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ヴィタヤ・ラオハクル

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ヴィタヤ・ラオハクル
ヴィタヤ・ラオハクル(2018年)
名前
カタカナ ヴィタヤ・ラオハクル
ラテン文字 Withaya Laohakul
Witthaya Hloagune
タイ語 วิทยา เลาหกุล
基本情報
国籍 タイ王国の旗 タイ
生年月日 (1954-02-01) 1954年2月1日(70歳)
出身地 ラムプーン県
身長 177cm[1]
体重 70kg[1]
選手情報
ポジション MFDF
クラブ1
クラブ 出場 (得点)
1972-1976 ラチャプラチャーFC 97 (28)
1977-1978 ヤンマーディーゼル 33 (14)
1979-1981 ヘルタ・ベルリン 33 (1)
1982-1984 1.FCザールブリュッケン 54 (7)
1984-1985 ラチャプラチャーFC 24 (5)
1986-1987 松下電器産業 32 (6)
代表歴
1975-1985 タイ王国の旗 タイ 61 (18)
監督歴
1995-1997 バンコク・バンクFC
1997-1998 タイ代表
1998-1999 BMA FC
2000 U-16タイ代表
2002-2003 センバワン・レンジャーズFCU-16/18
2004 センバワン・レンジャーズFC
2004-2006 チョンブリーFC
2007-2010 ガイナーレ鳥取
2011-2013 チョンブリーFC
1. 国内リーグ戦に限る。
■テンプレート■ノート ■解説■サッカー選手pj

ヴィタヤ・ラオハクル(Withaya Laohakul、วิทยา เลาหกุล1954年2月1日 - )は、タイ王国出身の元サッカー選手、サッカー指導者。タイ語読みでは、ウィタヤー・ラオハグン。日本サッカーリーグ(JSL)での登録名はビタヤ

来歴

選手として

14人兄弟の7番目として生まれる[2]。長男と次男も同じくサッカー選手としてタイリーグでプレーした[2]。18歳のときにラパチャFCに加入[2]

1976年8月、マレーシアで開催されたムルデカトーナメントタイ代表対日本代表の試合にて、ヴィタヤはフリーキックにより2ゴールを決めた[2]。試合後に相手チームの釜本邦茂からヤンマーディーゼルサッカー部(現・セレッソ大阪)に誘われ、その2ヶ月後に正式なオファーを受けた[2]。ヤンマーには1977年5月に合流したが、外国から加入した選手を対象とする日本サッカー協会の移籍規定のため公式戦出場は翌年1月からだった[3]。1978年1月15日の三菱重工戦で日本サッカーリーグ(JSL)デビュー[2]。以降先発出場を続け、20試合4ゴール2アシストを記録した[2]。彼はJSL史上初めてのアジア人の外国人選手だった[4]

日本から帰国後、タイ代表としてエスパニョール1FCケルンと対戦した試合におけるプレーが西ドイツのヘルタ・ベルリンのスカウトの目にとまり[2]、1979年よりヘルタに移籍。ヨーロッパのクラブでプレーする初めてのタイ人サッカー選手となった[2][5][6][7]。1979年8月12日のフォルトゥナ・デュッセルドルフ戦でブンデスリーガに初出場[8]。1979-80シーズンのリーグ戦出場は3試合にとどまったが[2][9]、チームが2. ブンデスリーガ(ドイツ2部)に降格した1980-81シーズン以降は2シーズンで計31試合に出場した[9]

1982年に1.FCザールブリュッケンに移籍。1982-83シーズンのオーバーリーガ(当時ドイツ3部)で昇格を決め、1983-84シーズンには2. ブンデスリーガでプレーした[9]

1987年7月のJSLカップから[4]松下電器産業サッカー部(現・ガンバ大阪)でプレー。ヘッドコーチを兼任しながら選手を続け[1]1990年に引退(1990-91シーズンの第8節をもって登録抹消[10])。

指導者として

ヴィタヤ・ラオハクル(2010年)

1988年から松下電器のコーチ、Jリーグ開幕後はガンバ大阪のヘッドコーチとして日本で8年間指導者を務める。1996年に母国のバンコク・バンクを率いてタイ・プレミアリーグで優勝。1997年から1998年まではタイ代表監督を務めた。その後、アメリカのネバダ大学でアシスタントコーチ、シンガポールのセンバワン・レンジャーズFCで監督を務めた。

2007年、ヤンマー、松下電器時代から繋がりのある水口洋次監督の下で日本フットボールリーグ(JFL)所属のガイナーレ鳥取のヘッドコーチに就任。同年8月に水口監督が成績不振の責任を取り辞任した事に伴い、監督に昇格した。その後2009年まで足掛け3年間鳥取を指揮。常にチームを上位に置き、Jリーグ参入権を得られる4位以内を争ったが、いずれも終盤に失速し、J参入は達成できずに終わった。

2010年も指揮を執ることが決まっていた[11] が、2009年12月に帰国していたタイで交通事故を起こし、脊椎骨折の重傷を負う[12]。命に別状はなく、当初は監督続投を目指してリハビリを行っていたが回復が遅れ、クラブとの話し合いの結果、2010年2月1日に鳥取監督を辞任した[13]。その後、古巣チョンブリーFCテクニカルディレクターとして復帰し、2011年から同クラブの監督に再び就任。2度目となるチョンブリー監督在任時には、コーチの加藤好男加藤光男親子やトレーナーの白木庸平ほか数多くの日本人スタッフを迎え入れてチームの強化を図った[14]。また、櫛田一斗や鳥取時代の教え子だった樋口大輝といった選手が加入している。

テクニカルディレクターとして

2013年シーズン終了後にチョンブリーFCの監督を退任し、現在まで同クラブのテクニカルディレクター (TD)を務めている。

また、2016年2月15日のタイサッカー協会 (FAT) の体制発表でヴィタヤはFATのTDも務めることになった[15]2018年アジア競技大会U-23代表がグループステージ敗退に終わったことを受けて解任されるが[16]、2019年6月12日に発足したタイ代表強化委員会においてヴィタヤはTDに復帰した[17]。この後にタイ代表監督に西野朗が招へいされたが、背景にはヴィタヤの後押しがあったと報道されている[18][19]

人物

日本語あるいは関西弁を流暢に話すことができる[19][5]

所属クラブ

個人成績

国内大会個人成績
年度クラブ背番号リーグ リーグ戦 リーグ杯オープン杯 期間通算
出場得点 出場得点出場得点 出場得点
日本 リーグ戦 JSL杯 天皇杯 期間通算
1977 ヤンマー JSL1部
1978
1987 松下 15 JSL2部 18 3 2 1
1988-89 JSL1部 21 3 1 0
1989-90 16 0 1 0
1990-91 0 0 1 0
通算 日本 JSL1部 57 7
日本 JSL2部 18 3 2 1
総通算
  • ヤンマー通算2シーズン20試合4得点
  • 松下通算3シーズン37試合3得点

指導歴

  • 1988年 - 1995年 日本の旗 松下電器/ガンバ大阪:ヘッドコーチ
  • 1996年 タイ王国の旗 バンコク・バンクFC監督
  • 1997年  タイ代表監督
  • 1998年 - 1999年 タイ王国の旗 BMA FC監督
  • 2000年 タイ王国の旗 U-16タイ代表:監督
  • 2001年 アメリカ合衆国の旗 ネヴァダ大学:アシスタントコーチ
  • 2002年 - 2003年 シンガポールの旗 センバワン・レンジャーズFC:U-18、U-16監督
  • 2004年 シンガポールの旗 センバワン・レンジャーズFC:監督
  • 2004年 - 2006年 タイ王国の旗 チョンブリーFC監督兼強化部長
  • 2007年 - 2007年8月 日本の旗 ガイナーレ鳥取:ヘッドコーチ
  • 2007年8月 - 2010年2月 日本の旗 ガイナーレ鳥取:監督
  • 2010年 タイ王国の旗 チョンブリーFC:テクニカルディレクター
  • 2011年 - 2013年 タイ王国の旗 チョンブリーFC:監督
  • 2014年 - 現在 タイ王国の旗 チョンブリーFC:テクニカルディレクター
  • 2016年 - 2018年 タイ王国の旗 タイサッカー協会:テクニカルディレクター
  • 2019年 - 現在 タイ王国の旗 タイサッカー協会:テクニカルディレクター

監督成績

日本国内成績

年度 所属 クラブ リーグ戦 カップ戦
順位 試合 勝点 リーグ杯 天皇杯
2007 JFL 鳥取 14位 - 2回戦
2008 5位 34 57 17 6 11 - 1回戦
2009 5位 34 56 16 8 10 - 2回戦
  • 2007年の順位は最終順位。

獲得タイトル

選手

コーチ

  • チーム
    • 天皇杯 優勝:1990
    • クィーンズカップ(タイサッカー協会主催のカップ戦)優勝:1992

監督

参考文献

脚注

  1. ^ a b c 『1990-1991JSLイヤーブック』p55、日本サッカーリーグ編、南雲堂、1990年 ISBN 4-523-31032-7
  2. ^ a b c d e f g h i j 加部究 「海を越えてきたフットボーラー 第35回 ヴィタヤ・ラオハクル(ガイナーレ鳥取監督)」 『サッカー批評』 Issue38、双葉社、2008年、94-99頁。
  3. ^ 「ヤンマー入りラオハックル(タイ)が“公開練習”」 『サッカーマガジン』 No.171 1977年7月10日号、35頁。
  4. ^ a b 「JSL外人プレーヤー列伝 日本サッカーを彩った助っ人たち」 『イレブン』 1987年12月号、日本スポーツ出版社、147-149頁。
  5. ^ a b 加部究 (2017年3月31日). “世界渡り歩いたタイの歴史的名手が明かす、日本サッカーが強くなった理由”. THE ANSWERS. 2020年1月31日閲覧。
  6. ^ To hell and back: Thailand's rise to prominence”. FourFourTwo (2015年11月24日). 2017年3月7日閲覧。
  7. ^ “Former S-League player dies in Bangkok after domestic dispute with girlfriend's ex-husband, Singapore News & Top Stories”. The Straits Times. (2016年5月31日). http://www.straitstimes.com/singapore/former-s-league-player-dies-in-bangkok-after-domestic-dispute-with-girlfriends-ex-husband 2017年3月7日閲覧。 
  8. ^ Witthaya Laohakul Personenprofil”. ドイツサッカー連盟. 2017年3月7日閲覧。
  9. ^ a b c Witthaya Laohakul Personenprofil”. ドイツサッカー連盟. 2017年3月7日閲覧。
  10. ^ 『日本サッカーリーグ・イヤーブック ’91-'92』 南雲堂、110頁。
  11. ^ ヴィタヤ ラオハクル監督 2010シーズン続投のお知らせ』(プレスリリース)ガイナーレ鳥取、2009年12月11日。オリジナルの2010年6月11日時点におけるアーカイブhttps://web.archive.org/web/20100611223251/http://gainare.net/site/page/gainare/news/091211info/2017年3月7日閲覧 
  12. ^ ヴィタヤ監督 交通事故について』(プレスリリース)ガイナーレ鳥取、2009年12月28日。オリジナルの2010年6月11日時点におけるアーカイブhttps://web.archive.org/web/20100611223644/http://gainare.net/site/page/gainare/news/091228info/2017年3月7日閲覧 
  13. ^ ヴィタヤ監督辞任 松田 岳夫氏監督就任のお知らせ』(プレスリリース)ガイナーレ鳥取、2010年2月1日http://www.gainare.co.jp/news/detail/21/2017年3月7日閲覧 
  14. ^ 本多辰成 (2013年11月12日). “チョンブリーFCを支える「六人の侍」1/ヴィタヤ・ラオハクル(監督)”. ANNGLE. 2020年1月31日閲覧。
  15. ^ สมาคมฯ แต่งตั้ง คณะกรรมการพัฒนาและบริหารฟุตบอลทีมชาติไทย” (タイ語). SMMSPORT (2018年2月15日). 2020年1月31日閲覧。
  16. ^ สมาคมฯ แต่งตั้ง คณะกรรมการพัฒนาและบริหารฟุตบอลทีมชาติไทย” (タイ語). SIAMSPORT (2018年8月28日). 2020年1月31日閲覧。
  17. ^ สมาคมฯ แต่งตั้ง คณะกรรมการพัฒนาและบริหารฟุตบอลทีมชาติไทย” (タイ語). タイサッカー協会 (2019年6月12日). 2020年1月31日閲覧。
  18. ^ 加部究 (2019年7月19日). “「日本にも負けないはず」 西野朗を招聘したタイの英雄、母国サッカー発展への確信”. THE ANSWERS. 2020年1月31日閲覧。
  19. ^ a b 佐々木裕介 (2019年7月17日). “「日本人が教えたら絶対に強くなる!」西野朗タイ代表監督誕生のキーマンに訊いた邦人指揮官招聘への熱き想い”. サッカーダイジェスト. 2020年1月31日閲覧。
先代
タバチャイ・サジャクル
サッカータイ王国代表監督
1997年-1998年
次代
ピーター・ウィズ