2066.

参考文献

  • 太田亮国立国会図書館デジタルコレクション 久世 クセ」『姓氏家系大辞典』 第2、上田萬年三上参次監修、姓氏家系大辞典刊行会、1934年、2065-2066頁。全国書誌番号:47004572https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1130938/126 国立国会図書館デジタルコレクション  閲覧は自由

関連項目